日本史疑

北条・織田・徳川の出自―「文字は死なない」

第95話 うちつおみ

2012-10-17 | 日本史
 平安期の令制大臣に対して令外官である内大臣が常設される初めは、有道惟広が律令職である家令を務めた道隆以往となるが、史上初の女院号を与えられた道隆の妹が生した一条朝にて、帝の祖父となる兼家が摂政を辞するや任ぜられた関白職をその3日後となる兼家の出家に因り長子・道隆に譲っていることから、道隆が史上3人目の内大臣に補された時点での意義は、将来の摂関への予約を与えたものと考えられる。道隆が内大臣を辞した1月半後に同職に補された道兼は、北関東の武家である宇都宮氏が遠祖と仰ぐ人物として、一条が帝位を襲う花山を籠絡して出家を促した功績がものをいったか、道隆・道兼兄弟らの父にとって長兄の女が生した花山の在位中は帝を生した母の弟が台閣の末席から道隆を追い越して昇叙を重ね朝政を壟断していた。道兼が内大臣を辞した同日に同職へ補された伊周は、父の家令を務めた有道惟広の息である惟能が家令を務め、父・道隆の願望を実現する手前に迫った。伊周以往に内大臣へ補された人物を看ると、伊周の曽祖父が醍醐の女との間に生して後裔が中世以往に興隆する閑院流祖として公季が在り、公季は一条・三条・後一条の三代に亘って内大臣を続けている点、公季が内大臣を辞した同日に同職を襲った頼通の後、頼通の弟が村上源氏の胎動する後三条の前まで後一条・後朱雀・後冷泉の三代に亘って内大臣を続けたことは、後世に伸び行く流れと廃れ行く流れの更迭を予定していたかの感を得る。道隆に先んじて内大臣へ補された兼通は道隆の父に昇進が遅れ、『愚管抄』巻第三に縷々叙べられるような道隆の父との醜悪な家督争いを演じつ、兼通の姉を母とする円融へ円融の母であり兼通の姉が遺した兄弟長幼の序に遵っての官職補任を諭す書を呈示し、時平・道真―兼通―伊周―道長の系譜にて史上2度目の内覧・宣下を被り、道隆の父を一挙に飛び越え内大臣となっており、兼通が就いた内大臣とは遅れた官位を補填する意義をもっていた。史上初めての内大臣とされるのは、道真が左遷される正しく1年前、勧修寺流祖となる高藤が宮道氏との間に生した醍醐が、危篤を伝えられた高藤へ死没する2ヶ月前に与えた職として、高藤の内大臣は時の朝家による礼遇たる意義をもつものであった。
 朝家から高藤へ冥途の土産に送られた内大臣の祖型は、式家・良継、百川そして北家・永手らとともに皇統を天武の血脈から天智の血脈に復すことに尽力した北家・魚名を補した史上最期の内臣であったが、天武の血脈を引いた最期の帝は母の名を"あすかべ媛"とし、媛の父は藤原氏祖であるも母・県犬養三千代の父母は人物を不詳とし、壬申の乱にて天武に近侍した県犬養姓が看られる点、三千代が皇親氏族との間に橘氏祖となる"かずらぎ"王を生して後に藤原氏祖へ再嫁していることは、飛鳥部奈止麻呂の女が藤原北家祖の孫との間に日野家祖となる真夏と冬嗣を生して後に丹羽長秀の後裔が遠祖と仰ぐ良岑安世を桓武との間に生していることと履歴を相似させる。乙巳の変に功業を成した大織冠を補した内臣を史上2度目に補されたのは北家祖となる房前であり、藤原氏祖の女が生して即位前であった聖武の祖母が危篤となり、聖武にとって父の姉である帝が在位する中、藤原氏祖の孫へ確実に帝位を継がせんとする意図が有ったものと考えられる。因みに、東大寺の本尊を建立させた聖武が退位する直前、陸奥・小田郡にて産金を遂げた上総在国の丈部大麻呂は無位から一躍大夫(従五位下以上)へ叙され、後に造長岡京使へ補されているが、一度位階を剥奪され桓武朝下に復叙されている点、史家は大麻呂が藤原仲麻呂の乱との連累を憶測している。史上3度目の内臣は良継が叙されており、天智の血脈を朝家に復した帝の即位した翌年に左大臣・永手が死没し、帝の擁立に功績を成した良継が南家・仲麻呂の打倒を企てた最初を挫かれて仲麻呂に因り官位を遅らせていた為、後世に兼通が官位を越された兼家に対して採られた例の如く、帝の政権を維持する時務策であったと考えられる。良継が仲麻呂を倒した時、足立遠元の遠祖と推測される武蔵・足立郡在地の丈部不破麻呂が功業を成し、武蔵姓を与えられている。良継が死没し、良継と同じ政権の動機から魚名が内臣へ補されているが、その時、魚名は令外官として近衛大将に在ったことは留意される。魚名を左大臣へ補す桓武が即位すると、南家祖・三子である乙麻呂の息が右大臣として入閣しているが、この時、北家・永手の甥である内麻呂は台閣の末席である中納言であった。桓武を襲ったのは式家・良継の女が生した桓武の2息として平城・嵯峨であり、平城朝下に近衛は初めて左右近衛となり、右大将・坂上田村麻呂とともに北家祖の孫となる内麻呂が左大将を任じ、内麻呂が飛鳥部奈良麻呂の女との間に生した冬嗣もまた嵯峨朝下にて左大将を任じている。魚名が式家祖の女との間に生した次子は、やはり式家祖の息である良継の女を室として息を藤姓であるにも拘わらず諱を藤嗣とし、桓武の征夷に差遣された紀古佐美の女を室として生した藤嗣の息と冬嗣の同母兄である真夏の女との間に山蔭を生している。足立遠元と同じく源流を山蔭と唱えた近世・仙台藩主の確かな遠祖は常陸・真壁郡伊佐荘に隣接する下野・芳賀郡中村郷に在地したものと思われるが、同郷に近在して『太平記』に宇都宮氏配下の紀清両党と謳われた一方として天武の息である舎人の後裔を唱えた清原氏が蟠踞し、また芳賀郡下には紀清両党の他方たる紀古佐美の後裔を唱えた益子氏が在った。
 山蔭は筑前介なる者の女より頼を生しているが、さらに山蔭には7息の末子として母を伝えない僧籍に在った息が有ったとして、この母を不分明とした僧籍の謎めいた山蔭・末子が北家・内麻呂との間に真夏と冬嗣を生した飛鳥部奈止麻呂の女と桓武との間に生した良岑氏を腹とし、飛鳥部氏の本貫である安宿部(あすかべ)郡の属した河内・錦部郡を本貫とした高向氏に扶育させた衡を生し、在衡は山蔭の長子である有頼の嗣子となって、源満仲が功績を得た安和の変以往に廟堂で頭角を顕し左大臣へ昇っている。魚名が式家祖の女との間に生した三子である末茂は室を不明としながら総を生し、総継は桓武朝下にて右大臣を任じた南家祖・三子である乙麻呂の息のさらに息となり父を乙麻呂とする石上宅嗣の女を室とした雄友の女を室として直を生し、直道は藤原雄なる者の女を室として中納言に昇る穂を生しているが、魚名・三子である末茂の後裔として10世紀の劈頭に没した有穂以往に公卿に昇るのは孫を四条家祖とし12世紀前葉に没した顕季を俟たなければならず、顕季は史上初の関白となった基経の息・忠平が左大臣に就いた同じ年に右大臣となって山蔭の女を室とした紫式部の曽祖父を息とする高藤より派した勧修寺流として為房の息・顕隆と偏諱を通有する。冬嗣が南家祖・四子の孫より生した息らが長良と良房であり、長良が魚名・三子の息である総継の女との間に生した息が良房の嗣子となる基経であった。基経により仁明―文徳―清和―陽成の皇統が仁明―光孝―宇多―醍醐へとシフトさせられる系譜にて、魚名・三子の息である総継が南家祖・三子の孫となる雄友の女とは別の女より生した女が仁明との間に光孝を生しており、勧修寺流祖・高藤の孫となる醍醐朝下の右大臣職を菅原道真より継いで藤原忠平へ継いだ源光は『源氏物語』が仮託した人物と思われる仁明の息として百済王の後裔を母とし、また光の孫は祖父・嵯峨の流れを汲む渡辺綱を猶子に迎えて摂津源氏祖となる源満仲に入婿している。しかし、道隆・伊周父子の家令を惟広・惟能父子が務めた有道氏は、武蔵姓を与えられた不破麻呂と同じく古姓を丈部として、嵯峨の息として皇統を後世に伝える仁明の即位した833年に朝家より賜姓され、氏道が桓武と河内・大県郡を本貫とする多治比氏との間に生した葛原の家令を任じているが、その系譜は守―氏道―雄―氏材とし、継材にとって弟の息となる者が道隆の家令を務めた惟広であるとする。
 桓武朝下にて右大臣を任じた南家祖・三子の息にとってさらに息となる雄友の曽孫には、『尊卑分脈』にて、讃岐・香川郡を本貫とした秦氏を母として筑前守を任じたの名を看受けるが、秦氏を出自とする惟宗氏は有道氏が賜姓された翌年に官舎を宛がわれた左京七条に隣接する六条に在京し、惟宗允亮が成した『政事要略』は伊周の家令を務めた有道惟能が赴任して児玉党の源流となった拠点である武蔵・児玉郡阿久原牧の初代別当を任じた者が惟宗氏であったことを伝え、太政大臣・忠平は私記へ承平・天慶の乱の最中に同牧の別当であった山蔭の孫の存否を認めており、惟宗氏を出自とした武家として島津氏や長宗我部氏が知られる。因みに、秦氏の近畿における拠点であった山城・葛野郡に平安京が造られており、奈良朝期の官人として丈部石勝なる者は秦犬麻呂とともに官財を横領し罪科に処せられるところを、石勝の息らが身代わりとなって贖罪を乞うた為、聖武の伯母である女帝より石勝とその息らを宥免する詔勅が発せられている。南家・雄友の末子を介した孫は『分脈』では雄友の兄の女を母としたかのような感を得るが、『系図簒要』では真夏の女を母とするとしており、北家・魚名の三子より派した山蔭もまたやはり真夏の女を母とし、雄友の末子を介した孫にとって次子の諱を清夏としている。雄友の末子を介した孫の長子・年と次子は母を坂上氏とし、次子・清夏の息が承平・天慶の乱時に常陸介であった惟幾となり、惟幾の息こそ平高望の女を母として北条義時・政子の母方祖父とその孫となる曽我兄弟や北条得宗・被官となる工藤氏を派した為憲である。同じく三子・蔭は多治比氏を室として有道氏が賜姓される9年前に出生し、末子・清景は三国氏を室として遠江守を任じている。此処で注目される者が最後の清景であり、平安期における在地領主にて大身であったことを伝える八介として三浦介、千葉介、狩野介、富樫介、そして井伊介などが挙げられるが、狩野介は南家・三子の流れを汲む為憲の後裔として伊豆・田方郡下を貫く狩野川流域を領掌した族として識られ、富樫介は山蔭の甥である利仁が越前・敦賀に在地した仁なる者に入婿したことを機縁として斯地に繁栄した後裔であると唱えている。八介の一として挙げられる武家の名門として、遠江・引佐郡井伊谷郷に蟠踞した族は近世大名家として高藤の三子を高祖として唱えるが、『尊卑分脈』には高藤の三子は見出せず、藤原南家祖・三子より6世となる清景こそ三国氏を室として遠江守を任じた者であり、史家が井伊氏の出自を越前・坂井郡三国郷を本貫とした三国氏と考える処と符合する。
© Ryohichi Horigome 2011-2030 All Rights Reserved.

