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亀のあゆみ

哲学勉強中のわたしが
自分なりに考察した内容のメモです。
しばしおつきあい頂ければ。

第十三章おわりに

2024年10月09日 | ご挨拶
 他者の痛みにこころを閉ざすようでありたくない。中には、わたしと相容れない者もいる、しかし、できる範囲内で、他者の声に、その感覚に、耳を傾けていけるようでありたい、と思う。

問いかけ(できること)

2024年09月19日 | こころ
 水槽のなかに魚がいる。水槽のガラスと水とに隔てられているように、どうしようもないこともある。水のなかにいる魚。地に足をつけずに、水のなかを泳いでいる魚。周りの見え方も、皮膚で感じる外界も、わたしたちのそれとは異なっているだろう。おそらく、魚から見た体験世界は、わたしたちのそれとはだいぶ異なっているに違いない。それと同じように、わたしと他者との体験世界がだいぶ異なっていることも、またしばしばある。介入不能なことも、助けようとして助けられないことも、またあるだろう。その解らなさを認識している必要が、わたしたちにはある。例えば、登校拒否(になるか、ならないか)の例だったら、子どもの苦しみを完全には知りえないことをも念頭に置くべきだろう。そのうえで、何ができるのかを探ることだ。わたしたちができることは限られていると知ることだ。そのうえで、問いかけること。たとえば、学校に行きたくないのはどうして、と。死にたがっているひとがいる。まず、わたしたちがすることは、共有されていない情報を埋めていくこと、どうして、と問いかけてみること。そのひとと一緒に答えを探していくこと。できれば、当事者がじぶんで答えを見つけるのがいい。予測しなかった答えをぶつけられることもあるかもしれない、そうしたら、頭ごなしに否定するのでなく、まず、どうしてその結論に辿り着いたのかを問いかけてみることだと思う。そのうえで、答えに違和感を感じたとしたらその正体を、その理由づけに飛躍や矛盾がないかどうかを探っていけばいい。

無条件の承認

2024年09月12日 | こころ
 他者をあるがまま受け入れること、それが、愛することに他ならないと思う。他者をカテゴリーのなかにくくって捉えるのではなく、存在自体を受け入れること。男だから、女だから、金持ちだから、日本人だから、アメリカ人だから、というのでなく、その存在を個として捉えること。じぶんが相手を好きだというとき、相手を居心地よくする素材としてみているのではないだろうかと自問するようでありたい。また、そういった無条件の承認が感じられないのに、愛している、とささやくひとは、嘘つきではないかといちど疑ってみたほうがいい。そして、無条件の承認は、問いかけへの前提条件なのだ。

限られた時間のなかで

2024年09月10日 | こころ
 わたしたちはみな、限られた時間のなかで生きています。同じ時間のなかを、誰かと生きられるのは、偶然のつみかさなったこの世界でほんとうに奇跡的なこと。わたしはよく母と、いっしょに食事したり、映画を観に行ったり、お散歩に行ったりします。気が合う相手がいないときに無理をすることはないけれど、傍にいて、時間と空間を共有して指差してあれが綺麗だよとか言えること、それは、ほんとうに甘美なことだと思うのです。インターネットの友人ともまた、ニュースなどを共有しあって同時代のなかを生きられることに感謝です。旅先で知り合った方と再会を果たせたときなどは、ほんとうにこころが震えます。いまひとつ居心地の良くない環境や火宅で、生きている方もいらっしゃると思いますが、ほんとうに時をともにできて良かったと思える相手が、うかうかしているといつ見つかるかわかりません。そうしたら、毎日が、ただの繰り返しではなくて、ニュアンスを帯びたものとなるでしょう。そのときまで、待ちませんか? そういう相手を、この世界に、探しにいきませんか?

止まり木だったり

2024年09月10日 | こころ
 ひとは、役に立つから価値があるのではない、その存在自体が、祝福されたものではないかと思うのです。近しい者が他者にできることは何か、それは、そのひとの功績や持ち物などを利用したいという願望にとらわれず、その祝福された存在をありのままに受け入れることではないでしょうか。そのひとが存在理由を探すことに疲れてしまったときに、そっと、止まり木となってあげることだったり、そのひとがじぶんの道を探す手伝いをすることではないでしょうか。

それ自体、祝福されたこと

2024年09月10日 | こころ
 買ってずっと積ん読だったサルトルの本に、面白い喩えが載っていました、ナイフは切るためという役に立つ目的があって、それを考慮せずにつくられるということはない、けれど、人間はそのようにしてつくられるのではない、と。古来は、神が目的をもって被造物をつくるとされてきましたから、画期的なことです。人間はみずからがそれぞれ存在理由を見つける生き物なのだということだと思います。存在するということは、それ自体、良いことなのではないか、最近のわたしはそう考えます。存在することによって他人を傷つけたりすることはあるでしょう、相容れない存在というのはあるから、存在がべつの存在の妨げになることだってあります、でも、そうでない限り、さまざまな偶然の積み重ねによって存在する、というのは少なくとも、良い、祝福されたことなのではないかと。でも、しばしばひとは迷います、存在理由をつきつめていけばいくほど、死に近づく危険もあります、そんなとき、ひとは他者を必要とするのだと思います。

