不寛容と偏見へ対比される、かぎりないゆるしと世界の受容の物語でした。
住人同士が密接な人間関係を築く狭い田舎町へ、スワローは父親と幼い弟妹たちと暮らしていました。彼女の家の納屋に、謎の男ザ・マンがまぎれこみます。
イエス=キリストがお生まれになったのもベツレヘムの納屋でした。また、ザ・マンは十字架へ釘で手足をはりつけされたイエスと同じように両手両足に傷があり、いきなりあらわれた異郷人をスワローや子供たちはイエスの再来と信じます。信じたかったのだと思います。
イエスは罪なくして罪人となり、処刑されます。こどもたちは知りませんがザ・マンは罪人であり、そこもイエスとの共通点です。彼はどうやらとても醜い犯罪を犯したようなのですが、というのがあらすじです。
荒れた様子のザ・マンが、純粋で心ざまの深いスワローに足の傷を洗い流され驚愕し、また快さからうっとり抵抗できないでいるところへ彼のこれまでの人生の苦難を思いました。単に傷をいやされる安心感ではなく、ザ・マンが生まれて初めて他人から優しさと尊敬をうけたのだとはっきり感じらる演技でした。三浦さんの表情はくっきりはっきりしています。声もパワフルで、舞台で初めて拝見しましたが好きです。
キリスト教に詳しくありませんが、最後の晩餐前にイエス=キリストが弟子たちの足を洗ったように足を洗うという行為は己を虚しくし、相手をとても大事な存在として尊重していると伝える意味があるのだと思います。
あまり多くを拝見していませんが、生田さんはミュージカルで拝見するたびに前回よりも素敵になっていると感じます。今回特に、降るような裏声へあらためて生田さんの声質の美しさを、表情の複雑さに初めて奥深い心の機微を感じました。硬く無垢で純粋なだけの存在では決してなく、母を亡くし貧しい暮らしの中、手探りで自分を探す十代の生きた少女であると感じました。今までの役の中で一番好きです。
ここから結末のねたばれをします。
田舎町の住人達はおそらく全員が知り合いで、店に集まり音楽と酒を楽しみ一見平和に暮らしています。しかしそこにアフリカ系の少女への排斥や、バイクに乗る活発な少年への抑圧に象徴されるような同調圧力があります。人々は自分たちを守ろうとするあまり、共同体からはみだした者への排斥を垣間見せます。白人であるスワローの家族は小さなトレーラーハウスに住んでいます。貧しさはおそらくスワローだけではなく田舎町全体を覆っているのでは。それもまた人々のかたくなさを作る理由のひとつでは。貧しさと人々の不寛容が、心優しいスワローを閉塞感でいてもたってもいられなくさせるのでは。夜中の彼女を消えてしまいたい気持ちにさせるのでは。
田舎町だけではなくおそらく世界中にあるだろう他者への不寛容と偏見が、ザ・マンのような人間を常に共同体から排除し、しいたげ、彼を犯罪へ追いやったのだろうとも感じられます。田舎町の住人たちが手に武器をもち、ザ・マンを狩ろうとするのはまさに象徴的な行動です。
ザ・マンはスワローに偽りない彼自身を受け入れられ、愛されます。それは彼にとっておそらく生まれて初めて神の愛を感じ、世界に祝福されることでした。ザ・マンに祝福を与えたスワローは、小さな田舎町に住む幼い彼女自身に一人の人間をほとんど救う力があったことを初めて実感したのでは。スワローは閉塞感を打ち破り、ザ・マンを通して世界を受容します。彼女はその後よりよく世界を見ることができるのだと思います。世界の美しさ、生きることをより強く感じることができるのだと思います。スワローは渡り鳥です。彼女は冒険し、海を渡ったのだと思います。
ただ、この演目を自分はあまり感じられませんでした。
だいたいミュージカルの群衆、手に手に武器を持って暴徒化しすぎでは? いやちゃんと数えたらそういう演目はほんの数個かもしれませんが。
大人が偏見にこりかたまって狂信的なのに対し子供はみな純粋な存在という単純化は、人間を軽んじている描写ではないかと疑問に思いました。
ザ・マンの犯した罪は描写されません。そもそも5人を殺した脱獄犯が彼だったとは明言されません。そこが名前もわからない彼の神秘性を増しています。彼の犯した罪とはなんでしょうか。もし具体的な被害者の像が想像できたなら、ザ・マンが限りなく受け入れられ愛されることが神の愛を象徴していると思っていても、人間としてけっこう複雑な気持ちになったかもしれません。罪人や自分たちと違う存在を許すことができない人々の不寛容をこそ物語は問題として描いているのだとわかっていてもです。ちゃんとぼかされることに対して、意図を感じて客席で真顔になりました。