第94話 1千年の春、1千年の秋

2012-10-15 | 日本史

 『愚管抄』巻第三に拠ると称徳女帝の後継を決定する群臣らの評議にて「一段とぬきんでていたのは」(『日本の名著9』中央公論社 昭和46年刊)藤原北家・永手と式家・百川であったとしながら、称徳を襲った天智の孫たる光仁の後継につき百川と百川自身の兄であり百川・室の父である式家・良継らが推した桓武に抗って、近年云われている如く、再び天武の血脈を承けた親王を推した為か、北家の嫡流は永手の甥となる内麻呂の系統へ移っている。内麻呂が後世に源頼信―頼義―義家の拠点となった河内・安宿部(あすかべ)郡に在地する飛鳥部奈止麻呂の女との間に生した息が日野家祖となる真夏と冬嗣であり、真夏と冬嗣を生した女は桓武との間に有道氏の後裔とされる丹羽長秀の後裔が遠祖と唱えた良岑安世を生して、安世は有道姓を与えられた氏道が律令職たる家令を務めた安世の兄として葛原の母の出自である河内・多比郡を本貫とした多治比氏を室としている。冬嗣の長子・長良や次子・良房の母は南家祖・四子の孫であり、為に藤原南家は頼朝の母方祖父を派するまで平安期を粘ったものかと思われる。しかし、冬嗣の六子・良門は生涯の極位を正六位上とし極官を内舎人にて終えている点、嵯峨朝下で躍動して北家の大立者となった冬嗣の8息のうち唯一、従五位以上たる大夫に昇れなかったのは留意される処であり、平安末期に成った『今昔物語集』にて良門が若く死没した為に墓も無かったとされるのは興味をそそられる。良門が務めた帝国時代の内務省に該る中務省に属した内舎人の職柄とは天皇を警護するなどを果たしたものだが、為に武士で内舎人を務めることは結構な名誉となり、源氏を出自として内舎人となれば源内、平氏であれば平内、藤原であれば藤内となる謂で、しかし、平将より百年早く良が偏諱を通有している点は注目せざるを得ない。良門が父を生した女と同じく飛鳥部氏を室として生した長子は、やはり、北家・魚名の流れを汲み真夏の女を母とする山蔭にとって甥となり『今昔』に説かれる利仁に先んじて諱を基としている点もまた興味深い。利基とは母を異にして、『今昔』に室となる宮道氏との馴れ初めを説かれた利基の弟は藤姓でありながら諱を高藤とし、高藤と祖父を等しくする基経により仁明―文徳―清和―陽成から仁明―光孝―宇多―醍醐と皇統がシフトさせられた宇多へ高藤が宮道氏との間に生した女を嫁し、宇多と高藤の女との間に生した醍醐が即位すると、高藤が死没する2ヶ月前に危篤となるや、大納言であった高藤を右大臣・菅原道真や左大臣・藤原時平を越えて魚名以往百年途絶していた内大臣に就けており、高藤の父とは打って変わった処遇を朝家から被っている。室町幕府・政所代を世襲した蜷川氏は越中・新川郡蜷川荘を本貫とした宮道氏を出自とすると唱えているが、蜷川氏と高藤の後裔となる甘露寺家は16世紀に藤原利仁の後裔を唱えた美濃・斉藤氏を介して有道氏の後裔となる赤松氏と姻戚関係を成している。利基は父を祖父の六子とした続柄を等しくして、伴氏より六子・兼輔を生している。大伴氏は承和の変に因って息が廃太子となる仁明の父にとって弟となる帝の諱を憚り改姓したとされるが、冬嗣の息が史上初の人臣摂政となった帝の時代に起きた応天門の変に因り伊豆へ配流された伴善男について鎌倉期に成った『宇治拾遺物語』は佐渡郡司の家人が大伴氏へ入嗣した者と説いており、伴為房の女を母とした北条時政の後裔は相模・愛甲郡依知郷小字本間を本貫とする族を被官として佐渡へ入部させている。高藤の後裔として葉室家祖を息とした為房は安和の変に躍動した息をもつ源経基の玄孫を室とし、大江匡房とともに往時の朝家にて学識を謳われたが、鳥羽の暗殺を謀った村上源氏を出自とする僧に係り、眷族への追及を朝議にて排している。岳父である伊東祐親の息が殺害されて、北条時政が祐親の2息を預けた国府津を間近くする相模・足柄郡曽我郷に隣接して、太政官少納言局と関わりをもった中原広季に扶養された親能の猶子が所職を得た大友郷が所在し、JR国府津駅裏手に建つ天神社は菅公を唱える童謡の発祥地との伝を遺し、確かに酒匂川畔に展がる沃野の東界を画して相模湾岸まで及ぶ丘陵を東へ向けて登る坂路の途上からは、戦国期に成った『平安紀行』に謳われた地として白霞む箱根の青嶺を西へ向かって仰ぐ光景を展げている。伴氏を母とした利基の六子・兼輔とは岳父とともに古今歌壇の中心を成した人物として、賀茂川堤に臨んで構えた邸に紀貫之や凡河内躬恒らが集った堤中納言であるが、兼輔の岳父とは叔父・高藤の息として従弟となる定方であり、定方は山蔭の女を室としており、定方には山蔭の女とは別の出自を不明とした女より生して兼輔へ嫁した女の外、やはり出自を不明としながら父を承平・天慶の乱を経験した北家・嫡宗たる忠平とし息を先の諸編にてしばしば言及した済時とする者へ嫁した女が有った。しかし、ここで歴史の怪を感得する点として、従弟・定方の女を室とした兼輔の長子・雅正は母を不明としながら室を定方が山蔭の女より生した女としていることである。雅正が定方と山蔭・女との間に生まれた女より生した息が、紫式部の父となる為時である。


