日本福音ルーテル恵み野教会

日本福音ルーテル恵み野教会のブログです。

礼拝は、毎週日曜日午前9時より

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11月8日 聖霊降臨後第23主日

2020年11月09日 | 活動の様子

冬になりましたね。教会はストーブをフル稼働させ、換気と寒気に気を点けながら礼拝を継続しています。

教会の前のイチョウは元気に葉を落とし始め、それによって教会前の歩道は真っ黄色になりました。

待ちゆく人も、教会員も、皆で黄色の鮮やかな歩道の綺麗さに目を奪われました。

 

ただ、先週ようやく30歳になったばかりの牧師にはこの綺麗さはわからないのでしょう「また落ち葉掃きをしなきゃ・・・」と一人ガックリしていました。

 

冬の備えをしながら、今日もみ言葉で温まりましょう。

 

 

聖霊降臨後第23主日 式文

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

正義と愛の神様、あなたは、御子の言葉で私たちの生涯を照らしてくださいます。なくてはならないその光を受けて、私たちが他の人々の必要にも気づくことができますように。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

第1朗読 アモス    5:18~24 (旧1435)

第2朗読 1 テサロニケ  4:13~18 (新 377)

福 音 書 マタイ        25: 1~13 (新  49)

〇説教…別紙

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第23主日です。あなたが、いつの日か再びこの世にやって来て下さる。私たちはそのことに脅えるのではなく、安心してその時に備えていることが出来ますように。私たちの信仰の日々を平安で満たしてください。

北海道では、再びコロナの影響が高まり、不安を抱える日々がやってきています。どうか私たちが苦難の中に会っても、慰めと励ましがあることを忘れずに、いつも主と共に過ごせる喜びを持ち続けることが出来ますように。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害や疫病と格闘する人々を覚えて祈ります。恐れを抱える人、不安を抱える人、孤独を抱える人、痛みを抱える人、罪悪感を抱える人、疲れている人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの赦しと希望、平安と真理とが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

 

 

11月8日  聖霊降臨後第23主日  説教

「眠気」

(アモス5:18-24、Ⅰテサ4:13-18、マタイ25:1-13

 

 先週、先々週と、私たちは「全聖徒の日」「宗教改革主日」という特別な主日を過ごしてきました。ですから、聖霊降臨後としての主日は三週間ぶりです。しかし、その間も聖霊降臨後としての週は進んでいましたから、三週間前は聖霊降臨後第20主日として22章を読んでいたのに、今日はいきなり聖霊降臨後第23主日として25章を読むことになりました。2章も飛ばしてしまいましたから、これまで読み進めてきたところから場面が大きく変化していることにまず目を向けなければなりません。

 

 マタイ福音書は24章から、「主の再臨」と「終末の審判」についての教えがまとめて記されています。ルカ福音書であれば、これらの教えは中盤と終盤に分けて語られていますが、マタイでは一まとめにされているのです。あえて一つにまとめたとした方が良いでしょう。再臨と審判、さらには大きな苦難が連続して起こっていくとマタイは語っているのです。そして、ここがマタイの最も特徴的な部分ですが、それらの教えは、どこか旧約聖書の時代の裁きのように、威嚇的な性格を含んだ文章となっているのです。常にその教えの裏側には「気を付けていなさい」という警告が含まれています。マタイはこの警告に対して、甘さや抜け道は一切見せません。ただただ警告として私たちに投げかけるのです。ですから、私たちもこれらの教えを、警告として受け止めなければなりません。

 

 今日の箇所もまた、婚宴のたとえを通して、厳しい警告が語られた箇所と言っても良いでしょう。そこに登場するのは5人の愚かな乙女と、5人の賢い乙女。そして花婿です。この花婿は、明らかに神を表していると考えられます。そもそも、神と人とのつながりは花婿と花嫁として比喩されることは旧約の時代からあったものですし、何よりもこの場面は通常の婚宴の場面に編集が加えられていることから、花婿が神であるという事を示していることがわかります。

 

 通常の婚宴であれば、乙女たちと言うのは花嫁のお伴を指すのであり、花婿が花嫁を迎えに来るまで花嫁と一緒に待っていなければなりません。そのため、花婿を迎えに行くという描写は明らかにおかしいのです。古い写本には「花婿を迎える」という部分が「新郎新婦を迎える」となっているものもあり、「花婿」を強調するために、後世に書き換えられた可能性が高いと言えるでしょう。

 

 いずれにせよ、花婿は神を示すのであり、神を待つ乙女たちは、いわば救いを待つ者たち、つまりは信徒あるいは人間を指すと言って良いでしょう。神はいずれ人の救いのためにやってくる。その時、待っているあなたたちは何をしていれば良いのか。それが今日の箇所の主題になっているのです。

待つ人たちは、二つのグループに分けられました。愚かな乙女と賢い乙女という、あまりにも直球な分け方です。花婿を迎え入れる際、思いのほか遅くなった花婿に対して、賢い乙女はあらかじめ用意していた油を用いて灯りを点けた。他方で、愚かな乙女は油が切れてしまい灯りを点けられず、結局祝宴から締め出されてしまうというものでした。そして花婿から、つまりは神から「目を覚ましていなさい。」「その日、その時を知らないからだ」と言われてしまうのです。明らかに、愚かな者とならないようにと私たちに警告しているのです。

 