実体もあきらかにならないままありのままの自分を愛される男性、彼を何が何でも受容する女性という構図、そこに性愛が絡むことも相まってけっこう自分は複雑な気持ちになりました。社会と戦い傷ついた男性が大人なのに対し、個人的愛情で男性をありのまま受け入れる女性が幼さを残す少女なのもあいまって、個人的にきつかったです。現実社会の抑圧のほうがこの作品が追及するだろう神の愛や赦しよりも先に目の前をちらつきました。イエスキリストは30歳ではりつけにされ、復活しました。ザ・マンもおそらくそれくらいの年齢でしょう。そしてスワローや子供たちは近所に凶悪犯が逃げ込んでいるという重要な情報を、大人たちに教えてもらっていたでしょうか。スワローの閉塞感へは子供に何も教えず選ばせない大人たちの態度も一役かっていたのでは。それなのに何も言わない男を無条件に愛し赦し受け入れることが少女の世界を美しくするという結論、いいのだろうかと疑ってしまいました。純粋な少女のひたむきな献身を美化していいのだろうかと。
田舎町と何度も言ってしまいましたが、場所は関係ないかもしれません。社会の縮図をえがくためにただそこが選ばれただけかもしれません。
アンドリューロイドウェーバー作品が私も大好きです。しかし大傑作オペラ座の怪人だけは音楽の力に圧倒されつつ、個人的にぴんときませんでした。ファントムとクリスティーヌの関係のように、ザマンとスワローの関係に思い入れがないとこの物語を楽しむのがけっこう難しいかもしれません。神の愛からはずれてしまった(と感じている)異形の男性という点で、けっこうザ・マンにオペラ座のことを思い出したりしてみました。
恋愛物語をくだらないと思ったことはありません。しかし男女に限らず同性同士であっても「恋愛を超えた」「特別な絆」に物語のすべてを収束させてしまうことはひとりよがりでは?と感じたことがあります。オペラ座の怪人のねたばれをしますがファントムはクリスティーヌを行かせます。そこがやはり傑作だと今更ながらに思いました。ただ比較して優劣を語るつもりではなく、ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンドの描くザ・マンの孤独やスワローの抱える閉塞感が私は好きです。
音楽はまずゆっくりとしたものや、楽しいものから始まります。大勢の子供たちの声が重なるとき、ヨセフ・アンド・アメージング・テクニカルカラー・ドリームコートを思い出してほのぼのしました。それが物語が進むにつれロイドウェーバー!!(個人の印象です)みたいな不穏な、蛇で信仰心を試す歌、転調&転調みたいなザ・マンの歌になだれ込んでいくのがめちゃくちゃスリリングでした。神を試すことは大罪ですが、自分の信仰心を試すのっていいの?と思っていましたが、曲調からしてやっぱりあんまりよくないのかな? 不信は他者の排斥につながりやすいです。
MARIA-Eさん演じるキャンディですが、ものすごかったです。こんな素敵な方をどうして私は知らなかったんだと思うことしきりです。MARIA-Eさんをぞんぶんに拝見できるミュージカルがこの後たくさん生まれてほしいです。一声聞いただけで心をつかまれる体験をまたさせていただきました。
キャンディがしたことはスワローへ不信を植え付けることなのですが、なぜキャンディがそれをしたのか彼女の心の動きは理解できます。わからないのは彼女がなぜ警察官からあんな扱いを受けるかです。最後までそこがわかりませんでした。やはり作品の持つ、不寛容や偏見への抵抗は自分にも伝わったのだと思います。
ただ、だからこそザ・マンが限りなく受容され、スワローが世界を愛する結末によっても社会の不寛容や偏見が誰にも批判されず手つかずで残るこの作品の結末においてけぼりをくいました。朝焼けを見ながら、人々が不寛容を自覚すらしていないありのままの世界を美しいと称えていいのだろうかと迷ってしまいました。できればもう一度見に行って答えを探したい公演です。
劇場が開くのを心待ちにしていました。ひとつひとつの公演がとりかえのきかないかけがえのないものだと改めて感じました。劇場を心から応援しています。しかし今必要なのは個人の応援より公的支援なのかなと思います。
防疫の問題はなんら解決されていません。劇場の責任ではなく、劇場が開くことを今手放しで喜ぶことはできません。こうした緊急事態にこそ心の中に潜んでいた差別や偏見がむきだしになることもわかります。野田秀樹さんのおっしゃっていた劇場の公共性についても考えさせられた公演でした。
