金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

隆起線文土器の製作  弓の弦・矢・石鏃の完成

この土器に関して今まで付けられている模様まではっきり見たことが無かった。
細かく付けられた模様を見て、この土器も供献土器では無いか、それも弓矢の完成を記録しているものと考える。
弓矢のハイテクは、弓に張るための弦と、矢の石鏃の開発では無いだろうか。
それまで狩猟に使ってきた大きな槍の穂先から小さな鏃を作ること、この製作は相当な細工の腕前を必要としていて、これほどの小さなものを作ることの出来るのは、限られた人だったのでは無いか。

 


さらに弓に張るための弦はどのような繊維とか動物の腱など何が使われていたのだろうか、これも相当なハイテク製品であったのだろう。
弦と石鏃、この完成は誰の目にも大変な驚異だったのでは無いか。
それまで捕らえることが難しかった遠くに居て、すばしこく逃げる動物を難なく倒すことが出来る飛び道具は食糧確保に格段の進歩をもたらした。
それは当然最新の造作物である土器にその姿を記念していたのでは無いだろうか。

     石鏃の逆V と弓の弦 綱 縄


この土器の模様を見た時、一見してそう信じてしまうだけのインパクトがあった。

その後の土器は、何れもそのようなものとして創作されたものと考える。
撚糸文土器  釣り糸と釣り針の開発により魚釣りが出来る
土器 煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えたというように
    縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。
それまでの焼き肉から、釣った魚を煮るために造られたものなのか。

ほぼ完全な形で残されている土器は、そうしたことを記念する為に作られた供献土器だったのでは無いだろうか。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

土器の模様の詳細が見えるような写真を載せてくれていたのは次のウェブの情報でした。これだけはっきり見える土器の写真は、なかなかありません。ここの引用では不完全なので、不十分です、是非掲載元の写真をご覧ください。 特に撚糸文土器では、このような写真が欲しいのですが、色々探しても、撚糸の詳細が見えるほどの良い写真はまだ有りません。ーーーーーーーーーーーーーーここまでコメントです。

神奈川県横浜市の花見山遺跡から出土した隆線文土器(横浜市指定有形文化財)横浜市歴史博物館所蔵。
 Saigen Jiro - 横浜市歴史博物館展示。Saigen Jiroが撮影。
花見山遺跡出土 隆線文土器

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隆起線文土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

神奈川県横浜市の花見山遺跡から出土した隆線文土器(横浜市指定有形文化財)横浜市歴史博物館所蔵。
隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)は、口縁部や胴部の上位に粘土を帯状にめぐらせる意匠(隆起線文・隆線文)とその手法が用いられた、縄文時代草創期初頭の一群の縄文土器をいう。
北海道や南西諸島を除く各地に分布する。

概要
器形は丸底や平底の屈曲のない深鉢形をしており、いずれも小型である。この系統の土器群には、豆粒状の粘土粒を貼り付けたもの、粘土紐を口縁部に直線的や曲線的に巡らせたもの、ヘラ状の道具を用い横方向に引くことによって同じような効果を出すものなどがある。

神奈川県横浜市都筑区の花見山遺跡では隆起線文土器が多量に出土し、標式遺物として「花見山式」と呼ばれることがある(横浜市指定有形文化財)[1][2]。

日本列島最古の土器とされてきたが、より古い土器の存在が明らかになった。例えば長崎県佐世保市の泉福寺洞窟出土の豆粒文土器や、青森県東津軽郡外ヶ浜町の大平山元遺跡出土の無文土器などである。

