この度、古賀武夫の逝去にあたり皆様より600通近い弔電をいただきました。本当にありがとうございました。その中から一部ではありますが、紹介させていただきたいと思います。。
本来ならすべての弔電を紹介させていただきたいのですが、今回一部紹介にとどまらせていただくこと、並びに紹介が順不同になっていますこと、お許しくださいませ。
(※極力原文のままの言葉、構成で書かせていただいています。)古賀愛理
*
いまだに現実を受け入れられません。
小学生時代に古賀英語道場で英語を教えていただいたときからのおつきあいです。
先生から教えていただいた英語はあまりうまくなりませんでしたが、
人の役に立つために生きる尊さを教えていただきました。
そして、先生は人のために生き、若くして旅立たれました。
先生の毒舌には、いつも愛情がこもっていました。
だから、先生のもとには多くの人が集いました。
迷ったときには、いろいろと相談させていただきました。
先生は、その都度ヒントをくれました。
今後は、それができないと思うと不安で仕方がありません。
でも、前向きに生きた先生でしたから、私も前を向いて生きていきます。
つらいことでも「ガハハ」と笑ってとばせる強い人間になります。
「強く、優しく。優しく、強く。」ですよね。
武夫門下生は、世界中にいます。わたしも、門下生の一人としてその継承に努めて参ります。心許せないでしょうが、遠い世界からお見守りください。
ありがとうございました。
合掌
衆議院議員 福岡たかまろ
*
佐賀に引越して来て、一番嬉しかったこと、古賀先生に出逢えたことでした。
昨日年四月七日、いのちの祭の講演会でした。ユーモアと辛口のトークに佐賀にこんなに素晴らしい人がいるんだ、感激しました。
まだ三回しかお逢いしていないのが、残念で残念でたまりません。
村岡屋ギャラリーで偶然、お逢い出来、「先生は、佐賀の宝ですから、元気でいて下さい。」と、言ったらイヤーと笑って下さったのが最後になりました。
でも、古賀先生の塾生が、先生の意志を次いだ人達が、世界中に綿毛となって飛んで行ってくれるでしょうね。大隈重信のように。
いっぱいのタネまきが、終わったから、旅立たれたのですよね。
お逢い出来た幸せに、心からありがとうございました。
尼寺(にいじ) 山崎良子
*
ご逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げます。ご生前のご厚情に感謝するとともに、謹んで、哀悼の意を表します。
あなたの海の如き大きな恩を今、感じています。あなたとの想い出を大切に、つながり合う命を子どもたちに生かしていきたいと思います。
すべて生命(いのち)の風景の一つだと思います。ご家族の皆様のご心痛を察し申し上げ、よりご冥福をお祈り致します。
保育園ひなた村自然塾 園長 藤崎 博喜
*
故 古賀武夫さんへ
快男子(児)とは、古賀さんの為にある言葉ではないかと思う程、魂の命ずるままに一生を駆け抜けたように、見受けます。
全て、天意のままに生き抜かれたこととも感じています。
今はただ衷心よりご苦労様。そして、敬意を持って感謝を申し上げます。
安らかなご冥福をお祈りいたします。
合掌
浅川達夫 拝
*
故 古賀武夫氏に捧げます
弔電
突然すぎる訃報に驚いています。ほとんどが記者と取材相手という形でしたが、あなたの佐賀に対するいな日本・せかいに対する熱い思いは、映画の制作、新しいスタイルの学校の建設など、地域に根差した一大事業として実践されてきたのであります。文武両道を備えた葉隠れ武士として57歳という生涯を燃焼し尽くされました。ここに心からお悔やみ申し上げます。
あるパーティーの席で古賀さんは、私に耳打ちしましたー「ダライ・ラマが12日、ブッシュ大統領にあてた書信のうつしがありますよ」といって教えてくれたのにはびっくりしました。コラムにその話を書くことができました。遅すぎるお礼をただいま申し上げます。「あ・り・が・と・う」
9・11から4日後の2001年9月15日のことでした。内容はこのようなものでした。
「暴力をもって暴力に報いれば決して暴力の輪は断ち切ることはできません。非常に困難な状況の中ですが大統領閣下の熟慮ある判断と行動をチベット人民代表して希望いたします」
