過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

                   1.W.&72 NY.NY.apt.72.
                    22nd june 1974.

  dear syn,

      this i s the answer to your letter. i dont have it with me
  no i cant REALLY answer it. as you can see, i learned to TYPE:
  any way Its getting near JULIANS,holiday,and i thought i,d ask you
  when i should send may over for him.how long etc etc.you could tell
  me on the phone i suppose,but i felt like typing..
      hope the new house is fun.say high to helen and ga ng.
  was it you told me jeff mohamed was dead?what happened to tony carricke
  r?
        thats all for now,i need to know the detailes so i can
  plan accordingly.
           lots of love
                to'you,JULIAN.
                     and LIL ●.

               your famous exhusband,

                        john.

                     JOHN ⇒ ジョンの手書き署名

 ジョン・レノンが先妻シンシアさんにあてた手紙。
 ロンドンの競売商クリスティーズでオークションに掛けられ、
 1万2000ポンド(約250万円)で落札された(ロンドン)
 2006(平成18)年05月22日(月) AFP=時事
‡1974(昭和49)年06月22日(土) ジョン・レノン筆跡
 http://www.jiji.com/jc/d4?d=d4_topics&p=joh100-jlp04450915

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
 ┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
 2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
 ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
 ┌─――――――――┐ Top row <一行目>
09|  Fred Astaire  |『Wikipedia』俳優/DANCER
09|フレッド・アステア|『discovermusic.jp』
 └─――――――――┘ メイ・ウエスト(No.3)とは対照的に、フレッド・アステアは 『Sgt. Pepper』のアルバム・ジャケット登場の依頼を受けて喜んでいたと伝えられている。最初は姉と舞台で踊っていたが、ジンジャー・ロジャースと共演した『トップ・ハット(原題:Top Hat)』や『有頂天時代(原題:Swing Time)』などのハリウッド黄金時代の映画で大成功を収めた。フレッドはまた、ジョン・レノンとオノ・ヨーコとともに1972年のテレビ映画『Imagine』にも出演しているヨ(=^◇^=)
 写真◆メイ・ウエスト
 1899(明治32)年05月10日(wed) Born
†1987(昭和62)年06月22日(mon) Died. 88 years old
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 https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
†https://en.wikipedia.org/wiki/Fred_Astaire
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
 https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
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 映像◆B4 19640622 SydneyStadium https://youtu.be/4kL14nqjpjE
 

