ファン多数、人気のあのパン屋さん!
‡2018(平成30)年02月15日(木) 配信
2019(令和元)年12月31日(火) 配信(再)
2017(平成29)年09月に江田島市大柿町飛渡瀬にオープンしたパン屋さん「ぱん ひふみ」酵母づくりからこだわった絶品パンに、ファン増殖中です!どのパンもメチャうまですよ♪この日はお昼の1時過ぎに行ったので、既に棚はまばら。人気のクリームパンには、ありつけませんでした。次は、朝イチでいくぞーーーー!あっ、シュークリームもオススメですよ♪まだ行ったことがない人は、ぜひ!
2019(令和元)年12月末閉店
737-2101 広島県江田島市大柿町飛渡瀬364-1
電話:0823-57-7262
営業時間:9:00~17:00
定休:facebookにて要確認
「ぱん ひふみ」のfacebookはこちら
https://533etajima.com/pan-hifumi/
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自家製酵母にこだわり続けたパン職人 島のパン職人として20年目に突入 進化を続ける『ぱん ひふみ』
2017(平成29)年09月にオープンした『ぱん ひふみ』。開店から半年といっても、実は、オーナーである大下さんの島でのパン屋さんとしての歴史はもう20年目に突入しています。その歴史の始まりは、大柿町飛渡瀬の『ぱんのみみ』。9年間営業していた人気のパン屋さんでした。そして、ゆめタウン江田島店への出店オファーを受け、場所を移し『エスク』と店名も変更。このお店も10年間も続いた大人気店でした。しかし、2017年の6月この『エスク』を閉店。そして、同年9月、もとの『ぱんのみみ』の場所に戻り、『ぱん ひふみ』という新しい名で大下さんの3店目がスタートしました!人気も立地も抜群だった『エスク』をあえて閉店させて、新たに再スタートされた理由を、大下さんに伺ってみました。大下さんが出店契約した時にはゆめタウンにも定休日があったそうです。しかし、契約後すぐに365日無休となり、10年間全く休みが無かったというのが、1番の理由だそうです。高熱だろうが、ぎっくり腰だろうが、どんな日でもパンを焼かなければいけない状況は、肉体的にも精神的にもきつい日々。「お陰で鍛えられたけどね」と笑って話す大下さんのタフさには感動です。そして、このたび10年ぶりのお休み、約3ヶ月の長期休暇を取り、心身ともにリフレッシュされての再スタートに至りました。『ぱん ひふみ』の開店に際しては、より美味しいパンを焼くために、今まで築きあげてきたすべてのレシピを見直ししたそうです。エスクの時と比べると、お店のサイズが小さく、大下さんお一人で切り盛りされているため、品数は減りますが、厳選されたバケットや各種菓子パンが並びます。もともと自家製酵母で丁寧に作られているのですが、さらにこだわって作られたパンは、口の中で溶けていくようで、とてもなめらか!冷凍パンを焼いて出すお店が増えている中で、どこまでも自家製酵母の”生きたパン”の味にこだわって作られたパン。その旨味がわかりやすい食パン、バケットやバターブレッドなど、シンプルなパンが大下さんのオススメです。特に宣伝等はしていないとのことですが、この日も、こだわりのパン目当てのお客様がたくさん来店されていました。『エスク』のときの常連さんも変らずお店に足を運んでくれているそうです。「時間にゆとりができたから、もっとこだわってパンをつくれるよ 」と嬉しそうに話す大下さん。パン職人が本気で生み出す極上パン、目が離せません!
住所:江田島市大柿町飛渡瀬364-1
電話:0823-57-7262
営業時間:9時~17時
定休日:毎週月曜日 ぱん ひふみ FACEBOOKはこちら
http://etajimafan.net/menu/584560
独裁者の「恥部」を暴露して処刑された最初の脱北者
2020(令和二)年06月17日(水) 5:00 高英起 | デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
写真◆金正恩氏(朝鮮中央テレビ)
北朝鮮が、金正恩体制を非難するビラを北に向けて散布した韓国の脱北者団体と、それを許容した文在寅政権への強硬姿勢を強める中、北朝鮮各地では国民に脱北者への憎悪を植え付けるための講演会が開かれている。 両江道(リャンガンド)の現地情報筋が韓国デイリーNKに伝えたところでは、「当局から派遣されてきた講師は何人かの(脱北者の)個人名まで挙げながら『人民の名において必ずや処断(処刑)する』などと、驚くべきことを言っていた」という。 また情報筋によると、「こうした発言を聞いた住民たちの間では『当局が特攻隊を南に派遣するようだ』との噂が急速に広がっている」という。北朝鮮当局が、金正恩党委員長の命令とあらば、彼の「敵」を抹殺するため相当な無理をやらかすことは、2017年にマレーシアで起きた金正男(キム・ジョンナム)氏暗殺事件を見れば明らかだ。 たとえ北朝鮮に対する警戒が厳重な韓国国内であっても、ひとたび狙われたら安全とは言えない。体制を恐怖で維持するため「見せしめ」を多用してきた金正恩氏が、脱北者に対してそれをしない保証は決してないのだ。
‡1997(平成九)年02月15日(土)、韓国・ソウル市郊外のアパートで、ひとりの男性が凶弾に倒れた。男性の名前は李韓永(イ・ハニョン)。自宅アパート14階のエレベータ前で、2人組の男に銃撃された。ただちに病院へ搬送されたが、
