教会の片隅で

信徒が眺めるカトリック教会の一断面

ジョンストン神父講演 2007年5月27日

2017年03月13日 | ジョンストン師
聖霊降臨祭の日 2007年5月27日 上智大学10号館地下教室にて

全世界は瞑想について興味があります。そしてすべての宗教には瞑想があります。大切なのは宗教と宗教の出会いですが、神学的には争いの危険性があります。しかし一緒にお祈りをするということ、瞑想をするなら一緒になります。だから一緒に瞑想をする。
私たちは今日は瞑想について考えましょう。今日は実際に聖霊降臨の祝日です。
私は一つの祈りが大好きです。それは”聖霊来たりたまえ” 私は英語で言います。”Come Holy Spirit”
“ Come Holy Spirit.”
この祈りを皆さんに薦めます。Come Holy Spirit,Come Holy Spirit.
そしていつでも出来ます。電車に座っている時に、Come Holy Spirit, Come Holy Spirit,とか、皿洗いをするときに Come Holy Spirit,お掃除をするときに、Come Holy Spirit,
その瞑想をするように薦めます。そして聖霊はいらっしゃいます。私たちが聖霊に満たされてお祈りをする。
聖パウロはローマ人への手紙の 8章の26節。 聖霊は助けてくださいます。私は弱いから祈れない、と思わないで下さい。なぜかというと弱いから、罪びとだから、聖霊が助けてくださいます。
"同様に霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、‘霊’自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです。”
聖霊が助けてくださいます。だから どう祈ったらよいか分からなかったら 聖霊きたりたまえ、とか そういうことをおっしゃってください。“霊”自らが、言葉に表せないうめきを持って
執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は霊の思いは何であるかを知っておられる。霊、これは 聖霊ですね。霊は神の御心に従って、聖なるもの達のためにとりなしてくださるからです。神を愛するものたち、つまりご計画に従って召された者たちには万事が益となるように共に働くという事を私たちは知っています。だからそこでパウロは聖霊についてお話になります。そして私たちの瞑想は聖霊への瞑想なら非常に立派です。聖霊は誰か、とか、そういうことをまず見てみましょう。
聖ヨハネの聖福音には聖霊のことが出てきます。イエズスは自分が死ぬといわれます。死にます、でも死んでから聖霊を送ります、そして聖霊は助けてくださいます、とイエズスが言われます。それはヨハネの聖福音に良く出てきますね ヨハネの14章15節から17節、非常に立派ですね。
 "あなた方は私を愛しているならば、私の掟を守る、私は父にお願いしよう、父は別の弁護者を遣わして、別な弁護者、それは聖霊ですね、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れる事が出来ない、しかしあなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからも
あなた方のうちにいるからである。あなた方のうちに、聖霊がどこにいらっしゃいますかというと、あなた方のうちに、ここに いらっしゃいます。しかし コミュニティーのうちにもですね、だから聖霊は、中ですね、だから私は電車でお祈りをするといいましたが、聖霊は私だけでなく、コミュニティーにいらっしゃいます。あなた方はこの霊を知っている、ですね。そして私はあなた方をみんな孤児にはしておかない。あなた方はこの霊を知っている、この霊があなたがたと共におり、これからもあなた方のうちにいるからである。だから聖霊来たりたまえ、といったら聖霊いらっしゃいますけど、来たりたまえ、来てください、といったらもっと深く入る、ということです。
そして25節には、イエズスは、わたしは あなた方といたときに、これらのことを話した、しかし弁護者、すなわち父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは平和をあなた方に残し私の平和を与える。
誰でも時々どうしたらよいかが分かりません。その場合には、聖霊来てください、教えてください、というお祈りが非常に立派です。聖霊来てください、Come Holy Spirit,という事ですね、そして聖霊がいらしてくださいます。

今の世界には実際に多くの人がegoのほう、top level,にいます。人間を見るとですね、私たちは、みんな自分自身が謎ですね。そしてこのように人間のことを考える事が出来ます。
