明治の初め、日本最初の西洋式近代港の建設を目指した”野蒜築港”鳴瀬川の河口を挟んで仙台側には新町と言う地名が残り
石巻側には市街地という地名が残る位が当時の名残を忍ばせる、今となってはいわゆる一つの郷土史である、
”夏草や つわものどもが 夢のあと” そんな句が思い出させる歴史の一コマに他ならないのであろう、
誤解のないように申し上げておきます、ここで郷土史をネタに長々とその解説をしようなどどいう趣旨ではありません
(興味のある方は、ウィキぺディアあたりで検索してみてください)
当局の明治生まれの、ばあちゃん(とっくに故人)は新町の和菓子屋の出身、
当時、野蒜築港バブルで大阪あたりの大棚(大阪商人)が大挙してやってきたと言う
その一つの名の通った砂糖問屋から、ばあちゃん実家の和菓子屋で砂糖の取引があったみたい
どうやらそこで砂糖問屋の手代(てだい)と、うら若きばあちゃんといい仲になったみたい
その後、野蒜築港が頓挫して大棚が引き上げてゆくときに置き土産において行った煙草入れとキセルだとの事
(ちなみに、当時の商人社会の序列、上から順に、主人、大番頭、番頭、手代(てだい)、丁稚(でっち)こんなところだろうか
さしずめ、手代(てだい)とは今でいう営業課長みたいなものである 丁稚(でっち)は裸足にわらじそして前掛けからスタート
手代(てだい)に昇格すると、足袋に下駄、角帯、そして煙草入れにキセル、いわゆる一服ツールが与えられると言う訳である)
でも、うちのばあちゃん、この、一服ツールを持って、うちのじいちゃんの所へ嫁に来たと言う訳か・・・・
うちのじいちゃんそのことを知っていたのだろうか、何とも複雑な気持ちであり微妙な感じがする、
そして、じいちゃん、ばあちゃん、亡き後
当局のおやじが持っていやがった、うちのおやじいわく
この作りが凄い、かなりのハイレベルだと信じて自慢していました・・・?
多分、これは中国製だ、今の中国製と違い、当時はハイカラと言う言葉がある位で
唐の国が日本にとって最先端の時代 そこから取り寄せたものに違いないと言っていましたが・・・・・・?
そういわれればそのようにも見えてくるのですが、
これは、わに革で金具は銀と真鍮と銅(緑青がふいている)をくっつけて竜をかたどっているらしい
キセル入れは象牙で漆塗り加工がされていると言う、
飾りに水晶玉が付いている
これは、いいもんだ、と、よくおやじが自慢していました、
状況証拠からして、確かに時代は明治以前のものに間違いはないようですが・・・・
所で、なぜこれが当局のもとにあるのか・・・・
先日、当局の母君と、お兄様と、お話しする機会があり、二人ともあまり興味がなく両者承諾のもと
頂いてきたと言う訳であります、じいちゃんにはちょっと可哀そうだが、ばあちゃんのロマンスと父ちゃんの品質に対する
思い入れ、明治、大正、昭和、平成、令和の時代を紡ぐ我が家のチョットしたストーリー
そんな些細なことでも、こだわりを持つ、当局結構そういうの好きなんですww
実は、この他に、もう少し狙っているのがあるんですが、
今後の、母君と、お兄様との駆け引きと交渉に望もうかと思いますww
話は、何か、滅茶苦茶になりますが、最近こんな歌が好きでよく聞きます、
誰でも知っている歌ですが、最後に紹介して
ではまた・・・VA・・・E・・・・E・・・END