日本福音ルーテル恵み野教会

日本福音ルーテル恵み野教会のブログです。

礼拝は、毎週日曜日午前9時より

11月3日 教区秋の集い

2022年12月15日 | 活動の様子

11月3日(木/祝)に「教区秋の集い」が開催されました。

新式文と教会讃美歌増補版を用いての礼拝と、4-5人のグループに分かれて愛唱讃美歌を発表する時間を持ちました。

参加された方々からは好評をいただき、とても良い時間となりました。

 

なお、参加できなかった方も、礼拝部分のみとなりますがyoutubeに動画をUPいたしましたのでご覧ください。

https://youtu.be/okUF2lM-59A

 

大変な季節がまだまだ続いていますが、主にあって心満たされて参りましょう。


6月27日 聖霊降臨後第5主日

2021年06月27日 | 活動の様子

段々と暖かくなり、夏が近づいてきましたね。

コロナも落ち着いてきたところで、恵み野教会も一週間は様子を見つつも、7月4日から礼拝を再開することといたしました。

緊張も不安もある現状ですが、主の平安に共に与ってまいりましょう。

 

礼拝はオンラインで行っています。礼拝再開後もオンラインは、信徒礼拝となる毎月第1日曜日を除き、継続する予定です。

本日の礼拝→https://www.youtube.com/watch?v=7qiV71udK7s

 

 

聖霊降臨後第5主日(緑)

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

憐れみ深い全能の神様。あなたの民の祈りを聞いてください。あらゆる危害から私たちを堅く守り、信仰と希望のうちに私たちを成長させてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

第1朗読 哀歌3:22~33         (旧1289)

第2朗読 二コリント8: 7~15 (新334)

福 音 書 マルコ5:21~43     (新70)

〇説教…別紙

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第5主日です。あなたがすべてのものを飛び越えてやってきてくださったことを喜んで受け取って、私たちもまたすべての人のところに飛び越えていく働きへと召し出されていきますように。私たちの信仰をあなたが強め、導いてください。

かつてあった日常はすでに取り去られ、私たちは新しい日常を生きなければなりません。しかし、私たちは信仰によって常にあなたの平安の中を生きています。そのことを忘れずに、あなたと共に生きていけますように、私たちの日々を守っていてください。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害や疫病と格闘する人々を覚えて祈ります。臆病を抱える人、引け目を抱える人、罪を抱える人、嘆きを抱える人、不満を抱える人、疲れている人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの招きと癒し、恵みと平安とが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

 

「自白」

(哀歌3:22-33、マルコ5:21-43)

 緊急事態宣言も解け、段々とワクチンも回り始め、少しずつかつての日常へと戻ってきているように感じます。しかし、まだまだ不安もあるということから、恵み野教会では礼拝の再開を7月4日からとさせていただきました。私たちはかつての日常への回帰を望みがちですが、世は常に動き、私たちもまた日々新しい日常を生きなければならないのでしょう。中々に落ち着かないかもしれません。けれども、私たちは常に一つの信仰の上に立っている。それゆえに、常に神の国という平安の中を生かされていくのです。そのことを、今日もまたみ言葉から受け取っていきましょう。

 今日与えられたみ言葉には、二つの救済物語が描かれています。長血を患う女と、ヤイロの娘の救済物語です。導入はヤイロの娘の物語から始まりますが、その間に長血を患う女の物語が入れ込まれています。これはマルコの特徴的な描き方であり、そっくりそのまま「サンドイッチ技法」と呼ばれます。安易な名づけですね。この技法がとられる場合、二つの物語に関連性が発生しているわけですが、今日の箇所ではどのような関連性があるのか。一つ言えることは、境界線を飛び越えていくということでありましょう。本当であればこの物語から語りたいことはたくさんありますが、それをするととんでもなく長くなってしまうので、今日は二つの物語の関連性に注目しつつそれぞれの物語を読みたいと思います。