しかし、警告の内容は分かるのですが、常に目を覚ましているというのは一体何を指しているのでしょうか。この箇所を読んで、私たちはつい「目を覚ましている」とは「常に審判があることを覚えて備え続けなければならない」と考えてしまうこともあります。審判を恐れつつ、常に神から教えられたことを全うし続ける、と言っても良いかもしれません。しかし、そんなことが可能でしょうか?少なくとも、私は日々の生活の中で、審判について考えることはそこまで多くはありません。むしろ、目を覚ましているということすら守れないと考えてしまいます。信徒や神学生のころに、牧師が一生懸命説教している中で寝てしまったことは一度や二度ではありませんでしたし、礼拝に寝坊するなんてこともありました。流石に神学生時代に寝坊はありませんでしたが。

 

もちろん、今日の箇所が言う「目を覚ましている」というのはそういった具体的な事柄を指しているわけではありませんが、審判に対して「目を覚まし続ける」ということは私たちにとって難しいものと言えるのではないでしょうか。こう言ったものを、「終末の遅延に対する怠惰」と呼ぶ事があります。終末があまりにもやって来ないので、まだ来ないだろうと油断して怠惰になってしまうという意味です。イエス様が地上に来られてから2000年以上の時間が経っていますから、審判の時が迫っているとは考え辛くなってしまう自分がいることは否めないと思うのです。しかし、今日の箇所が言う「目を覚ます」とは、そういった怠惰に対する警告でもありません。

 

今日の箇所が伝える「目を覚ます」とは、常に審判を考え備えることではありません。事実、賢い乙女も眠気に負けて寝ているのです。目を覚まし続けていたわけではないのです。5人の賢い乙女にも眠気が襲ったように、私たちも眠気に襲われると表現した方が良いような、信仰の葛藤が襲うこともあるでしょう。終末への怠惰という状態になることもあるでしょう。しかし、それは審判に備えていない状況、というわけではありません。

 

 ルターは終末に対して、「たとえ明日、世界が終わろうとも、私は今日りんごの木を植える」と述べました。これこそがまさに、「目を覚ましていた」状態であったのです。不必要に審判に脅えるのではなく、神の十字架によって贖われたことを信じ、平安の中で生きていく。それが、ルターが示した審判への備えです。私たちもこのことを思い起こしつつ、安心して神の僕とされている自分をまず享受していきたいのです。審判に備えて脅えるのではなく、安心することこそが、むしろ審判への備えと言って良いでしょう。

 25章で審判に対する警告が教えられた後に十字架が描かれていきます。そこでは、私たちがどれだけ罪を自覚しようとも、その罪も含めて全てを赦し、神が受け入れてくださるという愛が語られていくのです。このことが審判についての教えのすぐ後に記されていることが重要なのです。私たちは、審判という出来事を前にすると、自分のようなものが、今日の箇所で言えば賢い者として救われるのだろうかと不安に思うこともあるでしょう。自分の罪を見つめると、その大きさに愕然としてしまうこともあります。その罪の大きさが、自分を「賢い者」とすることをどこかで否定してしまう。けれど、神がその罪を赦してくださるのです。神ご自身が赦してくださるのであれば、私たちはなぜ自らの罪に脅える必要があるでしょうか。同時に、なぜ審判に脅える必要があるのでしょうか。

 

 審判は確かに厳しさをまとって語られています。しかし、既に私たちは十字架を通して救われているのです。だから、安心してその時を待っていてよいのです。

 

裁きという恐怖だけに目を向けるのではなく、私たちは絶えず愛され続けていることを信頼して、平安と共に日々を過ごすこと。ルターが示した態度こそ、最も優れた審判への備えです。ですから、私たちもまた、神を信頼して、その時が来ようとも脅えずに、神と共に日々を過ごしていきたいと願います。

 

 

次回の礼拝予定です。

11月15日(日)聖霊降臨後第24主日  信徒礼拝

司式説教:中島和喜牧師   説教題:「賜物」

※信徒礼拝のため、説教原稿を代読となります。  

聖 書 :ゼファ1:7,17-18、マタイ25:14-30

讃美歌 :328(1)、346,328(3)

どうぞ、お越しください。


9月20日 聖霊降臨後第16主日

2020年09月21日 | 活動の様子

暑さ寒さも彼岸までとは良く言ったもので、ちょうど暑さと寒さの境目の季節となりました。

とは言え、寒がりな牧師は朝から「寒い」と連呼していました。

もう秋ですね。実りの秋であります。

恵み野教会のぶどうも、少しずつ色づき、おいしそうな装いになってきました。

 

式文と説教を載せておきます。ご活用ください。

 

聖霊降臨後第16主日 式文

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

全能・永遠の神様。あなたはしもべである私たちに、限りない慈しみをあらわしてくださいます。自分の力に依り頼むことの出来ない私たちを憐れみ深く裁き、御子が示した心の広さを持つことができるように育ててください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

第1朗読 ヨナ             3:10~4:11         (旧1447)

第2朗読 フィリピ     1:21~30            (新 362)

福 音 書 マタイ         20: 1~16          (新  38)

〇説教…別紙

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第16主日です。全ての人があなたからの愛が平等に与えられることを覚えて、また私たちの教会がそのことを現実のこととしてあらわしていく群れとなれますように、私たちの日々の生活をあなたが守り、豊かなものとしてください。

