阿来『ケサル王』 129 語り部 埋蔵
http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi
この夏、シッキムに行って来ました。その時の感想を寒くなる前に。
予備知識を持たず辿り着き、検索しようにもネットがなかなか繋がらない山の中で、手探り状態でした。
インドの地図の右上―コルカタの真っ直ぐ北に小さく突き出たところがありますが、そこがシッキムです。ネパールとブータンに挟まれ、北の中国(チベット)とは、ヒマラヤで隔てられています。
シッキム王国の建国は1642年。
ガイドブックによると、「チベットにダライ・ラマによる政権が出来ると、ゲルグ派と対立するニンマ派の僧たちが亡命して来てシッキム王国を作った」とあります。ニンマ派はチベットで最も古い宗派でボン教をその元としています。特に集団を作っているようではなかったということなのですが。
チベットでは、後にツォンカバという天才的な宗教家が現われゲルグ派を起こし、他の宗派を抑え優位を占めるようになって行きます。
1642年、モンゴルから土地を寄進され、ダライラマ五世を主と仰ぎ、ゲルグ派の政権ガンデンポタンが成立します。新政権は、他の宗派も行っていた活佛の転生制度を採り入れます。それが今に続くダライラマの制度です。
ここで面白いのは、このダライ・ラマ五世はニンマ派の血筋から出ている、ということです。ゲルグ派が勢力の大きかったニンマ派を取り込もうとしたようです。ですので、新政権は他宗派に対して寛容だった、と「裸形のチベット」には書かれています。では、なぜ、ニンマ派の僧たちはヒマラヤを超えて行ったか、私にとってこれはまだ謎です。
一方のシッキム側ではどうだったのでしょう。
このあたりには早くからレプチャ族が暮らしていました。チベットから多勢が侵入して来てから、レプチャ族は彼らに服従するようになりチベット化していきます。これはチベットの侵略といえないでしょうか。ところが、そういう表現の記録は見つけられませんでした。
この辺りには古くからチベット系のプティア族も住み着いていました。亡命して来た僧たちは古のパドマサンバヴァの予言だとして、プティア族中でもすでに有力者だったプンツオク・ナムゲルを王として国を作ったのです。比較的穏やかな建国だったのかもしれません。ただし歴史とは勝者側によって書かれるものなので、真実がどこにあるのか知るのは難しいのですが。
同じ時期に、ヒマラヤを挟んで、ゲルグ派の政権とニンマ派の政権が出来上がったことに、興味を惹かれます。チベット建国が周りに与えた影響の一つです。
シッキムではその後、ブータンやネパールが領地を奪い合い、英国のチベット遠征の前哨地となりました。茶の栽培のためにネパール人が大量に使われ、今シッキムで一番多い民族はネパールだということです。
地図で見れば、山の中に閉ざされた辺境の小さな土地ですが、そこに様々な民族のせめぎあいがあり、共存があり、大きな歴史の流れを受け止めてきました。世界の縮図、いや世界そのものである地のように思えます。
このような過酷な地でも人々はそこを行き来してより強い世界を求めていくのだと、人間の姿を知らされます。民族問題は、今も昔も地球のどこでも逃れられないものであり、他からの介入を容易には許さない強いものなのだということを。
さて、ニンマ派といえばケサルです。
ケサルはニンマ派の大師・パドマサンバヴァの生まれ変わりともいわれています。ケサルの物語をいち早く集めたデビッド・ネールはシッキムの洞窟の中でケサルの話を集めました。その頃はこの地にも多くの語り部がいたのかもしれません。
州都ガントクにあるチベット学研究所でケサルのタジク版を見ることが出来ました。この研究所の創設者はシッキム国の血を引くタシ・ナムギャル。ニンマ派の末裔です。1957年にダライ・ラマ14世はこの研究所のためにここを訪れ自ら礎を置いています。
1957年といえば、亡命するほんの少し前。不穏な情勢の中、わざわざニンマ派系のこの地を訪れたのは、チベットの文化を守ろうというダライ・ラマの強い思いがあったのでしょう。そして、ダライ・ラマとは宗派を超えた存在であることを自ら示したのでしょう。
今、思ったのですが、その時のヒマラヤ超えの行程が2年後の亡命の役に立ったのかもしれません。
