過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

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①┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
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‡(thu)29 June 1961 Hamburg, Germany, The Top Ten Club ※27 March~2 July 1961
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②┃ THE BEATLES' 1964 world tour“Australasia” ┃
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‡No.20 15 (mon)29 June 1964   Brisbane City,  Australia, Brisbane Festival Hall
 No.21 16 (tue)30 June 1964   Brisbane City,  Australia, Brisbane Festival Hall ※1964 world tour resumes 12 July 1964
  01.♪Twist and Shout♪
  02.♪I Want To Hold Your Hand♪
  03.♪I Saw Her Standing There♪
  04.♪You Can't Do That♪
  05.♪All My Loving♪
  06.♪I Wanna Be Your Man♪
  07.♪She Loves You♪
  08.♪Till There Was You♪
  09.♪Roll Over Beethoven♪
  10.♪Can't Buy Me Love♪
  11.♪This Boy♪
  12.♪Long Tall Sally♪
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 ①https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
 ②https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles%27_1964_world_tour
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①┃ 『SATURDAY CLUB』 ┃BBC 24th appearance
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  1963/06/24(mon)   rec. 05:30-06:30pm The Playhouse Theatre, London
 ‡1963/06/29(sat) trans. 10:00-12:00am broadcast
  Recording for BBC's『SATURDAY CLUB』4th appearance
  ♪I Got To Find My Baby♪
   Good Old Harry (speech) 
  ♪Memphis Tennessee♪
  ♪Money (That's What I Want)♪
  ♪Till There Was You♪
   Paul Reading (speech) 
  ♪From Me To You♪
  ♪Roll Over Beethoven♪
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 ┃ 『THE BEEB'S LOST BEATLES TAPES』 ┃
②┃    Episode 2: Bill Toppers   ┃29:24 (sat)8 October 1988
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‡09.♪Memphis♪『Saturday Club』(sat)29 June 1963
 音源◆https://youtu.be/T8cyebV9bw4
 
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③┃ 『THE BEATLES  bootleg recordings 1963』 ┃2013/12/17(tue)
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 22.♪I Got to Find My Baby♪『SATURDAY CLUB』29 June 1963
 23.♪Roll Over Beethoven♪ 『SATURDAY CLUB』29 June 1963
********* https://en.wikipedia.org/wiki/Dig_It_(Beatles_song)
 ①http://beatleslist.web.fc2.com/bbc.html http://www.webers-records.com/134_1420.html
 ②https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beeb%27s_Lost_Beatles_Tapes
 ②https://www.youtube.com/playlist?list=PL073eZJnP1VSVL0DHZ-N_GATBFD-ou2eG
 ③https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles_Bootleg_Recordings_1963
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 ┃ THE BEATLES TV Appearance Photos Quick-Reference Guide 1962-1970 ┃
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 (sat)22 June 1963『Juke Box Jury』recorded (dialogue)
 (sat)29 June 1963『Juke Box Jury』broadcast
 BBC Television Theatre, London. John tapes an appearance as jury on BBC-TV's『Juke Box Jury』
 Broadcast of "Juke Box Jury", with John's appearance as judge (recorded June 22, 1963)
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 http://www.beatlesource.com/TV/index.html
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①┃ THE BEATLES TV Appearance Photos Quick-Reference Guide 1962-1970 ┃
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 (sat)22 June 1963『Juke Box Jury』recorded (dialogue)
‡(sat)29 June 1963『Juke Box Jury』broadcast
 BBC Television Theatre, London. John tapes an appearance as jury on BBC-TV's『Juke Box Jury』
 Broadcast of "Juke Box Jury", with John's appearance as judge (recorded June 22, 1963)
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 ┃    『THE BEATLES Interviews Database』    ┃
②┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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 1963(昭和38)年12月7日(土)
 No.015(14) 1963-12-07(sat) Beatles / BBC-TV,『Juke Box Jury』(6 photos) The Beatles have fun rating the latest record releases in Britain. Hit! 
 Beatles Interview: Juke Box Jury 12/7/1963
 John Lennon had appeared without the other three Beatles earlier in the year as a Juke Box Jury panelist in an episode that was taped in London on (sat)June 22nd 1963 and was aired on BBC-TV one week later 
●on (sat)June 29th. 
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 ①http://www.beatlesource.com/TV/index.html
 ②http://www.beatlesinterviews.org/db1963.1207.jukebox.jury.beatles.html
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 ■【JUKE BOX JURY】ディスク2の最後は、リバプール・エンパイア公演と同じ日に収録されたテレビ番組「JUKE BOX JURY」の音源を収録している。テレビ出演ということだが、残念ながら映像は残されておらず、本作に収録されている音源のみが、現在確認できる唯一の「JUKE BOX JURY」である。この時の写真は鮮明なカラーで残されているとあって、目にする機会が多いのではないだろうか。表ジャケット写真の左下の写真を参照して欲しい。この番組はクイズ番組で、ビートルズは回答者として出演。曲を聴いて、それがヒットするかどうかを判断してパネルを上げるという、まあ今となっては他愛ないバラエティ番組でしかないが、ビートルズのメンバーがこのような番組に演奏以外で出演するというのが非常にレアではないだろうか。
  ■JUKE BOX JURY 1963-1964
  18. December 7, 1963
  19. June 22, 1963
‡20. June 29, 1963
  21. July 25, 1964
  22. August 1, 1964
 http://www.teenagedream-record-3rd.net/?pid=97095830 The Beatles - Live In Japan 1966 1_4 http://video.fc2.com/content/20150630R43mADA2/