この地上があなたの平和で満たされますように。それぞれが自らの欲ではなく、誰かの愛を願い生きていくことが出来ますように。そして、教会は祈りでもってそのことを願い続け、あなたへ声を発し続けることが出来ますように。平和を願う者としてください。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害や疫病と格闘する人々を覚えて祈ります。不安を抱える人、焦りを抱える人、痛みを抱える人、悩みを抱える人、孤独を抱える人、悲しさを抱える人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの安心と喜び、励ましと希望とが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

 

「順番」

(ヨナ3:10-4:1、フィリ1:21-30、マタイ20:1-16

 

私が住んでいる恵み野教会の庭にはぶどう棚がありまして、階段の踊り場からそのぶどう棚がよく見えるのです。少しずつ色づいていく姿を見ながら、そろそろ秋だなぁと思うのです。同時に、今年もまた、鳥たちとぶどうを巡って争奪戦をする時が近づいてきたのだと感じるのです。

さて、今日はそんなぶどうのお話です。なぜか先週までは18章で、今日はいきなり20章に入りました。19章はどこに行ったのかと思うかもしれませんが、理由は私にもわかりません。この聖書日課を作った人に聞いてほしいのです。ただ、飛ばすのはいいのですが、今日の箇所がなぜ話されたのかという理由は19章に書いてありますので、そこに触れなければなりません。

19章16節から、金持ちの青年という小見出しが着いた箇所がありますが、そこでは善良な青年が「永遠の命を受けるにはどうずれば良いのか」とイエス様に問うのです。イエス様は、「すべてを捨てて着いてくること」だと述べられました。その答えを聞いた青年は、自分がたくさんの持ち物を持っているが故に、捨てることが難しいと考え、悲しくなって去っていくのです。そして最後にイエス様は弟子たちに対して、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と述べられました。地上で喜びを先に受けた者は、主の救いに入るのが後になり、地上で後ろに追いやられていたものが、主の救いに先に気が付いていく。そのことが語られているのです。今日の箇所はその続きとして描かれています。「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば良いのか」という問いから語られた「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」という順番に対してのたとえ話が今日の箇所では語られるのです。

そのたとえ話は、非常に分かりやすいたとえ話であります。あるぶどう園の主人が広場に行って、労働者たちに「1日1デナリオン」という契約で働きを求めます。これが当時の労働環境でありました。定職に着ければそれが良いのですが、中々簡単には就けません。人々は仕事を求めて広場に集まり、その日その日の仕事に従事することは何も珍しいことではありませんでした。そのようにして集まっている人々を主人は朝早くから雇ったのです。それは朝の時間だけでなく、9時、12時、15時、17時と何度も行って人々をぶどう園で働かせたのです。さて、仕事が終わりいよいよ給料が払われる時間がやってきます。最後にやってきたものから配り始めました。最後にやってきたものに1デナリオンを与えた姿を見て、最初から働いていた人々は当然、自分たちは多く働いたのだからもっと多くもらえるはずだと考えます。しかし、最初にやってきた人も同じように1デナリオンを渡されるだけでありました。そのことに不満をもった最初にやってきた人たちは文句を言います。自分たちは日差しが強い中一所懸命に朝から働いたのだ、最後に一時間だけ働いた人と同じはおかしい、と。しかし主人は、自分は何も約束は違えていないと語り、皆に平等に払って「やりたい」のだと述べるのです。もうお分かりかと思いますが、この主人は神を表しています。そして労働する者は私たちです。後から来たものも先にいたものも、等しく永遠の命という素晴らしい対価を支払ってやりたいのだという神の思いが述べられているのです。これだけ聞くならば、私たちはこのたとえ話の豊かさを覚えると思うのです。

しかし、もう少し切り込んでいくと、私たちはこの箇所を通して問われていることに気が付くのです。それは順番に対しての話です。全ての人に平等に対価が与えられるという部分だけを聞けば聞こえはいいのですが、やはり細かく見ていったときに、順番のところで私たちは引っ掛かりを覚えるかもしれません。長く働いたものも、短く働いたものも、全く同じ対価が支払われる。皆さんだったらこのことに不満をもたないでしょうか。自分は朝から働いていたのに、1時間しか働いていない人と同じ給料。納得出来ないですよね。私たちは労働と対価に対する一定の基準を頭の中に持っていますから、この話は基準に合わない故にそのおかしさを私たちに伝えるのです。

そして、それが教会の中に持ち込まれることは往々にして起こることであります。長く教会に在籍したものが、偉い人のように扱われる。どこかで、労働と対価という基準を教会にも持ち込もうとする。実際に今私たちの教会でその現場を見かけることは少ないかもしれません。けれど、教会の長い歴史の中で、その罪は何度も起こってきたことです。その罪に対して今日の箇所は深く切り込むのです。私たちはこの順番を注意深く覚えていなければなりません。皆等しく平等ではないのです。後の者が先に、先の者が後になるという順番があるのです。これは、誰が先に主の救いに目が開かれていくか、というものでもありましょう。

今日の箇所は、主人の仕事の斡旋から始まります。皆仕事を求めて広場に集まったのです。生きるために、働きたかったのです。最初に声をかけられたものは、朝から働くことが出来ました。しかし、最後に来たものは、夕方5時まで働けず、ただただ広場にいるしかできなかったのです。働きたいのに働けない。そこにある感情は、どんなものでしょうか。自分の身を、あるいは家族の身を守ることが出来ない。明日を生きることすら出来ないかもしれない。そんな不安や焦りを抱えていたのではないでしょうか。5時までになると、ハッキリ言って働ける見込みはほぼゼロであります。それでも、何かないかと待ち続けたのです。そこに掛けられた声は、どれほど温かかったでしょうか。そこで与えられた平等の1デナリオンは、どれほど嬉しかったでしょうか。どれほど、主人に対しての愛を見出したでしょうか。