 大江匡衡より文章道の秀才を謳われた為時は、皇太子時代より近侍した花山が即位すると式部丞に補されるも花山の意表を衝いた退位に因り失職し、以往在位の長かった一条朝下にて十年の散位を堪えたが、『今昔物語集』を始め鎌倉期に村上源氏の編んだ『古事談』や菅原氏が関わったかともされる『十訓抄』にて説かれた話は、漸く官に復する機会を得たと思いきや四等国たる淡路守への任官であったので、為時が女官を通じて「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」(学ぶに苦しみ夜は寒し 涙を紅にして襟を霑す 除目は朝家に後れ―任官は朝家で後になった 蒼き天―暗い空―が眼に在る)なる詩を一条へ奏呈したと云う。似たような話は『愚管抄』巻第三にも見え、一条の遺品を検分した道長が宣旨の草稿らしきものを発見し、その冒頭が「三光欲明、覆重雲、大精暗・・・」(天地空の三を治める帝は明たるを欲すも 雲が重ねて覆い 大精―大いなる精髄を以てする治天―は暗く・・・)となっているのを認め直ちに焼却したとする伝を頼通から聞き及んだ源隆国が記しているとする。源隆国は『抄』が一条の時代に病没した関白の後継について帝の母である道長の姉が帝に迫り、道長を内覧とする宣旨を下命したと云う道長の叔母と安和の変で失脚した醍醐の息との間に生まれた蔵人頭の息であり、『今昔』の作者に擬せられている人物である。女官を介して為時が呈した書に動かされた帝は、為時を落胆させた除目の為された僅か3日後、一等国の新・越前守となった道長にとって乳母の息を為時に更迭したと云う。しかし、この更迭人事が発せられたのは996年1月28日のことであり、前年に嘗て花山に近侍しながら帝を籠絡して退位させた関白が僅かな日数にて疱瘡の流行に因り急逝し、道長が史上5人目の内覧となった直後のことであって、史上4人目の内覧を宣下されたことの有る道長の甥が『抄』に拠ると996年1月13日の除目にてやはり花山に因み台閣を罷免されていることを勘考すると、廟堂における主流派の思惑が透けて見えてくる。台閣を罷免された道長の甥である伊周を『抄』は漢才に長けていたと記しているが、伊周の妹が為した息を後継に欲した一条の諮問に対して、源隆国とともに『抄』が四納言と称揚する一として行成は反対しており、行成の成した『権記』には995年に若狭へ宋の商人が来着し若狭・越前に逗留していることが記されており、漢才を認められながら花山を因として不遇を託った為時を拾ったことは、廟堂における主流を争った者らが権益を巡る争いをも重ねて抗争に拍車をかけた弥縫策と考えられる。伊周とともに左遷された弟の隆家は『抄』に拠ると帰京が宥された後も好んで兄が左遷された大宰府へ赴任し莫大な産を遂げたと記されており、隆家が公家の子弟ながら史上初の外寇を克服して後世に名を馳せた点、肥後・菊池氏の家伝がこの隆家を高祖と唱え、肥前に在地して戦国期に龍造寺氏を派する高木氏を同源としていることは、龍造寺氏の家中に有道氏の後裔とされる武蔵・児玉郡より発した武家を看受けることと相俟って単なる偶然以上のものを感得する。鎌倉期に成った説話が為時を越前守へ補さしめた女官とは、伊周の父が通った姉に係り小倉百人一首59番の恋歌を成し『栄花物語』に擬せられる赤染衛門が河内・大県郡を本貫とした渡来系氏族を出自とするように、二人の曽祖父を介して伴氏と宮道氏の血脈を承け、曽祖母を通じて山蔭の血統を引いた為時の女である紫式部であったのではないか。式部の傑作を女官の朗読にてhearingした一条が日本紀を熟読した女との賞讃を口上しつ、帝の内心では鼻白まれたことを式部が苦にしていたものと思われる点、為時の書をさぞかし父を真似てoratoricalに帝をしてcomprehendせしめた因であると憶測される。式部の生年を故・稲賀敬二氏らの唱える970年から江戸・彰考館の安藤為章らの唱える978年の幅で捉えて、式部の父を一等国守へ任じせしめることに奏功した時の式部の年齢は26歳から18歳に及ぶ訳で、鎌倉期において『源氏物語』研究に従った河内学派の成した『紫明抄』は式部が987年に道長が宇多の曽孫と婚姻した時の新婦付きの女房であったと説いている。道長の新婦は式部とともに定方の曽孫に該り、河内学派の泰斗である源光行は一説に河内源氏である義忠の流れを汲むとされ、源義忠は頼信―頼義―義家―義忠の系譜にて最期の河内守を任じた河内源氏として、義忠の息・経国は伊周の家令を務めた有道惟能の孫とされる平児玉経行の女を側室に摂籙・師実の孫を正室に武蔵・児玉郡下にて河内荘を営んでいる。987年に道長の新婦に付いていた式部は、稲賀説では17歳となり安藤説では9歳となる。式部丞の後に散位を長くした父を一等国守へ推し立てた式部が朝家にて以往、聖徳太子の冠位十二階にて最上位となる紫の称を与えられたのは廟堂における主流派にとって或る種の功労を唱えられたものと憶測され、紫の彩華を生す藤は日本固有の種とされる。『尊卑分脈』は式部を道長の妾であったと記すが多分に道長にとって公私に亘り密接した関係に有ったと思われ、故・角田文衛氏に拠る道長の私記において1007年条に顕れる掌侍に就いた香子こそ式部とする説から、四等官制における"かみ"―"すけ"―"じょう"―"さかん"の"じょう"に該る掌侍は、平安中期後には"かみ"に該る尚侍が后妃を"すけ"に該る典侍が乳母を意味するようになり、後宮における総務・経理を統括する極めて重大な職掌となった訳で、稲賀説に従えば式部が掌侍へ任じられたのは37歳であったことになる。主流派から重大な務めを果たしたことを賞された称と思われる紫の式部は、学界の大勢が唱える通り、996年を以て父の任国へと離京した。行成の『権記』における997年条の"後家・香子"の記載から、やはり996年に没したかとされる貫之の息と死別していることとなる。史家が多く唱えるように、式部は離京してから2年後に婚姻を遂げており、3年後に夫を喪っている点、28歳で再婚したことになることも稲賀説と符節を合する。詰まり、紫式部は1005年かその翌年に初めて道長の女に仕えて宮廷に現れるのでなくして、それ以前に人並み優れた社会的行動を画していた筈であると考えられる。