top level,は ego, 小我、そして、商売とか科学とかそういうことやって、しかしもう少し深くなると、これは self,大我ですね。誰でもですね、ことに苦しみのあるとき、生活の意味について考えるようになります。結局考えさせられます。苦しみがあれば。だから苦しみにもいい面もあります。考えさせられます。そして苦しみだけでなく長い間座るなら深くなります。
問題は現代人の多くは浅いです。top level ですね。 そして 大我ですね。そしてここは 聖霊。どうしたらいいかという場合、聖霊来たりたまえ、と祈れば聖霊がいらっしゃいます。そして助けてくださいます。パウロが言っているように聖霊が助けてくださいます。だから皆さんにその事を薦めます。聖霊来たりたまえ、自分の心で、Come Holy Spirit,veni sante spiritus,というように薦めます。それが 瞑想ですね。そして だんだん もっと深くなります。そして ここは 死について考えるようになります。死は何か、という事ですね。ここは考えません。死については難しいです。病気になると死について考えさせられます。だから瞑想すると考えさせられます。そして今の世界にはやっぱり考えさせられます。世界の将来についてどうなるか、という事ですね。核兵器とかそういうことです、私達がやっぱり必要なのは、ここで、wise men and wise women,必要ですね、wise,wisdom,ここにはknowledgeがありますね、知識です。しかし ここは知恵という事です。そして現代の世界には知恵のある人間が現れてこないと、大きな危険だと思います。政治家とか、お金とか、能力とか、あの 司教もそうですよ、教会の中でtop levelなら危険です。だから私たちが瞑想しなければならないのですね。そしてwise people,wise menが来るということです。しかしwise people といったら 聖書のことを考えると、良く預言者についての話がありますね、
預言者。現代の世界には預言者は必要です。私は実際に先週京都で、遠藤周作について話すように頼まれました。外人でしたからやりました。日本人ならやる自信がありません。彼はずいぶんたくさんの本を書きましたから、そして私は全部を読んでません。しかし 遠藤さんは預言者だと言いました。預言者といったら、彼が言ったことは全部本当ということじゃなくて、しかし探していたということですね。そして、コリント人への書簡には パウロは教会について書きます。その時の教会は現代の教会と違って、司教とかそういうのはありません。別のstructureでした。聖霊、その賜物、その賜物のうちにとか、一番大切なのは愛ということですね。そして使徒達がいました、そして ペトロはその一人でした。パウロはそこで預言者について話します。そして
 あのコリント人への書簡の12章ですね。「兄弟達、私があなた方に告げ知らせた福音をもう一度知らせます。これはあなた方が受け入れ、生活のよりどころとしている福音に他なりません」そして、12章、「兄弟達、霊的な賜物については、次のことは是非知っておいてほしい、あなたがたがまだ異教徒だったころ誘われるままに、もののいえない偶像の元に連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい、神の霊によって語る人は誰も”イエスは神から見捨てられよ”とは言わないし、又聖霊によらなければ誰も”イエスは主である”とはいえないのです。だから聖霊によらなければ誰もイエズスは主であるとはいえないのです」
だから一つの祈りですね、イエズスは主である、ということですね。今言ったように、電車に座っている時に、「イエズスは主である、」私が良く使う、罪びとの私を哀れんでください、Lord, have mercy on us a sinner, そして自分が罪びとだということ、喜びます、尚主によって愛されるということ、罪びとだからですね。
だからパウロは、「賜物にはいろいろあります、それをおあたえになるのは同じ霊です、務めにはいろいろ在りますが、それをおあたえになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に全ての事をなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現われるのは全体の益となるためです」
だから、皆さん、各自は聖霊があります。だから少し考えてください、私の霊の賜物は何かということですね、聖霊がいらっしゃいます、霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。賜物があればそれは自分の満足のためじゃなくて、みんなのためですね、世界のため、そして今は大切なのは 平和、平和を愛する、平和に尽くす、とかです。
「一人一人に霊の働きが現れるのは 全体の益となるためです。みんなのためですね。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって、知識の言葉が与えられ、ある人には同じ霊によって信仰、ある人には唯一の霊によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力」