1997(平成九)年02月25日(火) 10日後に死亡している。1960年に平壌で生まれた李氏は、金正日総書記の2番目の妻ソン・ヘリム氏の姉であるソン・ヘラン氏の息子だった。韓国当局は李氏が射殺された事件を、北朝鮮の南派工作員による最初の脱北者殺害と見ている。そして刺客を放ったのは、外ならぬ金正日氏だった。李氏は、北朝鮮にいたときの本名を李一男(リ・イルナム)といった。平壌では、金正日氏夫妻とその息子・正男(ジョンナム)氏と生活をともにし、金王朝の深奥の秘密に通じていた。ヨーロッパを経由して韓国に亡命した李氏は1996年、金正日氏とロイヤルファミリーの私生活を赤裸々に綴った手記『大同江ロイヤルファミリー・ソウル潜行14年』を出版。それ以降も各種メディアを通じ、「喜び組」や「秘密パーティー」など、体制の恥部とも言える秘話を暴露していく。これに、金正日氏は激怒したという。(参考記事:【写真】水着美女の「悩殺写真」も…金正恩氏を悩ませた対北ビラの効き目)そして最近、脱北者団体・自由北韓運動連合が北に向けて飛ばしたビラでは、北朝鮮の一般国民が決して知ることのできない金一族の「暗部」が暴露されている。 その内容に金正恩氏が激怒したとすれば、1997年の事件が再現されないとも限らないのだ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kohyoungki/20200617-00183664/
ココイチの「客離れ」が止まらない、“値上げ”よりも致命的な原因
‡2020(令和二)年02月15日(土) 8:01配信 写真:現代ビジネス
変調のきっかけとなった「値上げ」
「ちょっとトッピングしただけで、1000円の出費は痛い……」。そんな声が至る所で聞かれるようになったカレーチェーン最大手の「カレーハウスCoCo壱番屋」(以下、ココイチ)だが、ここへきて深刻な“客離れ”が現実味を帯び始めている。
◇警視庁23歳の美人巡査がヤクザに惚れてすべてを失うまで ⇒ 運営する(株)壱番屋が
2020(令和二)年02月04日(火)に発表した『2020年1月度月次情報』によれば、全店の売上高は100.3%(前年同期比)とほぼ横ばいとなった一方、既存店の客数は98.4%(同)と減少していることが明らかになった。ココイチの既存店の客数減は、今に始まったことではない。期初となる2019年3月度から2020年1月度にかけての11ヵ月のうち、対前年同期比でマイナスとなった月は、実に8ヵ月にも及んでいる。ココイチが変調をきたした契機とされているのが、
2019(平成31)年03月01日(金)に行われた「値上げ」だ。
そもそも、ココイチはこれまで、食材や人件費の高騰を理由に度重なる値上げを行なってきた。たとえば、定番メニューの「ポークカレー」は2016年12月以降、地域ごとに値上げを実施。そして昨年3月に、国内店舗のうち約8割の店舗で価格を21円(税込)引き上げられた。現在、同商品は東京23区などの都心部では505円、それ以外の地域でも484円となっている。それでは、なぜファンからの不満をよそに、ココイチは強気の値上げ戦略をとり続けるのか。実はそのウラに、同社の明暗を分けるカレーチェーン業界の動きがあるという。その理由について、「カレー総合研究所」代表で、カレー専門のコンサルティングを行う井上岳久氏に解説してもらった。
写真◆オーソドックスな「ポークカレー」(画像:CoCo壱番屋公式HPより)
◇ここまで強気の値上げができたワケ ⇒ ココイチの価格戦略は、業界では「トッピング積み上げ方式」と呼ばれるものです。これは、ベースとなるポークやビーフなどの安価なカレーに、利益率の高いトッピングを積み上げることで、カレー単価の増加を狙う方式です。そもそも、ココイチのカレー自体の味は、特筆して美味しかったり、独自性があるわけではありません。まさに、家庭の素朴な味をイメージした日本人が食べ慣れてる普通のカレーです。つまり、変にこだわりが存在しない分、ココイチには「まずい」「食べにくい」といったマイナス要素が付きにくいという強みになったと言えるでしょう。さらに強みとなったのが、まさにトッピング。ココイチといえば、ご飯の量やカレーソースの辛さに加え、カツやチーズ、スクランブルエッグなどの豊富なトッピングを選び、自分好みの組み合わせで食べる仕組みが人気です。「1億通り」と呼ばれるトッピングの組み合わせを作り出したことで、他のカレーチェーンにはない個性を生み、結果として、多くのファンを獲得することにつながったのです。加えて、カレーとトッピングとを別建てにしていることは、消費者に対する心理的なメリットもあります。なぜなら、ベースとなるカレーだけでなく、トッピングもほぼ毎年のペースで値上げが行われていますが、消費者にとって一連の値上げ幅が非常に小さく映るからです。昨今、外食チェーンは軒並み値上げによって客離れに苦しんでいます。しかし、ココイチはこのトッピング積み上げ方式によって、他の外食チェーンよりも客離れを抑えられたと考えられます。
次ページは:他の飲食業態ではありえない
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200215-00070426-gendaibiz-bus_all
フランスで日本人初 三つ星シェフ小林圭さんのひみつ
‡2020(令和二)年02月15日(土) 11:00 週刊朝日オンライン限定記事
写真◆(C) AERA dot. 提供 ミシュランガイドの発表会でフランスへの感謝を述べた小林圭さん=撮影・増井千尋
