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かすみ草のしおり

いつでも遊びにきてください。なかなか眠れない夜の私と、会話してみませんか。

#4 大人になるということ

2022-01-10 09:29:00 | 日記
こんばんは。
世間的には三連休だったことを今日知りました。意識的には今日だけど、厳密には昨日です。
成人の日なんですね。
新成人の皆様おめでとう。

私が成人を迎えたのはちょっと前のことです。人生長いのであえてちょっと前、と書きましたが、私的には結構前です。

20歳になるって、成人になるって、大人になるってなんだろう。って、考えていました。
もっとも、成人式を迎えたあたりはちょうどいろんな生活の変化に慣れて、楽しめるようになった時期だったので、あんまりそんなようなことは深く考えていなかった気もします。
お酒やタバコやその他もろもろ、いろんなものが自分の判断で解禁されていく。投票権も得る。法律上の扱いが大人になっていくわけです。
あんまり、いろんなものから守られなくなっていく。
守られているうちは、逆に反発して憧れてしまうようなことも、自己判断で許され出す。一長一短だと思いました。20歳の頃の私にとって、「責任」の2文字はあまりに重かったので。まぁ、今も同じように重く感じています。きっと、これからも。

なるべくなら、責任なんて背負いたくないものです。覚悟のゆるいまま、ぬくぬく生きていけるならそうしたい。ある程度の道をお膳立てしてもらって、あったかいところで、安全に快適に生きてゆく。本当に素晴らしい生活だと思います。

その壁を超えて、自分の人生を選んでいくこと。
それが、大人になるってことなんじゃないかと、最近考えたわけです。

未成年の間は、特に義務教育を受けている間は、保護者の見ている世界の色を濃く受け取ります。モノの例えでよくりんごを出しますが、「この赤くて丸っこいのがりんごだよ」というふうに教えてもらって、りんごを覚える時期です。
「へえ、りんごなんだ」とひとつひとつ覚えていく。
教えてくれるのは、近しい大人であったり、先生やその他の大人であったり様々です。
たった20年そこら生きてきて得た浅めの教訓なのですが、義務教育や高校までの間って、ある程度近くにいる人間の性格タイプや暮らしぶりが似通っていたりします。
言い換えるなら、バックボーンや思想があまりに異なる人間とは、そんなに出会わないんじゃないかと思います。
小学校にいる時点で、まず家族構成が似ているわけです。もっと言えば、小学校に通わない選択をとった人とは一気に関わる頻度が落ちるわけです。住む土地を選んだところから、もしかしたら思考や思想も共通点が見つけやすいかもしれない。
家族以外の大勢の人間と関わる最初の場で、いろんな性格のいろんな友達ができたとしても、ある程度その範囲は閉じていると思います。

大学まで進めばいろいろ出会うだろうと、そう思ってもまだ閉じている気がします。今の日本では多くの人が大学に通っていて、ある種当然のように選択肢にあります。
でも、所詮選択肢の一つでしかない気もします。大学に入った時点で、それを選ばなかった人たちの人生は想像することしかできなくなる。体験はできないわけです。実感として。紆余曲折ある人もいますから、千差万別の世の中になりつつありますが。

そんなこんなでいろんなものを見て知って、そこから解放されていく。
青くて三角のりんごを見たときに、これは教わった定義と違うからりんごじゃない、と思う人と、こんなりんごもあるんだ、と思う人にわかれていく。
これもどちらが良い悪いの話ではないと思っています。

大人って、子供のうちの規制への反発心と憧れで変に形づいているような気がしていました。20歳になった自分が、想像の大人とあまりに乖離していたから。
気分的には、中学高校の頃から精神的にあまり変化した自分になった自覚がなかったのです。
きっと多くの方に共感いただけると思います。

「◯◯歳ってもっと大人だと思ってた。」

今きっと、そんなことないって気づくあたりです。
年齢を重ねたら大人になるわけじゃないとわかって、あぁ、これなら自分がなんとかして変わるしかないんだなと気づきました。ちょうど成人した頃だったと思います。
でも別に、無理して頑張って変わる必要もなかったわけです。

