承平・天慶の乱を克服した藤原北家の嫡宗・忠平の3息にて、右大臣を極みに死没した忠平の二子・師輔について『愚管抄』巻第三は兄の寿命に劣ると予覚した師輔の乞いに応じて、天台宗の長たる元三大師こと良源は師輔の息より藤原北家の嫡流が派することを祈願したと記しているが、師輔にとって孫・曽孫となる父子二代に仕えた有道惟広・惟能父子の後裔が武士団として発展する基地となった武蔵・児玉郡阿久原牧を近くして元三大師を祀った大光普照寺が建つ。承平・天慶の乱の終熄する前に藤原忠平は私記に関東僻遠の地に所在した阿久原牧の監督官として藤原山蔭の孫に該る惟条の在職を記しているが、承平・天慶の乱を経験した帝を襲った村上の退位後、師輔の女が生した冷泉、円融が即位を果たしている。冷泉が即位した年に左大臣へ昇った醍醐の息が冷泉の退位する五ヶ月前に平将門を朝廷へ訴えた源経基の息による密告から左遷され、将門を討滅した藤原秀郷の息もまた連累を問われ配流されている。左大臣の左遷に因る右大臣の昇格人事から、新たに右大臣へ就いた者こそ前編で述べた藤原在衡であり、在衡は時に78歳であった。粟田左大臣と号された在衡の養父は藤原山蔭の息として筑前介・有孝なる者の女を母とした有頼であったが、しかし、在衡の実父は山蔭の末子に位置付けられ母を不明とする如無なる僧籍に在った者であった。史家は藤原在衡が醍醐・息たる左大臣の左遷される変の直前に在衡の構えた京洛郊外の粟田山荘にて文化人との会合を催していることを以て左大臣のクーデター計画には左袒していなかったとの評を為しているが、それ自体は当然であり、変に因り在衡の右大臣昇格が確実視されたことを喜悦した家人を在衡が追却したとの伝と併せ勘考すると、寧ろ藤原在衡は左大臣を陥しめた陰謀に加担していたことを推測させる。在衡は醍醐朝下にて藤原北家の大立者である忠平が左大臣となった年に従五位下へ昇叙され、朱雀朝下にて藤原純友が討滅された年に参議となった時は50歳であった。村上が即位した翌年の菅丞相を鎮魂する北野天神が建立された年、在衡は遂に従三位・中納言の公卿へ昇っているが、村上源氏を出自とする卿が鎌倉初期に編んだ説話にて賞讃される藤原在衡は鞍馬寺にて天童の予言を被ったとの伝を遺している。因みに、生母の出自を前編にて言及したように藤原北家の高祖・冬嗣の兄として日野家祖の流れを汲む有綱の女を母に源義家を父とする義忠は、但馬―丹波・氷上郡―摂津・難波―河内・安宿部(あすかべ)郡―大和・葛城郡を結ぶ"たけのうち"街道上に本拠を構えた頼信―頼義―義家―義忠と最期の河内守を任じているが、源義忠の息・経国は平正盛の女を母として摂籙・師実を父に後白河に仕えた経宗を息とする経実の女を正室に、『武蔵七党系図』児玉党条にて有道惟能の孫となる経行の女を側室として、児玉経行が祖父の代より相伝された武蔵・児玉郡阿久原牧と丘陵を挿んで隣接する地に荘園を営んでおり、源義忠と同母弟となる為義の息・義賢が児玉経行の孫・行時が本拠とした上野・甘楽郡片山郷に間近い多野郡多胡郷へ館を構えるや、児玉経行の女を側室とした源経国は京洛郊外の鞍馬へ隠棲している。論を戻して、藤原在衡が往時の官界にてその出自からは異例の官歴を遂げている点で、史家の意見は一致すると思われる。
藤原師輔の外孫として冷泉は即位してより醍醐・息たる左大臣の左遷を見た変より五ヵ月後に退位するまで僅か2年ほどの時を過ごしたが、その寿命は退位後に40年を保っている。やはり師輔の外孫となる円融が冷泉を襲うと流石に閣僚人事は師輔の親族にて長幼の序を見せているが、師輔の息らにて『愚管抄』巻第三に叙べられるような醜悪な家督争いを演じた次子・三子の外、中世に武家との関わりをもつ三条家や西園寺家を派した閑院流祖として醍醐・皇女に産ませた四子を付言して、何よりも師輔・長子の女が円融を襲う花山を生している。為に師輔・三子たる兼家は危機感を募らせた筈であり、有道惟広が仕えた兼家・長子を筆頭として宇都宮氏が遠祖と唱える次子、そして兼家・三子となる道長らの兄弟が組んで、兼家・次子による帝を籠絡しての在位僅か3年と云う異常な帝の退位を見ている。