 まず長血を患った女の物語。彼女は12年間も血が止まらず、当時の規定によれば「不浄の人」とされ、つまりは汚れた人と認識されてしまっていたのです。社会的弱者とされた彼女にとって、既に癒しの担い手として有名になっていたイエス様に近づくことは、単に人をかきわけていく以上に大変なことでありました。けれども、彼女は人をかき分けて、救われたいという思いの中でイエス様の衣服に触るのです。ここでは衣服に触る行為というよりも、救済を願いイエス様の許にやってきたことが重要です。それによって、彼女は救われていくこととなりました。勝手にしかれてしまう社会や偏見の目といった境界線、これを飛び越えていった先で、彼女は救い主と出会ったのです。

 さて、もう一方のヤイロの娘もまた、ヤイロが信仰によってイエス様を求めたことで救済されていきます。ヤイロは会堂長ということで、人々から尊敬を受け、また身分の高いものでありました。そのため、本来であればイエス様のところにも人をやって来てもらうように頼むのが一般的なものだったと考えられます。しかし、ヤイロは自らやってくるのです。しかも、イエス様の足元にひれ伏して。ここには単なるひれ伏すこと以上の意味があります。ヤイロの所属がどこかは分かりませんが、既にファリサイはの人々はイエス様を殺す計画を立てていた(3:1-6)ほどでしたから、イエス様にひれ伏すことは彼らと敵対していくことになるのは必至であり、勇気のいるものだったでしょう。それでもヤイロは、娘のために、彼を取り巻くすべてのものを飛び越えて、イエス様にひれ伏したのです。

 その飛び越えていった信仰によって、ヤイロの娘もまた、信仰によって救われたのです。長血を患う女、ヤイロの娘、この二つの物語はまさに、様々に引いてしまう境界線を、その信仰の力によって飛び越えていったために起こった救済物語であり、「あなたの信仰があなたを救った(34節)」という言葉に結びついていくのです。

 さて、ここまでを読んで皆さんをどのように思ったでしょうか。境界線を飛び越えた、長血を患った女とヤイロの姿を見ると、私たちはつい「なりふり構わずにイエス様を求める信仰」が求められていると読んでしまうかもしれません。しかし、今日の箇所で重要なことは、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉にあります。

 確かに、今日の箇所で境界線を飛び越えていった二人とも、それぞれに勇気のある信仰の姿を示し、その強さを私たちに見せてくれました。しかし、その救済の先でイエス様は「信仰が」あなたを救ったと言われているのです。そう、彼女・彼が凄いのではなく、「信仰が」二人をその場所まで導いたのです。信仰はそれほどまでの力があるのです。これは私たちにも言えることでしょう。そもそも、神を信じるというのは、現在の科学を根拠にする世界であれば非科学的なことでありましょう。救いを神に委ねるというのも、理性に基づいて考える現代を生きる人々からすれば、非理性的です。それでも私たちが神に委ねるのは、私たちに与えられた信仰が、その境界線を飛び越えさせてくださるからでありましょう。私たちもまた、彼女たちと同じように、境界線を飛び越えていく信仰が既に与えられているのです。

 そしてさらに、境界線を飛び越えるのは信仰だけではありません。イエス様は長血を患った女にこう呼びかけています。「娘よ」と。この呼びかけは、イエス様が彼女を神の家族として迎え入れ、ご自身の懐に招いたことが良く分かる、親密さを示す呼びかけです。つまり、信仰が、私たちがさまざまに引いてしまう境界線を、時にそれは常識だったり社会だったり偏見だったりを飛び越えさせてくださると共に、イエス様もまた神と人というとてつもなく大きな境界線を飛び越えてきてくださるのです。そのようにして、人が神を求め、神の側に向かっていく信仰と、神が人を愛し、人の側に来てくださったイエス様とがぶつかるところで、恵みが起こっていくのです。その二つのものを、私たちは忘れてはなりません。

 私たちは今、まさに境界線をたくさん引いてしまう社会を生きています。格差や差別、思想や偏見、見渡せばかくもたくさんの線があるのかと思わされてしまいます。しかし、イエス様はそんなものはおかまいなしにやって来てくださるのです。その恵みを受け取った私たちもまた、そんなものはおかまいなしに、ただただ愛の働きに押し出されていきたいと思うのです。縮こまりやすいこのご時世だからこそ、私たちを愛の働きへと導く神の愛に身を委ねて、遣わされていきましょう。