形式の新旧
豆粒文と呼ばれる文様を持つものを最古段階に位置し、隆起線文の太さは、時代が新しくなるほど細くなる傾向がある。隆起線文→細隆起線文→微隆起線文と順次流線文が細かくなり、新しい段階に移っていくと考えられている。
放射性炭素年代測定法によれば、
長崎県佐世保市吉井町の福井洞穴出土の隆起線文土器はBP1万2700±500年、
愛媛県上浮穴郡久万高原町の上黒岩岩陰遺跡出土の細隆起線文土器はBP1万2165±600年である。
脚注
^ 横浜市歴史博物館 1995, pp. 15.
^ 「国・神奈川県および横浜市指定・登録文化財目録(PDF版)」横浜市HP
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早期
約1万年前-6千年前[注 59]
気候
環境 日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。その後、海水面の高さが戻る。鬼界カルデラの噴火で西日本一帯に火山灰が積もる。
生活
住居 数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。
狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。
石器 網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていた。

土器 煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
遺跡 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝の種別はヤマトシジミが主体。狩猟とともに漁労が活発化した。

最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。縄文犬を人と一緒に埋葬。屈葬。
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 また尖底土器が縄文草創期と早期全般に見られる型式で、他の時代の、平底の土器のように地面にそのまま置けず、地面に突き刺して置くしかない。煮沸具としての熱効率や土器の製作技術の必要性から工夫されたようだ。縄文土器製法の一般的なものは、作る際、上下逆で口縁を下にして、上に積み上げて順次、凸状にして完成させた。

 東北地方はこれにやや遅れ、草創期から早期に入っても、東北地方ではしばらく土器様式のはっきりしない時期が続いた。
 早期前半、関東地方一円に撚糸文土器様式が展開し始めた頃、東北地方ではその南半分の地域まで、僅かにその撚糸文土器を携えた人々の往来があるのみで、草創期の高畠町の洞窟遺跡群周辺では、その後の活動址が見られない。

 しかし、早期中葉になると様子は一変した。日計式押型文土器(ひばかりしきおしがたもん)が登場し、この段階で東北地方にも竪穴住居が普及し、はじめて初源的な集落が形成された。
 日計式押型文土器は、同じ頃中部地方で盛行する単純な山形文の押型文土器とは違い、棒状の施文具に複雑な連続鋸歯状文(れんぞくきょしじょうもん)を刻み、それを尖底土器の外面にころがして、幾何学的な連続文を付ける土器である。名称はこの土器が初めて学術的に調査された、青森県日計(ひばかり)貝塚に由来する。
 この土器を持つ文化は、東北地方ほぼ全土に広がり、明確な様式としての特徴を備えた最初のものとなった。

 そして、間もなく、今度は土器の文様施文具に貝殻を多用する、サルボウやアカガイなどの二枚貝を押し当ながら引いて沈んだ線状の文様(沈線文)などを施す貝殻沈線文土器(かいがらちんせんもん)様式に移行した。
この時代になると、極めて密度の高い縄文社会が確立していき、目まぐるしく土器様式は様相を変えていく。他の地方の比ではなく、東北地方における縄文人の急速な生活様式の変革が読み取れる。
 この様式は、細かな型式の変化で、古い方から白浜・小船渡平(こみなとたい)、寺の沢・物見台、吹切沢の各型式に別れる。物見台式や吹切沢式の時期には、青森県千歳や岩手県長瀬などで7~8 軒から10数軒の規模を持つ集落が各地につくられていた。 もちろん、一時期に存在した竪穴はせいぜい2~3軒だ。まだ中期の大集落とは較べものにはならない規模ではあるが、縄文時代の地縁的集団の芽生えが、ここには確かに認められた。

 長瀬の遺跡では長径10m近く、竪穴の堀込みの深さが1mにも達する堅固な住居跡が発見された。何よりも、この貝殻沈線文土器様式は、北は津軽海峡を越えて北海道南部まで、南は撚糸文土器様式の後に生み出される関東地方の沈線文土器様式にまで、驚くほどの浸透力でその影響を及ぼし、中部地方以西の土器様式を代表する押型文土器様式とともに、日本列島を東西に二分するほどの文化力を示した。
 この段階で、竪穴住居、集落、貝塚、土偶、磨石(すりいし)・凹石(くぼみいし)など植物性食料加工具としての石器など、縄文文化の主な要素をすべて獲得し、縄文時代前期以降揺るぐことのない“縄文王国”としての「東北」の地位が確立した。


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