結局のところ、自分の生きたい人生を自分の力で見つけていく、歩んでいく。
そんな自分が好きならそれがいいし、そうでないなら、またそれはそれで構わないわけです。
曖昧なことを何度も言いますが、すべてのいろんな責任が、自分に降ってくるわけです。
大変なことだ、とも、素晴らしいことだ、とも思います。
それでも、私は人生を自分のものにしたくて、もがき始めたところです。

新成人のみなさん、本当におめでとう。
自分の人生を、自分で選んでいってね。
みなさん自身を、前よりちょっと好きでいるために。

#3 作文が得意なこども

2022-01-09 07:16:00 | 日記
おはようございます。
眠れない夜に、がコンセプトのブログですが、アウトプットのリハビリの目的を立てて、書く量の方を選んでみることにしました。
もしかしたら、今からお休みの方もいらっしゃるかもしれません。

誰かに語りかけるスタンスをとっていますが、基本的に私のことしか記述できない気もします。

私は昔から作文が好きな子供でした。
作文が好き、というより、特に困ったことがないので得意だという自負があった、という方が正確かもしれません。
今では恥ずかしい思い出ですが、小学生の頃はいかに早く、いかに多く書くか、を競っていました。しかもひとりで。特にその場ではあまり価値のないことだったのですが。
3、4年生ののころ、400字詰めの原稿用紙に、5枚ほどの作文を書くこともありました。2枚は超えてね、という先生からのお達しに困ったことはありませんでした。
読んでくださっている方はお気づきかと思いますが、おそらく今も昔も文章に脈絡がなかったためです。
次々言葉は降りてくるし、文章を組み立てることも苦手ではないけれど、話がどんどん飛躍して、収集がつかなくなっていく。それを、なんとか帳尻を合わせつつ記述していく。そんなことをしていたのかもしれません。

昔書いた作文は、今こうしていつか見返したいなと思って書いているブログと違って、あまり読み返したくありません。
子供の頃に書いているから、というのもあり、気恥ずかしさが勝ちます。
しかも、大抵の作文って、自分の主義や立場を明らかにして、ないし感想を、心の中をさらけ出すスタンスをとって書くものが多い。
最近秘匿主義な私にとって、明け透けな文章は「わ〜恥ずかしい!」の対象になってしまっています。

なぜ文章の組み立てが得意だと思ったのか、実は謎です。
本の虫だったわけではないですし、言葉が大好きで強いこだわりを持っていたわけでもありません。
逆に、もしかしたらそれがよかったのかも。
思いついた書きたいことに、小さなこだわりだけ持って接して、文章を組み立てる。
こだわってこだわって、こだわり抜いた個性の文とはやっぱり速さが違ったことと思います。
どちらがよりよいかという問題ではないとも思います。

書いていてひとつ思い出したのですが、そういえば私は、国語の教科書に載っている、物語文が大好きでした。
新学期新しい教科書をもらって、すぐに全部の物語文を読み切ってしまうほど。
先に全部内容を読んでしまうので、授業で扱う頃には久々の対面となることも多くありました。
中学生の時も、多分高校生の時もそうしていました。本編が長くて、抜粋で掲載になっていたものは、自分で本編を探して読んだりもしていました。夏目漱石の「夢十夜」を読んで、…たしか第一夜と第六夜が掲載されていたと思います…、あまりに素敵なので青空文庫ですべてを読み、その難解さにがっかりしたのを覚えています。
勝手な話ですね。私の読解力不足のせいです。
また、わかりやすく、高校生にとって面白い話を抜き出している教科書の編纂者の方々のお力に納得したことも覚えています。これもまた失礼な話ですね。

そんなふうにして物語が好きだったから、ある意味心のままに書いてよい読書感想文など、小学校や中学校でよく書く作文が得意だったのかもしれません。
正直、自分の感想をあまり書いてはいけない小論文などは苦手です。書きながら、「いや、これは私の感想だし…」などとうんうんしながら練習したのを覚えています。それでもやっぱり、書くことさえ決まってしまえば文章の組み立てはスピード感があったので、入試の際など本当に役に立ちました。