もし、あなたが

2024年09月10日 | こころ
 裏を返せば、もし、あなたが何かの妨げを抱えたようなときには、アドバイスを求めて相談することもあるでしょう。そんなとき、世間の側に立って、あなたを説き伏せようとしたりするひとがいるかもしれません。ほんとうに、あなたのことを思ってくれるひとと、何か別の目的のためにあなたを使おうとするひととを見分けることが、とても重要だと思います。前者であれば、アドバイスは有益かもしれませんが、後者のアドバイスに耳を貸すことはまったくないと思いますので。ただ、世間ではこうだけれどあなたは好きにしていいよ、というひとなら別ですが。わたしの友人が言っていました、じぶんにとって大切な他人とそうでない、比較的どうでもいいひとを区別することは、差別でも何でもなく、とても必要なことなのだと。

スタンド・バイ・ミー

2024年09月10日 | こころ
 で、痛みを訴えられたらどうしたら、ということですが、まず、世間の側に立ったりするのでなく、当事者の側に立って考えてあげるだけでも違うと思うのです。たとえば、登校拒否(になるかならないか)の例だったら、世間体が悪いから学校に行かせよう、でなく、ほんとうにその子の将来を思って、学校に行かないでどこかに弟子入りして職人になるだとかそういう選択肢もあるけれど、あえてそれでも学校に行かせるかを考える、ということじゃないかと。寄り添うというか、そのひとの側に立つというか。

痛みとは

2024年09月10日 | こころ
 痛みとは、異物が入ってくる感覚、だと思う。相容れないものが、侵入してきたり、じぶんの一部を傷つけたりする、そんな感じ。だから、生きるのに妨げを抱えているひとは、痛みを抱えることになる。じぶんの痛みと向きあうには耐えるしかないけれど、近しい他人の痛みに向きあうとき、その痛みのみなもとを取り除いてあげられないか、あるいはそれができなければ、その痛みを少しだけでもマシにしてあげられないか、あがきますよね。

寄り添うこと

2024年09月10日 | 自由について
 みなさんなりに、この親子にアドバイスされたことと思います。あるひとは、学校に行ったほうがいいのでは、と思ったかもしれません。あるひとは、無理して行かなくてもいいのではと思ったかもしれません。
 この回答者の答えは、こうでした。
 どちらの答えを出すとしても、まず、息子さんに寄り添ってあげてほしい、ということでした。たとえば一緒に料理をするだとかして(わたしが考えた例)、一緒に時間を過ごして、話をしてくれるようならその話によく耳を傾けて、誠実にその問いかけに向き合ってほしい、みたいな感じの答えでした。この質問を読んだときわたしはてっきり、行きなさい、か、行かなくてもいい、か、どちらかの答えを期待していたのですが、上手に裏切られました。考えてみると、わたしは放任主義で育ちました。結婚のときなんかは、もっと、親なり近しい誰かなりが寄り添って親身なアドバイスをくれたとしたら、もっと賢い選択ができたのになんて、そんなことも考えます。わたし自身、他人の痛みを目のあたりにしたときは、うろたえ、悩むばかりです。ですから、この回答者の答えは、わたしの胸に刺さりました。

ある人生相談

2024年09月10日 | こころ
 ここで、わたしが感銘を受けた人生相談コーナーを、引き合いに出したいと思います。質問は、こうでした。息子が学校に行きたくない、という。じぶんはつねづね学校は行かなくてもいいものと思っていたが、いざ、息子にこういわれると、行きなさい、と言ったものかどうか迷います、と。さあ、みなさんだったら、どう答えますか。つぎのコーナーで回答者の方の真心にあふれた答えをご紹介します。

妨げを抱えて

2024年09月10日 | こころ
 ひとは誰でも、妨げを抱えています。あるひとは、大きな妨げを抱えています。学校に行けない、とか、虐待されている、とか、体や心が不自由だ、とか。あなたの近しいひとが大きな妨げを抱えていることだって、じゅうぶんあり得ます。そのとき、どうしたらいいか、理路整然とした議論や明確な答えはないのかもしれませんが、微力ながら向きあい方を考えてみたいと思うのです。

第十三章はじめに

2024年09月10日 | こころ
 ここでは、他者のこころと、とくに、他者の痛みと向き合うこと、なんかについて、お話していきたいです。なぜって、じぶんのこころを確かめる手段は、他者のこころと向き合うことに他ならないのですから。

第十二章おわりに

2024年08月31日 | ご挨拶
 こころとからだは、つながっているのですから、みなさんも、からだに合う服を着たり、こころに叶うひととやりとりしたりして、じぶんのこころとからだを喜ばせてあげてくださいね。

Q.どうして愛は憎しみに勝てないのか

2024年08月18日 | Q&A
 個人の中で、愛が憎しみを越えることは、よくあると思う。が、戦争などを目の当たりにすると、憎しみが勝っているかのように見える。憎しみは、たびたび為政者に利用される。特定の民族や宗教への憎しみなどだ。が、為政者に憎しみを利用されないよう気をつけて、克服することは可能だと思う。