『COMPLETE DECCA AUDITION TAPES』
   型番 DAP-B001
 販売価格 3,500円(内税)
 ビートルズの歴史的記録として知られている62年デッカ・オーディション・テープ音源が過去最高クオリティの新音源ソースによるマスター・エディションとしてリリースです。 これまでにも音質向上やピッチ修正等の様々なバリエーションがありましたが今回のマスター・エディションでは最も未編集のオリジナル・ソースに近いマスター音源としてすでにコアな海外のビートルズ・コレクターでもベスト音源と話題になっているもので実際そのクリアな音質クオリティそしてテープ・スピードやレングス(曲の長さ)等のコンディションにおいて初めて陽の目を見た待望のマスター音源といえるでしょう。 後半ボーナス・トラックでは公式デビュー前のビートルズ・ドキュメントとしてトニー・シェリダン音源やEMIオーディションさらにキャバーン・クラブ・リハーサル音源等も収録されています。 結果的にオーディションを落としデッカとして歴史的痛恨を残した今となっては伝説の記録であるデッカ・オーディションの決定版となるマスター・エディションです! ビートルズ・コレクターにはすでにお馴染みのデッカ・オーディション音源ですがかつてアナログ時代にはデッカゴーン・シリーズとしてシングル盤が30年以上前に出回って以来数多くのLP盤がリリースされCD時代になると音質向上やピッチ修正等が謳われたタイトルもリリースされてきましたがいずれもマスタリングでリバーブ加工されたり一部の曲のエンディングがカットされたりしてオリジナル音源から劣化したものがほとんどで盤起こしではないテープ音源からのCDにおいても同様で結局デッカゴーン・シリーズのシングル盤が音質・内容共に一番良かったとも言われてきましたがこれまでこのアナログ・マスターの元となった音源を使ったリリースはなく今回リリースの音源はこのオリジナル・マスターからの初CD化となります。 実際に比較検証するとこれまで過去にリリースされた音源はオリジナルに近づける編集はなされていても今回のリリース音源と完全に一致するものはなく過去のコピー音源ではないことが分かります。 場合によって曲の時間がより長いものも見受けられますがピッチの違いによるものでこのオリジナル・マスターを超える内容のものはありませんでした。またオフィシャル「アンソロジー」に一部収録されたものと比較しても音質そのものもいっさいの加工や調整もない最もナチュラルでクリアなサウンドです。 また今回リリース音源でマスターから唯一補正されたのが「マネー」冒頭のテープヨレを本来の状態にした箇所のみでそれ以外はオリジナル・マスター通りの収録となっています。 
 Tony Sheridan Recording Sessions At Friedrich Ebert Halle, Hamburg, Germany 
 22-24 june 1961&may 1962 
 17. My Bonnie 
 18. The Saints 
 19. Cry For A Shadow 
 20. Why (Can't You Love Me Again) 
 21. Nobody's Child
 22. Ain't She Sweet 
 23. If You Love Me Baby (Take Out Some Insurance On Me, Baby) 
 24. Sweet Georgia Brown 
 25. Sweet Georgia Brown (backing track) 
 26. My Bonnie (german intro) 
 http://strangelove-records.com/?pid=121366349
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 ┃ New Brighton Tower ┃
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‡1896(明治29)年06月22日(mon) The ground breaking happened on 22 June 1896,[4] before the formation of the new company, 
 1896(明治29)年07月26日(sun) Completion of land purchase and announcement of contracts on 26 July 1896.
 1898(明治31)年05月30日(mon) On 30 May 1898 the Tower Theatre was opened, sited between the legs of the tower.
 1909(明治42)年09月07日(tue) On 7 September 1909 two visitors were left stranded at the top of the tower as the final lift car of the night descended without them. The woman and twelve-year-old child were not noticed during the final round of inspection and so, without a way to communicate with anyone on the ground, they spent the night on the tower until 10 am the following morning. They did not appear too concerned by the ordeal and left without giving their names to officials.[26] 
 1959(昭和34)年05月18日(mon) In another incident on 18 May 1959 five people were injured while watching a motorcycling stunt when a 10-foot (3.0 m) wide section of stands collapsed, causing the spectators to fall 15 feet (4.6 m) to the ground.
 1919(大正八)年05月15日(thu) On 15 May 1919 a fire destroyed the grandstand.
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 https://en.wikipedia.org/wiki/New_Brighton_Tower#Tower_Ballroom
 http://gejirin.com/beatles/history/1961/19611110_live_Tower_Ballroom.html
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 ┃ 『ROCKSHOW』 ┃
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 1976(昭和51)年05月25日(tue)(04曲)ニューヨーク、
 1976(昭和51)年06月10日(thu)(05曲)シアトル ワシントン
‡1976(昭和51)年06月22日(tue)(15曲)ロサンゼルス カリフォルニア
 1976(昭和51)年06月23日(wed)(06曲)ロサンゼルス カリフォルニア
 1980(昭和55)年11月26日(wed) ニューヨークのジーグフェルド劇場で初公開
 1981(昭和56)年04月08日(wed) ピカデリー・ザーカスのドミニオン・シアターでロンドン・プレミアにWINGS参加
 2013(平成25)年05月16日(thu) 映画の限定再公開
 2013(平成25)年05月15日(wed) BAFTAで行われたVIPプレミア上映Sirポール参加
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Rockshow
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 映画『ROCKSHOW』パンフレット 」
 コメント・・・1981年上映 映画「ROCK SHOW」パンフレット
 宝株式会社事業部発行 
 1976(昭和51)年06月10日(thu)アメリカ・シアトル、キングドームでのコンサート。26ページ 
 https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s615849717