預言する力、それには遠藤があると私は言いました。
「ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には 異言を解釈する力、が与えられています。これら全ての事は同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままにそれを一人一人に与えてくださるのです」
だから各自には霊の賜物があります。それについて考える事を薦めます。私の霊の賜物は何かということですね。遠藤さんのことを言いましたけど、遠藤さんは預言者だといいましたが、結局彼はキリスト教を見て、イエズスに対するずいぶん愛があったといえます。宗教には中心があります、それから文化的な土台、そして、キリスト教の文化的な土台はヨーロッパ的でした。ということ。確かに私が神学の勉強をした時に、中心はもちろん聖霊とかイエズスということですね。それが中心ですね。ここは。しかし下にはアリストテレスと聖トマスですね。
それは立派でした、その時、しかし現代とかアジアに合わない、と遠藤さんが思いました。だからその文化的な土台、cultural base、日本的にする必要、日本的だけでなくアジア的にするということ、遠藤が見ました。そして、「深い河」にはそういうことが現れてきます。「深い河」には主人公は神父です。日本人の神父です。けれども他のみんなに合わない、というような人です。だからその遠藤さんの直感はとてもよかったと思います。ただ、どのように実行するか、ということは、遠藤さんははっきり言っていないと思います、自分自身が分からなかったのでしょう、しかし彼が思ったのは、西洋の神学ではあんまりにもはっきりした事がありますね、はっきりした命令、もっと仏教には方便というのがあります。方便、分かりますか?英語で、skillful
means,といいますね。もう少し方便があったらいいんじゃないかということですね。ただ、これは本当だ、というよりも、やっぱり方便、結局、仏教は神秘的な信仰だと思います、だから最後の事を見て、最後の知恵、ほかの事は 方便でした。そして、あの 信じなくてもいいんです。大切なのは悟りです。そして、執着を持たないということ、そして遠藤さんはそういうことをみていたと思います。だから瞑想には今いったように、聖霊来たりたまえとか、Come Holy 
Spirit,とかそう言う事、考えるとか、繰り返すとかが立派な瞑想です。そして、皆さんあのようにお祈りをすることを薦めます。後は聖霊とか、イエズス、主よ来てください、とただ繰り返す、繰り返す、そして同じような黙想、日本にありますね、南無阿弥陀仏とか、何妙法蓮華経とか、そういうこと繰り返すということ、それは立派なお祈りです。そして、前に言ったように、しばらくの間そういうことを考えてから、唱えてから、もっと深くなります。実際に始めにですね、そのegoのほうで神にお祈りをします。神に話すとか何とかで、それからself, wise men のほうになりもっと深くなります。沈黙に入ります。silence,沈黙、この射祷を止めて深い沈黙に入るときがあります。そしてそこに立派なwisdomが在ります。しかしそこに行くためには離脱心がなければなりません。これは mysticismですね。そして、あの仏教には無とか空とかそういう言葉使います。
そして、全ての執着を捨てそして、神の言葉に対する執着も捨てなければならないんですね。そしてキリスト教の神秘主義にも同じような事があります、nothing ということです。
Nothing,それは無ですね、nothing,あの十字架の聖ヨハネはnothing,
nothing,nothing,even on the mountain,nothingと言いましたね。全ての執着を捨てる、しかしそれは聖福音にもとずいています、イエズスが、全てを捨てなければ、私の弟子になることは出来ません、全ての事を捨てるということはそれは、文字どうり捨てるというよりも離脱心を持つということですね。結局英語でdetachment,を持つということですね。だからそういう射祷を繰り返す、そして下までいって、そういう
wisdom, transcendental wisdom,といいます、そして、前に言ったように、現代の世界にはそれはどうしても必要ですね。wisdom は何かというと、私の考えでは本当のwisdom はすべての兵器を捨てるということです。そしてそうしなければならないのはまず アメリカです。アメリカは核兵器を使っている唯一の国ですね。そして全世界は私の考えでは全ての国は兵器を捨てない限り大きな危険があると思います。しかしそうするためにはやっぱり
wisdom 英知が要ります。現代の世界には。そして、英知を持つ預言者、そして預言者はいつも誤解される、そして殺されます。イエズスは預言者でしたね。遠藤さんに言いましたけど、遠藤さんの一つの特徴は迫害された人に対するsympathy がありましたね。迫害された人。そしてその沈黙の中心にはそのフェレラという方、踏み絵をやったでしょ、彼に対する