私の知らぬところで、何かきっかけがあったのでしょうか。

#2 私が自分のこころを守る方法

2022-01-09 01:24:00 | 日記
こんばんは。
記事を読む方がいつ頃の時間にいらっしゃるかわかりませんが、今夜中なのでこんばんはです。そうでない方はこんにちは。

今日も1日が長い日でした。朝から晩まで、好きなことのために時間を使って過ごせて幸せです。

私の夢は役者として生計を立てていくことです。同じ道を志す同士はきっとごまんといて、私はその中で特に特筆するようなことのない人間です。
でも、勝ち上がりたい。
芸事の世界で勝った負けたは判断できないと思いますが、それでも勝ち負けがある程度存在しているとも思っています。
勝ち負けというとやはり語弊があるかもしれません。
選ばれた、選ばれなかった、というとしっくりくる気がします。
選ばれた側と、選ばれなかった側。
要員はさまざまあれど、結果はふた通り。
私はできることなら、選ばれる側になりたい。
言葉を選ばずにいうなら、また自分の実力を俯瞰せずに生意気なことを言うのなら、「選ばれる」という結果が喉から手が出るほど欲しいのです。

そういった妬ましい気持ちをきちんと飲み込んだ先に、芸事としてのまっさらな心があるのだろうなとも思います。
心身を捧げて、生きていけるだけの覚悟があるのだろうなと思ったりします。

ひよっこが何を偉そうに、と流していただいて構いません。

最近、というほど新しくもないですが、人間の行動をよく観察するようになりました。行動と、言動を。
私が提案した話題に対して、想定していた流れとずれていくことが多々あったためです。
うちの畑においしいりんごがなったんです、と言った私に、うちの畑のりんごはもっと美味しいと思うし、なんなら数年前からずっと美味しいりんごなのだ、と返答があるようなかんじ。
私もちょっと自慢のつもりだったけれど、もっとわかりやすく自慢をされてしまうかんじ。
あくまで例ですが、こんなことが増えたように感じます。
会話の中に競争が生まれると、その人と話す時間に緊張感が生まれてしまう気がします。
そんな返答を受け取った時に、どうしてその返答をしたのか、どうしてその言葉遣いを選んだのか、表情から見えそうな感情は?そう言った人の服装は?髪型は?どういった印象を受ける人から出た発言か?
ややこしく考えてしまうようになりました。

自分の芸の肥やしにしてしまおうと、そんなひどいことを考え始めてしまいます。
ただ、おいしいりんごができてよかったね、と言ってもらえなかった腹いせなのかもしれませんが。

そういった意味でも、この世で一番難しいのは人間との関わりだと思います。
気軽に「一番」とか使うとまた不安になってしまいます。
まぁ数年後の自分からしたらもっと違うことが難しく感じているんだと思います。
「違うよ、この世で一番難しいのは株だよ」とか。数字を読むのが苦手なので、もしそうなっていたらたまげますが。

他人を観察することで、他人に与えた自分の印象を考えてしまいます。
私のことを好意的に見てくれているのか、敵意が含まれているのか、侮られているのか、尊重されているのか。
昨今対面の時はマスクをしていますから、目から眉から得る情報に頼ります。

口元が見えない分、難易度は上がりますが、意外と、私を含め多くの方は目の与える印象と、眉から読み取る感情を頼りにコミュニケーションしているのではないかと思ったことがあります。
つまり、この2つが感情表現の定型に当てはまれば、当人の心の奥底の真意は関係ないわけです。欺き放題。ふふ。

接客の仕事をしていて、そんなふうに心を守る術を学んでしまいました。嘘も方便です。正しいことのぶつかり合いになってしまった時や、相手があまりに怒っている場合などに、少しだけ活用すると有効でした。必要以上に自分を責めずに済みます。意外と大切なことでした。