最後に来たものが、先に主の救いを見たのです。最初にいた者たちは、自分たちも救われたにも拘わらず、そこに見出した愛は、最後の者たちよりもずっと小さいものであったでしょう。苦しみの時間が、孤独の時間が長ければ長いほど、主と出会う喜びの大きさが大きくなるのです。故に、先いる者が後になり、後にいる者が先になるのです。長く教会に身を置けば置くほど、私たちは主から与えられる恵みを当然のように思い、しかもなおかつその恵みに対する労働を働いてきたのだと考える余地を抱えてしまいます。その時、私たちは主から与えられる愛を、隠してしまうのです。そうなってしまう時、私たちはまさしく後になっていくのでしょう。

けれど、大切なことは、後にならないように気を付けることではありません。たとえ後になろうとも、主は等しく救いを与えてくださるのです。どれだけ罪を犯そうとも、主は温かく迎え入れてくださるのです。そのことに気が付かされていくとき、私たちは安心して教会生活を送ることが出来るのです。これからも主と共に、平安の中を生かされていきたいと願います。

 

 

次回の礼拝予定です。

9月27日(日)聖霊降臨後第17主日

司式説教:日笠山吉之牧師     説教題:「考え直して」

聖 書 :エゼ18:1-4,25-32、マタイ21:23-32

讃美歌 :394(1)、371(1)、394(4)

どうぞ、お越しください。


9月6日 聖霊降臨後第14主日

2020年09月07日 | 活動の様子

「まだ9月なのに、もう寒いですね」

かつて牧師はそう言っていました。

本州に住んでいたころは、9月はまだ暑いのが当たり前。だからそう言っていたのです。

北海道は9月にはもうストーブを点けようかという気温になります。ですから、牧師は驚いたのでしょう。

しかし、北海道4年目となる牧師も慣れてきていたのでしょう。こう言っていました。

「もう9月なのに、まだ暑いですね。」

今年は暑さが長引きますね。

 

 

式文と説教原稿を載せておきます。ご活用ください。

聖霊降臨後第14主日

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

主なる神様。あなたの限りない憐れみによって、教会を活かしてお守りください。私たちは脆く、あなたの助けなしには何もできません。あらゆる危害から遠ざけて、命と救いへと導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

エゼキエル          33:7-11                (旧:1350頁)

マタイ              18:15-20                  (新:  35頁)

〇説教…別紙

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第14主日です。あなたが私たちを愛で満たしてくださいます。私たちはその愛を抱えて、誰かが何をなそうとも、最後まで愛をもってその人を覚え祈っていくことができますように。私たちの中にいつもあなたが共にいてください。

今、ウイルスによる被害と闘いながらも、また別の自然の被害が日本を襲おうとしています。たくさんの苦しみがあります。けれどもどうか、あなたがいつも共にいて下さることを、一人一人が受け取ることが出来ますように。あなたからの愛によって、慰めを受け、平安の中を過ごすことが出来ますように。どうか痛む人、苦しむ人の側に共にいてください。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害や疫病と格闘する人々を覚えて祈ります。不安を抱える人、困難を抱える人、痛みを抱える人、寂しさを抱える人、孤独を抱える人、葛藤を抱える人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの励ましと寄り添い、信頼と安心とが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

 

「その中」

(エゼ33:7-11、マタイ18:15-20

 マタイによる福音書18章は、教会の規則について私たちに教えてくれます。「規則」と言われると、何だか堅苦しくて嫌かもしれません。ちなみに私は、嫌であります。気を抜くとすぐにマイペースに生きていたいと願ってしまいます。人はそれを「怠惰」と呼ぶのでしょうが、物は言いようです。私はこれからも、マイペースと呼んでいこうと思うのです。

さて、規則の話でありますが、なぜそう言うのかというところから考えなければなりません。なぜなら、「規則」ではなく、「教え」と呼んでもおかしくはないからです。けれど、それをわざわざ「規則」と呼び変えるのには理由があります。18章全体を見ると、教会のための教えがまとまっているからです。本来であればルカ福音書に記されているように、18章の教えはバラバラに書かれていたはずです。マタイはそれをわざわざ一カ所に集めていることから、意図的に教会が直面するであろう物事への対処についての教えを一カ所に集めたと考えられるのです。それ故に、18章は「規則」と呼ばれるのです。そしてそれは同時に、教会が出来た当初から、このような問題に直面していたとも考えられるのです。今日与えられた箇所は小見出しに「兄弟の忠告」とあります。兄弟が罪を犯した際の対処法と言っても良いでしょう。教会が出来た当初から、罪を犯すものは存在していたのでしょう。たとえキリストの愛を知っていたとしても、即座に完全な善人となるのではなく、人は罪を犯してしまう現実があることを私たちに伝えるのです。