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 ┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』 ┃
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 1995(平成七)年11月20日(mon) UK Released
 1995(平成七)年11月21日(tue) US Released
 1995(平成七)年11月21日(tue) JP Released
□Disc one (CD1)
◎LP A面 (Record Disc 1)
 10."My Bonnie" (by Tony Sheridan and the Beat Brothers) trad. arr. Tony Sheridan
  1961(昭和36)年06月22日(thu) Friedrich-Ebert-Halle, Hamburg, Germany 2:42
 11."Ain't She Sweet" (by the Beat Brothers) Milton Ager, Jack Yellen
  1961(昭和36)年06月22日(thu) Friedrich-Ebert-Halle 2:13
 12."Cry for a Shadow" (by the Beat Brothers; instrumental) Lennon, Harrison
  1961(昭和36)年06月22日(thu) Friedrich-Ebert-Halle 2:22
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 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTWQN3X
 https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDFSO
 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_1
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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1957(昭和32)年06月22日(土) ライヴ演奏:リヴァプール・ローズベリー通りでの路上演奏
②1961(昭和36)年06月22日(木) 録音:♪マイ・ボニー♪他 with トニー・シェリダン ■URL有■
③1961(昭和36)年06月22日(木) ライヴ演奏:トップ・テン・クラブ/ハンブルグ (83日目)
 7月1日のもうひとつの(土)曜日まで92日間、毎日演奏良好だヨ(=^◇^=)
④1962(昭和37)年06月22日(金) ライヴ演奏1:キャバーン・クラブ (昼) /リヴァプール
④1962(昭和37)年06月22日(金) ライヴ演奏2:キャバーン・クラブ (夜) /リヴァプール
⑥1963(昭和38)年06月22日(土) アバーガベニー (Abergavenny)
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①1957(昭和32)年06月22日(土) ライヴ演奏:リヴァプール・ローズベリー通りでの路上演奏
 この日クオリーメン (Quarrymen) はリヴァプールのローズベリー通り (Rosebery Street) で2回の演奏を行っている。まずこの日の午後、止まっている石炭運搬トラックの荷台で演奏。夜には路上パーティー (street party) に参加した。
『ANTHOLOGY』ジョン・レノン(1967) ⇒ 僕らの最初の出演はローズベリー通りで、それは英連邦記念日 (Empire Day) の祝賀の日だった。彼らはこの祝賀パーティーを路上でやったんだ。僕らはトラックの荷台で演奏した。ギャラは無かった。その後のパーティーでも演奏した。もしかすると2~3シリングはもらったかもしれない。でも僕らが演奏するのは、おおよそ自分たちの娯楽のためだった。ギャラのことは気にしてなかったんだ。 
 この日はジョン王 (King John) が1207年に、リヴァプールを公式に帝国の一都市と認定し、その市民の自由を保証する特許状 (Royal Charter) を授与したことを祝う750回目の記念日だった。このイベントはローズベリー通り84番地のマジョリー・ロバーツ夫人 (Mrs Marjorie Roberts) によって企画された。彼女の息子で印刷屋のチャールズ (Charles) は、クオリーメンのドラム奏者コリン・ハントン (Colin Hanton) の友人だった。チャールズはハントンのバスドラムに「The Quarrymen」のロゴを印刷している。パーティーで演奏することを提案したのは、このチャールズだった。
 The Quarrymen ⇒ ドラマーのコリン・ハントンは、彼のバスドラムの前面にバンド名を書きたがっていた。だけど「QUARRY」を1行で書くにはドラムの直径が足りなかった。そこで彼は「QUA」と「RRY」の2つに分けて斜めに書いたんだ。 
 この石炭運搬トラックは76番地の住人が所有するもので、彼はマイクのケーブル線を自宅の前窓を通すことも許可している。2回目の演奏会にはジョンの母のジュリア (Julia) もいた。彼女はジョンの義理の妹に当たるジュリア (Julia Dykins) とジャッキー (Jacqueline Dykins) を連れて見に来ていた。2人の少女はトラックのテールボードに座っていた。一方、母ジュリアはロバーツ家の居間の窓から外を眺めていた。クオリーメンの2回目の演奏中、近所のハザレイ通り (Hatherley Street) の若者の一団がクオリーメンのメンバーに、とりわけジョンに対して喧嘩をふっかけてくる。クオリーメンの面々はロバーツ夫人の家に駆け込んだ。一団は「ジョンを出せ」と窓を叩き続ける。結局最後には警官が一団に帰るように警告し、クオリーメンは近くのバス停まで護衛された。リヴァプール・ポスト・アンド・エコー紙 (Liverpool Post and Echo) は、ローズベリー通りをリヴァプール郊外におけるBEST装飾通りとして表彰した。住民はそれを祝う二次パーティーを開催したが、それにはクオリーメンは招かれていない。
②1961(昭和36)年06月22日(木) 録音:♪マイ・ボニー♪他 with トニー・シェリダン ■URL有■
