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楢篠賢司の部屋

生きているうちに残しておきたいと言う気持ちから哲学的にまだ未知の分野である経済を書いていきます。

人間と宗教(前書きに近いもの) 

2009-02-15 19:06:55 | Weblog
  人間と宗教 Ⅱとして楢篠賢治の部屋が開いているうちにと思い急いで完成させタイトルをコピーし貼り付けた。そしてワードで書いといた文をコピーし本文の方に貼り付けようとしたがタイトルだけが出てきてしまう。何度か繰り返すうちにワードの文章が消えてしまうというミスを犯してしまった。

 今回はもう一度トライする根気も無く次回のチャレンジとなるが。私の書こうとしていることは宗教を否定することではなく、また宗教家でもない私が宗教を肯定することでもない文章になるだろう。楢篠賢治の部屋ではそのことをこれから書き綴っていきたい。

 ただ最後まで人間と宗教で貫かれるのは、他の動物には無い人間だけの能力というか、はたまた感性というか『時間の観念』を持ったがゆえに、未来を想像上で予知し不安心理になるということだと言える。そしてそれは幼児期には無く、いつのころからかその観念を身につけていく。

 そしてあえて最終的なものを書くとすれば身についた時間の観念の最高峰とよぶべきかは別としても、宗教上の悟りにあたるものと言うべきか、哲学を学問としてではなく『永遠の時間の流れ』を察知する能力。自己自身の置かれている状況を時間の流れの中で別の自分として上から見ている自分に気がつく。「私はどこから来て、どこへ去ろうとしているのか」と言うたゆまない懐疑、そのときあらゆる本を読みだし自分を知ろうする哲学が始まっていく。自分を知ることイコール「人間とは何か」を知ることでもある。

人間と宗教

2009-02-14 09:57:03 | Weblog
 あなたの宗教を信じている意味を教えてください。
前のタイトルにこのように書いたが、誰からも何のコメントもいただけなかった。
『人間とは何か』を追求していけば必ずと言っていいほど人間は宗教の問題を素通りしていくことはできないだろう。

 あまた数多くある生物、動物と絞るべきかと思うが、どういう訳か人間だけが宗教と言う現実から離れた架空の世界へ逃避してしまう。

 なぜ現実から受ける悩み、ストレスを現実の世界で戦わないのか、他の動物、野生の動物であれば日々その戦いを繰り返しているではないか。
 
 そして人間に飼育されている動物は死ぬまで最高の餌を与えられ、最高の環境で(ケイジ飼いの鶏を除く)ストレスも無く優雅な生活を送っている。彼ら動物(豚でも牛でも)は朝目覚めたときから、目の前に新鮮な食事が用意され、食べたいだけ食べることができる。喉が渇けば野生では味わえないような厳選された飲料水があてがわれ、日々の健康にも細心の注意が払われる。

 ただ彼らに明日のことが考えられたなら、人間のように絶望のあまり食欲が落ちてしまうだろうか。いや絶望のあまり狭い小屋を付き捲り自殺を選んでしまうだろうか。だが彼らには明日と言う時間が解らない、いや時間の観念が無いと言うことなのだろうか。

 そこで人間が宗教に救いを求めるのは、人間は時間の観念を持っている所以であるということになる。つまり他の動物には絶対ありえない『明日と言う観念』を持っているということになる。
 

あなたの宗教を信じている意味を教えてください

2009-02-01 16:52:21 | Weblog
 私は自分が無神論と言う立場から逆に皆さんが宗教をなぜ信じるのかを知りたいと思います。
 
 目的を持って神を信じている人は少ないのではないでしょうか。
 また自殺を考えた人はあの世があり、過去に死んだ身近な人に会えると思ったことが無かったか。

 私には力不足とは思いますが宗教を心理学の面から考えてみたいと思います。
もしそこに現在の政治・経済が生み出している不安から宗教に入信しているのであれば、まず政治経済を是正するのが先決と考えます。

 無神論の立場とは宗教をよく理解していることから、この立場が取れると考えています。そして宗教を人間の心理から分析していきたいと思っています。

 経済的理由で自殺をしていく人、現在処理されるのが自己責任という枠の中です。本来は社会が悪いわけですが自己責任というかたちで転化されてしまうわけです。
 
 よろしくお願いいたします。

冬目漱石さんへの返信

2009-01-31 18:37:01 | Weblog
政教分離の必要性
2009-01-30 15:55:54 | Weblog
私のこのようなタイトルで冬目漱石さんからコメントをいただいたが、返信できなくここにまた全文と冬目さんのコメントを掲載します。
 