 今日与えられた教会の規則は、一見すると厳しい内容が書かれているように思われます。兄弟が罪を犯したら‐ここでは罪の内容については詳細にはわかりませんが‐罪を犯した場合、最初は一人が誰もいない場所で忠告する。それでもダメな場合は別の人を連れてくる。これは当時において「二人または三人」が証言することが事実とされる、いわゆる証拠になるという考えがあったため、兄弟が罪を犯したということを事実として認めるためでありましょう。そのようにして二人または三人で「あなたは罪を犯した」という事実を突きつけてもダメな場合は、教会が忠告するとなります。しかしそれでもダメな場合は異邦人か徴税人と同様にみなす、つまり神の民の外側にいる人と見なすと言うのです。それまで兄弟姉妹として共に過ごした教会の仲間を断罪するというのは、教会にとっては心が重くなるようなものであり、できれば避けたいことです。しかし、それでも罪を犯した者は裁かなければならないという厳しい規則が語られているのです。どうでしょうか。皆さんはこの教えを聞いて、厳しいと思うでしょうか。私はこの規則はとても愛に満ちた教えであると感じるのです。

もし誰かが罪を犯したら、一般的には、すぐに所属する組織が断罪するべきでありましょう。けれど、今日の教えは、最初は一人が、だめなら数を増やして、それでもダメなら教会全体で、その人が罪から抜け出せるように関わっていきなさいと伝えるのです。何度も、何度も、悔い改められるように教え、数を増やしてでもみんなで、その人のことを覚えていきなさいと伝えるのです。さらには、異邦人か徴税人のように見なすと書かれていますが、その人に対しても、排除しろという意味合いではないのでしょう。

今日の箇所の直前には、迷い出た一人を探すことの大切さ、そして今日の箇所の後には罪を犯した者を赦すことの大切さが記されているのです。罪を犯し続ける人がいたら何度も忠告し、それでも出ていったなら探しに行き、帰ってきたら赦してやりなさい。誰かが犯す罪に対して、どこまでも、どこまでも優しい教えがこの18章には並んでいるのです。

これほどまでに優しい教えが、今の私たちの社会にあるでしょうか。誰かが問題を抱えていたら、できれば関わりたくないと感じるのが人間の心理ではないかと思います。もちろん、近しい誰かであればその限りではないでしょうが、関りが薄くなればなるほど、深入りはしたくないと感じてもおかしくはないと思うのです。ましてや、私たちは誰かの罪に対して、「相手を思って」対応しているでしょうか。誰かの罪に対して、私たちはつい「どんな罪を犯したか」ばかりに目が行ってしまうのではないでしょうか。物事の良し悪しばかりに目を向けて、起きた事柄にばかり対処して、誰かが抱える「罪」という本質を脇に追いやってしまうのではないでしょうか。

 罪を裁くのは、その相手のことを心から思い、愛をもっていかなければ出来ないことなのです。愛がなければ、裁きは攻撃となり、愛ではなく悪感情をぶつけることになってしまうからです。兄弟の罪を裁くというのは同時に、その人を心から愛しなさい、という教えでもあるのです。愛して、祈り、教え、諭す、それが教会のなすべき忠告であり、時にはそれを教会全体でしていきなさいとイエス様は教えるのです。教会とは、そのようにして愛に満ちた場所であることをイエス様は望むのです。ては、私たちの教会は愛に満ちているでしょうか?そう聞かれた時に、皆さんは自信を持って頷けるでしょうか。何か問題を抱えていたり、悩みがあれば頷きにくいかもしれません。けれども実は、自信を持って、というよりも最早確信して頷いてよいのです。なぜなら、教会の中にはイエス様が共におられるからです。

 「あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」中にいるのです。この言葉は、中央、あるいは真ん中と訳せる言葉であり、私たちが抱える様々な事柄のど真ん中にはいつも主がいてくださるというのです。真ん中にいて下さる主を通して、私たちは常に愛に満たされ、誰か兄弟のために、愛を持って遣わされていくことが出来るのです。これは理想ではなく、教会はそのようなものなのだと主は教えているのです。事実、今も私たちの与る礼拝の中にも、主は共にいてくださっているのです。だから、私たちは今日もまた、み言葉を通して愛に満たされていくことが出来るのです。

 教会も、人の集まりであり、そこには当然罪を犯すこともあるでしょう。けれど、私たちは誰かがもし罪を犯したとしても、絶えず愛をもって祈り合わせていきたいのです。そして同時に、私たちはたとえ自分が罪を犯そうとも、愛されるものであることには変わらないのだということをいつも覚えていたいのです。そのことを、教会が教えてくれるのだと。諭してくれるし、出ていっても探してくれる。帰ってきたら赦して受け入れてくれる。教会はそんな優しい場所なのだと。私たちはいつまでもそのことを覚えて、これからも教会生活を大切にしていきたいと願います。

 

 

次回の礼拝予定です。

9月13日(日)聖霊降臨後第15主日

司式説教:中島和喜牧師     説教題:「溜飲」

聖 書 :創50:15-21、マタイ18:21-35

讃美歌 :293(1)、【讃美歌21】484(1)、293(3)

どうぞ、お越しください。


8月9日 聖霊降臨後第10主日

2020年08月10日 | 活動の様子

牧師は言いました。

「なぜ、神学書はこんなにも高いのか」と。

参考にしている歴史神学の本(1冊6000円)がこの夏、増補新版として新たに出版されました。

ページ数は100ページほど増えています。1.3倍のボリュームになりました。

元々の本は持っていますが、100ページ分も読みたいと思うのは当然のことであり、しかしそのために買い直すのかという葛藤が牧師を襲っています。

他にも悩むことはいっぱいあるであろうこの社会情勢の中で、どうでもよいことで葛藤する牧師でありました。

 