住人同士が密接な人間関係を築く狭い田舎町へ、スワローは父親と幼い弟妹たちと暮らしていました。彼女の家の納屋に、謎の男ザ・マンがまぎれこみます。
イエス=キリストがお生まれになったのもベツレヘムの納屋でした。また、ザ・マンは十字架へ釘で手足をはりつけされたイエスと同じように両手両足に傷があり、いきなりあらわれた異郷人をスワローや子供たちはイエスの再来と信じます。信じたかったのだと思います。
イエスは罪なくして罪人となり、処刑されます。こどもたちは知りませんがザ・マンは罪人であり、そこもイエスとの共通点です。彼はどうやらとても醜い犯罪を犯したようなのですが、というのがあらすじです。
荒れた様子のザ・マンが、純粋で心ざまの深いスワローに足の傷を洗い流され驚愕し、また快さからうっとり抵抗できないでいるところへ彼のこれまでの人生の苦難を思いました。単に傷をいやされる安心感ではなく、ザ・マンが生まれて初めて他人から優しさと尊敬をうけたのだとはっきり感じらる演技でした。三浦さんの表情はくっきりはっきりしています。声もパワフルで、舞台で初めて拝見しましたが好きです。
キリスト教に詳しくありませんが、最後の晩餐前にイエス=キリストが弟子たちの足を洗ったように足を洗うという行為は己を虚しくし、相手をとても大事な存在として尊重していると伝える意味があるのだと思います。
あまり多くを拝見していませんが、生田さんはミュージカルで拝見するたびに前回よりも素敵になっていると感じます。今回特に、降るような裏声へあらためて生田さんの声質の美しさを、表情の複雑さに初めて奥深い心の機微を感じました。硬く無垢で純粋なだけの存在では決してなく、母を亡くし貧しい暮らしの中、手探りで自分を探す十代の生きた少女であると感じました。今までの役の中で一番好きです。
ここから結末のねたばれをします。
田舎町の住人達はおそらく全員が知り合いで、店に集まり音楽と酒を楽しみ一見平和に暮らしています。しかしそこにアフリカ系の少女への排斥や、バイクに乗る活発な少年への抑圧に象徴されるような同調圧力があります。人々は自分たちを守ろうとするあまり、共同体からはみだした者への排斥を垣間見せます。白人であるスワローの家族は小さなトレーラーハウスに住んでいます。貧しさはおそらくスワローだけではなく田舎町全体を覆っているのでは。それもまた人々のかたくなさを作る理由のひとつでは。貧しさと人々の不寛容が、心優しいスワローを閉塞感でいてもたってもいられなくさせるのでは。夜中の彼女を消えてしまいたい気持ちにさせるのでは。
田舎町だけではなくおそらく世界中にあるだろう他者への不寛容と偏見が、ザ・マンのような人間を常に共同体から排除し、しいたげ、彼を犯罪へ追いやったのだろうとも感じられます。田舎町の住人たちが手に武器をもち、ザ・マンを狩ろうとするのはまさに象徴的な行動です。
ザ・マンはスワローに偽りない彼自身を受け入れられ、愛されます。それは彼にとっておそらく生まれて初めて神の愛を感じ、世界に祝福されることでした。ザ・マンに祝福を与えたスワローは、小さな田舎町に住む幼い彼女自身に一人の人間をほとんど救う力があったことを初めて実感したのでは。スワローは閉塞感を打ち破り、ザ・マンを通して世界を受容します。彼女はその後よりよく世界を見ることができるのだと思います。世界の美しさ、生きることをより強く感じることができるのだと思います。スワローは渡り鳥です。彼女は冒険し、海を渡ったのだと思います。
ただ、この演目を自分はあまり感じられませんでした。
だいたいミュージカルの群衆、手に手に武器を持って暴徒化しすぎでは? いやちゃんと数えたらそういう演目はほんの数個かもしれませんが。
大人が偏見にこりかたまって狂信的なのに対し子供はみな純粋な存在という単純化は、人間を軽んじている描写ではないかと疑問に思いました。
ザ・マンの犯した罪は描写されません。そもそも5人を殺した脱獄犯が彼だったとは明言されません。そこが名前もわからない彼の神秘性を増しています。彼の犯した罪とはなんでしょうか。もし具体的な被害者の像が想像できたなら、ザ・マンが限りなく受け入れられ愛されることが神の愛を象徴していると思っていても、人間としてけっこう複雑な気持ちになったかもしれません。罪人や自分たちと違う存在を許すことができない人々の不寛容をこそ物語は問題として描いているのだとわかっていてもです。ちゃんとぼかされることに対して、意図を感じて客席で真顔になりました。