最近経済を書こうにも世界の経済自体が日々悪化するだけで良くなる兆しは見当たらない。アメリカが莫大な公的資金を注入したとしても、リストラ旋風が吹き荒れた中で個人消費が伸びず、銀行がローン目的で貸し付けようとしても申込者の返済を疑いこれも貸付に回らない。 

 アメリカが今まで内需拡大というスローガンの下、国民をローン付けにしてきた政策が裏目に出ている感じになっている。この結果更なる消費不足を起こし、作っても売れない状態から工場閉鎖リストラという逆スパイルに陥っている。この状態がいつまで続くのか、いつこの逆スパイルを断ち切れるのか。 これが現在世界的に起きている事柄だ。

 良くメディアが伝えるニュースがないと、動物を取り上げると言う。そこで動物というわけにはいかないので昨年ホームページを終了するということで、二十代のとき、ある大企業の機関紙(その当時大企業に勤めていた)の文芸欄に載せた文章 をこのブログに移し変えた。それを一つずつ当時を振り返って解説をつけていってみよう。

 今回は下記の文章になる。
                 歴史
 君たちは罪を犯している
人間の歴史を逆に進ませようとする大きな罪を…
何百年、何千年後かには罪を犯していたことにより罰に処せられるだろう
二千年、三千年前、そして一万年以上前の人間が自然に対し、人間に対し無知であった時代ならともかく
人間が、自然が解りかけてきたこの時代に君たちの行いは、また盲目の中へと人間を進ませていく

 君たちの犯した罪は大きい人間が自由というものに向かって進んでいく中で
また過去の暗い無の中に人間を連れて行く。
君たちが持っている偶像は、人間が何であるかを理解できる者たちにとってはそこに何もないということを解る者たちにとっては
そのことに盲目となっている君たちがあまりにも哀しい
そして無いということには、無いという証明はいらない もし君たちが、そこに何か在るというなら現在の生物学、現在の考古学、心理学を越えてでも在るということを証明しなければならないそして歴史を見、

 人間が自由と平等という目的に向かい進んできた歴史をもう一度目を大きく見開き理解して欲しい 生命の起源、そこから人間の歴史が始まっていたのだということを観念を捏ね回さずに、純粋に受け取って欲しい                         1968年3月

 この詩は私が二十歳後半になった当時書いた詩である、創価学会の信者が四人ほど折伏のため来ていた。こちらの都合には関係なく夜中の二時三時まで、何とか入会させようと変わりばんこに私をせめて来た。だが私は学会が発行していた本を「確か折伏経典」「科学と宗教」とか何冊か読んでいたのでそれを話題に上げようとしたが。彼らは読んでいなかったため話を逸らそうとする。 その中に「生命は宇宙と共に存在し(?)後でもなければ先でもない」と言う一文を取り上げ、この文章「生命論」が学会を支えている。と言っても彼らには解らなかった。

「生命論」はかってヨーロッパで何度が取り上げられてきたが、キリスト教の「魂論」に対し異端として退けられてきた歴史がある。 私は無神論者(神の存在も信じないし、死後魂となって存在するはずもない)であり死は脳の破壊によって
「我思うゆえにわれ存在す」と言うことを掴みきれないもの。それが死である。 

 現代では政治に宗教をいれないということが政教分離というかたちで推し進められている。自民党と同じことを公明党がやっていたのでは今度の衆院選では浮動票(多分民社に入れる)の前に議席を減らすのではないだろうか。そのとき国民は政教分離を選んだことになる。 説明が長くなったが、詩はこのようなことから書いていた。
 この私が乗せた文章に対し冬目漱石さんから貴重なコメントをいただいた。以下にその全文を紹介したい。

 聖書は何を語るか? (冬目漱石)
2009-01-30 16:27:52

 はじめまして。人間が生きて行く途上で、様々な試練や悩みがあります。最近、「生きる意味が分からない。死にたい」という人が急増しているように感じます。明日に希望が持てない不安な時代でもあるからでしょう。しかし、こんな言葉を最近聞いたことがあります。

「あなたが”死にたい”と思って無駄に過ごした今日は、昨日死んで行った人が懸命に”生きたい”と思って努力した明日なのです。」人は一体、何のために生きているのでしょうか。人はどこから来て何のために、勉強し、働き、生きてどこへ向かっているのでしょうか。なぜ、人は孤独なのでしょうか。愛とは何か、生きる意味、死とは何かなどのことについて、ブログで分かりやすく聖書から福音を書き綴って来ました。ひまなときにご訪問下さい。http://blog.goo.ne.jp/goo1639/「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書)                   
 「生きる目的は一体何か」http://blog.goo.ne.jp/goo1639/m/200705「人生の目的と意味は何か」:http://blog.goo.ne.jp/goo1639/d/20060519