礼拝式文と説教原稿を載せておきます。

聖霊降臨後第10主日

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

私たちをお守りくださる神様。私たちの内と外に吹き荒れる嵐は私たちを恐れさせます。あなたの民を絶望から救い出し、あなたの子どもたちを恐れから解き放ち、御子を信じる信仰の内に私たちを守ってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

王上                      19:9-18                (旧:566頁)

マタイ              14:22-33                  (新: 28頁)

〇説教…別紙

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第10主日です。私たちがあなたへの疑いを抱えながらも、それでも私たちを捕まえていてくださる主に信頼して、これからも身を委ねていくことができますように。

今日は8月9日です。長崎に原爆が落とされてから、75年が過ぎました。痛ましい記憶はやがて、歴史へと変化し、私たちはそこにある嘆きから目をそらすようになってしまいます。どうか私たちがこれからもそこにあった痛みを思い起こしながら、主にある平和を祈り続けるものとして、遣わされていくことが出来ますように、導いてください。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害と格闘する人々を覚えて祈ります。痛みを抱える人、嘆きを抱える人、疑いを抱える人、不安を抱える人、不満を抱える人、疲れている人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの休息と導き、真理と平和とが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

 

「常識」

(王上19:9-18、ロマ10:5-15、マタイ14:22-33)

 

 今日は8月9日です。今から75年前、ちょうど礼拝の時間にもあたる11時2分に長崎に原子爆弾が落とされた日であります。75年という長い年月は、「過去の記憶」を「歴史」へと変化させていきます。記憶には痛みが伴いますが、歴史はただの知識として処理されていくことがあります。私たちは痛みを忘れていくとき、反省することを学ばなくなっていくのです。今年もまた、そこにあった痛みへと思いを寄せ、平和を祈っていきたいと願います。

 さて、今日もまた聖書の話を聞きましょう。今日与えられた箇所は「湖の上を歩く」というタイトルが付けられているように、湖の上を歩く物語です。しかし、面白いことに、本来であればそのような奇跡的行為を行うのはイエス様だけであるのですが、今日の箇所ではペトロも湖の上を歩くのです。結局ペトロは湖の上を歩くという状況に恐怖や不安、そして疑いを抱き沈んでいってしまうわけですが、最後は主に助けられて、主への信仰に導かれていくという物語でありました。非常に分かりやすく、信仰者の弱さを描き出している物語と言っても良いかもしれません。マタイ福音書という書物は、このような信仰者の心情を描写するときにはペトロがよく出てくるのです。マタイ福音書でのペトロは物語上の最重要人物であると共に、典型的な信仰者の姿を映していると言われています。イエス様に従い、教えを受け、奇跡を体験し、しかしそれでも時に疑い、逃げ出してしまう。そんなペトロの姿を通して、信仰者の生活、考え方、そして弱さを体現していくのです。マタイは本来の物語に手を加える形であってもペトロを登場させて、そこに読者の心情を落とし込もうとしていると考えられているのです。今日の箇所はまさにそのうちの一つであります。

 なぜそう言えるのかと言うと、今日の箇所は編集が加えられているからです。マタイ福音書はマルコ福音書を参考にしていると考えられていますが、マルコ福音書には今日の箇所はイエス様が湖の上を歩いて船の上までやってくる話であるはずなのです。つまり、ペトロが湖の上を歩くという描写は一切ありません。というよりも、「ペトロ」という名前すらこの場面では出てこないはずなのです。にもかかわらず、マタイはわざわざペトロも湖の上を歩きだす場面を挿入しているのです。そしてそれが失敗に終わるということを通して、信仰者が抱える弱さをより強く示そうとしているのです。「イエス様が奇跡を行う物語」とするだけではなく、「それを疑う私たち」をもう一方でペトロを通して語るのです。そう捉えますと、今日の箇所はまさに私たちのことを言い表していることがわかるのです。

 今日の箇所に出てくる船は教会を示していると考えられます。そしてペトロは教会に連なる信徒を念頭に置いて語っているのです。教会はイエス様に従い湖の上を行きますが、時に逆風にあい、時に波が襲ってくる。

その時、イエス様が助けてくれるはずであるのにも関わらず、どうしても疑ってしまい信頼しきれない。怖くて不安になって、沈んでしまうことがある。それが教会の、信仰者の現実ではないでしょうか。「そんなことはない」と言える人は少ないと思うのです。そのように疑い深い私たちがいることをマタイはハッキリと示すのです。そのことを通して、「信仰」とはどのようなものであるかを描き出すのです。

 私たちは「信仰」と聞くと、疑いのないところにあるものと理解してしまいます。信仰と疑いを反対の場所におき、そのどちらに傾くかということによって、信仰者か不信仰者かを判別しようとしてしまいます。しかし、この箇所が表しているように、信仰というものは常に疑いを道連れにするのです。私たちに根差している常識は常に、信仰とぶつかり合うのです。そのために起こってくる信仰者の現実は「疑いながらも信じていく」ということになっていくのです。それが私たちの信仰を表す表現ではないでしょうか。もし今あなたが湖の上にいたとして、歩けと言われて、完全に信頼して歩けるでしょうか。下を見たら底が見えないほどの水位であれば、きっと怖くなるでしょう。きっと私たちもペトロと同じように沈んでいく。もし今あなたが、この問いに頷くのであれば、あなたは「疑いながら信じている」のです。こうして問い詰められると、何だか自分が悪いものに思えてくるかもしれません。そうです、あなたは罪人なのです。でも、マタイはそんな私たちを「悪い者」として責め立てたいわけではありません。マタイは、それが私たちの信仰であるということを示した上で、その私たちに神がどう接してくださるかを描くことを通して、その弱さを肯定するのです。