 

 

 

次回の礼拝予定です。

司式説教:中島和喜牧師     説教題:「故郷」

聖  書  :エゼ2:1-5、マルコ6:1-13

賛美歌  :295(1)、289(1)、295(3)


6月20日 聖霊降臨後第4主日

2021年06月20日 | 活動の様子

おはようございます。

本日も寒いですね。上着の選択に悩むところです。

 

さて、本日も家庭、あるいはオンラインでの礼拝となります。

式文、説教を掲載いたします。

また、youtubeのアドレスは以下の通りです。

https://youtu.be/BqKE9m8PhG8

 

主の祝福が守られますように、お祈りしています。

 

 

聖霊降臨後第4主日(緑)

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

すべてのものの創り主・永遠に輝く神様。あなたは海と陸を治め、光と風を司られます。強い御手で導き守り、あなたの知恵で諭してください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

第1朗読 ヨブ38: 1~11         (旧826)

第2朗読 二コリント6: 1~13  (新331)

福 音 書 マルコ4:35~41      (新68)

〇説教…別紙

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第4主日です。私たちが日々の不安を抱えることなく、あなたへの信頼から安心して日々を過ごすことができますように。起きることなく眠るように、信仰生活を送ることができますように、私たちを導いてください。

体調を崩されている方が多くおられます。季節の変わり目でもあり、崩しやすい季節でもあります。私たちは一つの変化に戸惑い、心を乱すことがたくさんあります。けれども、あなたが守っていてくださることを覚えて、日々の平安が守られていきますように。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害や疫病と格闘する人々を覚えて祈ります。非難を抱える人、疑いを抱える人、無関心を抱える人、憎悪を抱える人、怒りを抱える人、疲れている人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの癒しと慰め、平安と眠りとが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

 

「眠る」

(マルコ4:35-41)

 緊急事態宣言がいよいよ終わろうかという中にあって、しかし札幌では蔓延防止策がとられることとなりました。札幌との行き来が多い恵庭市にあって、果たして礼拝を再開して良いものかと頭を悩ませる日々であります。まだどうなるかは分かりませんが、それでも神のみ言葉は絶えず私たちに与えられています。不安や悩みが多いこの時にあってこそ、今日もまたみ言葉から安心を受け取っていきたいと願います。

 さて、先週に引き続き今日も4章が読まれましたが、同じ4章と言っても34節と35節の間で場面が大きく移り変わっています。先週の箇所、つまり34節まではまるで格言集かのようにイエス様のたとえを用いた説教が連続して語られていたわけです。恐らくこれはイエス様の話の中で有名になっていたものをマルコ福音書の記者が編集して一か所に集めたと考えられているということを先週お話ししました。そこから、今日の箇所である35節に入ると、イエス様は話すのをやめてその歩みを再開していることが分かります。そして今日の箇所から6章6節までイエス様の旅路が記されているため、34節から35節の間で説教のターンから旅路へと移り変わっているというわけです。

 なぜここまで場面が移り変わったということを丁寧に語っているかというと、場面が動くということは、主題が変わっていくということでもあるために注意する必要があるからです。先週まで読んできた34節まででは、イエス様から与えられたみ言葉を通して神の国に招かれていくという豊かさを教えていただいていました。つまり、宣教の始めの宣言から奇蹟行為を目撃した人々に向けて、信じて神の国に招かれなさいという喜ばしい招きが語られていたわけです。しかし今日の箇所から始まる旅路では、神の国の招きを聞いた人間が、それをどのように受け止めるかということが書かれているのです。そしてそこでは、これまでの喜びの招きから一転して、人間がいかに神の力を信用しきれていないか、同時にいかに神を知らないか、ということが露わにされていきます。説教から旅路へと変わっていく中で、神の国への招きという場面から、それを受け入れない人々という主題に変わっていっているのです。その初めにやり玉に挙げられたのは、敵対者ではなく、イエス様に付き従っていた弟子たち、つまりは信仰者でありました。

