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かすみ草のしおり

いつでも遊びにきてください。なかなか眠れない夜の私と、会話してみませんか。

#8 コーヒーブームがきた

2022-01-15 17:24:00 | 日記
こんにちは。
土曜日ですね。いかがお過ごしでしょうか。

私は今カフェで時間をつぶしています。
最近お気に入りのチェーン店を見つけました。

最近そこらじゅうでコーヒーを飲み漁っているのですが、結構お店ごとに特色があることがわかってきました。
何を偉そうにと言うお話なんですが。しかもブラックだとお腹を壊すのでカフェラテで。

小さい頃は苦そうなものを避けていたと言うことと、なんか大人の飲み物みたいな意識があって、飲む機会があまりありませんでした。
大人になるに従って、いろんな飲み方、コーヒー豆があることを知り、どうやらカフェラテならおいしく飲めるぞという気づきを得たわけです。

コーヒー豆の味の違いについては、ブルーマウンテンはちょっと酸っぱいこと以外判別ができません。

ライトなコーヒーユーザーとして走り出したわけですが、小さなこだわりがあります。
コーヒーと、牛乳だけ入ってるやつが好き。
雑ですね。
ようは甘みのないやつが好きです。
お砂糖入ってても飲めないことないのですが、ない方が好きでした。
数年同じことを愚痴っているのですが、この組み合わせ、ペットボトルとか自販機だと見つけにくいんですよね。やたら微糖なわけです。でもそれだとかなしいわけです。

「コーヒーに牛乳だけ入ってるやつ、どこに売ってるか知らない!?」と友達に言って回ったりしたわけです。

ちょこちょこ見つかるようになったのですが、行った先で必ず置いてあるわけではありません。せつない。
妥協案として、微糖は買ってしまいます。
結局おいしいのでね。

作業をしている間に、飲んでいたカフェラテがホットからアイスになりつつあります。

話が飛びますが、最近、まぶたの痙攣に悩まされています。
片方だけ、ふとしたときに、ぴくぴく勝手に動きます。
異変があったらすぐネットで調べてしまうので、今回も症例を検索してみました。気になることがあったら病院に行きましょうね…!

ヒットしたところによると、緊急性のある症状ではないようす。よかったです。
考えられる原因として、疲れ、ストレス、画面の見過ぎ、眼精疲労、…。
心当たりしかありませんでした。最近パソコンと睨めっこしがちな作業が多かったのです。
あと、寝る前欠かさずスマホを見ています。よくないとは知りつつも。

そして気になる要因、カフェインの取りすぎ。
心あたりがありすぎて、うなだれました。
確かに最近家でも出先でもコーヒーばっかり飲んでいました。しかも頻繁に。さらに日によってはたっぷり。
…だっておいしかったんだもの。趣味ってそういうものですよねきっと。

それを知ってから、選べる時はデカフェの、カフェインなしのコーヒー紅茶を選ぶようにしているところです。
気のせいかもしれませんが、ぴくぴくも頻度が減ったような気がします。
減っていて欲しいです。

けれど、今飲んでいるのはカフェイン入りです。お店にデカフェがなかったので。
…それなら仕方ないね!!
正直カフェインの有無はあんまり気にしていないので、味が大幅に違わない限りは、デカフェも織り交ぜて飲んでいこうと思います。

カフェインの取りすぎて眠れなくて、スマホを見ている時間が伸びていたから、とかだったらどうしましょう。

#7  戦う視線

2022-01-14 00:07:00 | 日記
こんばんは。
お昼に編集を開始しましたが、そのまま夜になってしまったので「にちは」を消して「ばんは」に直したところです。

最近ずっと立て込んでいます。
幸せなことなんだろうなと思いますが、やっぱり少し大変ですね。

お正月らしい期間ももう終わってしまいました。お正月休みあんまり関係なく動いていたのですが、電車に人が増えてきた気もします。今日の帰りは、久々にぎゅうぎゅうの満員電車でした。