 マタイが「弱さ」を語るのは、私たちに深い慰めを語るためであります。今日の箇所で、信仰の薄さ、つまりは疑いを抱えるが故に沈みゆくペトロに対して、イエス様はすぐに手を伸ばして捕まえてくださるのです。これはつまり、たとえ信仰の薄い者であっても、主はすぐに手を伸ばして捕まえてくださる。そう、マタイは語ろうとしているのです。そして、捕まえられた者は「本当に、あなたは神の子です」という確かな信仰に導かれていくというのです。弱かろうが、信仰が薄かろうが、主があなたを捕まえてくださる。だから安心していなさいということを今日の箇所は私たちに伝えているのです。

 私たちは「疑いながら信じていく」のです。非常識な言葉かもしれません。しかし、マタイにとってそれは信仰者としての常識なのです。ルターは「義人にして同時に罪人」と言いました。矛盾した二つの事柄が同時に起こっていくというまことに奇妙な言い回しでありますが、まさに今日の箇所のことを言い表していると思うのです。私たちは罪人でありながらも、主が手を伸ばして捕まえてくださるから、義人とされていくのです。私たちはこのことを「そうであるべきだ」と捉えるのではなく、「そうであって良いのだ」と受け入れていきたいのです。そこでこそ、主の平安に満たされるという恵みを受け取るからです。その平安に満たされた私たちが、今度は、すべての者が平安に満たされるようにと祈りつつ、今日もまた遣わされていきたいと願います。

 

 

次回の礼拝予定です。

8月16日(日)聖霊降臨後第11主日

司式説教:中島和喜牧師     説教題:「無欠」

聖 書 :イザ56:1,6-8、マタイ15:21-28

讃美歌 :186(1)、466(1)、186(4)

どうぞ、お越しください。


7月19日 聖霊降臨後第7主日

2020年07月20日 | 活動の様子

「夏がやってきました。未だに朝、礼拝堂は涼しい(寒い)ためストーブを点けようか悩む時がありますが、7月も中旬ですから、夏だと言い張ろうと思います。」

夏が大好きな牧師はそう言いました。しかし、そんな牧師の格好は長袖。夏とは思えない格好です。

これに対し牧師は「勇気が出なかった」と言っていました。

そして札幌に向かった牧師は、着いて早々こう言い放ったそうです。

「暑い!」

温かい季節がやってきましたね。

 

さて、礼拝はなおも短縮で継続中です。

式文と説教原稿を張り付けておきます。

 

聖霊降臨後第7主日

〇沈黙(罪の告白と主の赦しを覚えて)

〇本日の祈り

憐れみ深い裁き主・まことの神様。あなたはあなたの子どもたちを確信と憐れみのうちに顧みてくださいます。御子の道に根ざすことができるように、御国に生きる私たちをあなたの霊によって養ってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

〇聖書朗読

イザヤ書                44:6-8                  (旧:1133頁)

マタイ              13:24-30,36-43       (新:  25頁)

〇説教…以下に掲載

〇教会の祈り

主なる神様。今日は聖霊降臨後第7主日です。あなたによって裁かれる時がいずれやってくるけれども、私たちはその裁きに脅えるのではなく、主の慈しみを覚え、いつも安心して日々を過ごすことが出来ますように。私たちの信仰生活を、あなたが愛に満ちたものとしてください。

今、各地で様々な災害が起こっています。時間が過ぎていくことによって、実際に被災された人々以外は、その痛みを忘れていきます。けれどもどうか、人々がその痛みをいつも覚え、祈り続けていくことが出来ますように。そして、今も苦しみの中にある人々に、あなたの平安をお与えください。

教会に連なる人々、またその周りの人々、そして今なお様々な災害と格闘する人々を覚えて祈ります。苦難を抱える人、葛藤を抱える人、痛みを抱える人、不安を抱える人、寂しさを抱える人、疲れている人、病の人、ご高齢の人、一人ひとりにあなたからの慰めと満たし、平和と喜びとが与えられますように。この一週間の歩み、全てをあなたに委ねます。私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。

〇主の祈り

〇祝福祈願

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。

アーメン。

〇沈黙(主に遣わされていく感謝を覚えて)

 

「敵」

(イザヤ44:6-8、マタイ13:24-30,36-43)

 いよいよ、夏の時期がやってきました。未だにストーブを点けようかと悩む気温の日がありますが、7月も中旬ですから、夏だと言い張ろうと思います。この季節になると、様々な植物が元気に芽生えます。特に私が住む恵庭市は花の街であり、教会周りを散歩するだけでたくさんの花々に出会うことが出来ます。美しい花々に魅了されながら私は思うのです。「芝刈りが面倒だなぁ」と。雑草はどこからやってくるのか、なぜこんなにも根が深いのか、と頭を悩ませる季節でもあります。

