さくらが咲いた
◇ 今年のさくら
東京では3月24日に開花宣言があった。昨年より5日早いがそれでも例年並みの開花宣言だった。満開の見ごろにはまだ少し早いかと思ったが陽気に誘われるように上野へ花見に出掛けた。四分咲き五分咲き程度で満開の華やかさはなかったが、それでもやっと春が来たかという心躍るような気分になった。咲くさくらを見上げると、今年もまた花見ができたという感慨が毎年深くなっているように思えてならなかった。
季節が訪れたら当たり前のようにさくらを見上げていたが、来年もあるのだろうという思いが年ごとに強くなってきているように思えるのだ。さくらを見るたびに思いは駆け巡る。
週末はまた寒くなるという予報があったからか、まだ満開ではないというのに大変な人出で、人をよけるようにして歩かなくてはならないほどだった。許された場所ではシートを敷いて宴会が始まっていた。縁石に座ってアイスを食べながらさくらを見上げているカップル、動物園に向かう子供連れの若い夫婦、元気の良いおばちゃんたちのグループ、去年とまったく同じ風景だった。外国人旅行客の多さには驚かされた。私を中心に半径10メートルの円の中で日本人は自分一人だろうな、そんな気分にさせられるときもあった。
博物館が見える、噴水のある大広場の脇にある一本の大きなさくらの木の下に来て、何年か前のことを思い出した。それはちょうど満開を過ぎて風もないのに花びらがハラハラと散り始めていた頃のことだった。 途切れることなくいつまでも散り落ちるさくらを見上げていると、東南アジア系のイスラムの母親と娘が隣に立って同じようにさくらを見上げているのに気が付いた。中学生くらいだろうかまだ幼い顔をした少女は驚いたような表情をして口を開けたまま散り落ちる桜の下にいて、声を発することもなく両方の手のひらを上に向けた姿勢で固まってしまったかのように見上げていた。柔らかい風に散るさくらを見て心を動かされていることが分かった。母親のヒジャブのちょうど肩のあたりに一片の花びらが止まっていた。黒地の布にさくらの花びらがひとつ、そのとき一瞬の風が私とそのイスラムの母と娘を花びらで包むかのように覆い被せた。まるで映画の一場面のようだった。
◇ さくら
「サクラ」の語源の「サ」は「サツキ(五月)」、「サナエ(早苗)」、「サナブリ(早苗饗)」のように,全て稲田の神霊を表す「サ」、「田の神」や「穀霊」を表している。「クラ」は「神座(カミクラ)=神のいる場所」の「クラ」だ。「サクラ」は田の神が高い山から里に降りてくるときに、いったん留まる依代(よりしろ)と見られていた。田んぼの神様が山から下りて来られて桜の木に花が咲く、長く厳しかった冬ももう終わりだ、今年一年のみのりと皆が無事で過ごせるよう神様を迎え、食物や酒をお供えして祝った。桜の花が咲く頃が田の仕事を始める時期でもあった。「サクラ」は縄文晩期から弥生時代、現在に至るまで米を作って生きてきた日本人の素朴な信仰の対象だった。米と共にあった原日本人の心象風景のひとつ、だから日本人は「さくら」の季節になるとじっとしていられなくなるのだ。日本人のDNAが騒ぐのだ。
「古事記」には「わらう」という動詞が二カ所で使われている。「皆共にわらう」と「皆わらう」のふたつだが、「わらう」は「咲ふ」と書かれ「わら・ふ」とカナが振られ「皆共に咲ふ」、「皆咲ふ」と書き表されている。「古事記」が成立したのは西暦712年のことだが、それ以前から皆が車座になっておかしなことを言って笑い合っている様は、まるで満開の山桜が風になびいているようだと見て、それを実感覚として持っていたのだろう。人々は集い笑う、それはまるで咲いた桜のようだ。厳しい冬の季節を無事に乗り越えまた新しい年が始まろうとしているのを喜んでいるように咲き誇る、それと同じと思ったのだ。「笑う」を「咲ふ」と書いた古代人の感覚には驚きしかない。縄文人と弥生人が融合して古日本人になりやがて日本人が形成されていく。現代でも私たちは桜の木の下に集い、酒を飲みかわし歌を唄い、そして笑う。その場には笑顔しかない。
毎年桜を見上げるたびに、自分は縄文人のDNAを持つ日本人だと改めてそんな気持ちになる。桜を見上げるとなぜか頬が緩む、にんまりとしてしまう。周りを見回せば皆穏やかな顔をしている。
「万葉集」4516首になかの植物で一番多く歌われているのは「萩」で141首、「梅」は116首、さらに橘・花橘、菅・山菅、松、葦、茅・浅茅、柳・青柳、藤・藤波と続き、桜は41首で10番目になっている。
「古今和歌集」になると「梅」より「桜」が多くなる。全1100首のなかで「桜」を詠んだ歌は70首、「梅」を詠んだ歌は18首と「万葉集」と逆転する。この時代から「春」は「梅」ではなく「桜」になる。今では「花」といえば第一に「桜」を思い浮かべるが、きっとこの時代に日本人の心象に大きな変換があったに違いない。
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし(在原業平)」
「花の色は 移りにけりないたづらに わが身世にふる ながめせしまに(小野小町)」
「久方の ひかりのどけき春の日に しづ心なく 花のちるらむ(紀友則)」
誰でも知っている「歌」がこの時代に詠われている。
「芭蕉全句集」には983の全句が掲載されているがこのなかで「桜」を詠っているのは36句ある。小林一茶は生涯に約二万の発句を残している。芭蕉の句は端正で格調が高いが、一茶の句は自身の激しい思いがそのまま言葉になって表れたように思えてそれに魅かれている。芭蕉は江戸の名人であり宗匠、一茶は都落ちのようなかたちで信州に隠遁している。一茶の句には自分が望んだこととはいえ中央に容れられなかったという屈託が、その鬱憤のようなものが噴き出している。そして自分の死はもう目の前にあることを自覚していた。
上野の山に咲き出したさくらを見上げながら一茶の句が思い浮かんだ。
「死に仕度 致せ致せと 桜哉」
私も覚悟せねばならない。