 今日読まれた突風を鎮める物語はまさに、弟子たちの弱さが描かれることを通して、私たち信仰者の弱さが突きつけられていると言って良いでしょう。湖上に出たイエス様一行は突如として嵐に襲われます。嵐がどれほどのものだったかは分かりませんが、弟子たちの内4名が元々漁師でありながら、それでも皆が慌てふためいていたということは、相当に大きな嵐であったことが予想されます。少なくとも、船が嫌いなわたしであれば絶叫していたことでしょう。しかし、イエス様はその嵐の最中で枕して眠っておられたというのです。何と大胆な方でありましょうか。自然というものを相手にしても、神は揺らがないのです。

 この光景に対して、弟子たちはどのような反応をしたか。これが大切です。弟子たちは「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエス様を非難するのです。この非難はマルコの特徴的な記載です。マタイ福音書にも同様の物語が書かれています(8:23-27)が、そこでは弟子たちはイエス様に「主よ、助けてください」と助けを懇願していました。これも良い反応というわけではありませんが、少なくともイエス様に「主よ」と呼びかけ、助けを懇願するという、一般的な弟子たちの反応をしていると思います。けれどマルコの物語では、まるで早く何とかしろと言わんばかりにイエス様を非難するのです。ここに人間の弱さが描かれているのです。

 苦難と接するとき、私たちは一方ではマタイが示したように、「主よ、助けてください」と助けを懇願するでしょう。本当であれば揺らぐ必要はないのに、揺らいでしまい結果として主に助けを懇願するという、弱さを持つのです。そしてもう一方で、また別の罪を抱えるのです。それは何かというと、神は私たちの問題に無関心なのではないかという疑念を抱くことであります。「なぜ問題が起こるのか。」「どうして解決してくれないのか。」危機的状況であればあるほど、その疑念は大きくなるでしょう。弟子たちが「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエス様を非難したように、私たちも直接的ではないにしても、つい神を非難し神の力を軽視するのです。私たちは思ったよりも、どんな苦境にあっても信仰を貫くだけの強さをもっていないのです。とても、とても弱い。

 故に、私たちは常に十字架を見上げて生きていかねばならないのです。イエス様は、今日の箇所から旅路を再び再開しました。その旅路では人々の疑い深さ、罪深さが表されていきますが、そこからさらに旅路を進めていった先でイエス様はどこに向かうかというと、自らの死でありました。私たちがどれだけ疑おうとも、その罪を赦し、自分の懐に招き入れるために十字架に向かってくださったのです。

 私たちは確かに神を信頼しきれない罪を犯し続けます。しかし、イエス様はその私たちの罪を赦すために、十字架に架けられ死んだのです。それほどまでの愛を、神の子が私たちに示してくださったのです。そのことを信じ、私たちは安心したいのです。嵐の中で眠っていたイエス様のように、安心して眠るように日々を送りたいのです。

 不安や恐れがあっては眠れません。また浅い眠りでは周囲が騒がしくなればすぐに起きてしまうでしょう。一度突風が吹けば、私たちはすぐに怯えてしまいます。しかし、神は突風すらも静められるほど、力を持った方であるのです。どのようなものにも、神の力を超えるものは存在したいのです。その力に信頼しこの身を委ねて、深く深く眠りにつくように、安心して日々を過ごしていきたいと願います。

 

 

 

 

次回の礼拝予定です。

司式説教:中島和喜牧師     説教題:「自白」

聖  書  :哀歌3:22-33、マルコ5:21-43

賛美歌  :388(1・2)、357、388(3・4)


6月13日 聖霊降臨後第3主日

2021年06月13日 | 活動の様子

温かい季節がやってきましたね。嬉しい限りです。

 

さて、恵み野教会では依然としてコロナウイルスの影響を考慮し、礼拝を休止しております。

そのため、各自ご家庭での礼拝、あるいは教会で配信しているyoutubeでの礼拝で日曜日の主日を過ごしていただいています。

 

https://www.youtube.com/channel/UCM0xTl5lgNarsH_lkI8PYuQ

 

