金生遺跡発掘の記録には、縄文後期半ばには、後に形成される配石の先端北位置に住居が出来ていたと言う記録がありました。
図はお借りしました
これを基にして、4500年前と当てづっぽうで言っていましたが、それに近いことを言っている人が居られました。
縄文中期には二至二分に基づいた立地の遺跡が散見されますから
縄文中期末には四立八節の暦の計算は完成していたもの考えます。
それを基にして遺跡が設置されるまでには少し時間が掛かるものでしょうから、
4777年前というのは良い線と思う。しかし数百年も後というのはちょっとおかしいかな。
元は下に引用しましたが良く理解できておりません、解説できる方にお願いしたいものです。
地球の歳差運動は遠い北極星には出てきても、日の出位置には影響しないと山梨県立科学館に確認していたのでこの話は、信じられないのですが。
引用ーーーーーー
★金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ヶ岳への落日
ちょうどこの例を説明しようと考えているときに、とても都合の良い記載が山梨県のホームページに掲載されました。「遺跡トピックスNo.323国史跡金生遺跡(きんせいいせき)〔北杜市」とした9月24日の記載です。この例でも、金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳の落日が冬至の日になるのは単なる偶然に過ぎないと覚めた見方をする人たちが未だにいます。縄文時代の人たちがそのような知識を持ちあわせているわけはないと本気で考えているのです。このような人たちが考えを変えてくれるように説明を急遽入れることにしました。
実はこの例もこれまで説明してきた山岳-縄文遺跡-縄文遺跡の三重点が直列となっている好例なのです。ここでは甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構が三重点となって直列に配列されています。
図K58 甲斐駒ヶ岳-中大塚縄文時代敷石遺構を結んだ線は金生遺跡のほぼ真上を通る
図58はその全体図を示したものです。このように山岳-縄文遺跡-縄文遺跡の三重点が直列になっている例は
①三ツ峠山-牛石遺跡-寸沢嵐石器時代遺跡 (図K34)
②大山-勝坂遺跡-高ヶ坂石器時代遺跡 (図K41、大寒)
③甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構 (図K58、冬至)
となり、図K58はその三例目になります。どの例も24節気に関係する太陽の運行と一致する線を持ち、しかも山岳の反対側に当たる端末の遺跡(寸沢嵐石器時代遺跡、高ヶ坂石器時代遺跡、中大塚縄文時代敷石遺構)はすべて扁平な敷石を持つ配石遺構となっています。この遺跡には、俗に「炉跡」と呼ばれている穴を一個持ちますが、柱穴に相当する遺構は見つかっていません。
かねてから主張しているように、この遺跡は住居跡ではないのです。しかも炉に相当する部分の石が焼かれた痕跡が全くない例があることから見ても、それが炉であるとする通説は絶対に間違った意見であることは明白です。どんな権威者がその穴が炉であると主張しても、ここまでわかってきたきた事例とは大きく矛盾しているのです。その穴が炉ではないとすると、その遺跡が住居跡であるとする根拠は益々薄れてきます。
次に、甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構 の直列の配列がどのような精度で配列しているかを示したものが、図K59です。
図K59 甲斐駒ヶ岳-中大塚縄文時代敷石遺構間を線で結んだ場合の金生遺跡付近を線で結んだ場合の金生遺跡付近を通る線
黄色の線は電子国土、青色の線は地理院地図、赤線はGoogleMap
図K59は甲斐駒ヶ岳から中大塚縄文時代敷石遺構に線を引いた場合に金生遺跡付近を通る線を示したものです。ここで、黄色の線は「電子国土」(7月に運用停止)、青色線は「地理院地図」、赤色の線は「GoogleMap」をそれぞ使用した場合の違いを示しています。この違いについては先に説明した図K57の説明を参考にしてください。この遺跡の大きさは一番長いところをとっても60m程度です。ここでは、遺跡の真の中心の位置についてはまだ書いていないので、この位置を棚上げし、この線の誤差を大きく見ても遺跡の大きさ以内であると考えると、甲斐駒ヶ岳から中大塚縄文時代敷石遺構までの距離約90kmと比較しても、0.07%しかありません。これは古代人が遠方の方向を高い精度で決めることのできた決定的な証拠にもなります。