実体もあきらかにならないままありのままの自分を愛される男性、彼を何が何でも受容する女性という構図、そこに性愛が絡むことも相まってけっこう自分は複雑な気持ちになりました。社会と戦い傷ついた男性が大人なのに対し、個人的愛情で男性をありのまま受け入れる女性が幼さを残す少女なのもあいまって、個人的にきつかったです。現実社会の抑圧のほうがこの作品が追及するだろう神の愛や赦しよりも先に目の前をちらつきました。イエスキリストは30歳ではりつけにされ、復活しました。ザ・マンもおそらくそれくらいの年齢でしょう。そしてスワローや子供たちは近所に凶悪犯が逃げ込んでいるという重要な情報を、大人たちに教えてもらっていたでしょうか。スワローの閉塞感へは子供に何も教えず選ばせない大人たちの態度も一役かっていたのでは。それなのに何も言わない男を無条件に愛し赦し受け入れることが少女の世界を美しくするという結論、いいのだろうかと疑ってしまいました。純粋な少女のひたむきな献身を美化していいのだろうかと。
田舎町と何度も言ってしまいましたが、場所は関係ないかもしれません。社会の縮図をえがくためにただそこが選ばれただけかもしれません。
アンドリューロイドウェーバー作品が私も大好きです。しかし大傑作オペラ座の怪人だけは音楽の力に圧倒されつつ、個人的にぴんときませんでした。ファントムとクリスティーヌの関係のように、ザマンとスワローの関係に思い入れがないとこの物語を楽しむのがけっこう難しいかもしれません。神の愛からはずれてしまった(と感じている)異形の男性という点で、けっこうザ・マンにオペラ座のことを思い出したりしてみました。
恋愛物語をくだらないと思ったことはありません。しかし男女に限らず同性同士であっても「恋愛を超えた」「特別な絆」に物語のすべてを収束させてしまうことはひとりよがりでは?と感じたことがあります。オペラ座の怪人のねたばれをしますがファントムはクリスティーヌを行かせます。そこがやはり傑作だと今更ながらに思いました。ただ比較して優劣を語るつもりではなく、ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンドの描くザ・マンの孤独やスワローの抱える閉塞感が私は好きです。
音楽はまずゆっくりとしたものや、楽しいものから始まります。大勢の子供たちの声が重なるとき、ヨセフ・アンド・アメージング・テクニカルカラー・ドリームコートを思い出してほのぼのしました。それが物語が進むにつれロイドウェーバー!!(個人の印象です)みたいな不穏な、蛇で信仰心を試す歌、転調&転調みたいなザ・マンの歌になだれ込んでいくのがめちゃくちゃスリリングでした。神を試すことは大罪ですが、自分の信仰心を試すのっていいの?と思っていましたが、曲調からしてやっぱりあんまりよくないのかな? 不信は他者の排斥につながりやすいです。
MARIA-Eさん演じるキャンディですが、ものすごかったです。こんな素敵な方をどうして私は知らなかったんだと思うことしきりです。MARIA-Eさんをぞんぶんに拝見できるミュージカルがこの後たくさん生まれてほしいです。一声聞いただけで心をつかまれる体験をまたさせていただきました。
キャンディがしたことはスワローへ不信を植え付けることなのですが、なぜキャンディがそれをしたのか彼女の心の動きは理解できます。わからないのは彼女がなぜ警察官からあんな扱いを受けるかです。最後までそこがわかりませんでした。やはり作品の持つ、不寛容や偏見への抵抗は自分にも伝わったのだと思います。
ただ、だからこそザ・マンが限りなく受容され、スワローが世界を愛する結末によっても社会の不寛容や偏見が誰にも批判されず手つかずで残るこの作品の結末においてけぼりをくいました。朝焼けを見ながら、人々が不寛容を自覚すらしていないありのままの世界を美しいと称えていいのだろうかと迷ってしまいました。できればもう一度見に行って答えを探したい公演です。
劇場が開くのを心待ちにしていました。ひとつひとつの公演がとりかえのきかないかけがえのないものだと改めて感じました。劇場を心から応援しています。しかし今必要なのは個人の応援より公的支援なのかなと思います。
防疫の問題はなんら解決されていません。劇場の責任ではなく、劇場が開くことを今手放しで喜ぶことはできません。こうした緊急事態にこそ心の中に潜んでいた差別や偏見がむきだしになることもわかります。野田秀樹さんのおっしゃっていた劇場の公共性についても考えさせられた公演でした。
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