 歌手トニー・シェリダン (Tony Sheridan) とビートルズの最初のレコーディング・セッションが、この日ハンブルグで行われた。 
 写真◆一番右はトニー・シェリダン
トニー・シェリダンもビートルズと同様に、1960年からハンブルグのブルーノ・コシュミダー (Bruno Koschmider) が経営するカイザーケラー (Kaiserkeller) に出演して人気を博していた。そして11月にはペーター・エクホルン (Peter Eckhorn) の経営するトップ・テン・クラブ (Top Ten Club) に移る。ビートルズはこの頃すでにトニーと会っていたが、一緒に演奏する機会はなかった。 
しかし今回のビートルズのドイツ滞在では、両者はトップ・テン・クラブのステージを交互に努めたり、また時々はビートルズがトニーのバックバンドを努めたりもしていたのであった。オーケストラのリーダーで、ポリドール (Polydor) のエージェントでもあったベルト・ケンプフェルト (Bert Kaempfert) は、彼らの共演ステージを何回か見て、トニー・シェリダンとそのバックバンドとしてレコーディングすることを奨めたのである。 
それを受けてこの日のレコーディング・セッションの運びとなった。録音はプロ用のスタジオではなく、ハンブルグのフリードリヒ・エーベルト・ハレ (Friedrich Ebert Halle) のステージで代用した。この会場はハールブルグ (Harburg) の街の多目的ホールとして、また地元の小・中学校の集会場として使われていた。またスキッフルやジャズの演奏会も数多く開催されていたが、ロックンロールは稀だった。ポリドールやフィリップス (Philips) の録音にしばしば使われていることからも、この会場の優れた音響をうかがい知ることができる。 
トニー・シェリダンとビートルズの録音は、6月22日から24日まで3日間続くが、この日と翌
 1961(昭和36)年06月23日(金)には「マイ・ボニー (My Bonnie)」「ザ・セインツ (The saints)」「ホワイ (Why)」「クライ・フォー・ア・シャドー (Cry For A Shadow)」の4曲が録音される。初めの3曲はトニーがリード・ヴォーカルをとり、最後の曲はインストゥルメンタル・ナンバーであった。 
スチュアート・サトクリフがビートルズを去った正確な日付は知られていないが、このセッションの時にはすでにスチュアートの姿は見られず、ジョン・レノン:リズムギター、ジョージ・ハリスン:リードギター、ポール・マッカートニー:ベースギター、ピート・ベスト:ドラムスというラインナップとなっている。楽器とアンプをステージにセットし、エンジニアのカール・ヒンゼ (Karl Hinze) が2トラックのステレオ録音装置を操作した。 
最初に録音されたのは「マイ・ボニー」で、これは古きスタンダード曲「My Bonnie Lies Over The Ocean」のロックンロール・バージョンである。リードギターはジョージだが、ソロの部分はトニーが弾いた。これは後に異なるテイクがミックスされた。イントロの部分は、英語とドイツ語の2種が録音され、これはベルンド・バーティー (Bernd Bertie) によって翻訳された。 
続いて「聖者の行進」をアレンジした「ザ・セインツ」、トニー・シェリダンの自作バラード「ホワイ」、そして「クライ・フォー・ア・シャドー」と録音される。「クライ・フォー・ア・シャドー」はジョンとジョージ共作のインストゥルメンタル・ナンバーで、1995年のアンソロジー1に収録されている。 
トニー・シェリダンは、この時「サム・アザー・ガイ (Some Other Guy)」「カンサス・シティ (Kansas City)」「ロックンロール・ミュージック (Rock And Roll Music)」も録音したと言っているが、これまでの所その録音は発見されていない。  
ビートルズはこのレコーディング・セッションに300マルクの報酬をもらっている。「マイ・ボニー」のシングル盤は1961年10月に、トニー・シェリダン&ザ・ビートブラザーズ (Tony Sheridan and The Beat Brothers) のクレジットでリリースされ、ドイツのヒットチャートの5位まで昇っている。 
フリードリッヒ・エーベルト・ハレでの録音は翌
 1961(昭和36)年06月23日(金)も続く。しかし3日目の24日の録音は、スタジオ・ラールシュテット (Studio Rahlstedt) に場所を移して行われる。 
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 1962(昭和37)年05月24日(木) 録音:♪Sweet Georgia Brown♪ / ♪Swanee River♪
⑤1961(昭和36)年06月22日(木)~24日(土)にビートルズはハンブルグで、トニー・シェリダン (Tony Sheridan) とのコラボで7曲をレコーディングしていた。それからちょうど11ヶ月を経たこの日、彼らはふたたびトニーともう2曲をテープに収めた。このレコーディング・セッションは、1961年のレコーディングをプロデュースしたベルト・ケンプフェルト (Bert Kaempfert) とビートルズがサインした契約に則ったものであった。ブライアン・エプスタインがビートルズのマネージャーとなって彼らのレコード契約を模索し始めた時、彼はビートルズはまだ法律的にはケンプフェルトとの契約下にあることを発見した。エプスタインとケンプフェルトは、ビートルズが次にハンブルグに戻って来た際に、もう一度シェリダンとのレコーディング・セッションに参加すれば、ビートルズはその契約から解放されることで合意していた。そのレコーディングがこの日、ハンブルグ・トンドルフ (Tonndorf, Hamburg) のラーラウ (Rahlau) 128番にあるスタジオ・ラールシュテッド (Studio Rahlstedt) で行われた。録音された曲は♪Swanee River♪と♪Sweet Georgia Brown♪で、後者はポール・マッカートニーによりアレンジされた。ビートルズの4人に加えて、非公式にスター・クラブ (Star-Club) で彼らと共演していたロイ・ヤング (Roy Young) がピアノで参加している。しかしトニー・シェリダンの方はこの日の録音ではOKとならず、
 1962(昭和37)年06月07日(木)に♪Sweet Georgia Brown♪にオーバー・ダブでヴォーカルを重ねている。そしてそれは1962年の終り頃に♪Ya Ya♪というタイトルのEP盤としてドイツでリリースされた。シェリダンは、ビートルズのアメリカ上陸に先立つ