 太政官少納言局の差配を世襲した中原氏とともに清原氏もまたその任に在ったことが識られているが、有道惟能が家令を務めた伊周の妹である一条・中宮に仕えた清少納言の近親には中原氏が差配した太政官少納言局に関わった者を見出せない。それにも拘わらず、少納言の称を後世に伝える点、当女もまた廟堂における政治的躍動に無関係であった筈はなく、少納言の仕えた中宮の生した息の立太子を排斥した行成は少納言と"親交"が有ったと云われ、行成はまた太政官弁官局の"さかん"にして初めて"じょう"に相当する位階となる従五位下に昇り後裔に弁官局の差配を世襲させる小槻奉親とも親昵な間柄であった。少納言が後世に名高い古典随筆の執筆を本格的にしたのは紫式部の父が越前守に補された頃であり、生涯に二夫と契った少納言が前夫との関係を絶ったとされるのはその翌々年頃とされ、詰まり式部が離京した頃より少納言は随筆を本格的に執筆し始め、式部が帰京した頃に前夫との情誼を絶ったと云える。少納言の父は飛鳥部氏や多治比氏と同じく河内にて錦部郡を本貫とした高向氏を母としており、少納言の姉を室とした者の妹が『蜻蛉日記』の著者である。『日記』は有道惟能が仕えた伊周の父・道隆、花山を籠絡して史家が中原氏を出自とすると唱える宇都宮氏が遠祖と主張する道兼、摂関政治を謳歌する道長そして『日記』の著者が生した道綱ら兄弟の父との生活を記しているが、『日記』著者の父は長良の曽孫として源経基の女を母とし、『日記』著者の妹として菅原孝標の室を生している。菅原孝標の生した女が成した『更級日記』は上総より父とともに帰京した回想から記しているが、孝標は道真の玄孫として蔵人頭、常陸介をも任じている。平将門の時代を生きた道真の息として景行もまた常陸介を任じたが、孝標の叔父となる薫宣は紀伊守を任じ女を伊周の家令を務めた有道惟能へ嫁しており、惟能は将門の従兄となり源義朝を謀殺した平忠致を派する公雅の女を母としている。有道氏の源流は常陸丈部として筑波郡を本貫とし、源義朝にとって孫となる北条時元=(『分脈』にて)堀籠隆元と関連するか筑波郡下には堀籠郷の字名が看られ、紀伊・日高郡下には近世まで堀籠姓を称えた素封家が在って、『吾妻鏡』には紀州方言が看受けられるとする史家が在るが、全国に夥しい天神社に拘わらず牽強付会の嫌いを免れぬものの、堀籠隆元の本貫である武蔵・加美郡堀籠郷=帯刀郷にはやはり菅原神社が建ち、石橋山合戦の敗戦後に安房に上陸した頼朝を迎えて秩父平氏の高祖とされ将門の従弟となり式部や少納言と同じ時代を生きた者の後裔とも云われる安西景益の居城たる平松城を近くし、安房・国分寺と平群川を挿んで相対する堀籠郷にもまた菅原神社が建っている。『尊卑分脈』が山蔭の末子に位置付け母を不明とする如無なる謎めいた僧侶を父に、良岑氏を実母に高向氏を養母として安和の変に因り78歳で右大臣に昇り、史家が出自からは異例の昇進と評した左大臣として藤原在衡が没した翌年、中原姓を朝家から与えられて江戸期に至るまで少納言局の差配を世襲した十市氏より140年ほど早く、仁明の即位した年に有道姓を与えられた常陸丈部を十市氏と同源であるとする古書が在る。紫式部の父が10年の長きに亘った散位を脱して一躍一等国守に補される15日前に、史上5人目となる道長に先んじて内覧の宣下を被った主家の台閣罷免を見た有道惟能は翌月解官されるが、関東における他の在地領主らに最も遅れて出発した有道惟能の後裔は残る平安期の時間で最大級の急成長を遂げ、血生臭い鎌倉時代を健在に過ごし、新田義貞が鎌倉を陥す主勢力となった理由は何であったか。江戸・彰考館の成した『大日本史』は摂関政治全盛期を生きた児玉党祖を藤原伊周の息としており、在地領主に有りがちな単なる系譜の虚構と考えられるか。
© Ryohichi Horigome 2011-2030 All Rights Reserved.


第93話 三人目の朝光

2012-10-13 | 日本史

 武蔵の在庁官人から転じて継室との縁を以て下野・都賀郡下に小山荘を営んだ小山政光の長子は朝政であり、三子は前編にて言及した朝光であって結城氏祖となっている。結城氏祖は改諱する前を宗朝とし、近世・仙台藩主が遠祖とした入道念西の諱は朝宗とされ、長兄の営む小山荘と常陸・結城郡との間に在る真壁郡下の鬼怒川畔にて伊佐荘を営んだ族を出自とした朝政の女は北条義時との間に義時にとって四子となる有時を生し、陸奥・伊達郡と隣接する伊具郡に所職を得させている。また、北条義時の五子となる政村を生した伊賀の方の父もまた諱を朝光とし、この朝光は伊賀守に任官したことを以て該姓を興したとされるが、朝光の実父を二階堂行政とする説が在り、『尊卑分脈』は小山政光の父を行政としている。二階堂行政は有道氏の源流となる常陸丈部が在地した筑波郡と間近い下総・猿島郡を本拠とした平将門が蹶起したときに事実上の常陸国長官を任じた惟幾の息として為憲より派した後裔とされるが、為憲の息とされる時理(ときまさ)と云った諱にも怪訝を感じつ、行政の祖父とされる名は『武蔵七党系図』児玉党条にて藤原伊周に仕えた有道惟能の息として児玉党祖とされる惟行の諱と等しくし、行政と義時・政子らの母方祖父とは始祖となる為憲との世数をも等しくしている。藤原定家の『明月記』の示唆する処に拠ると北条義時を服毒死させた伊賀の方は、政村にとってすぐ上の兄となる伊佐氏の孫が所職を得た陸奥・伊具郡に近在する磐城郡下の好島荘西方預所職を得ていた評定衆を務める次兄とともに三浦義村に加冠させた政村の執権就任を画するが、尼将軍は三浦義村の女を室とした泰時を執権とし、『吾妻鏡』は伊賀の方を尼将軍の下命により伊豆・田方郡北条郷へ幽閉し、4ヵ月後に伊賀の方・危篤の報が鎌倉へ届けられた後、その消息を教える記事を絶っている。因って、北条泰時の継室は、尼将軍が承久の乱に臨んで柳営にて放った檄として「阿保正隆以下、武蔵の軍勢が鎌倉に到着次第、直ちに東海道へ向けて進発せよ」に顕れる武蔵・加美郡を本貫とした安保実員の女となっている。上野・多野郡、緑野郡、甘楽郡から武蔵・児玉郡、入間郡へと発展した有道氏の後裔を唱える児玉党の版図に挟まれて加美郡は所在するが、同郡に蟠踞して阿保=安保氏を派した丹党は多治比姓を唱え、平安初期に有道姓を与えられた丈部氏道が仕えた葛原は桓武と多治比氏を出自とする女との間に生した皇子であった。伊賀の方の次兄が得た陸奥・磐城郡好島荘西方預所職は、大江広元の息として三浦義村の女を室とし義村の息とともに宝治合戦にて滅ぶ毛利季光と諱を逆転させた伊賀の方の長兄・光季の息へ継承されている。伊賀光季の息より派した後裔に所職を伝えた陸奥・磐城郡好島荘に係り、大和国家の皇居が度々置かれた磯城郡飫富郷を本貫とした多氏が上総・君津郡飯富郷へ入部した族の後裔として、鎌倉幕府創業の功臣・千葉常胤の息が下総・香取郡堀籠郷が臨む大須賀川の源流地となる松子郷へ拠点を構えて大須賀氏祖となり、大須賀氏の後裔もまた好島荘に所職を得ており、藤原秀郷流の佐藤氏を出自とする榊原康政とともに初めて家康の代に三河へ現れる大須賀康高は、やはり康政・康高とともに家康の旗本先手を任じた四将であり前編で述べた朝光の父である藤原兼通の流れを唱えた本多忠勝の所在した額田郡洞郷にともども所在し、従って本多姓とは千葉氏の出自である多氏の本宗を唱えた意であろうと思料される。