日本人シェフが本場で栄冠を手にした。星の数でレストランを評価する「ミシュランガイド」のフランス版で、小林圭さん(42)が日本人として初めて三つ星を獲得した。日仏料理界の歴史に刻まれる偉業だ。フランス人以上に本物にこだわる凄腕料理人の実像に、現地在住のジャーナリスト・増井千尋さんが迫る。全世界29カ国で計32冊出版されているミシュランガイド。なかでも本国フランス版は最も評価が厳しいことで知られる。日本やニューヨークの三つ星のフランス料理店は、本場では二つ星相当値だとも言われる。フランスでは、星の数はレストランの売り上げはもちろん、仕入れ先やその地方の交通機関まで影響を及ぼす。片田舎の店でも三つ星を獲得すると、国内外の客が殺到し、街が潤うのだ。100年以上の歴史を誇るタイヤ会社の赤いガイドブックは、地域経済をも揺さぶる。覆面調査員の数も評価基準もかたくなに公開しないミシュラン。パリでは10年以上超高級店以外に三つ星を与えず、個人経営の若いシェフを見落とし続けた。 あきれたフランス料理界はミシュランのことを、「時代遅れの化石」と批判した。インターネット時代に乗り遅れたこともあり、ガイドブックの売れ行きは落ちる一方だ。こうした声を背景に、2018年9月にミシュランガイドの新しい総責任者にグウェンダル・プレネック氏が就任。数カ月後に刊行された19年版は表面的な変化で終わったが、20年版では「革命を起こす」と暗示していた。小林さんは11年、パリのルーブル美術館近くに「レストランKEI」を開いた。私が初めて食べたのはオープンしてから数カ月後のことだ。「ずいぶん過激な料理だなぁ」と首をかしげたことを覚えている。酸っぱかったり、甘かったり……。決してまずくはないが、食べ手に強い印象を残すアグレッシブな料理だった。食後に小林さんに会った。金髪に、足は高級ブランド「クリスチャン・ルブタン」のスニーカーで、自己主張の塊のような若いシェフだった。 一方で、はっきりと自己を持っている強いキャラクターの裏には、意外に臆病で真面目な完璧主義者が潜んでいた。その後、私は小林さんの料理本を2冊執筆し、「圭さん」と呼ぶようになった。今や私にとって彼は弟のような存在だ。オープンの翌年に一つ星を取った。当時は、「僕は三つ星しか眼中にありません」と大きなことを言っていた。 しかし、なかなか二つ星は取れず、毎年の発表前後は、誰も口がきけないほどイライラしていた。徐々に星までの距離の厳しい現実が分かったのだろう。17年に二つ星に昇格したが、圭さんはあまり「三つ星」と言わなくなっていた。星の数の発表はシェフの人生を左右する。18年版までミシュランは発表の前日に連絡をしていた。発表日が月曜日の場合は、基本的に土曜日の晩までに電話が来ていた。月曜日の朝ぎりぎりにかかってくる時もあるので、毎年、星を目指すシェフたちはものすごい緊張感の中で一本の電話を待っていたのだ。19年版からはさらに残酷になり、シェフたちは発表会に招待されるだけで、星の有無はぶっつけ本番。会場の舞台でプレネック氏がレストランとシェフの名前を呼ぶ方式になった。20年版の発表は
2020(令和二)年01月27日(月)の午後4時開始(現地時間)であった。私は、前日の晩に、圭さんを食事に誘った。「圭さん、三つ星は無理よ。早すぎる」「どうしてですか? 分からないじゃないですか!」「ボキューズを格下げした年に、日本人に三つ星? ありえない」 巨匠ポール・ボキューズ(18年に死去)の店が55年間保持した三つ星を失ったことが、数日前にわかっていた。これがミシュランの「革命」だったのか!フランス全土が驚愕(きょうがく)するようなニュースだった。国の栄光のシンボルを二つ星に格下げて、日本人に最高賞の三つ星を与えるとは考えられなかった。ところが予想に反し、圭さんは見事に獲得した。 発表会の当日、私は会場のプレスコーナー席に座った。午後3時50分、発表が始まる10分前。「ケイが三つ星を取った!」という一報がプレスコーナーに広まった。私は会場の中央のシェフ席に座っていた圭さんに、スマホのラインでメッセージを送った。「圭さん、良いお知らせのようですよ」 遠くから見える彼の顔は真っ白に緊張していた。妻の知加子さん、シェフパティシエの高塚俊哉さん、調理場のチームとレストランディレクターも一緒だ。勢ぞろいで来たところを見ると、もしかして知っていたのかも。20年に美食の都パリで新しく三ツ星を手に入れた店は、「レストランKEI」だけ。去年初めてフランス人ではないシェフが三ツ星を獲得したが、それほどの騒ぎにはならなかった。今回の「日本初!」は今までにない反響を呼んだ。テレビニュースで報じられ、レストランへは1千~2千件の予約メールや電話が殺到した。フランス人が日本へ抱く憧れと尊敬の表現なのだろうか? 細身で神経質そうな一人の日本人の料理人が、フランス料理の歴史を変えたのかもしれない。三つ星を取れたのはミシュラン側の事情もあったのだろう。新しい総責任者のもとで、ミシュランは過去のイメージを一新する必要に迫られていた。もちろん料理はすばらしい。初期は一切しょうゆを使わないほどフランス料理に一途な姿勢だった圭さん。同レベルのフランス料理人がしょうゆはもちろん、一番だし、昆布、みそ、ユズ、ノリなどを日常的に使うなか、圭さんは日本の食材や料理法をあまり活用しない。才能の基盤にはフランス料理の伝統がある。日本で師匠から、「肉を習いたいならフランスへ行け」と言われ、20万円を手に渡仏。一本のバゲットパンで3日間過ごすような切り詰めた暮らしを経て、ようやく南仏の三つ星店で採用された。KEI特有のトマトやオリーブ油の味は、ここで培われたのだろう。アルザス地方の著名店で働きながら、定休日は隣の精肉店でも修行を重ねた。年に100頭以上の鹿をさばいたそうだ。圭さん特有のジビエ料理の根源はこの時代にあった。フランス料理の基本は肉。日本の料理人にとっては難しい食材だ。圭さんの強みは、肉という食材に精通し熟練の技を持っていること。そして、フランス料理のもう一つの基盤であるソース。ソースがなくてはフランス料理ではない。通常は肉の端切れや骨をワインなどで煮詰めて作るが、圭さんはぜいたくな部位を使う。フランスの著名シェフに憧れ、「フランス料理」の理想を常に心に抱いてきた。だから日本など他国の要素を取り入れた料理がはやるなかでも、一瞬ともフランス料理の基本からぶれなかった。