なだめの供え物
(ローマ3:25)H.K
2024.7.14
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なだめの供え物
(ローマ3:25)
「神は,
キリスト・イエスを,
その血による,
また信仰による,
なだめの供え物として,
公にお示しになりました。
それは,
ご自身の義を現わすためです。
というのは,
今までに犯されて来た罪を
神の忍耐をもって
見のがして来られたからです。」
「なだめの供え物」とは,
贖罪所の契約の箱のふたに,
小羊の血が注がれたことです。
神の怒りに対する
「なだめ」でした。
「なだめの供え物」は,
人々のあらゆる
不敬虔と不正とに対して
啓示された
「神の怒り」
をなだめるためのものでした。
イエス・キリストが
血を流されたのは,
「なだめの供え物」として
信じる者の罪を赦すためでした。
☆
(レビ17:11)
「肉のいのちは
血の中にあるからである。
わたしはあなたがたのいのちを
祭壇の上で贖うために,
これをあなたがたに与えた。
いのちとして贖いをするのは
血である。」
イエス・キリストの十字架による
血をあらわします。
(ヘブル9:22)
「律法によれば,
すべてのものは
血によってきよめられる,
と言ってよいでしょう。
また,
血を注ぎ出すことがなければ,
罪の赦しはないのです。」
「信仰による」とは,
イエス・キリストの与えてくださる
恵みを受け入れることです。
「なだめの供え物」とは,
「贖罪所のふた」との
訳し方があります。
「贖罪所のふた」とは,
至聖所の中に置かれた
契約の箱の蓋のことです。
大祭司が贖罪日に小羊をほふり,
血を契約の蓋に注ぎます。
このことによって,
神は民との和解を成しました。
わたしたちは,
イエス・キリストが
「贖罪所の蓋」として,
罪の赦しと神との和解を
得ることが出来ます。
☆彡
3:23 すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず,
3:24 ただ,神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖いのゆえに,価なしに義と認められるのです。
3:25 神は,キリスト・イエスを,その血による,また信仰による,なだめの供え物として,公にお示しになりました。それは,ご自身の義を現すためです。というのは,今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは,今の時にご自身の義を現すためであり,こうして神ご自身が義であり,また,イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
23節.〈すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず〉.ユダヤ人も異邦人も共に義を欠いており,従って,神の義であるキリストを必要とすることにおいて差別は全く存在しない.「罪の行為は過去形で示されている.罪の現在的,永続的結果は,神の栄光を欠いていることである」(C・ホッジ).神からの栄誉を受けることの出来ない人間は,何一つ義を行い得ない存在である
24節.だから,〈義と認められる〉ことは,〈ただ,神の恵みにより〉与えられる.神の恩恵によるということは,神の一方的な,自由な贈り物として与えられるということであり,〈価なしに〉与えられるのである.私たちが価なしに受けることが出来るのは,神がその価を払っていて下さるからである.神の支払われる価こそ,〈キリスト・イエスによる贖い〉にほかならない.
〈贖い〉(〈ギ〉アポリュトゥローシス)は,単なる解放ではなく,身の代金を支払うことによる解放である.キリストは,多くの人のための贖いの代価として自分の生命を与えるために来られた(マタイ20:28)
新改訳改訂第3版 サブ聖書ウインドウ No.1
マタ
20:28 人の子が来たのが,仕えられるためではなく,かえって仕えるためであり,また,多くの人のための,贖いの代価として,自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
☆
25‐26節.ここで義認のもう1つの根拠が明らかにされる.それはまた,十字架が神に対して持つ意義を示す.
すなわち,神の怒りに対する〈なだめ〉である.〈なだめの供え物〉(〈ギ〉ヒラステーリオン)は,人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して啓示された「神の怒り」をなだめるためのものである.
「あがないの供え物」(口語訳)との訳は,この区別を見失わせる.
そのなだめの供え物は,キリスト・イエスの十字架で流された犠牲の血によるものであるが,またそれは,そのなだめの供え物を信じる信仰を手段として与えられるものである.
ここで,キリスト・イエスをなだめの供え物として〈公にお示しにな〉った(〈ギ〉プロエセト)方が父なる神ご自身であること,従って,〈なだめの供え物〉は,神が,ご自身に対して,公にお示しになっているものであることに力点が置かれている.その目的は,〈ご自身の義を現わすためです〉と言われる.この義は,5節の場合と同様,神の属性としての義,すなわち神の正義を意味する.神が人間の犯す罪に対してその正義を現されなかったのは,〈神の忍耐をもって見のがして来られたからです〉と説明される.「見逃すこと」「先へ延すこと」は,決して赦すことではない.しかし,そのように「見逃されること」を,神がご自分の正義を全うする熱心を失っているのではないかと罪人は考えがちである故に,罪に対する神の正義,神の怒りが示されなければならなかった
だから,〈今の時にご自身の義を現わすため〉(26),キリスト・イエスをなだめの供え物として与えられたのである.ヨハネが,私たちの罪のための「なだめの供え物」として義なるイエス・キリストが立てられたと語るのは,このことにほかならない(Ⅰヨハ2:2)
〈こうして神ご自身が義であり,また,イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです〉.神は,ご自身の義を確立することなしに,罪人を義とすることはあり得ない.罪のない方を罪人として罰することにおいても,罪人の罪を赦して義とすることにおいても,少しも不義の入り込む余地を残すことなく,神の正義を徹底される.神の義認の行為における道徳性の明示がこの箇所の論点である.
「なだめの供え物を備えられることにおいて,神の正義と,罪人の義認は一致し,合体する」(J・マーレイ).
神の怒りが完全になだめられるところに,初めて,全き罪の赦しは成り立つ.
神の前に義とされて,この赦しを受けるために,求められている唯一の条件は,このなだめの供え物としてのイエスを信じる信仰である.〈イエスを信じる者を義とお認めになる〉