 安保氏を母とした泰時の次子は得宗被官として京洛・高橋に所在した高橋次郎によって1227年6月18日に斬殺されているが、三浦氏を母に安達氏を室とした泰時の長子もまた、伊賀の方が伊豆へ送られてから鎌倉へ危篤が伝えられた時間と凡そ近くして、六波羅探題に在職中倒れてより1230年6月18日に死没している。両者が死没した背景に在る政治的躍動の推理は、viewer諸賢に委ねたい。ただ、得宗被官として長崎氏の祖とされる平三郎兵衛尉盛時とよく似た名として、『愚管抄』巻第五が平清盛にとって「第一の家臣」(『日本の名著9』 中央公論社 昭和46年刊)とされ平家滅亡後に寒河尼の兄を頼った息をもつ平家貞の役目を襲った平高橋左衛尉盛綱は源義朝が常盤御前との間に生した阿野全成・義経らの同母兄を治承・寿永の内乱で討っており、『吾妻鏡』が泰時の母を阿波局とのみ記す女とは阿野全成の室のことと憶測される。泰時の長子が安達氏の室より生した長子は宇都宮氏を室として執権を僅か4年弱で退いているが、その執政下に勃発した鎌倉・若宮大路の下馬辻にての小山氏と三浦氏との闘諍を、『鏡』は偶発的な事件との評を与えるべく「天魔其の性に入るか」との文言を以て記事を閉じ、事件翌日に泰時が三浦氏への左袒を図った執権たる長孫を叱責しながら中立を守った次孫である時頼を賞揚したとする点、北条氏側から小山氏へ差遣された者は下野・安蘇郡下に佐野荘を営む被官の佐野基綱であったのに対し、三浦氏側へは平綱が差遣されたものと思われ、宇都宮氏を室とする泰時の長孫が三浦氏へ左袒し、毛利季光の女を室とした次孫である時頼が上段に述べた経緯から中立を保ったとすることには多大な疑念を感ずる。三浦氏が領掌した相模・三浦郡三崎荘の平安期の領家は前編で縷々述べた三条の孫であったことを確認し得るが、該領家の母方祖父はこれもまた前編にて縷々述べた藤原済時であった。三浦氏の陸兵力は相模にて随一の農業生産力を示した現在の平塚市域に集中していたが、その北方に位置する愛甲郡毛利郷を大江広元の息である季は本貫としており、三崎荘下にて相模湾岸に所在する諸磯郷には広元の女が邸を構えたとする伝承を遺している。泰時の室となった三浦義村の女は『平家』に名高い鎌倉幕府創業の功臣・三浦義明にとって義明―義澄―義村とは異にした義明―義連―連となる系譜上の盛連へ再嫁し、三浦郡芦名郷に拠点を構えた盛と宝治合戦後に三浦氏惣領となる盛時を生しており、後者こそ頼朝の祐筆と名を等しくし内管領・平頼綱の父となる平盛時であって、内管領たる盛時の父は平盛綱ではなく盛綱との交誼を憶測させる三浦盛連であったと思われる。西湘の花水川支流畔の岡崎郷に拠点を構えた三浦一党の岡崎義実と関係するか、三浦郡下にて相模湾岸の芦名郷と諸磯郷との中間となり、稲村ヶ崎を相対して望む岡崎郷の丘上にすっかり風化した泰時・長孫のものと伝わる墓碑が遺されている。


 北条得宗の被官として津軽へ入部した工藤氏や内管領として名を伝える工藤杲暁らは藤原南家祖・三子の流れを汲む為憲の後裔とされるが、北条義時・政子らの母方祖父もまた藤原為憲の後裔とされ、平家与党であった義時・政子の外祖父は滅んでおり、後に鎌倉御家人となり義時の外祖父にとって上掲図では従弟となる者により義時・外祖父の息が誤殺され孫兄弟の仇討ちが為されたと云う伝は、仇を成した後さらに頼朝を襲った点につき角川源義博士は北条時政の謀略であったと説いているが、仇を成した兄弟の養父の先代が官衙と結びつく意を与える国府津を間近くした相模・足柄郡曽我郷へ初めて入部したものとされ、曽我氏の源流を千葉氏祖とされる平忠常の親族より派生したと云う武蔵・埼玉郡野与荘を拠点とした党を出自とするとした説や『将門記』に顕れる武蔵武芝の後裔とする説を看るも、何れにせよ、埼玉郡野与荘の位置が他編でしばしば述べた児玉党の諸士の中で行跡を不明とする久下塚弘定の息の邸址とされるものが野与荘を近くする私市党が蟠踞した地より発見されていることや、奈良朝期に武蔵・足立郡に在地し出雲族を祭神とする武蔵・一宮の神職であった丈部不破麻呂が藤原南家・仲麻呂の叛乱を鎮定した功に因り武蔵姓を与えられ、その後裔が『将門記』に顕れる武蔵武芝であり、さらに下って大江広元の母方祖父である足立遠元であろうと推測し得る点、史家が指摘するように曽我氏の後裔が工藤氏とともに祐の偏諱を通有していることから、曽我氏・工藤氏両者に何らかの勢力が影響をもった関係の中で為された事績と思料される。史家は平忠常が亡国と云わしめるほどに房総にて猖獗を極めた叛乱を演じておきながら、あっさりと源頼信へ帰服したのは初めて河内・安宿部郡と南接する石川郡に拠点を得た頼信へ叛乱を果たす先から古く頼信へ名簿(みょうぶ)を捧げていたからだとの説を与えているが、その意義とは前編で述べたことを閲して欲しい。
© Ryohichi Horigome 2011-2030 All Rights Reserved.


第92話 二人の朝光

2012-10-13 | 日本史

 『愚管抄』巻第三に拠ると、藤原北家・嫡宗となった師輔の外孫となる円融の息として、師輔の三子・兼家の女が生した一条が即位した後の廟堂は、史上初の女院号を与えられた一条・母の「御支持のままに動いていた」(『日本の名著 9』中央公論社 刊 昭和46年)と云う。『抄』は兼家の次子である道兼について、「花山法皇の事件も」「父兼家のためにたいへん時宜を得たことであった」と強弁し、また、兼家の長子である道隆の息として故・宮沢喜一氏と酷似し語学力に秀でた伊周を、世才では劣っていたが学識は非常に優れていたとも已む無く記している。有道惟広が私淑した関白・道隆の努力により、惟広の息として徳川譜代である永井氏を派した平公雅の女を母とし菅原道真の曽孫を室とする有道惟能が家令を務めた伊周は、時平・道真―兼通伊周―道長と云う史上の系譜にて内覧の宣下を受けたものの、関白職は道隆の次弟となる道兼が継いでいる。しかし、995年遂に関白職を獲得した道兼は在職10日許りで死没しており、死因は同年に流行した疱瘡の為であったとされるが、好悪酒に溺れたか、道兼に先んじて斃れた公卿として『抄』巻第四が死亡順に列挙する者らは、大納言・朝光(3月20日没)、関白・道隆(4月10日没)、大納言・済時(4月23日没)、関白・道兼(5月5日没)となっている。朝光(あさてる)は兼家と醜悪な家督争いを演じた兼通の息であり、済時は承平・天慶の乱を克服した忠平の孫として勧修寺流祖の孫を母としているが、因みに後三条が即位する前年に越中・射水郡下の在地領主の息として三善氏へ入門し、後に三善氏へ入嗣する為康の成した『懐中歴』『掌中歴』を素に史家が鎌倉時代に編纂されたとする『二中歴』は、平良文の母方祖父として挙げる藤原師世を済時より12世として南北朝期に没する矛盾を呈し、鎌倉版『歴』が示すもう一人の平良文・母方祖父は藤原南家祖・四子の流れを汲む白河院の近臣であった季綱より6世として、やはり矛盾を露わに14世紀初頭に没した藤原範世としている。『抄』は道長の時代、道隆が「朝光・済時の二人の左右大将と明け暮れ酒盛りよりほかにすることもなく過ごし」「僧が極楽浄土のすばらしさを説くのを聞いて、『極楽がいくら結構なところでもまさか朝光や済時がいるわけではあるまい。この酒盛りがなかったら淋しくてたまらなくなるだろう』といわれた」と叙べ、これらの「人々は、みなその時代にとって好ましくない人であった」と酷評し、「道隆の話のようなことが、人の話やうまく作ったそらごとでないことは折々につけていくらもない」と担保している。


