読書日記と読書ノート (2011年1月~2013年6月)   吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。その日に読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

154、橋爪、大澤『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)

2014-02-28 06:46:58 | 読書記録
(1)日記から
・2012年4月11日(水)
「ふしぎなキリスト教』も読了。キリスト教の教祖はパウロだという。神の子のテーゼはパウロが唱えたもの。贖罪も復活も。福音書の前にパウロの手紙が書かれていたのだ!
 一神教の絶対神は己の姿を現さない。神の意志、怒りも恵もすべて人間の側の受け止め方次第。この世の不条理もまた、神から人間への選択肢の提示である。神の選びというけれど、罪のあがないの教理を受け入れるかどうかは人間の選択に委ねている。選ぶ主体は個人。対談者たちの問題関心とは別に一番心に残ったのは以上の二つ。人間の選択に、個人の”かけ”に委ねる。神の子が人間の姿になって特定の時代と場所に出現したという怪奇談を己のものとするかどうか、それはパスカルのいうのとは違った意味だろうが、個人の主体的な選びにかかっている。

(2)ノートから
①律法は違反した者を人が裁く。愛は人が人を裁いてはならない、ということ。裁くのは神であって、神に裁かれないように、自分が他の人を裁いてはならない。
②救うのは神だけど、人間に選ばせる。どちらに賭けるかの判断を求める。

(了)

153、『丸山眞男講義録 第二冊 1949』(東大出版会)

2014-02-27 06:23:47 | 読書日記
日記から
・2012年4月7日(土)
丸山の1949年の『講義録』を読み始めた。思想史の叙述法を圧縮した表現で説明している。存在が意識を規定している、のではない。社会的存在が社会的意識を規定しているのだ。『社会的』という言葉には、人と人の関係が、精神を含めた関係が込められている。というより、精神を媒介とした人と人の関係が意識や思想を作る。たんなる物として存在があるのではない、と。
 民族というのは民族たらんとする集団のことだ。事実として在る集団のことではない。一つになろうとする、共属感の下に一体になろうとする集団、それが民族。どのような歴史的条件があって、このような決断がなされるのか。それは対外的な危機におかれたとき、その危機に対抗して内における凝集力を高めるために民族の一体意識が作られる。ただし、自然にわきあがるのではなく、当該社会の特定の担い手によって主導的に作られる。なかなかむずかしい。
・4月10日(火)
丸山の講義録と手帖を読んだ。国家に媒介されて個人は定立する。国家からの自由-否定的独立-だけではなく、国家を構成し権力の発動に参与し、また規制する能動的市民であること、の二面性。樋口陽一の言葉では、国家とは無関係な存在としての人と、国政にかかわるシトワイヤン。ルソーのシトワイヤンは能動的市民のことで、人は市民たることによって人となる、という。丸山がいう国家に媒介されて存在する個人とはこのような意味だろうか。
 フランスの共和主義では、市民を規制する中間団体を国家が排除した。宗教であれ、結社であれ。共和国市民は身分的に平準化されているだけでなく、所属する人種、性、宗教等々による制約からも、対国家との関係では解放される。等し並みに共和国市民。このような個人と国家の関係もあるわけだ。
・4月11日(水)
丸山の『講義録』を読了。ナショナリズム…特殊歴史的な所産であること。個人からすると、ナショナルなものへの自我の拡大欲求(エゴ)を満たし、同時に自己犠牲をも要求する。プリミティブな郷土愛を原基としながら、やがてその狭隘さを桎梏とする。
 対外的に危機に触発されて、一方では権力の集中と他方では権力基盤の拡大の両者が維新の課題だった。自律に媒介された-したがって政治的主体へと飛躍した-国民の創出と国家的独立の課題。デモクラシーと結合したナショナリズム。やがて膨張主義-帝国主義への起動力となったナショナリズム。幕末から日清・日露に至る日本の歩みをナショナリズムを軸に描き出す。対外的危機への対応、対西欧への対応の一方策としての対外的な侵略であり、同時にそれが国内統治体制確立の手段でもあった。
(了)

152、外村 大『朝鮮人強制連行』(岩波新書)

2014-02-26 06:48:50 | 読書日記
日記から
・2012年3月31日(土)
『朝鮮人強制連行』を150頁読む。「かたい本」で心を揺さぶられるようなことはなかった。強制の実態を事実に即して検証している。その場合、法令や文書の指示をそのまま受け取って判断するのは誤りだということがわかる。形式上は官憲が前面に立って労務者をかき集めたのではないにしても、事実上警察などの威力を背景にして、文句を言わせない徴用が行われていた事実が文書の背後に浮かび出る。法令上の徴用にすると、事故や病気になると補償しなくてはならない。それを避けるには正式な徴用とせず、事実上の強制力で引っ張るのが都合がよい。このことから、右翼の連中が「強制がなかった」と言うのは全くの形式主義で実体を見ていないことがわかる。こういう裏面を教えてくれる本だ。
(了)

151、松野光伸、千葉悦子『飯館村は負けない』(岩波新書)

2014-02-24 06:39:02 | 読書日記
日記から
・2012年3月30日(金)
『飯館村は負けない』を読了。涙なしには読めない。人と土地、人と牛などの生き物、人と人とのつながりが断ち切れられていくことの悲しみ。それにもかかわらず、先に希望を見ようと歯を食いしばっている人たち。本当に何度涙の顔を洗ったことか。驚いたことに、飯館村は震災前から村当局と住民が一丸となって村おこしに取り組んでいた。肩書のない村民たちが、夜・休みの日に集まって村づくりのアイデアを出し合い、それを村の行政が実施に移していった。トクヴィルが二ユーイングランドに見た「草の根のデモクラシー」がここにあった!驚きだ。その村が原発のためにチリジリに引き裂かれた。どの人たちも行政区が一体となって、それがかなわないなら家族が一つになって、避難生活ができることを望んだ。それは不可能だった。村長は、はじめ飯館村の村民のつながりをどうにかつなぎとめたいと必死に努力し、県や国に訴えたが分裂せざるを得なかった。村長や村の幹部は故郷の土地を除染し、再びもとの地に帰ることを強く希望している。しかし、村民の中にも除染の困難と生活再建の目途が立たないため、故郷を捨てて別の地に転住することを望む人たちもいる。復興とは村の復興ではなく、一人一人の村民の復興だ、という言葉が重い。俺には何もできない。
(了)

150、大澤真幸『夢より深い覚醒を』(岩波新書)

2014-02-23 05:46:47 | 読書記録
(1)日記から
・2012年3月28日(水)
昨日買った大澤真幸の『夢より深い覚醒を』を150頁読んだ。原発事故についての考察。大澤の他の本に比べたら読みやすかった。
・3月29日(木)
大澤の『夢より…』を読了。書名からしてそうだが、わざと深遠な風に表現したがる。言いたいことをストレートに表現すればいいものを。神義論だとか第三の審級だとか、あえて難しく言っている。

(2)ノートから
①新しいタイプの社会運動はアイデンティティ志向型。ジェンダー、民族等のアイデンティティが承認されることを求める運動。
(了)