ここで、冬至の日に金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳の落日がどのようになるかをシュミュレーションをして見ました。その結果を図60に示します。
図K60 金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ケ岳への落日2015/12/22 15:50 (山頂から外れている)方位54.2゜ 高度7.24゜
図K60を見ると明らかに山頂からずれています。一体このずれは何でしょう?・・・・図K59のズレでは観測できないほどのずれでしかないはずです。古代人が間違ってこのように遺跡を配置したとは考えられません。
実はこのズレの原因がわかると、驚くことがわかるのです。恐らく世界ではじめての成果であろうと思われる画期的な結論が出ます。
図K61 驚く直角精度を持つ鹿児島神宮(大隅国一宮)-竹島-中大塚縄文時代遺構、その補正内角は90.02° (原点竹島)
その前にこれまでと同じように、中大塚縄文時代遺構から竹島を経由した直角線がどこに到達するかを見た図です。ここでも、まるで神が決めたような90.02°のすばらしい直角精度で大隅国一宮である鹿児島神宮に到達しているのです。これまで、同様な線を偶然に違いないと考えていた専門家はこの事実に声も出なくなるに違いありません。ランダムな配列で、このような直角精度の発生する大雑把な確率は5千回に一回程度しかありません。この事実を否定することは学問を否定することを意味します。
2015.10.12 記
図K62 金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ケ岳への落日BC2000/1/6 15:56 (ほぼ山頂に落日)方位53.25° 高度7.52°
さて、前回の疑問、図K60で冬至の日の落日が山頂から外れていました。これは古代人の遺跡の位置の設定がいい加減であったせいでしょうか?、そんなことはあるわけはありません。これまで古代人が遠方の方向を極めて正確に知ることができたことは枚挙に暇のないほど実例をあげてきました。古代人がそのようないい加減の設定をする訳はありません。
そうです、古代人がそんなに間違いを犯すことはありません。これは天体現象によるもので、古代人が遺跡の位置を設定したとき、冬至の日には正確に甲斐駒ヶ岳の頂上に落日していたのです。この天体現象は地球の歳差運動などによるものです。この運動の主となる周期は25,920年とした長い周期ですが、4千年にもわたる長い期間になるとこのように現れてきます。
図K62は紀元前2千年1月6日(冬至、黄経約270°)の日の落日をシミュレーションした結果です。ここでは甲斐駒ヶ岳のほぼ頂上に落日しています。BC2,000年にしたのは単に切りのいい数字を仮に選んだだけです。(これに関する正確な議論は後に書く予定です)
++++そうなのか 紀元前3000から2500年前と思うのに
正確な議論は後にして、この落日の様子から、縄文時代である今からおよそ4千年前、冬至の日に金生遺跡から望んだ夕日は甲斐駒ヶ岳の山頂に落日し、しかも遺跡から山頂を望んだ線は大塚縄文時代敷石遺遺構-金生遺跡を結んだ線の延長線と一致していたことになります。
言い換えれば、大塚縄文時代敷石遺遺構-金生遺跡の位置が決められたのは大雑把に見てほぼ4,000年前の縄文時代に決められたことになります。これは考古学的に見た遺跡の年代とほぼ一致していることになります。このように、古代人が太陽の運行を正確に把握する能力があり、しかもそれを利用するとができたその時期がおよそ4,000年前であったことを直接証明するものです。これは、14Cや年輪年代法とは別の方法で縄文遺跡の年代を決定した最初の証拠ではないかと考えています。
このページは書きかけです。
2015.10.18記
すっかりHPの更新が遅れてしまいました、10月は対馬と壱岐に調査に行くなど全く別の問題にも取り組んでいて、そちらの方に時間を取られてしまいました。続いて行く予定の、喜界島、奄美大島、種子島などを調査してからその結果を載せる予定でいます。ここでも、信じられないような発見が続いています。
それはさておき、ここで図K62からの続きを書きます。
図K62はシミュレーションの年代を切りの良いBC2000年としました。ここでさらに時代を遡ってBC3000年としたらどのようになるかを示したものが図K63になります。
図K63 金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ケ岳への落日BC3000/1/13 15:57 (ほぼ山頂に落日)方位53.17° 高度7.52゜