 コメントに対する返信が前後してしまったが、ここに書き残しておきたい。

冬目漱石さんコメントありがとうございました

2009-01-31 18:11:46 | Weblog
コメントを頂きありがとうございました。

私は今年72歳になる老人です。確かにあの世があったら素晴らしいと思います。
ただ無いのにあの世を信じろと言っても、それは人間の弱さに付け込んでいるだけだと思いませんか。

>人間が生きて行く途上で、様々な試練や悩みがあります。
>最近、「生きる意味が分からない。死にたい」という人が急増しているように感じます。

その原因は何なのでしょうか、経済的理由が大きいのではないでしょうか、また精神的に疲れている人も根底にあるのは経済的理由ではないでしょうか。不治の病でこの世を去る人もいます。その人に自殺は神の裁きにあうという言う前に、生きているということは今だけであり、あの世は無いのだから一秒でも多く生を全うしろといったほうが、そして周りの人が生きることを励ましてやることがお互いにいつかは死を迎える仲間だという気がいたしますが

>明日に希望が持てない不安な時代でもあるからでしょう。

その不安が何からきているかを神にすがるのではなく、あらゆる本を読んででも探るべきだと思いますが。
 
もう一つこちらから質問を出さしてもらいます。
生きていることに不安を感じるのは人間だけでしょうか。他の生物が生きていく中で不安を感じるとしたら。どのような方法でそれを処理しているのでしょうか。


エジプトはイスラエル寄りか

2009-01-12 17:39:03 | Weblog
 今回のイスラエルのガザ侵攻でエジプトの立場がイスラエル寄りであると報道があるが、私は決してのようには思わない。むしろハマスを温存しておきたいと言う気持ちがあった上でとっている調停ではないかと感じている。

 なぜならエジプトの国境からガザに延びているトンネル、イスラエルにとってはそのトンネルを潰すことがハマスを潰すことに繋がるからだ。トンネルを守ること、それが現在のアラブにとっても最大の願いでもあるといえる。

 またもう一つインドでのマハートマー・ガーンディーが無抵抗主義(不服従運動)という名の下にインドを独立に導いた意味合いに死傷者の数が似ているように感じる。
 以下は フリー百科事典『ウィキペディアより省略して引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC

1930年4月23日ガッファール・カーンは逮捕された。クダーイー・キドマトガルの群衆がペシャーワルの市場に集まった。英国政府は武装していない彼等や他の群衆に発砲した(イギリスの連隊の一つは彼等に発砲することを拒絶した)。複数の記事によると、群衆は非暴力の運動に教化され行動していた。前列の人々が倒れたらば後列の人々が前進し銃火に晒された。この衝突は朝11時から夕方5時まで続いた。

 現在のイスラエル(国民の多数)はあまりにも被害者意識に囚われ、自分たちが加害者になっていることを忘れているように見える。やがてはガザを自分たちの領土に組み入れたとしても周りにはアラブの人たちに囲まれていることを忘れているのではないか。一時的な戦局の有利さに現在酔いしれているように思える。かってはアメリカが基軸通貨(いくらでも紙幣が刷れる)によって助けてくれたが現在のアメリカの情勢から考えると今回は助けにならないのではないか。やがてはそのことも時間が明らかにしてくれることだろう。

 いつか本当の意味で自分たち(イスラエル)が被害国になったとき、どこの国が助けてくれるのだろうか。最終的には核を使うのだろうか。ただそのとき自分たちの国も核攻撃に晒されることだろう。

 

このブログでは経済中心で書き込みます

2009-01-11 17:34:46 | Weblog
 ちょっとした手違いから新しい題名のブログを作りましたが、開通していたの
を知りませんでした。
 
 上記タイトルで書き込みを入れますが、アダム・スミスの研究では何分にも翻
訳本をじかに読んでいませんのでこれから時間の取れる限り読んでいき、それか
らの書き込みになりますからまだ先のことになると思います。

 それまでは現在の経済情勢を私の理解できる限り書き込んでいきたいと考えて
います。

 今まで持っていました『楢篠賢司の人間とは何か』のホームページ、昨年の1
2月で終了しました。理由はプロにお願いしたHPでしたので更新が難しくそのつ
ど頼んだのでは費用がかかってしまうと言う理由でした。