また簡易式文、説教原稿等をこちらのブログに載せますので、ご活用いただければと願います。

 

聖霊降臨後第3主日(緑)

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

神様。あなたは全世界を守る いのちの木です。私たちをあなたご自身に接ぎ木して、実を結び、あなたのまことと愛を必要とする人びとに届ける者にしてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

第1朗読 エゼキエル17:22~24        (旧1320)

第2朗読 二コリント5: 6~17           (新330)

福 音 書 マルコ4:26~34                  (新68)

〇説教…別紙

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第3主日です。あなたが私たちを支配していてください。その喜びをいつも忘れずに覚えていることができますように。また、私たちだけでなく、この世界もまた神の支配にあることを覚えて、日々を安心して過ごすことができますように。

今、私たちは様々な分断を経験しています。出来事や働き、思想や人種。私たちはかくも一つになれないことを突きつけられています。けれども、それらを含め、全てがあなたの御手の中にあります。私たちの罪を赦し、あなたと和解していくことができますように。人の世を、あなたが守り導いてください。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害や疫病と格闘する人々を覚えて祈ります。不安を抱える人、慢心を抱える人、分断を抱える人、憎しみを抱える人、不満を抱える人、疲れている人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの支配と安らぎ、和解と安心とが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

 

恵み野教会説教 6月13日 聖霊降臨後第3主日              中島和喜

「土」

(エゼ17:22-24、マルコ4:26-34)

 春も終わり、季節は夏を迎えようとしています。旬な野菜も段々と増え始めている季節にあって、自然のものをたとえに用いて神の真理が伝えられる今日のみ言葉は、より映像をイメージしながら聞くことが出来るのではないでしょうか。

 今日の箇所は土に撒かれた種がたとえに用いられている箇所です。4章全体がこういったたとえ話がたくさん語られていますが、これらは連続してイエス様が語られたというよりも、イエス様がその旅路の中で時折に語られたみ言葉がまとめてこの箇所に書かれていると考えた方が良いでしょう。33節に「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」とあるように、道中でこのようにして相手に合わせて様々なたとえを用いつつ、話をされていたのでしょう。ですから、言うなれば4章は格言集といったところでしょうか。しかし、格言集と言いましても、世にある格言集とはその中身は違い、倫理道徳の教えや人生訓ではなく、神の国について語られているということを忘れてはなりません。イエス様が人々に何よりも伝えたいことは、宣教の第一声で「神の国は近づいた(マルコ1:15)」と宣言されたように、「神の国」についてであるのです。

 私たちは神の国と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。一般的にはよく天国と混同されます。確かに、神の国を天国として理解できる箇所もあります。しかしそうなると、今日の箇所もそうですが、イエス様の言われる神の国の理解が非常に難しくなってしまいます。「神の国は近づいた」「神の国は成長する」そういった表現は天国として理解しているとおかしなものでしかありません。死んだ後にしか行けない場所なのに、どうして近づくのか。そもそも場所が成長するとは一体どういうことなのか、となってしまいます。国と言われるとどこか場所を想像するかもしれませんが、イエス様がここで言われている神の国とは、場所ではなく、「神の支配」であるのです。神が私たちを支配してくださること、それが神の国であり、故に神の国は既に来ているし、近づいてくるし、成長していくのです。

 神の国を神の支配として考えれば今日の箇所は非常に分かりやすいたとえとなっています。「「成長する種」のたとえ」では、私たちの内にある神の支配が徐々に成長していくこと、つまり信仰はそのようにして徐々に育ち大きくなっていくことを示しています。また「「からし種」のたとえ」でもまた、からし種という非常に小さな種でしかなかったものが「葉の陰に空の鳥が巣を作れる(32節)」ほどに大きくなるというのです。皆さんはからし種を見たことがありますか?私は見たことがありますが、想像以上に小さな種でありました。そんな小さな種が、いずれ数メートルの木になり枝や実をつけていくとは思えないほど、小さな種でありました。その種が、私たちの内に蒔かれるのです。ここで言われる種は、神の国であり、もっと言えば神の国を信じる信仰と言って良いでしょう。