図K63を見るとK62と比較して、向かって左側にずれていることがわかります。ここで、古代人が図K58をイメージして落日の様子を意図した年代はBC2000から3000年ほどであることがわかります。ここでは1000年もの開きがありますから、目視ではなく、数値を使って詳しく調べて見ることにします。
まず、冬至の日に金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日がどのように変わるかを年度別にシミュレーションをしてその結果を表1に示しました。この計算は地球の歳差運動だけでなく、周辺の惑星の運動による摂動、地球の自転速度の変動まで考慮した精密なもので、太陽の位置の精度は角度で秒単位の精度を持つと言われています。また図K64は表1の結果を表にしたものです。
年度 冬至 時間 方位(度)高度(度) 黄経(視位置)
AD2015 12月21日 15:48:34 53.989 7.454 269度49分54秒
AD2000 12月21日 15:48:32 53.985 7.455 269度42分21秒
AD1000 12月16日 15:50:43 53.805 7.454 270度32分54秒
AD1 12月23日 16:52:38 53.654 7.454 270度16分36秒
BC1 12月23日 15:52:46 53.625 7.455 270度31分34秒
BC1000 12月30日 15:54:43 53.454 7.456 270度19分31秒
BC2000 1月6日 15:56:25 53.317 7.455 270度31分55秒
BC2400 1月8日 15:56:33 53.271 7.456 269度42分04秒
BC2500 1月9日 15:56:49 53.264 7.455 269度59分41秒
BC2600 1月10日 15:57:03 53.258 7.455 270度16分53秒
BC2800 1月12日 15:57:06 53.241 7.456 269度51分53秒
BC2900 1月12日 15:57:18 53.236 7.456 270度08分50秒
BC2950 1月13日 15:57:24 53.235 7.455 270度17分10秒
BC3000 1月13日 15:57:33 53.235 7.455 270度26分12秒
表1 年度別冬至における金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日
紀元前(-符号)横軸(年度)、縦軸方位(度) 紀元後横軸(年度)、縦軸方位(度)
図K64 地球の歳差運動などによる金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日点の年度別変化
(高度7.455度)
表1で落日点の方位は南を0度として表示しています。したがって、この方位角が下がるほど南方向に落日点が向かうことを意味します。言い換えると、図62、図63では方位角が下がるほど向かって左側に落日点が移ることになります。
★金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構が作られた年代の決定
ここで金生遺跡から甲斐駒ヶ岳を望んだ方位を見る目的で、下記緯度・経度を国土地理院の「距離と方位の計算」に入れると、
ポイント
緯度
経度
出発点
金生遺跡
(石棒付近)
35度50分53秒71
138度23分06秒22
到着点
甲斐駒ヶ岳
35度45分28秒63
138度14分12秒38
出力値として下記の値が出ます
測地線長
16,734.322(m)
方位角
出発点→到着点
233°15′52.98″
到着点→出発点
53°10′40.68″
一方、国土地理院の方位角は真北を基準とし、右回りの角度で示しているので、真南を0としているシミュレータ(ステラナビゲータ)の方位角に合わせるには180度をマイナスします。すると出発点の金生遺跡から甲斐駒ヶ岳を見た方位は上の表の「出発点→到着点」の値から180度を引いて58度15分52秒98になります。
この方位を10進に直すと53.247度になり、この値を図K64に適応するとBC2,700年あたりの方位と一致しそうなことがわかります。さらに細かく、この付近の年代についてシミュレーションを行うと下記表に示すように、紀元前2,777年1月12日(冬至)の日にその方位が53.247度となり、完全に一致することがわかりました。
年度
冬至
時間
方位(度)
高度(度)
黄経(視位置)
BC2,777
1月12日
15:57:15
53.247