自分の心を守る方法について、書こうかなと考えたことがありました。私は自分の機嫌を取るのが上手いと自負しているので、あまり参考にならないかもしれないと思いながら。

結局世の中は自分か、それ以外かに絞れると思っています。
大切にするのはまず自分だけでよいなとも。
誤解しないでいただきたいのが、それ以外に分類した他人も大切にしたい気持ちは尊重したいこと。
自分がその他人を大切にしたい、と思うのであれば、存分に大切にしていただきたい、ということ。大元の理由に自分があるのなら、それは自分を大切にすることと同じだと考えているからです。根底に自分がないまま、それ以外を大切にすることはしなくてよいかな、というのが持論です。
自分の心を穏やかにするために、自分を好きでいるために行動することなら、自由なのではと思います。他の人が持つ同じ権利を侵害しない限りは、という注釈付きですが。

長くなるから別の日に書こうと思っていたのに、おおよそ書いてしまいました。
私はこんな考え方をしているので、自分の機嫌を取るのが上手いのかもしれません。もしくは、えらく単純で安上がりなのかもしれません。でも、私はそんな自分がなんだかんだ気に入っています。
すべてのことが、いろんなご縁につながって活きていきますように。




#1 ほしかったもの

2022-01-08 02:03:00 | 日記
はじめまして。かすみです。

突然ですが、私はおそらく生きていくのに文章のアウトプットが必要な人間です。
考えたことや感じたことを、言葉にして発散したい性格です。
そして、これから先の未来で、少し過去の自分がどんなことを考えて、どんな言葉を選んで発信したのか確かめるのが好きです。
だから、ブログを開設することにしました。

少し前からエッセイを書きたいなと思って、いろんな懸賞の応募ページを見ましたが、なかなか投稿に踏み切れませんでした。
最近気がついたことですが、「文章を書く」って、私の中では少し体力のいる作業でした。
心も体も、健康でないと思う通りにちゃんと書けない。
不健康な自覚はないのですが、忙しくて摩耗している自覚はありました。
リハビリも兼ねて、好きなように、丁寧に言葉を選ばずに、綴ってみようと思っています。
…時間がある時に。

そう、時間。
私は近頃、ずっと焦っているのです。
どうにもできない時間だとか年齢とかの問題にばっかり絡みとられて、少し踏み出しにくくなっている。
本当は着実に歩めば近道なのに、無理して走って行きたくて仕方ない。
そんな感じです。
それは私が喉から手が出るほど欲しいものを持っている人たちが、意外と同い年だったりするから。
歩んできた土壌が違うから、それはちっとも妬むべきことじゃないとわかりつつも、それでも焦ってしまいます。
そうして抱えた気持ちを少しでも浄化するためにも、このブログが欲しくなりました。

誰かに向けて発信する言葉を、大人になってからずいぶん選ぶようになりました。
それってある意味とってもいいことだと思っているのですが、やっぱりちょっと窮屈です。
「これいいね」と言った誰かに対して、「そうだよね」と言ってしまうような感じ。私はいいとあんまり思ってなくても。
こう書くと意思が弱い感じがしてしまいますね。
今も同じように答えると言う人が「私は意志が弱いわけじゃない!失礼だ!」って感じていないか、みたいなことが気になったりしました。
誰かを否定しない、傷ができないような言葉選びをしようとする大人になりつつあります。本当なすごく無理難題だと分かっていても、ちょっとでも棘は抜いておきたい。
こうして書くとなんだかすごくいい人のように見えますが、私の場合は自分のためです。
いろんな角度から見て、一番棘のない人間でありたい。つまりはなるべく私のことを嫌いな人間を作りたくないのです。八方美人ですね。
そのために、ちょっとだけ自分を脚色して生きています。

そんなことをしているとやっぱり綻びが出てきました。叩いて埃が出る心を、ちょっとばかし解放するところ。とりあえず気にせず、あまり考えなしに、言葉を並べられるところ。
犬派しかいない会合の中で、「猫が好きです」と高らかに宣言できるところが欲しいのです。
同じことをなんだも重ねて書きますが、好き勝手にやってみようと思います。

私の心が丸ごと見えてしまうかもしれない文章の中に、他のどなたかの心に触れられる瞬間があったなら嬉しいです。