(ブッダの真理のことば ダンマパダ 中村 元訳)より引用させていただきます。
あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。
(引用終)
当世「驚異の人体」とか賛美して、
身体は不浄でないとみなす世俗的願望はピークに達してる。
事実に反する。
自分を損なう質の悪い妄想でもある。
何の利益にもならない。
ブッダのことば「勝利」 中村 元訳より引用させていただきます。
《かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう》と内にも外にも身体に対する欲を離れるべきである。
…
このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは盲者でなくて何だろう。
(引用終)
ブッダは
身体は不浄である
と言明してる。
人間中心の世俗主義的思考に馴らされた大多数の人々は、これがわからない。
重要なポイントは
仏道は自分で実行するためだけにあり、
からだが不浄であるという事実をふかく観じる
不浄随観がその貴重な入口だ
ということだ。
(パティパダー巻頭法話)スマナサーラ長老の法話より引用させていただきます。
身体は穢いものです。それは事実です。その証拠にあなたは毎日のように入浴をするでしょう。
一週間ほどからだも顔も洗わず、歯も磨かず、下着もそのままにしていたらどうなるでしょう。結果は想像できますね。人間はみな美味(おい)しいものを食べます。しかし、美味しいと思ったその食品も口に入った途端汚いものに変化していきます。因(ちな)みに、自分の大好物な食べものをひと口噛んだあともう一度手のひらに戻しその大好物だった食品をよく観察してみてください。それからその一度噛んだ食品をもう一度口のなかに戻してみましょう。ちょっと常識ではできませんね。実際それをやらずとも想像するだけでも試してみる自信のある人などいないはずです。
咳、痰、膿、尿、便、汗、鼻くそ、耳垢をはじめ、胃や腸など内臓など自分のものでないかぎり他人を不快にするものばかり人間一人一人が所有しているのです。さらに言えば、口から入ったものは内臓を下に行けば行くほど不浄なものに変わってしまい最後は大便として排出されてしまいます。人間の肉体はまさに不浄の塊、不浄の工場といった観があります。
ところで、不浄随観(ふじょうずいかん)は仏教の冥想法のひとつです。からだが清浄なものとおもっている妄想概念を越えて、からだが不浄であるという事実をふかく観じることができると、まず快楽を求めるからだに対する煩悩が消滅しはじめます。高慢で自我中心的の間違いだらけの生き方に気づき、心が清澄になり、日頃の悩み、苦しみ、不安といった汚れた心がなくなっていきます。
こうなると、もう安心です。心ははじめて真の安らぎを感じられるようになり、さらには、完全で清浄なる、人間本来の真の本体が輝きはじめ、すばらしい精神世界を目指して励む心にも、縦横な確信が湧出して身についてきます。もう、どんな悪魔にも負けることかありません。
(引用終)
不浄随観に
「本来汚いも綺麗もない」
と反論する人達がいる。
こういう人達は、坐禅を見ても
「座ろうと立とうと関係ない」
と言う。
知識が仇になってる。
真理は体得しなければ自己欺瞞になる。
悟った人の口真似をしててはダメだと気づかないのか。
上記スマナサーラ長老の法話の最後にこういう質問が設けられてる。
すべての人は自分の身体を清浄だと思っていますが、他人の身体は自分にとっておなじように清浄だと思えますか?
あなたはどう答えますか?
(過去記事編集再録)