 信仰は、最初は良く分からずに、それこそからし種ほどの小さなものだったかもしれません。しかしそれが段々と大きくなり、私たちの心だけでなく、全ての日常に大きくかかわるほどに、偉大な存在になっていくのです。そのようにして、神の国は私たちの内に蒔かれ、どんどん大きくなっていくものであることを、イエス様はたとえ話を通して私たちに伝えてくださっているのです。そのことを、一人一人に合わせて語られたと書いてあるように、私たちが受け取れるように、様々な人や出来事を通してイエス様が私たちに伝えてくださったために、私たちは今も信仰者として生かされているのです。

 では、私たちはその「神の国」ひいては「神の支配」をどれだけ受け取っているでしょうか。まず「支配」という言葉が私たちにとってあまり聞こえの良い言葉ではないでしょう。自分本位に生きること、自由に生きることが好きな私たちにとって、たとえ神であっても自分が自分以外の誰かに支配されることにあまり良い感情を持って受け入れられないかもしれません。自分以外の誰かに従属することは思ったよりも怖いものでありましょう。

 しかし、神の言われる支配は、私たちの想像するような「配下に加わること」ではありません。私たちをそのままの姿で受け入れつつ、神が祝福と導きをもって私たちの人生そのものを守り養ってくださることであるのです。神の愛と平安に心を支配されていくこと、それこそが、神の支配であり、神の国の到来であるのです。

 そのような神の国が私たちの許に既に来ているのです。イエス様は宣教の第一声で神の国の接近を語りつつ、以下の言葉を同時に語っています。「悔い改めて福音を信じなさい。」私たちに求められているのは、悔い改めて福音を信じることであるのです。そのことによって、私たちのところに、神の国がやってくるのです。私たちという土には、既に神の国の種が蒔かれました。それを私たちは悔い改めと福音を信じることを通して、大切に育てていくのです。いや、むしろ私たちの内で神が大切に育ててくださるのです。だからこそ、私たちは次第に大きくなっていく神の存在を、神の支配を存分に受け入れて、安心して過ごしていきたいのです。

 今私たちは日々恐れや寂しさの中を過ごしています。不安もまだまだ消えてはいきません。けれど、私たちは神の支配の中にあり、そしてまたこの世界も神の支配の中にあるのです。私たちはその支配の良し悪しを考える理性を持ち合わせています。故に、神の支配にありながら、なぜこんなことが、と考えることもあるでしょう。けれど、信仰は理性を超えたところにあるものです。「なぜ」「どうして」が消えない今であっても、神の支配は確かにあるし、神の支配は成長しているのです。それは時にからし種一粒ぐらいの小さなものにしか見えないこともあるかもしれません。けれど、それは大きく育っていくものであり、私たちは今も成長していく神の国が与えられているのです。その喜びを、今一度思い起こし、この日々を過ごしていきたいと願います。

 

 

次回の礼拝予定です。

聖霊降臨後第4主日

司式説教:中島和喜   「眠る」

聖書  :ヨブ38:1-11、マルコ4:35-41

讃美歌 :413(1・2)、175、413(3・4)

 

ご家庭での礼拝が守られますように。


礼拝休止と配信のご案内

2021年05月15日 | 活動の様子

5月14日(金)に出された「緊急事態宣言」を受け、恵み野教会役員会で協議した結果、現在恵庭市でも感染者数が増加傾向にあることを鑑みて、5月31日までの礼拝を含むすべての集会を休止させていただくことを決定いたしました。ご了承ください。

 

なお、主日礼拝に関しましては、教会にご連絡いただければ式文と説教原稿をFAX・郵送・メールで配布いたしますのでご連絡ください。

 

また、会堂に集っての礼拝はいたしませんが、牧師と奏楽者による礼拝中継を始めましたので、そちらをごらんいただければと願います。

 

恵み野教会youtubeチャンネル:https://www.youtube.com/channel/UCM0xTl5lgNarsH_lkI8PYuQ

5月16日 主の昇天 礼拝:https://www.youtube.com/watch?v=na8xM8O82tw

 

苦しい日々が続きますが、共に祈りあってまいりましょう。