フランスの古典料理を現代の美食に変化させるのは、基本が完成していることに加え、類いまれなるセンスも必要だ。フランスには多くの日本人シェフがいて、似たような料理を出すシェフが多いが、圭さんの味の感覚や料理の盛り付けは誰にも似ていない。「絵画」に似た現代料理の仕上げに独自の目新しさと美的感覚がなくては、どんなに味が良くても三つ星は取れない。 圭さんの料理は正確だ。ぶれない。火入れは完璧で味が決まっている。隙のない、自信に満ちた料理だ。昨年は6回も調査員に訪問されたようだが、ミシュランガイドのキーポイントである、「安定した完璧さ」を見せることができたのだろう。一部の報道では、圭さんの料理は日本とフランスの味を調和させたものだという見方もある。 私は「日本人の魂」とフランスの味を調和させたものだと思う。勤勉で物静かだが頑固さも併せ持つ。相手の強みを理解、分析して、自分のものにするのは日本人の特技だ。それでいてフランス人に尊敬の念を持っている。フランス人のシェフは勤勉ではないといった誤解もあるなかで、圭さんは以前からこう言っていた。「フランス人は日本人以上に働きます。ただ、けじめがはっきりしているからダラダラは働きません」圭さんもメリハリをつけて働く。フランス人のシェフたちはそんな圭さんを、「真っすぐなやつだ」と評価する。 フランス料理はもはやフランス人だけが作るものではない。10年ほど前から多くの日本人シェフが、パリで店を開いている。いまでは、日本人シェフのレストランは繊細できちょうめんな美食を提供してくれると高く評価されている。そんな状況もあって、圭さんのフランスへの感謝の気持ちは強い。「日本人がフランスで活躍できるのは、フランス人のお陰です。僕たちを素直に受け入れてくれるからです。考えてみてください。これが逆だったら? 日本でフランス人が日本料理店をやったらどうなると思いますか? 商売なんかできませんよ。だから僕はフランス人の『民主主義』にありがとうと言いたいです」こう7年前に語っていた圭さん。念願の三つ星を手にした発表会でも、「メルシー・ラ・フランス(ありがとうフランス)」と述べた。その言葉はフランス人の胸に響き、社会的にも称賛された。こんな圭さんだからこそ、日本人初の三つ星を獲得できたのだ。
■増井千尋 ジャーナリスト、作家。1964年、東京都生まれ。パリ在住45年超。フランス語で料理本を出し、日本やフランスの雑誌などに料理関連記事を執筆。母はフランス料理やグルメの本などで知られるジャーナリスト、故・増井和子さん。父はフジテレビの元ニュースキャスター、故・山川千秋さん
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/フランスで日本人初-三つ星シェフ小林圭さんのひみつ/ar-BB101fFS?ocid=spartanntp
「大喪の礼」7年前に極秘準備 昭和天皇逝去、弔問外交を想定 外務省記録
2019(令和元)年12月29日(日) 7:20 時事通信 配信
1989(平成元)年02月24日(金) 東京・新宿御苑 写真◆古装束の皇宮護衛官に担がれる葱華輦(昭和天皇の霊きゅうのこし)
1989(平成元)年02月24日(金)に行われた昭和天皇の「大喪の礼」をめぐり、外務省がその7年前の82年、天皇逝去に向けた準備を始め、宮内庁と極秘に協議していたことが分かった。
【図解】皇室の構成
1963(昭和38)年11月(国葬) ケネディ米大統領、
1980(昭和55)年05月(国葬) チトー・ユーゴスラビア大統領らのケースを参考とすることにし、これらの葬儀を調査。「弔問外交」の展開を想定していた。外務省外交史料館がこのほど秘密指定を解除した「昭和天皇大喪の礼」に関する記録で明らかになった。外務省儀典官室は
‡1983(昭和58)年02月15日(火)の極秘文書で「陛下(昭和天皇)の崩御うんぬんは、事柄の性質上軽々に口にしたり、とり上げたりすべき問題ではないが、陛下は既に82歳に近いご年齢であるし、万一かかる事態が発生しても当省としてスムーズに対処できるように所要の準備を進めておくことは事務的には必要」と記した。同文書によると、西田誠哉儀典長の指示で、
1982(昭和57)年秋ごろからごく少数の間で作業を開始。外務省出身の安倍勲式部官長らとともに、同年12月初めに勝山亮宮内庁審議官と協議を行った。勝山氏はその際、「まだ具体的なことはほとんど決まっていない」とした上で、「前例を参考とした私見」と前置きし、陛下逝去の際には皇室典範の規定に基づき「大喪の礼」を行うとし、国葬になるとの見通しを示した。「大正天皇の時の例にならう」とも述べた。
1983(昭和58)年12月08日(木)作成の外務省文書では「宮内庁の方針が決定しない限り、準備不可能なもの」として「外国人参列者を受け入れるか否か」を挙げ、早期の方針決定を求めた。その上で決定すれば「弔問外交(対皇族、総理、外相らとのアポイントメント)の調整」が予定されると記した。しかし、実際にはそれに先立つ
1982(昭和57)年06月、宮内庁は外務省に対し、在英、西ドイツ、フランス、ユーゴの各公館長宛てに、当該国元首の葬儀の内容について調査を依頼。外務省儀典官室では、英国のジョージ6世、スウェーデン国王、現職大統領で死去したケネディ、チトーの国葬を調査するとともに、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、大平正芳といった歴代首相の葬儀も参考にすることにした。
1983(昭和58)年04月12日(火)「天皇陛下崩御の際の体制」と題した儀典官室作成の文書では、
