読書日記と読書ノート (2011年1月~2013年6月)   吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。その日に読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

閑話12   価値相対主義vs多元主義     (2014年2月21日 、 記)

2014-02-22 07:14:24 | 閑話
ラートブルフの『法哲学』を少し読んだ。高名な「相対主義」の立場を簡潔に説明している。相対主義は「どっちもどっち」ではない。また、真なるものの存在を疑う懐疑主義(氏はこれをピラト的な懐疑主義と呼ぶ)でもない。この立場は真なるものはないとするニヒリズムに通じる。ラートブルフは言う「(われわれの相対主義は)窮極の立場の科学的基礎づけの断念を意味し、立場を取ること自体の断念を意味しない。」一人の人間が選択する窮極の価値は彼にとっては絶対的である。が、その価値が他の誰にとっても真、善、正義であることを客観的に証明することはできない。同じように、他の人が抱く価値も、その人にとっては絶対であり、自分のそれと違っているからといって、他の人は間違っていると断じることはできない。何が絶対の真理であるかは不可知であり、常に誤謬の可能性がある。この意味の懐疑主義をラートブルフはナァタンの不可知論と呼び、自身の立場とする。真理は永遠に追求されるべきものであって、相対主義はそのような追求を断念するものではない。ラートブルフが自身のものとする後者の意味の相対主義=不可知論は、バーリンの多元主義とどう違うのだろう。両者とも自己にとって、あるいは他者にとって、譲れない窮極の価値の存在を認める。そして、どちらの価値が真であるかを決める基準がない以上、どちらも真の可能性あるものとして共存することを認める。ここから寛容の原理が導かれる。このように理解できるなら、ラートブルフの相対主義とバーリンの多元主義は同じ内容だといっていいのではないか。このような理解は間違っているのだろうか。

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