急に話が飛びますが、私、侮られやすい外見をしています。
無害そうな、とかいうと少し棘があるでしょうか。自覚があるのですが、綺麗な言葉で言うなら大人しそうな印象を持ってもらえる見た目です。
特徴を挙げるなら、背がそんなに高くないとか、目が少し垂れ目がちとか。姿勢があんまりピンと伸びてないのも関係あるかもしれません。
まぁ、そこは自分の好きなところでもあるのですが。

困ったことに、侮られやすい。つまりは、横暴な態度を取られやすいです。でもそれって、人間として…動物として?…すごく普通なことというか、合理的なことだと思います。危険の及ばなそうな相手の前で、気を緩めておく。もしかしたらそんな意図ではないのかもしれませんが。

私の態度がよくないのかな?と思ったのですが、仕事で出会った初対面の、一番最初の会話とかでもダメだったことが多いので、もう印象とか雰囲気の影響が大きいかなと思い始めた次第です。

そんなことを繰り返すうちに、学んだことがあります。
自分が悪くない時は、必要以上に傷つかなくていい。
心の中では、攻撃姿勢でいい。
この2つです。
私は基本的に好戦的な人間です。勝負事に燃えるタイプだし、負けたらとっても悔しい。
いろんな場面において、いろんな状況下において、自分が悪くないのに相手がすごく怒ってること、あると思います。
それはお互いの小さな勘違いのせいだったり、考えの違いのせいだったりすると思いますが、客観的に見ると叱られている方が悪くないことも多いと思います。
しかも、そういうタイミングをよく引いてしまう人も多い気がします。
そんなとき、あんまり気にしないでね、って声をかけて回ったりします。
もちろん、双方に非があったりする場合は別です。いわば、
これは理不尽に遭遇した時の考え方です。
あくまで、私個人の。

私は割と心が強めの人間なんじゃないかと思っています。強いというよりは、沸点が高いし、融点が低い。
あんまり低温の怒りで沸騰することもないし、心がつらくて溶けてしまう温度も、低め。
だから「気にしないでおこう」が割と気軽にできる人間です。

でも、そういう人ばっかりじゃないことももちろんわかっているし、それがいけないことだともまったく思っていないし、実際何かをぐっと言われたら、怖いし傷つきます。勢いや声色ってそれだけ強いものだと思っています。私もなんだかんだ、悲しくなってしまいます。矛盾するようですが、心は耳から入った情報を割と素直に受け止めてしまうと思います。自分は悪くないっていくらわかっていても。
だから、少なくとも頭にだけは言い聞かせる感じで、回復に努めます。
心と頭、片方が元気なら、なんとかなる気がするから。

いつの間にか話が脱線してしまいました。
私は、侮られやすい見た目をしています。
つまり、なんとなく理不尽な対応を取られやすい。impolite な感じといった方が私の意図に近いかもしれません。英語は苦手ですが、この単語はよく使います。なんかちょっと、礼に欠けた感じ。

そんな感じだとやっぱり悲しいので、常に心は戦うつもりでいます。もしそんな理不尽に遭遇したら。
原因を考えて、自分に心当たりがある時はしっかり反省する。ない時はもっと考えます。
どうして相手はそんな態度になっているのか。何を一番気にしているのか。何を目的にしているのか。

烈火の如く怒っている理由に、心当たりがなければないほど、相手の気にしている核心が曝け出されている気がします。
誰しもそうかもしれませんが、自分の弱いところや傷を隠すために、あえて直接的な言葉を使ったりする。
攻撃は最大の防御のパターンです。

多分私も、使うことがある手段です。怒鳴ったりはしませんが、触れられたくない話題にあえて自分から触れておいて、追及を避けるやり方です。それに、無意識のうちに選ぶ言葉に、核心に触れる語彙が含まれていることもあります。気にしてなければ、言葉としてなかなか咄嗟に出てこない。すごい怒りの中というのは、その咄嗟の状況だと思います。

もしかしたらこの人はこんなことを気にしているのかもしれない、という仮説がたてられると、意外と感じていた悲しみが消えたりします。
仮説の中に自分が関係なければ、なおさら。
宝くじに当たったようなものだった、ってわかるから。