兼家・次子として藤原道兼もまた、寿命の年に左大臣を任じた藤原在衡と酷似し、粟田殿と号され左大臣を任じた翌年に他界しているが、道兼を太祖と主張する宇都宮氏の出自を実に中原氏と指摘する史家は少なくない。宇都宮氏は鎌倉期に北条氏と姻戚関係を重ね、伊勢平氏の源流とされる平国香が拠点とした常陸・真壁郡と隣接する下野・芳賀郡下に在地した清原氏を翼下に収め、さらには小山氏祖の外戚となってその下野・都賀郡への入部を促し、平安期には坂東平氏が発展した八溝山地西方域たる常陸・結城郡、筑波郡へと展開する八田氏=小田氏や結城氏を派しているが、その出自として説かれる中原氏とは『愚管抄』巻第三に記された通り醍醐の下命により菅丞相・左遷に係る記録を滅却した太政官(今の内閣)・少納言局に属する職員(外記;中務省が内記)を統括する任を天武の息として舎人の後裔である清原氏とともに務め、結局、朝家における明法家・明経家であった中原氏のみが少納言局・統括の職責を江戸期に至るまで世襲しており、朝家にて局務家と呼ばれた謂となっている。想えば、やはり太政官・弁官局の統括を世襲した算道家の小槻氏は朝家にて官務家と呼ばれ、後白河による源義経への頼朝・追討命令に関わったとして頼朝より罷免を要求された小槻隆職の流れを汲む後裔が鎌倉幕府の滅亡後に称えた壬生姓と等しくして、下野・都賀郡下に壬生姓を称えた武家が室町期より戦国期に見られた。しかし、中原氏が朝家より賜姓されたのは、花山の母方祖父である師輔・長子が死没する前年に太政大臣へ昇った年であり、中原姓を与えられた十市有象は大和国家にて十市郡を本貫とした族を出自とすると唱えた。ところで、仁明―清和―陽成と続く流れから仁明―宇多―醍醐―村上へとシフトした皇統における分岐点を成す仁明が即位した年に、朝家より有道姓を与えられた常陸丈部の系譜を、大和国家にて幾度か皇居が置かれ、出雲族を祭神とする日本最古の社が建ち、纏向遺跡が出土した磯城郡を領掌した者の弟より派したとする古書が存する。その点、中原氏が遠祖と唱える大和・十市郡を領掌した者のさらなる祖を求めるならば、中原氏に係る古書もまた有道氏が遠祖と唱える者の兄として一致する作とはなっている。遥か後世における不実な創作と等閑に付する類と云えようが、しかし、有道氏と中原氏を同根とする点には大和国家より遥か後世における史実を理解するにはかなりな整合性を与える点で都合が宜しい。
中原姓を与えられた十市有象の曽孫として他編でしばしば論じた尾張氏より入嗣した者が貞親とされているが、藤原山蔭の源流を成す魚名・次子の兄は曽孫の諱を貞、道、長とする者らを以てそれらの後裔を絶って何かを示唆する符牒の感を得、中原貞親の曽孫となる広季は藤原道長より派した北家庶流たる光能の室を光能の実子となる後の大江広元もろとも自らに収めている。藤原光能は『愚管抄』巻第五に二度顕れ、一は魚名・三子より派した鳥羽院の近臣たる四条家祖の息として後白河の寵臣であった兄とともに鹿谷の密議に加わった師光を平清盛が処断したことを後白河へ通知するに当り応対した人物としてであり、他は川辺大臣と号された魚名と関連するか摂津・川辺郡多田荘を拠点とした源頼光流の郎党として西成郡に蟠踞した渡辺党を出自として伊豆へ配流された文覚を通じて頼朝へ蹶起を促した人物であったとする伝を説く処である。藤原師光は藤原南家祖・三子の流れを汲み平将門が蹶起した時に常陸介であった惟幾を父として、平高望の女を母とし、後裔を北条得宗・被官である工藤氏を派する為憲以往、久々に憲の偏諱を帯した南家祖・四子の流れを汲む信西こと通憲の従者として、「信西の最期の時まで従っていた」(『日本の名著9』中央公論社刊 昭和46年)人物であった。藤原光能が中原広季の猶子となる中原親能を生した女とは、藤原在衡の息が清原高峯の女より生した息として、北家の大立者たる忠平とその息として後世に嫡流となった師輔との偏諱を併せもったかの如き忠輔の流れを汲むと唱え、源頼家による親裁停止後の幕府宿老十三将による合議制に加わった足立遠元が嫁した女であろうと思われる。因みに、藤原在衡の実母は桓武が藤原北家の高祖・冬嗣や日野家祖を生した女に産ませた良峯安世の後裔と思われる高見の女であり、養母は前編で述べた高向氏の女であった。