1980(昭和55)年07月にカーター米大統領や華国鋒中国首相らが参列した大平氏の内閣・自民党合同葬儀を参考に、外国要人の送迎、宿舎、警備など受け入れ体制を具体的に定めた。実際の大喪の礼では、ブッシュ(父)米大統領ら164カ国の外国代表らが参列し、史上最大規模(当時)の葬儀となった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191229-00000006-jij-int
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┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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2013(平成四)年02月15日(金) ロシア・チェリャビンスク州上空で隕石が爆発・落下 ⇒ ロシア・チェリャビンスク州上空で午前9時20分ごろ、隕石(いんせき)が爆発し、一部の破片が地上に落下。多数の住民が衝撃波で割れた窓ガラスでけがをしたり、強烈な光で目の痛みや日焼けのような症状を訴えたりした。写真はチェリャビンスクの上空で確認された隕石落下の軌跡【AFP時事】※2020(令和二)年説明消却 ⇒ 2021(令和三)年説明復活
1981(昭和56)年02月15日(日) 東京・有楽町の日劇、48年の歴史に幕
1989(平成元)年02月15日(水) ソ連軍、アフガニスタンからの撤退完了 ⇒ 1979年にアフガニスタンへ侵攻したソ連軍が、完全撤退した。写真は、アフガニスタンからソ連領内に帰還し、機関銃の銃口に花を差すソ連軍兵士。ソ連の軍事侵攻は、アフガニスタンを東側陣営にとどめるのが目的だったが、紛争は泥沼化し、莫大な額に上った戦費はソ連崩壊を早めたとされる。 【AFP時事】※2020(令和二)年説明追加 ⇒ 2021(令和三)年説明消滅
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1992(平成四)年02月15日(土) 中日・西本聖、不屈の再スタート
‡2018(平成30)年02月15日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は2月15日だ。
写真◆練習の合間には体のケアも入念に
常に日の当たる道ばかりを歩み続けたエリートとは違う。どこまでもシンプルな情熱がこの男を支えている。
「野球がやりたい。選手でいたい」
1975年ドラフト外での巨人入団。雑草魂で這い上がり、すでに17年もプロでメシを食っていても、西本聖のこの思いだけは変わらない。
1992年2月15日は、保留選手扱いのまま沖縄キャンプに自費参加していた中日・西本が宿舎ホテルムーンビーチで契約更改を行い、900万円ダウンの7600万円(推定)で選手契約を交わした日だ。
前年の91年5月8日の大洋戦(横浜)で下半身に力が入らなくなって降板。診断の結果は椎間板ヘルニアで、手術しなければ治らないという重症だった。9月15日には整体治療の権威リロイ・ぺリー氏をロスに訪ね、手術せずに完治を目指したが、思わしくなく、ついに10月15日、当時成功率75パーセントと言われた、せきつい軟骨除去手術を受ける大きな賭けに出た。
ただ、周囲の目は「西本はもう終わった」だった。
それでも12月4日に帰国した西本はさっそく練習を再開。キャンプにも自費参加した。必死のアピールが実り、15日の選手契約にこぎつけたのだ。
「また好きな野球ができるんだという気持ちで胸がいっぱいです」と西本。8日に一軍本隊のキャンプに合流以来、1日100球を超えるピッチングを続け、ほかの誰よりも早いペースでアピールを続けた。フォームからは手術の影響は感じられず、すでにシュート、カーブも投げ始め、周囲からはむしろ「少しセーブしたほうが」の声もあったほどだ。
「野球の素晴らしさは1年、2年やった人より僕のほうが感じている。もう一度マウンドに立ってスタートしたい」
巨人時代は江川卓とダブルエースとして活躍。89年、トレードで中日に移籍した年には、古巣巨人への雪辱に燃え20勝を挙げた。だが、そんな栄光はもはや過去のものと切り替えた。屈辱、絶望を乗り越え、雑草男が再スタートを切った。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180215-13
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.099 ┃ 30円
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1960(昭和35)年3月02日(水)号 特集 12球団スプリング・キャンプの内幕 対談 二年目のジンクスはない
2018(平成30)年2月03日(土) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。おかげ様で、まもなく通算3500号を迎える。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎張本勲の自信
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1960(昭和35)年3月2日号』。定価は30円だ。巻頭は巨人の宮崎キャンプ。この年のキャンプインは2月8日となっていたらしい。週べ創刊100号である(高校野球特別号が入り、ナンバリングは連載の回数とは合わない)。
本文巻頭というか、一大特集が『12球団スプリング・キャンプの内幕~本誌特派記者がつづる現地ルポ』。各球団2ページで、すべてに南海なら野村克也、広瀬叔功など「ショート対談」が囲みで入る。ここでは見出しのみ紹介しよう。
南海 「杉浦にあがる危険信号」
大毎 「葛城のコンバートは成功するか」
東映 「新しい外人トリオの功罪」
西鉄 「川崎監督と中西、豊田、稲尾」