 1964(昭和39)年01月03日(金)に、再度ヴォーカル部分を録音し直している。新しいバージョンは歌詞を変えてビートルズのことを歌っている。
 旧バージョン
 ♪Fellas that she can't get♪
 ♪Are fellas she can't get♪
 ♪Georgia Claimed her, Georgia named her♪
 ♪Sweet Georgia Brown♪
 新バージョン
 ♪In Liverpool she even dared♪
 ♪To criticize The Beatles hair♪
 ♪With their whole fan club standing there♪
 ♪Ah, meet Sweet Georgia Brown♪
 ビートルズがレコーディングに参加した『Swanee River』はリリースされないまま、マスターテープが紛失している。シェリダンは後に別のミュージシャンを迎えての別バージョン『Swanee River』をリリースしている。
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 彼らのウェールズでの公演は、
 1962(昭和37)年07月14日 リル (Rhyl) 
 1962(昭和37)年11月24日 プレタティン (Prestatyn)
 1963(昭和38)年01月24日 モールド (Mold)
⑥1963(昭和38)年06月22日 アバーガベニー (Abergavenny)
 1963(昭和38)年07月19日 リル (Rhyl) 
 1963(昭和38)年07月20日 リル (Rhyl) 
 1963(昭和38)年08月12日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月13日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月14日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月15日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月16日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月17日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年05月27日 カーディフ (Cardiff) 
 1964(昭和39)年11月07日 カーディフ (Cardiff) 
 1965(昭和40)年12月12日 カーディフ (Cardiff) で開催されているヨ(=^◇^=)
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 ①https://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/19570622_live_rosebery_st.html
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1961/19610622_rec_mybonnie.html
 ③https://gejirin.com/beatles/history/1961/19610401_live_top_ten_club.html
 ④https://gejirin.com/beatles/history/1962/0history_index-1962.html
 ⑤https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620524_Recording_SweetGeorgiaBrown.html
 ⑥https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630124-2_live_Assembly.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|  June 22|173
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|6月22日|
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 1957(昭和32)年06月22日(土) クオリーメンはリヴァプールのローズベリー・ストリートでステージ代わりのトラックの荷台の上で演奏。地元の祭りでのパーティで、ドラム担当のコリン・ハントンのつてで演奏に呼んでもらえた。
 1962(昭和37)年06月22日(金) キャバーンクラブでランチタイムと夜の部の両方のステージに出演。
 1963(昭和38)年06月22日(土) ポール、ジョージ、リンゴとロード・マネージャーのニール・アスピノールはウェールズに車で向かい、ジョンはロンドンに残りBBCテレビ番組「ジューク・ボックス・ジュリー」に出演した。この番組はニュー・シングルを聴いて4人の審査員(ジュリー)がヒットすると思えばベルを鳴らし、ヒットしないと思えばクラクションを鳴らすという番組。毎回ショー・ビジネス界で活躍する人物が審査員を担当し、当たり障りのない無難なコメント&審査結果が普通であったのに、ジョンはどの曲に対しても何のためらいもなく「ダメ」を出し、スタジオ内にいた人々の度肝を抜き、異様な雰囲気となった。収録にかなり時間を取られ、その後に行なわれたウェールズのタウン・ホールで行なわれたコンサートにジョンはヘリコプターで向かい、滑り込みセーフで間に合った。
 1964(昭和39)年06月22日(月) ワールド・ツアーでニュージーランド・ウェリントンのタウンホールで2日連続のコンサート。この日は初日。病み上がりのリンゴは大事をとってヴォーカルをとっていなかったが、このステージより「Boys」が復活した。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17041
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/006/0622.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15746106.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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