sympathyを持っていました。遠藤ですね。そしてそのsympathyをもって踏み絵をやった時に、イエズスは十字架から叫びました。踏みなさい、踏みなさい、そのために私はこの世に来ました。その迫害されるためにイエズスはいらっしゃいました。そして遠藤さんの直感はそこですごくいいと思いますね。あの、イエズスのこと。そしてこの大学のチスレック神父はフェレラ、その踏み絵をやった人についての記事を書きました。モニュメントニッポンニカ。そしてフェレラは面白い人物でした。とにかく遠藤さんは彼に対する sympathyですね。同情してました。彼だけでなく、九州には今"はなれ"がいますね。離れた人、その人たちの子孫、その人たちに対する同情も遠藤さんは持っていました。私はいつかそこに、九州に行きたいんです。その人たちはまだ目に見える教会と一緒ではありません。その人たちは殉教者達を見て、私たちは出来ません、踏み絵を踏んで、告解して、すみません、後で後悔して生き続けました。遠藤さんはその人たちに同情しましたね。私もおそらく同じことをするでしょう、と思って、それは良かったと思います。遠藤さんはそういう人に同情したもう一つの理由があります。遠藤さんはこの大学のヘルツォグ神父から洗礼を受けました。私もそのヘルツォグ神父を知っていました。私が神学生だった時です。ヘルツォグ神父は授業に行く前いつもお御堂でお祈りをしました。H神父はイエズス会を辞めて、神父も辞めて、秘書と結婚しました。それは遠藤さんにとっては大きなショックでした。遠藤さんは私に言いました。ヘルツォグ神父は信仰を失っていません、と強く言いました。なぜそういったか分かりませんが、そういいました。そしてやっぱり同情しました。だからそこにも預言者のようなものがありますね。遠藤にはですね。その預言の賜物は非常に大切だと、パウロは言います。
パウロのコリント人への手紙1、12章27節、
「あなた方はキリストの体であり、一人一人その部分である」 それも面白いですね。「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行うもの、その次に病気を癒す賜物を持つもの、援助するもの、管理する者、異言を語るものなどです。皆が使徒であろうか、皆が預言者であろうか、皆が教師であろうか、皆が奇跡を行うものであろうか」  各自は自分の賜物がありますから、他の人を見て私は使徒になりたい、とか預言者になりたい、とか言うよりも、「皆が病気を癒す賜物を持っているであろうか、皆が異言を語るであろうか、皆がそれを解釈するであろうか、あなた方はもっと大きな賜物を受けるように熱心に務めなさい」
それから13章には 愛 についてですね。立派な賜物があっても、愛がなければなにもないですね。
「私はあなたがたに最高の道を教えます。たとえひとびとの異言、天使達の異言を語ろうとも、愛がなければ私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも 愛がなければ無にひとしい」 やっぱり 愛ですね。そしてそれはキリスト教神秘主義の中心ですね。愛ということですね。 やっぱりその瞑想をやるなら、だんだんその神秘、沈黙に入る、その沈黙は何もないというより、神のセンス、sense of God,ということですね。または 
sense of something というようなことですね。そして現代は宗教と宗教の対話の時です。そして、ここ日本には、やっぱりありました。皆さんはFr.ラサールを知っているでしょ? Fr.ラサールは参禅をやりました。そしていろんな人、神冥窟、を作りました。そして、座禅をやることによって、やっぱり神秘に入ることが出来るか、ということがでてきました。実際に、日本に来たカナダ人の神学者がわたくしにいいました。あなたは double belonging,ふたつの宗教に属する事、どう思っているか、仏教とキリスト教であるということ両方。そして私は double belongingは出来ませんといいました。私は仏教を非常に大切にしています。しかし私はキリスト者です。そして 門脇神父にもそういう質問していました。 double belonging について。
門脇神父もI am a Christian, 私はキリスト者です。けれども釈迦牟尼は私の先生です。とか。門脇神父様は 道元と聖パウロについて の本を書いたそうです。 実際に座禅をしたらどうかと思ったとき、押田神父に話しました。そして押田神父様がいったのは やりたければやってもいいでしょう、でも彼らには違う信仰がある、ということに気がつくでしょう。といいました。押田神父は良く座りました。接心も指導しましたが、自分は禅をやるとは言いませんでした。結局イエズスに対する信仰と仏教に対する信仰は違う信仰です。

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