(1)日記から
・2012年4月11日(水)
「ふしぎなキリスト教』も読了。キリスト教の教祖はパウロだという。神の子のテーゼはパウロが唱えたもの。贖罪も復活も。福音書の前にパウロの手紙が書かれていたのだ!
一神教の絶対神は己の姿を現さない。神の意志、怒りも恵もすべて人間の側の受け止め方次第。この世の不条理もまた、神から人間への選択肢の提示である。神の選びというけれど、罪のあがないの教理を受け入れるかどうかは人間の選択に委ねている。選ぶ主体は個人。対談者たちの問題関心とは別に一番心に残ったのは以上の二つ。人間の選択に、個人の”かけ”に委ねる。神の子が人間の姿になって特定の時代と場所に出現したという怪奇談を己のものとするかどうか、それはパスカルのいうのとは違った意味だろうが、個人の主体的な選びにかかっている。
(2)ノートから
①律法は違反した者を人が裁く。愛は人が人を裁いてはならない、ということ。裁くのは神であって、神に裁かれないように、自分が他の人を裁いてはならない。
②救うのは神だけど、人間に選ばせる。どちらに賭けるかの判断を求める。
(了)
・2012年4月11日(水)
「ふしぎなキリスト教』も読了。キリスト教の教祖はパウロだという。神の子のテーゼはパウロが唱えたもの。贖罪も復活も。福音書の前にパウロの手紙が書かれていたのだ!
一神教の絶対神は己の姿を現さない。神の意志、怒りも恵もすべて人間の側の受け止め方次第。この世の不条理もまた、神から人間への選択肢の提示である。神の選びというけれど、罪のあがないの教理を受け入れるかどうかは人間の選択に委ねている。選ぶ主体は個人。対談者たちの問題関心とは別に一番心に残ったのは以上の二つ。人間の選択に、個人の”かけ”に委ねる。神の子が人間の姿になって特定の時代と場所に出現したという怪奇談を己のものとするかどうか、それはパスカルのいうのとは違った意味だろうが、個人の主体的な選びにかかっている。
(2)ノートから
①律法は違反した者を人が裁く。愛は人が人を裁いてはならない、ということ。裁くのは神であって、神に裁かれないように、自分が他の人を裁いてはならない。
②救うのは神だけど、人間に選ばせる。どちらに賭けるかの判断を求める。
(了)