 今日の譬話は、そんな雑草についての話であります。譬話の中に出てくる「毒麦」というのは「雑草」と理解しても良いでしょう。「毒麦」と訳すと、何か毒素を持った特別に有害な何かがいつの間にか入り込む、という意味で捉えてしまうかもしれません。しかし、ここでの毒麦は、確かに有害なものとしてあらわされていますが、特殊なものではありません。当時のヘブロン地方の農業において、毒麦が小麦に交じってしまうことはよくあることでした。また、小麦の根よりも毒麦の根の方が深いため、毒麦を抜くと小麦も一緒に抜けてしまうので毒麦も一緒に生やしたままにするというのは当時のヘブロン地方の農業において一般的なことでありました。そのため、ここでの譬話においては、「毒」ということよりも、「小麦に交じってしまう意味のない何か」例えているのであり、わざわざ「毒」の部分を強調して考える必要はありません。そしてそれを私たちの生活にあてはめるのであれば「雑草」が一番捉えやすい例えでありましょう。そのため、ここでの「毒麦」とは「雑草」のことであると考えた方が私たちの理解の助けになるでしょう。雑草はいつの間にか生えてくることを私たちは良く知っています。深く根をはりいつの間にか生えてきます。とても邪魔なのですが、雑草を無遠慮に抜き去ると時に大切な植物をも一緒に引き抜いてしまうことがあります。「こんなものなければいいのに」と思うこともあるのではないでしょうか。

今日の箇所で、その雑草は「敵」によって蒔かれると書かれています。敵はせっかく良い麦が成る畑に、わざわざ雑草の種を蒔き邪魔してくるのです。その「敵」が誰であるのかは書かれていませんが、そのように良い麦と雑草が混同する畑が敵によって作られてしまう、それがこの地上であるのです。キリストに従う者とキリストを拒否するものが混同する世界。その両者の区別が最後の審判の時に定かになるという、つまり今日の箇所は裁きについての譬話であるのです。

 となれば、当然私たちは良い麦になりたいと願うでしょう。けれどもどうでしょう。私たちは自分を良い麦と言えるでしょうか。麦か雑草かと問われたらついつい「雑草」と答えたくなるのが私たちの心理であり、日本人風の考え方かと思うのです。

 では今日の箇所は、「そんなあなたも実は良い麦なんですよ」という励ましが書かれているのかと思えば、全くそんなことはありません。大体の説教は「そんなあなたでも良いのです」と締めくくればそれっぽくなるのですが、今日の箇所においては、「雑草とされないように『耳のある者は聞きなさい』」とあるように、励ましではなく警告のメッセージが語られているのです。ですから、「そんなあなたも…」という期待は打ち砕き、注意していろという警告を受け止めなければなりません。そう言われてしまうと、私たちはついつい怯えてしまいます。果たして良い麦となれるのだろうか、と。

 

 しかし、今日の箇所において最も重要なメッセージはそこではありません。重要なのは「主による裁きが最後になされる」ということです。つまり、裁くのは主であるのだから、あなたがたが自分で決めるなということです。

 私たちは様々なものを裁いてしまいます。良い悪いを自分で判断するのです。今も、「麦か雑草か」という話に耳を傾け、自分はどちらだろうかと判断しようとしていたのではないでしょうか。そもそも私が聞いたのですから、ちょっとは自分がどちらだろうかと考えたでしょう。自分がどちらかと考えた時、あなたは何によって判断しようとしていたでしょうか。良くあるのは「罪を犯した」「主への疑いがある」「隣人愛の不実行」つまりは「完ぺきではない」ということから、私たちは自らの罪を見つめ、勝手に自分を「雑草」と決めたがるのではないでしょうか。

しかし、裁くのは主なのです。あなたが勝手に決めてはなりません。そして主が求めることはいつも「聞いて信じること」です。あなたは愛されているということを信じることです。そのことを信じられないようにしようと敵はいつもやってきます。今も私たちは勝手に自分を「雑草」と判断し、自分は良い麦になれるのだろうか、と不安を抱いたかもしれません。それこそまさしく敵によって毒麦が蒔かれた瞬間でありましょう。

しかし、主はその敵よりも圧倒的な力を有し、最後には勝利されることが記されているのです。36節以下の譬話の説明において、そのことは明らかにされています。だから、私たちは良い麦か雑草かと二者択一に脅えるのではなく、安心して主に委ねることを思い起こしたいのです。

 

今日の箇所で雑草を抜かない理由は「麦まで一緒に抜くかもしれない」と記されています。全体を考えれば雑草を抜いたほうが良いのです。当時の農業においても、毒麦を抜いたほうが小麦にも栄養がいき、よりよく育つことは分かっていたでしょう。けれども、少しでも麦が抜かれることはあってはならないと考えたのです。たとえ少しでも麦が抜かれることはあってはならないと考える「慈しみ深い主」がおられるのです。その主の裁きにもまた慈しみがあることを忘れてはなりません。裁くのは主である。それは主に信頼し、主に委ねるということが求められていくのです。今日もまた、主に委ねて、安心して日々を過ごしていきましょう。

 

 

次回の礼拝予定です。

7月26日(日)聖霊降臨後第8主日

司式説教:日笠山吉之牧師     説教題:「天の国のたとえ」

聖 書 :王上3:5-12、マタイ13:31-33,44-52

讃美歌 :452(1)、276(1)、452(4)

どうぞ、お越しください。