このように、彼のジャーナリストばりの国際感覚、平和にたいする鋭い洞察力は、記者をはるかに上回るものでした。
その年の暮れ、私の書いたコラムに息子さんの写真がたまたま掲載されました。すぐ電話が掛かってきました。「私の息子です」
佐賀西高の野球部の練習を同校の野球場のバックネット裏で撮った写真に、たまたま息子さんが写っていた言うわけです。胸に「EIJO」書かれたユニフォームを着た息子を見て、ほこりに思われたに違いありません。子供に愛情を注がれたように佐賀という地域にたっぷり大きな愛を注がれた古賀さん。しかもダライ・ラマやブッシュ大統領の情報を持っていた国際人だった古賀さん。あなたは実に平成の佐賀の七賢人でありました。やすらかにお眠り下さい。
2008年3月19日
福岡西日本新聞株式会社 川上三太郎
*
故古賀武夫先生のご逝去を悼み、心から哀悼の意を表します。
先生は常に、その持ち前の明るさとエネルギーで、私たちを前へ前へと引っ張って下さいました。
先生のお人柄にもう触れさせて頂くことができないことを思うと、胸が張り裂けそうな思いです。遺された家族の皆さまのお悲しみもいかほどに深いものか、私たちの思いを超えるものです。
古賀先生に教えて頂いた無私の心を、改めて私自身の心に深く刻みながら、先生の永遠の眠りの安らかならんことを心からお祈り申し上げます。
衆議院議員 大串博志
*お礼の言葉*
九年前の六月に肝臓癌を発祥し、その後、数度の再発をしましたが、その度にげんきになっておりましたので、今回も当然元気になって皆様の前に笑顔で帰って くるはずでしたが、17日の12時55分に、家族に見守られながら、お星さまになってしまいました。これは生前父が度々言っていたことです。
父は最後まで治るつもりで頑張っていました、声が出せなくなる最後の最後まで「まだまだ、もう一踏ん張り」と言っておりました。
お酒が大好きで、人が大好きで、淋しがり屋で、泣きべそで、言いたい放題したい放題の父でしたが、可愛がっていただき、本当にありがとうございました。
「嵐」のような父に巻き込まれ、被害に遭われました皆様には、父に成り代わり、お詫びと感謝の真を捧げます。
古賀友大
本来ならすべての弔電を紹介させていただきたいのですが、今回一部紹介にとどまらせていただくこと、並びに紹介が順不同になっていますこと、お許しくださいませ。
(※極力原文のままの言葉、構成で書かせていただいています。)古賀愛理
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いまだに現実を受け入れられません。
小学生時代に古賀英語道場で英語を教えていただいたときからのおつきあいです。
先生から教えていただいた英語はあまりうまくなりませんでしたが、
人の役に立つために生きる尊さを教えていただきました。
そして、先生は人のために生き、若くして旅立たれました。
先生の毒舌には、いつも愛情がこもっていました。
だから、先生のもとには多くの人が集いました。
迷ったときには、いろいろと相談させていただきました。
先生は、その都度ヒントをくれました。
今後は、それができないと思うと不安で仕方がありません。
でも、前向きに生きた先生でしたから、私も前を向いて生きていきます。
つらいことでも「ガハハ」と笑ってとばせる強い人間になります。
「強く、優しく。優しく、強く。」ですよね。
武夫門下生は、世界中にいます。わたしも、門下生の一人としてその継承に努めて参ります。心許せないでしょうが、遠い世界からお見守りください。
ありがとうございました。
合掌
衆議院議員 福岡たかまろ
*
佐賀に引越して来て、一番嬉しかったこと、古賀先生に出逢えたことでした。
昨日年四月七日、いのちの祭の講演会でした。ユーモアと辛口のトークに佐賀にこんなに素晴らしい人がいるんだ、感激しました。
まだ三回しかお逢いしていないのが、残念で残念でたまりません。
村岡屋ギャラリーで偶然、お逢い出来、「先生は、佐賀の宝ですから、元気でいて下さい。」と、言ったらイヤーと笑って下さったのが最後になりました。
でも、古賀先生の塾生が、先生の意志を次いだ人達が、世界中に綿毛となって飛んで行ってくれるでしょうね。大隈重信のように。
いっぱいのタネまきが、終わったから、旅立たれたのですよね。
お逢い出来た幸せに、心からありがとうございました。