論を逸らすが、後白河の寵臣であった四条家祖の息にとって息となる者は源義経の同母兄となる阿野全成が北条時政の女との間に生した女の婿として阿野家祖となるが、阿野家祖・室の兄となる者が北条時元(『尊卑分脈』では隆元)であり、阿野廉子を寵妃とした後醍醐の檄に応じて蹶起した堀籠有元の祖とされる。鎌倉幕府の創業より百年を経て成ったと云われる『吾妻鏡』にて、比企能員が謀殺される段に大江広元が北条時政を畏怖している叙述を看るが、実に大江広元こそ北条時政を伊豆へ追却した張本であったかとも憶測され、『鏡』が阿野全成・室となった女と等しい名をのみ記す北条泰時の母もまた実に阿野全成の室であったと思われ、何故ならば、北条義時の弟として足立遠元の女を母とする時房の偏諱の位置は時政と等しく、時房こそ北条氏の家督を継承する筈であったと思料され、係る義時の焦燥を利したと憶測される大江広元こそ義時と同じく藤原南家・為憲流を母とする政子とともに承久の乱を克服したものと憶測される。しかし、藤原南家祖・四子の流れを汲む頼朝の母方祖父が入嗣し、『古事記』に大和国家時代の由緒を説かれながら尾張・一宮とされなかった熱田神宮の神職たる尾張氏より、中原有象の曽孫として入嗣が有った有象より同じ世数にて、史家の多くが中原氏を出自とすると説く宇都宮氏より、なるほど、小山氏祖の岳父として伊豆時代の頼朝を扶助した寒河尼の父が中原氏へ入嗣していることは示唆深いものが有る。
北条時政の女として阿波局が阿野全成との間に生した息が諱を時元としている点、北条時房の母方祖父が足立遠元であることから阿波局は時房の母と出自を等しくしたものと思われ、阿波局は一に梶原景時が弾劾される因を成したと云う結城朝光の言を景時が底意を以て源頼家へ讒訴したことを朝光へ通知しており、他に北条時政の許に実朝を置いておくことは時政の継室たる牧氏への警戒から政子へ実朝の引致を説得したとされるなど縦横の"活躍"を『吾妻鏡』にて果たしているが、結城朝光の内室は北条義時の継室と姉妹関係となる伊賀氏であり、朝光自身は寒河尼が武蔵の在庁官人から入婿した小山氏祖との間に生した息として頼朝の逆鱗に狂れた文治元年における義経らの朝廷への任官に名を連ねている。これに因んで、太政官弁官局を差配する小槻隆職は頼朝から罷免を要求されており、足立遠元の女が藤原光能との間に生した大江広元を母ともども太政官少納言局を差配する中原広季が引き取っている点、朝幕間併せての派閥抗争の構図を窺わざるを得ない。藤原道兼流を唱えた宇都宮氏祖の息であり寒河尼の父である宗綱は中原氏の猶子となっており、一説には寒河尼の兄として足立遠元とともに源頼家による親裁停止後の幕府宿老十三人による合議制に加わった小田氏祖となる八田知家は宇都宮氏を出自とした八田局と源義朝との間に生した息とするものが在る。この八田知家もまた結城朝光とともに文治元年における朝廷への任官を遂げているが、他に小野姓を唱えた横山党を出自とする平子有長もまた同様にしながら以往も頼朝の陪臣を続けている。平子有長の父は『武蔵七党系図』横山党条にて横山広長とされており、広長の兄である時兼は姻戚であった和田義盛に与して討たれている。横山時兼・広長兄弟の父として横山党・嫡宗であったのは時広であるが、八田知家は横山党に属した兼綱の息である中条家長を猶子としており、家長は堂々と藤原道兼流を唱え、家長の後裔は1336年に北条時元の後裔である堀籠有元が越前・敦賀の金ヶ崎城にて戦没した後に得川有親が息・親氏とともに入部した挙母郷の所在する高橋荘を織田信長に逐われるまで営んでいる。下野・安蘇郡に所在した佐野荘下に朱雀城(平将門を討滅して朱雀帝より賞された藤原秀郷の本拠である唐沢山を間近くする)を構えた堀籠有元は故・太田亮氏に拠ると河内源氏の流れを汲む隆元の後裔であるとし、北条時元について『尊卑分脈』の示す隆元が堀籠有元の祖とされる者と思われる。