これはあくまでも私の想像の世界です。
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この夏、シッキムに行って来ました。その時の感想を寒くなる前に。
予備知識を持たず辿り着き、検索しようにもネットがなかなか繋がらない山の中で、手探り状態でした。
インドの地図の右上―コルカタの真っ直ぐ北に小さく突き出たところがありますが、そこがシッキムです。ネパールとブータンに挟まれ、北の中国(チベット)とは、ヒマラヤで隔てられています。
シッキム王国の建国は1642年。
ガイドブックによると、「チベットにダライ・ラマによる政権が出来ると、ゲルグ派と対立するニンマ派の僧たちが亡命して来てシッキム王国を作った」とあります。ニンマ派はチベットで最も古い宗派でボン教をその元としています。特に集団を作っているようではなかったということなのですが。
チベットでは、後にツォンカバという天才的な宗教家が現われゲルグ派を起こし、他の宗派を抑え優位を占めるようになって行きます。
1642年、モンゴルから土地を寄進され、ダライラマ五世を主と仰ぎ、ゲルグ派の政権ガンデンポタンが成立します。新政権は、他の宗派も行っていた活佛の転生制度を採り入れます。それが今に続くダライラマの制度です。
ここで面白いのは、このダライ・ラマ五世はニンマ派の血筋から出ている、ということです。ゲルグ派が勢力の大きかったニンマ派を取り込もうとしたようです。ですので、新政権は他宗派に対して寛容だった、と「裸形のチベット」には書かれています。では、なぜ、ニンマ派の僧たちはヒマラヤを超えて行ったか、私にとってこれはまだ謎です。
一方のシッキム側ではどうだったのでしょう。
このあたりには早くからレプチャ族が暮らしていました。チベットから多勢が侵入して来てから、レプチャ族は彼らに服従するようになりチベット化していきます。これはチベットの侵略といえないでしょうか。ところが、そういう表現の記録は見つけられませんでした。
この辺りには古くからチベット系のプティア族も住み着いていました。亡命して来た僧たちは古のパドマサンバヴァの予言だとして、プティア族中でもすでに有力者だったプンツオク・ナムゲルを王として国を作ったのです。比較的穏やかな建国だったのかもしれません。ただし歴史とは勝者側によって書かれるものなので、真実がどこにあるのか知るのは難しいのですが。
同じ時期に、ヒマラヤを挟んで、ゲルグ派の政権とニンマ派の政権が出来上がったことに、興味を惹かれます。チベット建国が周りに与えた影響の一つです。
シッキムではその後、ブータンやネパールが領地を奪い合い、英国のチベット遠征の前哨地となりました。茶の栽培のためにネパール人が大量に使われ、今シッキムで一番多い民族はネパールだということです。
地図で見れば、山の中に閉ざされた辺境の小さな土地ですが、そこに様々な民族のせめぎあいがあり、共存があり、大きな歴史の流れを受け止めてきました。世界の縮図、いや世界そのものである地のように思えます。
このような過酷な地でも人々はそこを行き来してより強い世界を求めていくのだと、人間の姿を知らされます。民族問題は、今も昔も地球のどこでも逃れられないものであり、他からの介入を容易には許さない強いものなのだということを。
さて、ニンマ派といえばケサルです。
ケサルはニンマ派の大師・パドマサンバヴァの生まれ変わりともいわれています。ケサルの物語をいち早く集めたデビッド・ネールはシッキムの洞窟の中でケサルの話を集めました。その頃はこの地にも多くの語り部がいたのかもしれません。
州都ガントクにあるチベット学研究所でケサルのタジク版を見ることが出来ました。この研究所の創設者はシッキム国の血を引くタシ・ナムギャル。ニンマ派の末裔です。1957年にダライ・ラマ14世はこの研究所のためにここを訪れ自ら礎を置いています。
1957年といえば、亡命するほんの少し前。不穏な情勢の中、わざわざニンマ派系のこの地を訪れたのは、チベットの文化を守ろうというダライ・ラマの強い思いがあったのでしょう。そして、ダライ・ラマとは宗派を超えた存在であることを自ら示したのでしょう。
今、思ったのですが、その時のヒマラヤ超えの行程が2年後の亡命の役に立ったのかもしれません。
これはあくまでも私の想像の世界です。