道を歩いている時もそうです。
私のコースどりが下手なのかもしれませんが、向こうからやってくる相手に、避けてもらえないことが多いです。
「あんたが避ければいいじゃない」という話なのですが、あまりにも私が避けて当然でしょう?みたいな表情で見られてしまうと、ちょっと反抗心も湧いてしまうわけです。「ム」と。

一度、私の与える印象と表情の関係性について、考えて実験したことがありました。
道を歩いているときに、前方を睨む感じの表情を作ってみました。眉間に皺を寄せるのではなく、まっすぐ前をしっかり見つめる感じで。
すると、いつもよりもスムーズに歩けたのです。たまたまかと思ったのですが、何回試してもそんな感じがしました。
もしかしたらちょっとよろしくない表情をしていたので避けられていたのかもしれませんが。

わーいと喜んでいたのも束の間、家に帰って鏡を見て、自分の表情が鋭くなっていることに気がつきました。
歩いている時の癖で、引っ張られてしまっていたんですね。
それ以来、自分がタレ目がちであることを思い出すようにしています。ありのままの私の方が、なんだか好きだから。

ここまで書くことを、ちょっとためらっていました。
被害妄想なんじゃないか、気にしすぎなんじゃないか、って思うからです。
私が受け取ったことがすべてになってしまう、とても主観的な意見だからです。
きっと私にも原因があって、相手にも理由があって、のことなのだと思いますが、心のままに書いてみよう、というこのブログの趣旨に甘えてみました。

ここまで文句ばっかり言ってきましたが、私の見た目、何故か赤ちゃんにとってもウケがよいので、実はプラマイゼロだと思っています。

#6 進捗がゼロの日

2022-01-12 00:14:00 | 日記
こんばんは。
今日はタイトルの通りです。
やらねばならないことの進捗が、大いにゼロでした。

私はこんなふうにどうしようもなくなってしまう時が、ちょこちょこあります。
義務だから、とか、やらなければいけないから、という使命感が、ゼロになってしまう日。枯渇してしまう日。

どうにもしたくな〜い!めんどくさ〜い!
という気持ちが心を埋め尽くす日です。
甘えた考えですが、そういう日はそういう日だと受け入れて、思い切ってのんびりしたりします。しかたないしかたない、と自分を慰めつつ。

父から言われた、「逃げたものにはやがて必ず追いつかれる」という言葉を痛感しながら生きています。
勉強もそう、仕事もそう。
逃げたものにはいつか捕まって、向き合わなければいけないタイミングがきます。
自分が過去にしたことの、ツケを払うタイミングが必ずきます。

その時の自分に、頑張ってもらおう♪という先延ばしをよくしてしまうわけです。
父の意図はおそらくそんなことではなかったのかもしれないですが、都合よく解釈して自分に落とし込みました。
いずれ必ず捕まるなら、今じゃなくてもいいな!と。

とりあえず今日は、戦略的撤退を決め込んだわけです。

以上はすべて、今日思うように成果をあげられなかった自分への慰めと言い訳なのですが…。
少し後の日の自分に、怒られている未来は見えません。
まぁ…仕方なかったよな、となんとか思いとどまって欲しいものです。

今日は「何にもできない日」だったんだな。まぁそんな日があってもいいよな。
…そういう自己暗示なのです。

また明日から、できる範囲で、がんばって暮らしていこうと思います。
ご飯は何を食べようかな。

#5 おそろいの個性

2022-01-11 00:18:00 | 日記
こんばんは。
今日は頻繁に新成人らしき方々とすれ違いました。あらためておめでとうございます。
振袖の方も多くて、すごく素敵でした。

着物を見ると、柄とか色とか、隅々見てしまいます。悪い癖です。知らない方なのに。
赤やら青やら、深い緑やらピンクやら。
カラフルで本当に素敵でした。
私、結構和服が好きなのです。
なんだか気が引き締まります。
普段着として着やすい、洗濯しやすい和服があればいいのになと常日頃思っているくらいです。

