女にとって男なんて生き物は、所詮理解の外のバケモンですわ。おなじバケモンなら見栄えと体で選んでも悪くないでしょう
檻をお読みいただいている方には説明不要ですね。主人公小早川徹二の準配偶者であり、不幸な生い立ちを跳ね返しきれずに、それでも生きぬいてきた女性です。
彼女はこの一連の物語では、サバイバーとしての役割がふられているので、作中で人生を終えることはありません(ネタバレ~)が、まぁ、せめて現実逃避くらいはさせてあげないと……。
『檻に棲む小人たち』『忘却』の二作において、彼女は二度愛した人と別れるという経験をさせられます。一度目は実際は小早川は生きていたし、妊娠していたという特別な状況の扶けも有って、無事に乗り切ることができました。
この再会後の二度目の永訣を彼女がどのように受け止めていくのかは、いつになるかは全く不明の最終章『架橋の讃歌』までナイショ。ひそかに楽しみにしていて頂けるといいんではないかと。
命があることを喜ぶことと、死別には必ず残されてしまう者がいるという事実。一つの意識体にとって永遠は決して恵みではないという確信。生への讃歌と死への感謝。諦めとともに受け入れるしかない死は、魂にとってきっとよいことに違いないという思いは、それでも永遠であって欲しいという願いと、どうやって共存していったらいいのでしょうか。
生きて残されたことは、いつかは自分が逝くべき立場になり、誰かを置いていくのだろうという確信が、諦めにならないように。有限であるものこそ、愛おしく大切に思う人の意識を貴重なものとして有り難く受け止めたい。
人が生きて存在すれば、色々な場面で役割がふられてくる。その時に、もてる力の全てを注ぎ込んで、粛々と役割を果たすよう努力するだけでいい。理解不能な異性というものを愛すべき役割がまわってきたならば、自分や自分の未来をどうのこうの守ろうとするより、単純に愛してしまった方が遥かに単純で間違わない。
人という塊の中に混在する様々な人格を、一応自由に行き来できる自律的生活ができていた短い期間である『檻』が終わってから『忘却』に至るまでの十数年は、彼女の中で、役割を果たすことがすんなりとできた、やはり幸せな時だったのではないかと思います。子どもを育てるという期間に、そのような単純を享受できる人生だったことは、作中で一、二を争う「絵に描いたような不幸」を伴侶にさせられている彼女にとって幸福であったのではないのでしょうか。
ここで自白。彼女は書きにくい。思う通りに動いてくれないことでも、ピカイチ。幼少時に過負荷として味わされた不幸は、子育てにおいてフラッシュバックを伴って、虐待やネグレクトへとすんなり悪のスパイラルを辿ることが多い。そうでなくても、女性として出逢ってしまった伴侶と物理的に添うことが叶わなかったんですよね。いくつもの育児困難への要素を完璧に持っていながら、一人で双子を育てきっているところは理解に苦しみます。
自傷行為を伴わず、社会生活も可能な程度に上手に解離していることはなんとか許せるとして、『忘却』では総合大学に教官職を得ていることを見ると、自分を扱いかねていながらも、社会生活との関わりにおいて平均以上のレベルで適応できているらしい。
物語の中で、彼女が果たしていく役割というか、彼女が埋めていくべき立場は明確に見えているのに、そうできた原因(もしくは勝因)を私は今も理解できないでいます。普通に生きられないだろう理由は山ほど有るのに、彼女はいつも軽々と(本人はそうでないといつも愚痴ってますけどね)普通に日常生活を営んでいます。女性が図太いことの単純な証明というだけではどうしても無理が有る。
そんなこんなで、あまりにも重要なポジションであるにもかかわらず、生き生きと描ききれていない不安はいつもあります。本当に彼女はよく分からない。困った人だ。
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檻をお読みいただいている方には説明不要ですね。主人公小早川徹二の準配偶者であり、不幸な生い立ちを跳ね返しきれずに、それでも生きぬいてきた女性です。
彼女はこの一連の物語では、サバイバーとしての役割がふられているので、作中で人生を終えることはありません(ネタバレ~)が、まぁ、せめて現実逃避くらいはさせてあげないと……。
『檻に棲む小人たち』『忘却』の二作において、彼女は二度愛した人と別れるという経験をさせられます。一度目は実際は小早川は生きていたし、妊娠していたという特別な状況の扶けも有って、無事に乗り切ることができました。
この再会後の二度目の永訣を彼女がどのように受け止めていくのかは、いつになるかは全く不明の最終章『架橋の讃歌』までナイショ。ひそかに楽しみにしていて頂けるといいんではないかと。
命があることを喜ぶことと、死別には必ず残されてしまう者がいるという事実。一つの意識体にとって永遠は決して恵みではないという確信。生への讃歌と死への感謝。諦めとともに受け入れるしかない死は、魂にとってきっとよいことに違いないという思いは、それでも永遠であって欲しいという願いと、どうやって共存していったらいいのでしょうか。
生きて残されたことは、いつかは自分が逝くべき立場になり、誰かを置いていくのだろうという確信が、諦めにならないように。有限であるものこそ、愛おしく大切に思う人の意識を貴重なものとして有り難く受け止めたい。
人が生きて存在すれば、色々な場面で役割がふられてくる。その時に、もてる力の全てを注ぎ込んで、粛々と役割を果たすよう努力するだけでいい。理解不能な異性というものを愛すべき役割がまわってきたならば、自分や自分の未来をどうのこうの守ろうとするより、単純に愛してしまった方が遥かに単純で間違わない。
人という塊の中に混在する様々な人格を、一応自由に行き来できる自律的生活ができていた短い期間である『檻』が終わってから『忘却』に至るまでの十数年は、彼女の中で、役割を果たすことがすんなりとできた、やはり幸せな時だったのではないかと思います。子どもを育てるという期間に、そのような単純を享受できる人生だったことは、作中で一、二を争う「絵に描いたような不幸」を伴侶にさせられている彼女にとって幸福であったのではないのでしょうか。
ここで自白。彼女は書きにくい。思う通りに動いてくれないことでも、ピカイチ。幼少時に過負荷として味わされた不幸は、子育てにおいてフラッシュバックを伴って、虐待やネグレクトへとすんなり悪のスパイラルを辿ることが多い。そうでなくても、女性として出逢ってしまった伴侶と物理的に添うことが叶わなかったんですよね。いくつもの育児困難への要素を完璧に持っていながら、一人で双子を育てきっているところは理解に苦しみます。
自傷行為を伴わず、社会生活も可能な程度に上手に解離していることはなんとか許せるとして、『忘却』では総合大学に教官職を得ていることを見ると、自分を扱いかねていながらも、社会生活との関わりにおいて平均以上のレベルで適応できているらしい。
物語の中で、彼女が果たしていく役割というか、彼女が埋めていくべき立場は明確に見えているのに、そうできた原因(もしくは勝因)を私は今も理解できないでいます。普通に生きられないだろう理由は山ほど有るのに、彼女はいつも軽々と(本人はそうでないといつも愚痴ってますけどね)普通に日常生活を営んでいます。女性が図太いことの単純な証明というだけではどうしても無理が有る。
そんなこんなで、あまりにも重要なポジションであるにもかかわらず、生き生きと描ききれていない不安はいつもあります。本当に彼女はよく分からない。困った人だ。
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