阪急 「再起を誓う衆樹」
近鉄 「巨人勢と近鉄勢の対立」
巨人 「浜崎コーチと投手陣の間」
阪神 「金田新監督の人気は?」
中日 「濃人はだれを育てる!」
国鉄 「エース金田のキャンプ生活」
広島 「一本化したチーム力」
大洋 「“低姿勢”三原の腹の中」
キャンプ地一覧もあったので、ついでに紹介する。
南海 1月20日(水)~2月25日(木)・中モズ
南海 2月26日(金)~3月4日(金)・呉二河
大毎 島原
東映 2月8日(月)~月末・伊東
東映 3月1日(火)~10日(木)・岡山
西鉄 平和台
阪急 2月08日(月)~14日(日)・姫路
◆阪急 2月15日(月)~月末・西宮
近鉄 今治
巨人 宮崎
阪神 甲子園
中日 大分別府
国鉄 指宿
広島 2月02日(火)~24日(水)・呉二河
広島 2月25日(木)から月末・広島
大洋 明石。以前あった三保はなくなったのか?
2個所の球団のみ日付を入れたが、キャンプインの
1960(昭和35)年2月8日(月)は、有名無実のものだったらしい。
座談会は越智正典の司会で前年の新人王、東映・張本勲、大洋・桑田武が登場。タイトルは『二年目のジンクスはない』だが、2年目のジンクスについて聞かれたときの張本の答えがいい。
「ぜんぜん考えてないですね。だいいちジンクスやらそんな言葉知らんですもの(笑)」
実際、相手投手についても知らなかった1年目より2年目のほうが怖くないと言い切り、さらに「四角い中、これだけでしょ(手でホームベースの型をつくる)。どっか当たると思うですね。向こうもまた、バットに当てんようにという気持ちがあると思うんですけど、どっか当てられると思うんですね、ぼくは」
かなりの自信だ。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.149 ┃ 40円
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‡1961(昭和36)年2月15日(水)増大号 スター選手サイド・ビジネス繁昌記
2018(平成30)年3月25日(日) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『多摩川べりにZ旗あがる』
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1961年2月15日増大号』。定価は10円アップし40円だ。グラビアでは自主トレや先頭を切って始まった巨人のユニフォームでの総合練習などが掲載され、連載『誌上野球教室』では長嶋茂雄の三塁守備が登場。ゴムマリのように弾む守備だ。
本文巻頭は『多摩川にZ旗あがる』。Z旗は、日本海軍で勝利を祈願する旗の意があった。多摩川の両岸で三原脩監督の大洋、川上哲治新監督の巨人がにらみ合うように練習しているという話だ。
巨人の練習では、川上監督は、ほぼ黙って見守り、逆にコーチとなった別所毅彦が大声。ファンからは「まるで別所が監督みたいだな」の声もあった。練習の後、合気道の達人やウェートリフティングの権威を招いての講習会をしていたらしい。
『なぜはやる帯刀治療所』では、当時肩を痛めた選手がよく通っていた別府の帯刀電気治療所の記事が載っている。帯刀姉妹が父・久松さんから受け継ぐ秘伝の電気治療が有名だった。訪れた選手のサイン帖が10冊もあったというのだからすごい。
『セ・パ人気獲得法の内幕』では、かねてから進んでいた近鉄の中日球場での公式戦が正式決定。いわばセの陣地にパが乗り込むことになる。
これもオフ恒例だが『スター選手のサイド・ビジネス繁昌記』では、今回も大毎・山内和弘が「大実業家並みのスゴ腕」として真っ先に紹介されている。郷里の名古屋市で織物会社を設立し、「ホームランシャツ」などを製作していた。山内は言う。
「ぼくには大学卒のレッテルもなければ財産もなかった。野球という職業がなかったら、いまごろはどこかの工場で職工でもしているのがせいぜいだろう。そう思うと限りなく野球への感謝がわき、同時にこの商売で稼げるだけは稼ぎたいと考える。短い選手生活を考えたら、遊んだり無駄な消費をしたりする暇はないはずだ」
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』が好調発売中。次回、日本ハム編も佳境です。今回は巨人編に比べ、ややくだけた企画もあります。
では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.351 ┃ 60円
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‡1965(昭和40)年02月15日(月)増大号 マッシー村上問題、泥沼化 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
2018(平成30)年11月29日(木) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎長嶋茂雄の結婚式
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄結婚式
今回は『1965年2月15日増大号』。定価は60円だ。
披露宴に出席した東映・水原茂監督は「野球選手の結婚式としては空前絶後だ。前代未聞と言えるだろう」と語った。
巨人・長嶋茂雄と西村亜希子さんの結婚式だ。相当数のページが割かれていたが、野球のネタではないので、ここでは詳しくは触れない。
これまで何度か扱った南海・村上雅則の所属問題。鶴岡一人監督と、SFジャイアンツの間の橋渡し役となったジャイアンツのパートタイムスカウト、原田恒男の直接会談で一応の解決を見たのかと思ったが、その後、泥沼化していた。