 道隆の父の時代へ遡って、『抄』巻第三は北家の嫡宗となった師輔の長子が病臥した折、師輔の次子・兼通と三子・兼家とは天皇の前で家督継承をあからさまに口上して諍う醜態を晒し、済時の「日記には、二人とも罵詈雑言に及んだなどと書いてある」とする。因って、関白となった兼通の危篤を聞いた兼家が参内するや、家人らに抱えられながら内裏へ急行した兼通は除目を強行し、兼家より取り上げた職の後任を募った処、挙手した者が済時であったとし、「書記の役は誰であったのだろうか」と陰伏的に何れかの官僚へ非難を加えている。兼通・兼家兄弟の長兄が生した女が花山の母であり、蔵人頭を務めた花山・母の弟となる義懐は甥となる帝の治世下に初めて従三位・中納言へ昇り、台閣の末席にて朝政を「義懐がおさえてとり行っているうちに、わずか中一年して、あの思いもかけない」花山の出家に因る退位を見ている。花山を襲った一条の治世下、兼家の次子であった道兼の病没に因る関白職の後継人事は「伊周がもと内覧の宣旨をお受けになった人であったから有力であったが、」一条・母が息である帝に迫り、『抄』が四納言と賞揚する一として兼家の妹により安和の変にて失脚した醍醐・息との間に生した蔵人頭を任ずる息へ道長を内覧とする宣旨を下命しており、一条・母は「この結果を聞こうと待ち構えていた」道長「に対して、まず御袖で涙をぬぐって、目は泣きながら口では笑って『もうとっくに内覧の命令が出ましたぞ』と仰せにな」ったと云う。為に、翌年には伊周とその弟・隆家は左遷されているが、その2ヶ月前に伊周の家令であった有道惟能は解官されており、史上初の入寇を撃退して威名を後世に伝えた伊周の弟の方は帰京が許された後も「大宰権帥を望んで九州に下」り「いいあらわせないほどの財産を作って」、「ある時、」道長「の邸へ参上なさって面会されたが、特に話すこともないので自分の姓名を書いた札をふところからとり出して退出」し、「たいへん賢い心の持主であった」との巷伝を『抄』は加えている。因みに、西海に没した安徳の後継として後白河が選定した後鳥羽の母方祖父は隆家より6世となる信隆であり、頼朝の助命を嘆願した池禅尼もまた隆家より6世となり、平治の乱にて源義朝と組んだ信頼は隆家より7世となって勧修寺流として鳥羽院の近臣であった葉室家祖の孫を室としている。伊周・隆家兄弟が左遷された因とは、『抄』に拠ると、花山の岳父となる兼家・末弟の次女に出家後の花山が通う中、伊周が通っていた三女にも出家後の花山が手を出したとの噂に伊周が激昂し、「若くてひどく乱暴な人であった」隆家が侠気に駆られて花山へ狼藉をはたらいた為と云う。しかし、伊周・隆家の父は、北家嫡流となった道長に対して兼通の息と兼通の強行人事により昇任を得た者との交誼を果たした反主流派に陥しめられた訳で、伊周・隆家の父が奈良朝末期に皇統を天智の血脈に復する前の天武・長子の後裔である女との間に生した一条・中宮の息を立太子する帝の願望に対し、道長の女が生した息を推した者が一条の諮問に与った四納言の一である行成であったことは重要な点と考えられる。因みに、伊周・隆家の妹である一条・中宮に仕えて中原氏とともに少納言局へ任じ天武の後裔である清原氏を出自とした清少納言に対し、一条を襲う2帝を生した道長の女に仕えて勧修寺流祖の兄が派した後裔となる紫式部の成した物語の主人公は常陸丈部が有道姓を与えられた年に即位した仁明の息として、醍醐朝下にて右大臣を任じた源光を素に仮託したものと考えられる。さらに因み、著者は宇多田ヒカルを愛しており、宇多田ヒカルの御母堂はまた圭子(1970年 第12回日本レコード大賞受賞曲:『圭子の夢は夜ひらく』)であった。行成の父は上に言及した花山・母の兄として台閣の末席にて権柄を揮わんとした義懐の弟であるが、何よりも行成は太政官弁官局を差配する職責を後裔が世襲し、算道家として初めて従五位下に昇った小槻奉親と親昵な間柄に在った。藤原道隆・伊周父子に近侍した有道氏を、太政官少納言局の差配を世襲した中原氏と同源とする一品古書が在る。


 一条に先んずる冷泉・花山について『抄』巻第四は「両上皇はあいにく御命だけは長々としておいでになった」と辛評する一方、「一条天皇が在位二十五年ののち、三十二歳でお亡くなりになった時、」「三条天皇は二十五年間東宮のままでおられ、」「ようやく三十六歳で待ちに待たれた皇位におつきになった」が「在位わずかに五年の短さで」退位した経緯につき「なかなか納得できないことがある」点に応えた巷説として、北家嫡宗・師輔の女が生した冷泉・円融と兄弟となる親王の母方祖父は南家祖・四子より5世であったが、孫の即位を果たせなかった南家祖・四子5世が怨霊となって、退位後40年余を生きた冷泉が安和の変の5ヶ月後に退位するまで在位3年と云う短命に陥らしめ、兼家の女でなく兼家にとって長兄の女が生した花山が「あのあさましいといってもいいきれない」出家に因る異常な退位もまた同様であったと強弁し、円融の息として兼家の女を母とした一条の在位は長く済みながら、同じく兼家の女を母とした三条は冷泉の息であり花山の弟であったが故に南家祖・四子5世「の怨霊が三条天皇を空しくむだにしてしまおうとして、永い間東宮のままにしてお」いたとの牽強付会を成している。『抄』による同工異曲な作として、上に言及した道隆の酒盛り相手であった兼通の息・朝光にとって兄となる者の女は一条の許へ入内したが皇子を生さず、朝光の兄が他の女を娶わせた三条の息が三条の帝位を襲った道長・長孫のとき立太子されながら、道長の次孫は道長の女が「お生みになった御方であったから」道長の長孫「のつぎはとやかくいうこともなく、すぐに」道長の次孫「が位におつきになったのであ」って、朝光の兄もまた「『悪霊の大臣』といわれ、手ごわい御物怪」となり、道長の周辺に凶事を為したと云う。『抄』巻第三は右大臣であった兼家が家督を争った次兄や新帝の祖父となる長兄の死没後に兼家の長兄・孫が即位する折、兼家は関白を任じた従兄に替わって愈々摂政へ補される期待を抱いたが案に相違したことで出仕を止め、節会の内弁を掌るべき次席の左大臣と大納言の一人は服喪中であった為、新帝の岳父であり伊周が通う三女を生した大納言とやはり大納言であった朝光は故障を申し立て、結局、済時が節会の内弁を果たし、「この済時は」兼家「に対してはまったく遠慮をしない人であった」と評している。藤原朝光は24歳にしてその兄弟らの中で逸早く参議へ補され公卿に列し、翌年には5人を飛び越え権中納言に、27歳にして権大納言へと昇進を重ね、関白であった父・兼通の後押しがものを云わせているが、史家の評伝として、有道惟広が仕えた道隆の執政下にて済時とともに酒を通じた親睦を深めlibertarianな気風の宮廷を現出し、社交家で鳴らした朝光は何人となく女流歌人と恋愛を重ね、矢の筈を水晶で製すると云った華美を顕しながら、親の世代となるほど年の離れた藤原時平の孫を継室としている。


 時代を下って、藤原道兼の流れを汲むと唱え、史家の多くは中原氏を出自とすると考える宇都宮氏二代の女として、京都に出生したと推測されている女地頭として史上有名な寒河尼は頼朝の乳母を務めた女であるが、小山氏祖の継室となって生した鍾愛の末子へ頼朝より加冠を受け、寒河尼の息は仙台藩主が始祖の諱と唱える朝宗を転じた宗朝より朝光へと転諱を図っている。
© Ryohichi Horigome 2011-2030 All Rights Reserved.


第91話 中原氏のこと

2012-10-11 | 日本史

 承平・天慶の乱を克服した藤原北家の嫡宗・忠平の3息にて、右大臣を極みに死没した忠平の二子・師輔について『愚管抄』巻第三は兄の寿命に劣ると予覚した師輔の乞いに応じて、天台宗の長たる元三大師こと良源は師輔の息より藤原北家の嫡流が派することを祈願したと記しているが、師輔にとって孫・曽孫となる父子二代に仕えた有道惟広・惟能父子の後裔が武士団として発展する基地となった武蔵・児玉郡阿久原牧を近くして元三大師を祀った大光普照寺が建つ。承平・天慶の乱の終熄する前に藤原忠平は私記に関東僻遠の地に所在した阿久原牧の監督官として藤原山蔭の孫に該る惟条の在職を記しているが、承平・天慶の乱を経験した帝を襲った村上の退位後、師輔の女が生した冷泉、円融が即位を果たしている。冷泉が即位した年に左大臣へ昇った醍醐の息が冷泉の退位する五ヶ月前に平将門を朝廷へ訴えた源経基の息による密告から左遷され、将門を討滅した藤原秀郷の息もまた連累を問われ配流されている。左大臣の左遷に因る右大臣の昇格人事から、新たに右大臣へ就いた者こそ前編で述べた藤原衡であり、在衡は時に78歳であった。粟田左大臣と号された在衡の養父は藤原山蔭の息として筑前介・孝なる者の女を母とした頼であったが、しかし、在衡の実父は山蔭の末子に位置付けられ母を不明とする如無なる僧籍に在った者であった。史家は藤原在衡が醍醐・息たる左大臣の左遷される変の直前に在衡の構えた京洛郊外の粟田山荘にて文化人との会合を催していることを以て左大臣のクーデター計画には左袒していなかったとの評を為しているが、それ自体は当然であり、変に因り在衡の右大臣昇格が確実視されたことを喜悦した家人を在衡が追却したとの伝と併せ勘考すると、寧ろ藤原在衡は左大臣を陥しめた陰謀に加担していたことを推測させる。在衡は醍醐朝下にて藤原北家の大立者である忠平が左大臣となった年に従五位下へ昇叙され、朱雀朝下にて藤原純友が討滅された年に参議となった時は50歳であった。村上が即位した翌年の菅丞相を鎮魂する北野天神が建立された年、在衡は遂に従三位・中納言の公卿へ昇っているが、村上源氏を出自とする卿が鎌倉初期に編んだ説話にて賞讃される藤原在衡は鞍馬寺にて天童の予言を被ったとの伝を遺している。因みに、生母の出自を前編にて言及したように藤原北家の高祖・冬嗣の兄として日野家祖の流れを汲む綱の女を母に源義家を父とする義忠は、但馬―丹波・氷上郡―摂津・難波―河内・安宿部(あすかべ)郡―大和・葛城郡を結ぶ"たけのうち"街道上に本拠を構えた頼信―頼義―義家―義忠と最期の河内守を任じているが、源義忠の息・経国は平正盛の女を母として摂籙・師実を父に後白河に仕えた経宗を息とする経実の女を正室に、『武蔵七党系図』児玉党条にて有道惟能の孫となる経行の女を側室として、児玉経行が祖父の代より相伝された武蔵・児玉郡阿久原牧と丘陵を挿んで隣接する地に荘園を営んでおり、源義忠と同母弟となる為義の息・義賢が児玉経行の孫・行時が本拠とした上野・甘楽郡片山郷に間近い多野郡多胡郷へ館を構えるや、児玉経行の女を側室とした源経国は京洛郊外の鞍馬へ隠棲している。論を戻して、藤原在衡が往時の官界にてその出自からは異例の官歴を遂げている点で、史家の意見は一致すると思われる。