平治の乱後に河内源氏の血脈として不思議を感ずる点は、源義朝の息である阿野全成のみが平家・嫡宗5代の実弟を二人も容れた同じ京洛郊外の寺院にて扶養されていることで、因みに平家・嫡宗5代の息は上に言及した文覚の門弟として斉藤道三自身とその父が在籍した寺号と等しく妙覚とされ、江戸末期に成った『系図簒要』が平家5代の次弟について長子を北条得宗被官である長崎氏の祖と指摘し、次子を織田信長・生家の祖としていることは、史実を歪曲させながらも何らかのessenceが後世の武家社会に伝わった価値を認めたくなる。阿野全成は石橋山合戦後に佐々木定綱らとともに相模・高座郡渋谷郷に所在した渋谷氏の営む吉田荘内に庇護されており、鎌倉初期に渋谷氏が入部した陸前・黒川郡下は相模・吉田荘内に看る字名が多く模写され、黒川郡下を貫く吉田川の上流域には今も鎌倉山麓に滾々と清水を湧出させる池泉を配した地頭館址とされる県所有の公園に隣接して堀籠姓を称える家宅が所在する。常陸・真壁郡下の鬼怒川畔にて伊佐荘を営み伊達氏の源流とされる族を出自とした女より北条義時が生した息・有時が入部した伊具郡は西に伊達郡と隣接し、伊具郡と東に隣接する亘理郡へ入部した藤原秀郷の流れを汲む経清の後裔たる奥州藤原氏に庇護された実弟に先んじて、石橋山合戦後に安房へ上陸した頼朝と河内源氏として初めて下総にて会同した阿野全成は武蔵・橘樹郡下の長尾寺を与えられるが、橘樹郡長尾郷を間近くする枡形山に拠点を構えた者が秩父氏を出自とし北条義時の妹を室としたと伝える稲毛重成であり、重成の室とは上の論考から虞らく足立遠元の女が生した者と憶測される。
稲毛重成は秩父重綱の曽孫とされるが、秩父重綱は児玉経行の息・行重を猶子としており、また重綱の弟は橘樹郡を拠点に前九年の役における武功にて武蔵・豊嶋郡谷盛荘を得て、重綱・弟の孫が相模・高座郡にて吉田荘を営んだとされ、重綱・弟の曽孫は源義仲の郎党であった中原氏を出自とする樋口兼光を斬り、横山時広の女を室として和田義盛と命運を共にしているが、稲毛重成にとって従兄となる畠山重忠もまた滅んでいる。秩父重綱の弟が得た武蔵・豊嶋郡谷盛荘の所在地を現在に求めた東京・渋谷に建つ金王神社に因み、『平治物語』に源義朝の郎党・金王丸が阿野全成・義経らの母へ主の死を伝えたとする叙述を看るが、この金王丸を渋谷昌俊とする史家が在る。『吾妻鏡』にて渋谷昌俊は文治元年に頼朝が義経の処断を下した際、唯一人名乗りを挙げた者とされ、昌俊が下野に所在する親族の処遇を頼朝に託すや同国内に所職を与えられたとするが、九条兼実卿の『玉葉』もまた文治元年にて児玉党30騎による義経への襲撃を記しており、『鏡』は奏功を得なかった昌俊が鞍馬山へ逃れた後に処刑されたことを記している。換言すると、渋谷昌俊は上に述べた藤原在衡や源経国が関係し、襲撃する相手が隠棲したことの有る地へ逃げ込んでいる訳である。因みに、『私本太平記』に顕れる吉見義世の家宰を任じた塩谷宗俊の出自となる児玉党塩谷氏の本貫である児玉郡塩谷郷には金王丸の墓碑と伝わる遺跡を見る。渋谷氏が鎌倉初期に陸前・黒川郡下の所職を得ていることを確認し得るが、同郡下に建つ延喜式内社に遺された棟札は建久2年の号にて児玉重成の署名を見せている。神奈川県茅ヶ崎市内を流れる小出川に遺された稲毛重成による架橋の落成式典に参列した帰途、頼朝は死没する因を成した事故に遭っている。阿野全成の室として阿波局は『吾妻鏡』の説く処を継いで実朝の養育を務めるが、頼朝の死没後、全成は頼家と対立する構図を描いている。阿野全成を捕縛した者は武田信光であったが、甲斐源氏の流れを汲む一条忠頼や安田義定らが粛清されているのに対し、伊豆・田方郡下には北条時政の邸址を間近くして堂宇に武田菱を掲げる信光寺が建っており、全成を処刑した者こそ八田知家であった。実朝の暗殺後、阿野全成の息である時元を北条義時の下命により抹殺した者は、『吾妻鏡』にて比企能員が謀殺されるや政子の下命で頼家・息の御所へ繰り出した士らの名に看える金窪行親であり、事実、北条時元=堀籠隆元の本貫(阿野全成・北条時元父子の営んだ駿河郡・阿野荘は時政・継室の実家が営む大岡牧に近過ぎた)である武蔵・加美郡堀籠郷(帯刀郷;有道氏の後裔が繁栄した上野・多野郡と武蔵・児玉郡に挟まれている)を間近くして金窪郷の字名を看ることができる。
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