鶴岡監督は直接アメリカに渡り、原田も同席のもとジャイアンツと3度の話し合いを行うが、すべて決裂した。原田は、戦後GHQマーカット少将の副官として来日。実は鶴岡監督と旧知の仲で、大阪球場建設にも尽力した人物だが、多少の胡散臭さがあったようだ。
今回の件では南海から自由契約証明を取る際、南海側に64年だけと言いながら65年の契約も含む契約書にサインさせたらしい。まあ、内容を確認せずサインしてしまう南海も南海だが……。
鶴岡監督は「なんとか今シーズン帰国させてほしい」と依頼。これを拒否されると「来シーズン帰国できる新しい契約を結ぼう」と譲歩したが、ジャイアンツは譲らなかった。
「村上とのトレードに関する書類にちゃんとサインをしている。そして1万ドルのトレードマネーを受けている。法律的には村上の保有権はジャイアンツ側にある」
対して南海側は
「1万ドルはトレードマネーではない。報奨金だ」
とあらためて主張。ジャイアンツは「村上を返してほしければトレードマネーを払え」と1万ドルどころではない、とんでもない金額を提案してきたらしい。
その後、相手担当者が休暇で旅行に行くからと交渉が中断。鶴岡監督は、
「いくら話し合っても進展船せん。ワシはもう帰る」
と同行した南海の岩瀬常務を残し、帰国してしまった。
一方、原田は会談後、
「南海にはもっと柔らかい態度でやってほしかった。会談では初めから終わりまでカッカしどおし、これでは話にならない。とにかく村上が今シーズンも、いや永久にジャイアンツの選手であることがはっきりした」
南海の新山代表は、「原田氏が南海をだまし、さらには村上に策略して作ったもの。いずれも両者の合意のうえに立って取り交わされたものではない。したがって無効だ。裁判になっても勝てる自信がある」。
村上自身は「ジャイアンツでやりたいと今でも思っているが、両親が南海でやれというので、どうしたらいいか迷っている」と語っていた。
西鉄・西亦次郎社長が1月25日、経営の合理化のため二軍を撤廃したいと語った。ウエスタンからも離脱し、東京と大阪に野球学校を作り、そこで強化にあたりたいという。
最後になるが、1月26日に野球評論家・飛田穂洲氏が死去。78歳だった。
では、またあした。<次回に続く>
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180203-10
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180325-10
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181128-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.679 ┃ 80円
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‡1971(昭和46)年02月15日(月)号 当連載最多登場(かも)、永田雅一劇場最終章、わが最哀の日……
2020(令和二)年03月31日(火) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎諸君と赤の他人になるわけではない
写真◆表紙は広島・佐伯和司
今回は『1971年2月15日号』。定価は80円。
1971年1月25日午後5時、東京球場脇のレストランに自主トレを終えたロッテの全選手が集まっていた。
午後4時から永田雅一オーナーのお別れ会が始まるはずだったが、ロッテ製菓の役員会が長引き、開催が遅れていた。
永田はすでに来ていたが、ロッテ製菓の重光武雄オーナーを待っての延期だった。結局、重光は役員会が長引いたことで参加しなかった。
「長らくお待たせしました」
永田オーナーの低い声での言葉が響くと、選手が一斉に下を向いた。
「このたびは選手諸君に多大のショックを与え、誠に申し訳なく思っております。心からおわび申し上げます。
ここ数年来、本体の映画が危機に直面し、映画と野球を半身ずつ手掛けてまいりました私にとって、苦しいときでありました。
そしてこの際、大映を救うためには、断腸の思いでありますが、球団から手を引かざるを得ません。
私は映画に生き、映画に死ぬ男でもあります。大映を死守しなくてはなりません。どうか、この私の立場を同情を持って了解してもらいたいのです」
途中何度も話が途切れる。歯切れが悪いが、仕方がない。
永田は一生懸命涙をこらえて続けた。
「しかし、私はオリオンズオーナーを去っても、諸君と赤の他人になるわけではありません。私の生存する限り、私の魂は、球界、そしてロッテ・オリオンズに生き続けるのです。
どうか諸君、近い将来、私は再びプロ野球に戻ってくるつもりです。私は旅に出るのです。そう思ってください。そして、私が戻ってきたときは、かねてからの宿願である日本一になって迎えてください。
それまでは(東京)スタジアムの社長として、応援させていただきます。どうか球団を立派に育てるために、元気でやってください。諸君、どうか元気でやってください」
選手からすすり泣きがもれた。
あいさつが終わり、席についた永田は待ちきれんように白いハンカチを使い、流れ落ちる涙をふいた。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.680 ┃ 80円
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‡1971(昭和46)年02月15日(月)号 中村長芳がロッテのオーナーに就任
2020(令和二)年04月01日(水) 10:36 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
太田幸司が脅迫された?