そんな中今日、というか最近ずっと考えていたことを、あらためて強く意識しました。
私って、没個性なのでは?
です。
芸能の仕事をしたいと思うまで、まったく意識したことがありませんでした。
個人の個性について。
私見ですが、人間としての一個人なんて、もともと個性の塊です。
その人特有の顔立ち、体つき、表情、声、服装の好み、髪型、動き方…などなど。
上げ出したらきりがないと思っています。
だから違って当然、そんなふうに思ってきました。
ただ問題なのは、この場合の個性って「わかりやすい」個性じゃないことが多い。
一個人として選べる要素が、他の人とおそろいになる可能性があります。
髪型や服装がわかりやすいでしょうか。
その人個人が好きだから、着たいから選んでも、誰かと同じような印象を与えることになれば、それはわかりやすい個性ではあんまりない。
個人の考え方もそうです。
一個人としてたどり着いた結論や思想でも、他の誰かと似ていることが往々にしてある。
私が目指している世界って、そういうおそろいの個性はあんまり個性として認識されないのでは?と思ったわけです。
もしかしたらすべて杞憂で、愚かな勘違いの可能性もあるのですが。
それでも、その人を位置付けるのに、決定的な他の人との違いがあることを「個性」というならば、それはやっぱり歓迎されやすい気がします。
だって、単純に記憶に残る気がしませんか。
みーんなスーツを着ている集団の中で、1人だけ着物を着ていたら。
その集団にどんな人がいたか思い出してくださいと言われたときに、おそらく見た目の情報に頼るはずです。その情報を優先して覚える気がします。
「着物の人が1人いて、残りはスーツだった」みたいな判断を下しかねないわけです。
私は、スーツを着ている側の人間です。おそらく、どんな集団にいても。
これも全部私の勘違いだったら、それはそれでうれしいのですが。

私が持っている個性は、おそろいのものがすごく多いです。
身体的なもの、視覚的なもの、精神的なもの。
選ぶ言葉や感じ方、声質、表情、考え方、振る舞う態度。
一度の接触では、おそらく記憶に残らない。

ひとつ念押しですが、これは私のお悩み吐露会になっています。
今回このことが問題なのは、私が目立ちたい!私のことを覚えて欲しい!って思っているから。
そういったことを別に気にしないのであれば、おそろいの個性がいっぱいであることはなーんにも問題ではないのです。
私も今までそう思っていたから、困っているのかもしれません。
今まで生きてきた通りの私では、戦えない可能性が見えてきたから。

「戦いじゃないよ!」みたいなことを考える自分もいますが、やっぱり戦いではあるのです。
私が欲しいと、なるべく思って欲しいから。
だからこれからも、特筆すべき自分の個性について、考えていかなければいけないわけです。
没個性というと悲しくなってしまいますが、今回の目的にはあっている言葉なんじゃないかと思います。
他人にはこうは思いませんが、自分だと容赦なくこの言葉を使えるわけです。

自分ってなんだろう、どんなところに魅力があるんだろう。
ここ数年なんだかんだずっと考えています。
入試のタイミングだったり、就職のタイミングだったり、オーディションなんかのタイミングだったり。
要は自己PRがすっごく苦手なのです。
みんなとおそろいのものばっかり持っているから、私だけが持っているものが見えない。探し下手なのもあるかもしれません。

何かの拍子に、うっかり見つからないかなと思っています。
表に出やすい、他人にもわかりやすい要素だとよりうれしいのですが。

#4 大人になるということ

2022-01-10 09:29:00 | 日記
こんばんは。
世間的には三連休だったことを今日知りました。意識的には今日だけど、厳密には昨日です。
成人の日なんですね。
新成人の皆様おめでとう。