 このgooブログではその点簡単に書き込めますので助かっています。

 経済を中心に書いていくと言うことでは『楢篠賢司の人間とは』『ちょっと寄
り道』的な時事問題からペットとの生活、私の病気のこと、季節の移り変わり
など日常的なことを書いていきます。

 読んでくださる方が一人でもいる限り続けていきたいと考えています。

 経済学的なことを書くにあたり別のブログに書いたことをここに再度貼り付け
ます、まだ続きがありましたので。

 
 題して『デフレはなぜ起きるのか?』
この題名でネットを調べたが本の販売はあっても題名そのものの回答は見当たら
なかった。そこで私なりに考えているデフレはなぜ起こるのかを書いてみたい。

 第一に挙げられることは貨幣が市中から消えてしまうことと言える。つまり市
中全体に貨幣が行き渡らなくなった状態がデフレである。物(商品)と貨幣
(お金)の交換において貨幣が少なく,逆に物が溢れている状態がデフレである。

  そこで二つの問題に行き着く。
一つはなぜ市中に物が溢れてしまうのかということと、二つ目はなぜ貨幣
(お金)が少ない状態が市中に現れるのかと言うことに尽きる。

 一つ目は金余り(流動性の増加)の中で世界的な低賃金国に投資がおこな
われ、安い労働力を利用した商品が世界中の消費経済を加速させてしまった。
 その状態では人々は物(商品)に群がりだした。そこで労働力には問題が
無か
ったが資源的に問題が起きると感じた一部の投資家が有り余る貨幣(市中に
出回る貨幣では無く数字上だけの貨幣(デフレと関係がある))を資源への買占
めへと投資先を移していった。
 
 これが原油、金属、穀物の資源インフレを作り出し、世界が驚愕したのは一昨
年の出来事である。

 だが米国で起こったいつまでも値上がりしていくと思って購入した住宅が下が
りだしたとき、ローンの支払い不能をきっかけとしてサブプライム問題が起こり
、やがて世界的な金融不安から金融危機へと発展してしまった。

 ここではデフレの前兆となったのがインフレである。市中に貨幣(お金)が溢
れていた状態が、いつの間にかデフレと言う状態に入ったとき、溢れていたはず
のお金はどこに消えたのか。またあらゆる所に膨大な損失だけを残し、有り余っ
ていた貨幣がいつの間にか消えてしまい、このままの状態を放置していけば手に
負えなくなると考えてか、公的資金注入で何とか切り抜けようとしている。

 この状態で各国が一番困惑しているのが失業者の増大である。経済情勢からい
つ暴動に発展するかも知れない社会を何とか良い方向へ向かわせるべく、未知数
だらけの状況、財政赤字覚悟の政策を採らざるを得ないと言うのが現在までの状
況である。

 続きは『なぜデフレが起きるのか』を分析してみたい。


 

09年から『神の見えざる手』を分析していきます

2009-01-03 09:21:29 | Weblog
 新年おめでとうございます。

 ほんのちょっとした手違いから楢篠賢司の人間とはから楢篠賢司の部屋に名前を変更させていただきました。

 哲学的に経済学を分析することは時間のかかる作業ですのでブログを頻繁に更新することは無理があるかと思います。以下は楢篠賢司の人間とはから移したものです。

 本来は昨日、1月元旦に書き込みを入れた最初に書く文章ですが、昨日は『富とは何かと』という昨年からの続きとしてまとめを書きましたので割愛しました。また富とは何かで思い当たることがあれば再度書き込みますが一応次の疑問に進みたいと考えています。

 それはタイトルに書きましたアダム・スミスの国富論の第4編第2章に現れる言葉であり、古典的自由主義経済における市場法則を指す熟語としてあまりにも有名な一説です。

 ただ私としては新・貨幣論の中で編集者の注意により見えざる手という言葉で書いています。本来は見えざる手なのですがいつからか神が付くようになったのかは知りませんが…

 以下の文章はウィキペディアの見えざる手から引用したものです。今回はこの考え方に現代的な生命を吹き込み新たな考えを思索していくつもりです。

 市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方。個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、社会における個人全体が利益を追求することによって、社会の利益が「見えざる手」によって達成される。このことは、価格メカニズムの働き、最適な資源配分をもたらすものとした。
 
 スミスはそのために、国家は国防・警察・教育等の必要最小限以外の経済活動への参入を否定し、あとは市場機構による経済の発展を重視すべしとの立場をとり、国家の経済への介入を批判した。スミスの国家観は「夜警国家」のそれであったということができる。
市場法則を神の摂理と捉えたところに、自然と神を同一視する楽観的な考え方であるとする指摘もある。この考え方は、後の新自由主義のイデオロギーとなった。