表紙は広島・佐伯和司
今回は『1971年2月15日号』。定価は80円。前回と同じ号から行く。感動の永田雅一のスピーチの舞台裏のような話だ。
永田がロッテを移譲することを決めたのは別れのスピーチの前日の1月24日だった。
東京スタジアム内の会議室で、永田オーナー、中村長芳オーナー代理、武田球団社長、森口、三浦取締役が出席した。
ここで永田から「大映再建のため、ロッテ製菓に経営を肩代わりしてもらうしかない」と説明。一同了承し、永田の辞表を受け取った。
大映本社の累積赤字は40億円以上。この赤字を少しでも解消するために、永田オーナーが持つ球団の53パーセントの株をロッテに譲渡し、経営を肩代わりしてもらうしかない、という説明だった。
ロッテはすでに7億円(一説には10億)を無利息、無期限という条件でオリオンズに貸していたが、さらに全面経営となると15億円はかかると言われていた。
ロッテ製菓の中にはリスクの大きい球団経営に対する反対意見のほうが大きかったが、仲介に入った岸信介元首相へ配慮もあり、重光オーナーが引き受けるべし、と決断した。
ただ、重光オーナーは「資金は出しても野球経営に乗り出すつもりはない」と、球団のオーナーとはならず、新しいオーナーは中村オーナー代理が就いた。
永田オーナーのお別れ会見の直後、中村新オーナーの会見も開かれ、
「私は12球団一、若いオーナーだと思います。若さと実行力については誰にも負けないと思っています」とあいさつした。
永田との確執があった濃人監督は、
「永田さんがオーナーをやめられ悲しくてたまらない。とかく私が永田さんを裏切ったように言われるが、そんな単純なものではない。永田さんへの恩は忘れていない。ただ、現実問題として4月6日の帰国だけは何とかならなかったか」
ロッテはこの年、指宿キャンプの後、SFジャイアンツの招待もあってアリゾナキャンプが決まっていたが、帰国予定が4月6日、開幕は10日だった。話を変える。
1月22日、小比類巻三沢市長に「白鳥を殺した三沢市民の猛省をうながすため、太田の右腕を折る」という脅迫状が届いた。
近鉄2年目の太田幸司である。
書かれている内容からは事情がよく分からないが、それは太田も同じだったようだ。
「羽曳野署の人が来て十分注意するようにと言われましたが、僕と白鳥は何の関係もありません。なぜ僕が脅迫されなくてはいけないのか。有名税にしたってひどすぎる。三沢に白鳥がいることすら僕は知らなかったのに」
と話していた。しばらく私服警官が太田の周辺を警備していたという。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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┃ プロ野球仰天伝説 No.054 ┃ ONLINE
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【助っ人トンデモ話 No.05】
年齢詐称で契約していた2年連続首位打者【助っ人トンデモ話】
‡2018(平成30)年2月15日(木) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ブルーム[1960―64近鉄→65―66南海/内野手]
近鉄・ジャック・ブルーム
近鉄のブルームは、張本勲(東映ほか)をはじめ、多くの日本人選手が一目置いた高い打撃技術を持ち、
1962(昭和37)年、1963(昭和38)年と2年連続で首位打者にも輝いている。職人肌のところがあり、打撃練習は5球くらいですますこともあったが、鏡の前での素振りは1時間以上、時には2時間に及ぶこともあった。
アパート住まいが嫌いで、神戸の一軒家で暮らし、日本の美術品を集めるのが趣味。版画や掛け軸などを遠征のたびに買いあさっていたという。ご多分にもれず、トラブルメーカーでもあり、特に別当薫監督とはよく衝突。別当監督も少し英語を話せたので、2人で口論していることもあった。
1964(昭和39)年限りで退団後は南海で2年プレーしている。近鉄への入団時、契約条件を少しでもよくしようと実際は30年生まれなのに32年と記載していたという。
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180215-10
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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