 藤原師輔の外孫として冷泉は即位してより醍醐・息たる左大臣の左遷を見た変より五ヵ月後に退位するまで僅か2年ほどの時を過ごしたが、その寿命は退位後に40年を保っている。やはり師輔の外孫となる円融が冷泉を襲うと流石に閣僚人事は師輔の親族にて長幼の序を見せているが、師輔の息らにて『愚管抄』巻第三に叙べられるような醜悪な家督争いを演じた次子・三子の外、中世に武家との関わりをもつ三条家や西園寺家を派した閑院流祖として醍醐・皇女に産ませた四子を付言して、何よりも師輔・長子の女が円融を襲う花山を生している。為に師輔・三子たる兼家は危機感を募らせた筈であり、有道惟広が仕えた兼家・長子を筆頭として宇都宮氏が遠祖と唱える次子、そして兼家・三子となる道長らの兄弟が組んで、兼家・次子による帝を籠絡しての在位僅か3年と云う異常な帝の退位を見ている。兼家・次子として藤原道兼もまた、寿命の年に左大臣を任じた藤原在衡と酷似し、粟田殿と号され左大臣を任じた翌年に他界しているが、道兼を太祖と主張する宇都宮氏の出自を実に中原氏と指摘する史家は少なくない。宇都宮氏は鎌倉期に北条氏と姻戚関係を重ね、伊勢平氏の源流とされる平国香が拠点とした常陸・真壁郡と隣接する下野・芳賀郡下に在地した清原氏を翼下に収め、さらには小山氏祖の外戚となってその下野・都賀郡への入部を促し、平安期には坂東平氏が発展した八溝山地西方域たる常陸・結城郡、筑波郡へと展開する八田氏=小田氏や結城氏を派しているが、その出自として説かれる中原氏とは『愚管抄』巻第三に記された通り醍醐の下命により菅丞相・左遷に係る記録を滅却した太政官(今の内閣)・少納言局に属する職員(外記;中務省が内記)を統括する任を天武の息として舎人の後裔である清原氏とともに務め、結局、朝家における明法家・明経家であった中原氏のみが少納言局・統括の職責を江戸期に至るまで世襲しており、朝家にて局務家と呼ばれた謂となっている。想えば、やはり太政官・弁官局の統括を世襲した算道家の小槻氏は朝家にて官務家と呼ばれ、後白河による源義経への頼朝・追討命令に関わったとして頼朝より罷免を要求された小槻隆職の流れを汲む後裔が鎌倉幕府の滅亡後に称えた壬生姓と等しくして、下野・都賀郡下に壬生姓を称えた武家が室町期より戦国期に見られた。しかし、中原氏が朝家より賜姓されたのは、花山の母方祖父である師輔・長子が死没する前年に太政大臣へ昇った年であり、中原姓を与えられた十市象は大和国家にて十市郡を本貫とした族を出自とすると唱えた。ところで、仁明―清和―陽成と続く流れから仁明―宇多―醍醐―村上へとシフトした皇統における分岐点を成す仁明が即位した年に、朝家より有道姓を与えられた常陸丈部の系譜を、大和国家にて幾度か皇居が置かれ、出雲族を祭神とする日本最古の社が建ち、纏向遺跡が出土した磯城郡を領掌した者の弟より派したとする古書が存する。その点、中原氏が遠祖と唱える大和・十市郡を領掌した者のさらなる祖を求めるならば、中原氏に係る古書もまた有道氏が遠祖と唱える者の兄として一致する作とはなっている。遥か後世における不実な創作と等閑に付する類と云えようが、しかし、有道氏と中原氏を同根とする点には大和国家より遥か後世における史実を理解するにはかなりな整合性を与える点で都合が宜しい。



 中原姓を与えられた十市有象の曽孫として他編でしばしば論じた尾張氏より入嗣した者が親とされているが、藤原山蔭の源流を成す魚名・次子の兄は曽孫の諱を貞、道、長とする者らを以てそれらの後裔を絶って何かを示唆する符牒の感を得、中原貞親の曽孫となる広季は藤原道長より派した北家庶流たる能の室を光能の実子となる後の大江広元もろとも自らに収めている。藤原光能は『愚管抄』巻第五に二度顕れ、一は魚名・三子より派した鳥羽院の近臣たる四条家祖の息として後白河の寵臣であった兄とともに鹿谷の密議に加わった師を平清盛が処断したことを後白河へ通知するに当り応対した人物としてであり、他は川辺大臣と号された魚名と関連するか摂津・川辺郡多田荘を拠点とした源頼光流の郎党として西成郡に蟠踞した渡辺党を出自として伊豆へ配流された文覚を通じて頼朝へ蹶起を促した人物であったとする伝を説く処である。藤原師光は藤原南家祖・三子の流れを汲み平将門が蹶起した時に常陸介であった惟幾を父として、平高望の女を母とし、後裔を北条得宗・被官である工藤氏を派する為憲以往、久々に憲の偏諱を帯した南家祖・四子の流れを汲む信西こと通憲の従者として、「信西の最期の時まで従っていた」(『日本の名著9』中央公論社刊 昭和46年)人物であった。藤原光能が中原広季の猶子となる中原親能を生した女とは、藤原在衡の息が清原高峯の女より生した息として、北家の大立者たる平とその息として後世に嫡流となった師との偏諱を併せもったかの如き忠輔の流れを汲むと唱え、源頼家による親裁停止後の幕府宿老十三将による合議制に加わった足立遠元が嫁した女であろうと思われる。因みに、藤原在衡の実母は桓武が藤原北家の高祖・冬嗣や日野家祖を生した女に産ませた良安世の後裔と思われる高見の女であり、養母は前編で述べた向氏の女であった。論を逸らすが、後白河の寵臣であった四条家祖の息にとって息となる者は源義経の同母兄となる阿野全成が北条時政の女との間に生した女の婿として阿野家祖となるが、阿野家祖・室の兄となる者が北条時元(『尊卑分脈』では隆元)であり、阿野廉子を寵妃とした後醍醐の檄に応じて蹶起した堀籠有元の祖とされる。鎌倉幕府の創業より百年を経て成ったと云われる『吾妻鏡』にて、比企能員が謀殺される段に大江広元が北条時政を畏怖している叙述を看るが、実に大江広元こそ北条時政を伊豆へ追却した張本であったかとも憶測され、『鏡』が阿野全成・室となった女と等しい名をのみ記す北条泰時の母もまた実に阿野全成の室であったと思われ、何故ならば、北条義の弟として足立遠元の女を母とする房の偏諱の位置は政と等しく、時房こそ北条氏の家督を継承する筈であったと思料され、係る義時の焦燥を利したと憶測される大江広元こそ義時と同じく藤原南家・為憲流を母とする政子とともに承久の乱を克服したものと憶測される。しかし、藤原南家祖・四子の流れを汲む頼朝の母方祖父が入嗣し、『古事記』に大和国家時代の由緒を説かれながら尾張・一宮とされなかった熱田神宮の神職たる尾張氏より、中原有象の曽孫として入嗣が有った有象より同じ世数にて、史家の多くが中原氏を出自とすると説く宇都宮氏より、なるほど、小山氏祖の岳父として伊豆時代の頼朝を扶助した寒河尼の父が中原氏へ入嗣していることは示唆深いものが有る。