私が成人を迎えたのはちょっと前のことです。人生長いのであえてちょっと前、と書きましたが、私的には結構前です。

20歳になるって、成人になるって、大人になるってなんだろう。って、考えていました。
もっとも、成人式を迎えたあたりはちょうどいろんな生活の変化に慣れて、楽しめるようになった時期だったので、あんまりそんなようなことは深く考えていなかった気もします。
お酒やタバコやその他もろもろ、いろんなものが自分の判断で解禁されていく。投票権も得る。法律上の扱いが大人になっていくわけです。
あんまり、いろんなものから守られなくなっていく。
守られているうちは、逆に反発して憧れてしまうようなことも、自己判断で許され出す。一長一短だと思いました。20歳の頃の私にとって、「責任」の2文字はあまりに重かったので。まぁ、今も同じように重く感じています。きっと、これからも。

なるべくなら、責任なんて背負いたくないものです。覚悟のゆるいまま、ぬくぬく生きていけるならそうしたい。ある程度の道をお膳立てしてもらって、あったかいところで、安全に快適に生きてゆく。本当に素晴らしい生活だと思います。

その壁を超えて、自分の人生を選んでいくこと。
それが、大人になるってことなんじゃないかと、最近考えたわけです。

未成年の間は、特に義務教育を受けている間は、保護者の見ている世界の色を濃く受け取ります。モノの例えでよくりんごを出しますが、「この赤くて丸っこいのがりんごだよ」というふうに教えてもらって、りんごを覚える時期です。
「へえ、りんごなんだ」とひとつひとつ覚えていく。
教えてくれるのは、近しい大人であったり、先生やその他の大人であったり様々です。
たった20年そこら生きてきて得た浅めの教訓なのですが、義務教育や高校までの間って、ある程度近くにいる人間の性格タイプや暮らしぶりが似通っていたりします。
言い換えるなら、バックボーンや思想があまりに異なる人間とは、そんなに出会わないんじゃないかと思います。
小学校にいる時点で、まず家族構成が似ているわけです。もっと言えば、小学校に通わない選択をとった人とは一気に関わる頻度が落ちるわけです。住む土地を選んだところから、もしかしたら思考や思想も共通点が見つけやすいかもしれない。
家族以外の大勢の人間と関わる最初の場で、いろんな性格のいろんな友達ができたとしても、ある程度その範囲は閉じていると思います。

大学まで進めばいろいろ出会うだろうと、そう思ってもまだ閉じている気がします。今の日本では多くの人が大学に通っていて、ある種当然のように選択肢にあります。
でも、所詮選択肢の一つでしかない気もします。大学に入った時点で、それを選ばなかった人たちの人生は想像することしかできなくなる。体験はできないわけです。実感として。紆余曲折ある人もいますから、千差万別の世の中になりつつありますが。

そんなこんなでいろんなものを見て知って、そこから解放されていく。
青くて三角のりんごを見たときに、これは教わった定義と違うからりんごじゃない、と思う人と、こんなりんごもあるんだ、と思う人にわかれていく。
これもどちらが良い悪いの話ではないと思っています。

大人って、子供のうちの規制への反発心と憧れで変に形づいているような気がしていました。20歳になった自分が、想像の大人とあまりに乖離していたから。
気分的には、中学高校の頃から精神的にあまり変化した自分になった自覚がなかったのです。
きっと多くの方に共感いただけると思います。

「◯◯歳ってもっと大人だと思ってた。」

今きっと、そんなことないって気づくあたりです。
年齢を重ねたら大人になるわけじゃないとわかって、あぁ、これなら自分がなんとかして変わるしかないんだなと気づきました。ちょうど成人した頃だったと思います。
でも別に、無理して頑張って変わる必要もなかったわけです。

結局のところ、自分の生きたい人生を自分の力で見つけていく、歩んでいく。
そんな自分が好きならそれがいいし、そうでないなら、またそれはそれで構わないわけです。
曖昧なことを何度も言いますが、すべてのいろんな責任が、自分に降ってくるわけです。
大変なことだ、とも、素晴らしいことだ、とも思います。
それでも、私は人生を自分のものにしたくて、もがき始めたところです。

新成人のみなさん、本当におめでとう。
自分の人生を、自分で選んでいってね。
みなさん自身を、前よりちょっと好きでいるために。