尼寺(にいじ) 山崎良子
*
ご逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げます。ご生前のご厚情に感謝するとともに、謹んで、哀悼の意を表します。
あなたの海の如き大きな恩を今、感じています。あなたとの想い出を大切に、つながり合う命を子どもたちに生かしていきたいと思います。
すべて生命(いのち)の風景の一つだと思います。ご家族の皆様のご心痛を察し申し上げ、よりご冥福をお祈り致します。
保育園ひなた村自然塾 園長 藤崎 博喜
*
故 古賀武夫さんへ
快男子(児)とは、古賀さんの為にある言葉ではないかと思う程、魂の命ずるままに一生を駆け抜けたように、見受けます。
全て、天意のままに生き抜かれたこととも感じています。
今はただ衷心よりご苦労様。そして、敬意を持って感謝を申し上げます。
安らかなご冥福をお祈りいたします。
合掌
浅川達夫 拝
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故 古賀武夫氏に捧げます
弔電
突然すぎる訃報に驚いています。ほとんどが記者と取材相手という形でしたが、あなたの佐賀に対するいな日本・せかいに対する熱い思いは、映画の制作、新しいスタイルの学校の建設など、地域に根差した一大事業として実践されてきたのであります。文武両道を備えた葉隠れ武士として57歳という生涯を燃焼し尽くされました。ここに心からお悔やみ申し上げます。
あるパーティーの席で古賀さんは、私に耳打ちしましたー「ダライ・ラマが12日、ブッシュ大統領にあてた書信のうつしがありますよ」といって教えてくれたのにはびっくりしました。コラムにその話を書くことができました。遅すぎるお礼をただいま申し上げます。「あ・り・が・と・う」
9・11から4日後の2001年9月15日のことでした。内容はこのようなものでした。
「暴力をもって暴力に報いれば決して暴力の輪は断ち切ることはできません。非常に困難な状況の中ですが大統領閣下の熟慮ある判断と行動をチベット人民代表して希望いたします」
このように、彼のジャーナリストばりの国際感覚、平和にたいする鋭い洞察力は、記者をはるかに上回るものでした。
その年の暮れ、私の書いたコラムに息子さんの写真がたまたま掲載されました。すぐ電話が掛かってきました。「私の息子です」
佐賀西高の野球部の練習を同校の野球場のバックネット裏で撮った写真に、たまたま息子さんが写っていた言うわけです。胸に「EIJO」書かれたユニフォームを着た息子を見て、ほこりに思われたに違いありません。子供に愛情を注がれたように佐賀という地域にたっぷり大きな愛を注がれた古賀さん。しかもダライ・ラマやブッシュ大統領の情報を持っていた国際人だった古賀さん。あなたは実に平成の佐賀の七賢人でありました。やすらかにお眠り下さい。
2008年3月19日
福岡西日本新聞株式会社 川上三太郎
*
故古賀武夫先生のご逝去を悼み、心から哀悼の意を表します。
先生は常に、その持ち前の明るさとエネルギーで、私たちを前へ前へと引っ張って下さいました。
先生のお人柄にもう触れさせて頂くことができないことを思うと、胸が張り裂けそうな思いです。遺された家族の皆さまのお悲しみもいかほどに深いものか、私たちの思いを超えるものです。
古賀先生に教えて頂いた無私の心を、改めて私自身の心に深く刻みながら、先生の永遠の眠りの安らかならんことを心からお祈り申し上げます。
衆議院議員 大串博志
*お礼の言葉*
九年前の六月に肝臓癌を発祥し、その後、数度の再発をしましたが、その度にげんきになっておりましたので、今回も当然元気になって皆様の前に笑顔で帰って くるはずでしたが、17日の12時55分に、家族に見守られながら、お星さまになってしまいました。これは生前父が度々言っていたことです。
父は最後まで治るつもりで頑張っていました、声が出せなくなる最後の最後まで「まだまだ、もう一踏ん張り」と言っておりました。
お酒が大好きで、人が大好きで、淋しがり屋で、泣きべそで、言いたい放題したい放題の父でしたが、可愛がっていただき、本当にありがとうございました。
「嵐」のような父に巻き込まれ、被害に遭われました皆様には、父に成り代わり、お詫びと感謝の真を捧げます。
古賀友大