 北条時政の女として阿波局が阿野全成との間に生した息が諱を時元としている点、北条時房の母方祖父が足立遠元であることから阿波局は時房の母と出自を等しくしたものと思われ、阿波局は一に梶原景時が弾劾される因を成したと云う結城朝光の言を景時が底意を以て源頼家へ讒訴したことを朝光へ通知しており、他に北条時政の許に実朝を置いておくことは時政の継室たる牧氏への警戒から政子へ実朝の引致を説得したとされるなど縦横の"活躍"を『吾妻鏡』にて果たしているが、結城朝光の内室は北条義時の継室と姉妹関係となる伊賀氏であり、朝光自身は寒河尼が武蔵の在庁官人から入婿した小山氏祖との間に生した息として頼朝の逆鱗に狂れた文治元年における義経らの朝廷への任官に名を連ねている。これに因んで、太政官弁官局を差配する小槻隆職は頼朝から罷免を要求されており、足立遠元の女が藤原光能との間に生した大江広元を母ともども太政官少納言局を差配する中原季が引き取っている点、朝幕間併せての派閥抗争の構図を窺わざるを得ない。藤原道流を唱えた宇都宮氏祖の息であり寒河尼の父である宗綱は中原氏の猶子となっており、一説には寒河尼の兄として足立遠元とともに源頼家による親裁停止後の幕府宿老十三人による合議制に加わった小田氏祖となる八田知家は宇都宮氏を出自とした八田局と源義朝との間に生した息とするものが在る。この八田知家もまた結城朝光とともに文治元年における朝廷への任官を遂げているが、他に小野姓を唱えた横山党を出自とする平子有長もまた同様にしながら以往も頼朝の陪臣を続けている。平子有長の父は『武蔵七党系図』横山党条にて横山長とされており、広長の兄である時は姻戚であった和田義盛に与して討たれている。横山時兼・広長兄弟の父として横山党・嫡宗であったのは時であるが、八田知家は横山党に属した綱の息である中条家長を猶子としており、家長は堂々と藤原道兼流を唱え、家長の後裔は1336年に北条時元の後裔である堀籠有元が越前・敦賀の金ヶ崎城にて戦没した後に得川有親が息・親氏とともに入部した挙母郷の所在する高橋荘を織田信長に逐われるまで営んでいる。下野・安蘇郡に所在した佐野荘下に朱雀城(平将門を討滅して朱雀帝より賞された藤原秀郷の本拠である唐沢山を間近くする)を構えた堀籠有元は故・太田亮氏に拠ると河内源氏の流れを汲む隆元の後裔であるとし、北条時元について『尊卑分脈』の示す隆元が堀籠有元の祖とされる者と思われる。平治の乱後に河内源氏の血脈として不思議を感ずる点は、源義朝の息である阿野全成のみが平家・嫡宗5代の実弟を二人も容れた同じ京洛郊外の寺院にて扶養されていることで、因みに平家・嫡宗5代の息は上に言及した文覚の門弟として斉藤道三自身とその父が在籍した寺号と等しく妙覚とされ、江戸末期に成った『系図簒要』が平家5代の次弟について長子を北条得宗被官である長崎氏の祖と指摘し、次子を織田信長・生家の祖としていることは、史実を歪曲させながらも何らかのessenceが後世の武家社会に伝わった価値を認めたくなる。阿野全成は石橋山合戦後に佐々木定綱らとともに相模・高座郡渋谷郷に所在した渋谷氏の営む吉田荘内に庇護されており、鎌倉初期に渋谷氏が入部した陸前・黒川郡下は相模・吉田荘内に看る字名が多く模写され、黒川郡下を貫く吉田川の上流域には今も鎌倉山麓に滾々と清水を湧出させる池泉を配した地頭館址とされる県所有の公園に隣接して堀籠姓を称える家宅が所在する。常陸・真壁郡下の鬼怒川畔にて伊佐荘を営み伊達氏の源流とされる族を出自とした女より北条義時が生した息・有時が入部した伊具郡は西に伊達郡と隣接し、伊具郡と東に隣接する亘理郡へ入部した藤原秀郷の流れを汲む経清の後裔たる奥州藤原氏に庇護された実弟に先んじて、石橋山合戦後に安房へ上陸した頼朝と河内源氏として初めて下総にて会同した阿野全成は武蔵・橘樹郡下の長尾寺を与えられるが、橘樹郡長尾郷を間近くする枡形山に拠点を構えた者が秩父氏を出自とし北条義時の妹を室としたと伝える稲毛重成であり、重成の室とは上の論考から虞らく足立遠元の女が生した者と憶測される。


 稲毛重成は秩父重綱の曽孫とされるが、秩父重綱は児玉経行の息・行重を猶子としており、また重綱の弟は橘樹郡を拠点に前九年の役における武功にて武蔵・豊嶋郡谷盛荘を得て、重綱・弟の孫が相模・高座郡にて吉田荘を営んだとされ、重綱・弟の曽孫は源義仲の郎党であった中原氏を出自とする樋口兼光を斬り、横山時広の女を室として和田義盛と命運を共にしているが、稲毛重成にとって従兄となる畠山重忠もまた滅んでいる。秩父重綱の弟が得た武蔵・豊嶋郡谷盛荘の所在地を現在に求めた東京・渋谷に建つ金王神社に因み、『平治物語』に源義朝の郎党・金王丸が阿野全成・義経らの母へ主の死を伝えたとする叙述を看るが、この金王丸を渋谷昌俊とする史家が在る。『吾妻鏡』にて渋谷昌俊は文治元年に頼朝が義経の処断を下した際、唯一人名乗りを挙げた者とされ、昌俊が下野に所在する親族の処遇を頼朝に託すや同国内に所職を与えられたとするが、九条兼実卿の『玉葉』もまた文治元年にて児玉党30騎による義経への襲撃を記しており、『鏡』は奏功を得なかった昌俊が鞍馬山へ逃れた後に処刑されたことを記している。換言すると、渋谷昌俊は上に述べた藤原在衡や源経国が関係し、襲撃する相手が隠棲したことの有る地へ逃げ込んでいる訳である。因みに、『私本太平記』に顕れる吉見義世の家宰を任じた塩谷宗俊の出自となる児玉党塩谷氏の本貫である児玉郡塩谷郷には金王丸の墓碑と伝わる遺跡を見る。渋谷氏が鎌倉初期に陸前・黒川郡下の所職を得ていることを確認し得るが、同郡下に建つ延喜式内社に遺された棟札は建久2年の号にて児玉重成の署名を見せている。神奈川県茅ヶ崎市内を流れる小出川に遺された稲毛重成による架橋の落成式典に参列した帰途、頼朝は死没する因を成した事故に遭っている。阿野全成の室として阿波局は『吾妻鏡』の説く処を継いで実朝の養育を務めるが、頼朝の死没後、全成は頼家と対立する構図を描いている。阿野全成を捕縛した者は武田信光であったが、甲斐源氏の流れを汲む一条忠頼や安田義定らが粛清されているのに対し、伊豆・田方郡下には北条時政の邸址を間近くして堂宇に武田菱を掲げる信光寺が建っており、全成を処刑した者こそ八田知家であった。実朝の暗殺後、阿野全成の息である時元を北条義時の下命により抹殺した者は、『吾妻鏡』にて比企能員が謀殺されるや政子の下命で頼家・息の御所へ繰り出した士らの名に看える金窪行親であり、事実、北条時元=堀籠隆元の本貫(阿野全成・北条時元父子の営んだ駿河郡・阿野荘は時政・継室の実家が営む大岡牧に近過ぎた)である武蔵・加美郡堀籠郷(帯刀郷;有道氏の後裔が繁栄した上野・多野郡と武蔵・児玉郡に挟まれている)を間近くして金窪郷の字名を看ることができる。
© Ryohichi Horigome 2011-2030 All Rights Reserved.