7.2454
270度16分27秒
図K65 縄文人が紀元前2777年1月12日(冬至)に金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳への落日
図K65は図K62、図K63と同じようにも見えますが図K65が紀元前2,777年1月12日(冬至)の金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳の落日です。言い換えると図K58で示した金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構の位置はこの日の落日をもとにして決められていたことになります。
これまで、縄文時代の遺跡の絶対年代を知る比較的に確かな方法として、14Cまたは年輪年代法の二つがありましたが、ここに新しい方法が加わったことになります。ここから金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構の遺跡が作られた年代がBC2,777年頃であることがわかったのです。ここで、同様な遺跡の配置を見つけ、さらに多くの例で検証すれば、縄文時代の遺跡の作られた年代が次々と明らかになる可能性が出てきたことになります。
注;ここで得られた年代は次にあげる誤差が考えられます。まず、古代人が基準とした金生遺跡の正確な位置です、今回は石棒の検出された付近でシミュレーションを行いましたが、HSCPで求めた遺跡の中心位置はこの位置よりも東側の未発掘の位置にあることがわかっています。さらに、遺跡から駒ヶ岳を見上げた迎角もまだ近似値です。気差の問題や正確なジオイド高を考慮すれば、さらに精度が上がります。
++++そうなのか
ところで、国際縄文学会のホームページに新津健氏(元山梨県埋蔵文化財センター所長)の書かれた『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義』 に興味深い記載があります。金生遺跡からは猪の骨がたくさん検出されましたが、その多くが幼獣の骨であったことです。春に生まれた猪が冬至の頃になると、その骨の大きさに達する可能性があるそうです。とすると、その骨は冬至の日にあった何かの祭祀に使われた可能性が考えられるのです。現在も残っている宮崎県西都市銀鏡の銀鏡神楽(しろみかぐら)や日ユ道祖論でもイサクの燔祭と相似であると取り上げられている諏訪大社の御頭祭などの関係を見ると興味の尽きないものがあります。
また、本土から遠く離れた伊豆七島・八丈島にある倉輪遺跡でも、元来生息していなかった猪が検出されています。もしかしたら、この猪も祭祀に用いる目的で本土から連れて行ったことも考えられます。出典を忘れてしまいましたが、東北の縄文遺跡で幼獣の猪しか検出されないことから、その時期は食料が極度に欠乏していたとする記載を見た記憶がありますが、この結論も先の事実を併せると、再検討を迫られのではないでしょうか?。
2015.12.22記
このページは書きかけです。
注;角度の計算は、国土地理院「距離と方位角の計算」で計算しています。
計算式はこのサイトからリンクしています。(公式に認められている計算式です)。
「補正内角」は、この式で、屈曲点から対象ポイントまでの測地線長が100kmを超える場合、屈曲点から約100km地点における線上のポイントを取り、その値を同じ計算式に入れた値です。(楕円体モデルはGRS80)
補正内角の表示のない単に「内角」としている角度は、屈曲点から100kmの位置ではなく、実際の対象点の位置で計算したものです。いずれ、これらも「補正内角」に訂正する予定です。
線を引いている地図は国土地理院の「電子国土」です、新しい「地理院地図」が公開され、2014年の3月限りで「電子国土」は停止になる予定でした。 しかし、この研究には不可欠な地図なので、特別な計らいで延期させていただきました。こんな理由もあり、事情を良く知らない人は、この地図をうまく使うことが出来ない可能性があります。
その後、旧システム停止予定期限の近づいた時点で、さらなる運用の延長をお願いしましたが、今年(2015年)の7月に「電子国土」は運用停止になってしまいました。これまで、国土地理院からは電子国土のシステムを私の研究に合うように多くの改良をしていただいたおかげで、大きな研究成果を得ることができ、とても感謝しております。しかし、今年の7月にはとうとう旧システムは廃止になってしまいました。システムの廃止を決定した責任者は電子国土システムの責任者である情報普及課長とのことです。未だに、このような頭の堅い人がいることは残念でなりません。