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓シンコー・ミュージック・ムック
 ┃ 『MUSIC LIFE ザ・ビートルズ日本公演 1966』 ┃2016/06/17(金) B5判 P.196
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛\1,944(本体1,800+税)ISBN:978-4-401-64311-0  
  https://www.shinko-music.co.jp/item/pid1643119/
『MUSIC LIFE ザ・ビートルズ日本公演 1966』をちょっと読んで
今年はBeatles来日50周年ということで、記念本(あるいは関連本)がいくつか発売された「MUSIC LIFE ザ・ビートルズ日本公演 1966」は、博多駅隣の商業ビル「KITTE博多」内HMV&Booksで平積みで売られていたので、2週間ほど前に購入した。その時点では、Amazon以外ならネットでも買えた気がする。それ以外に、高価だったが「来日学」も買った。僕が買ったのはその2冊だけ。 僕はいつの間にやら、購入した書籍(だいたいオーディオか音楽関係)を隅から隅まで読むことはなくなった。気が向いたときにパッと開いては、目に入った部分だけ読む、みたいな読み方になってしまった。この本も同じだ。きっとBeatlesに夢中だった中高生の頃ならば、本当に隅から隅まで読んていたに違いなし、何度も読み返しているに違いない。まぁ、そんなことはさておき、これ(や「来日学」)を読むと、やはり1978年に一度限りの放送という条件でTV放送されたBeatlesの日本公演の全曲放送の衝撃は、いろんな意味で大きかったことが伺える。今の目から見ると、放送当時の方が日本公演の映像は幻だった。今ではブートDVDで6/30も7/1も観ることができる。けれども、あの頃、フィルムフェスティバルを除けば映像を観ることなどできなかった。それに、何よりもTVで放送されたのだから画期的だった。当時、家庭用のビデオレコーダーはまだまだ高額品だった。クラスに一人だけ家にレコーダーがあったが、たぶん学年全体でも彼の家だけぐらいだったのでは?と思える。なので録画も録音もできず、テレビにかじりついて観るしかなかった。それがまさか、来日当時には放送されずお蔵入りになった6/30の演奏であることなど知る由もなかった。なので、演奏の不出来と言うかやる気の無さと言うか、あまりよろしくなく、「なんか乗ってないなぁ」という印象。その後フィルムフェスティバルで7/1公演を観てあまりの違いに驚かされるわけだが。当時学校ではハードロックを好む連中からBeatlesはヘタクソだと言われ続けていた。ギターが速弾きしないという点こそが彼らにとっては下手だった(笑)さらに、何よりも彼らにはBeatlesはロックではなかったのだ。Beatlesはポップス、Deep Purple、Kiss、Van Halenこそがロックだった。なので、「MUSIC LIFE ザ・ビートルズ日本公演 1966」で書かれているように、6/30の演奏が世に出たせいでBeatlesの演奏は下手という考えが広まった・・・・・・わけではなかった。少なくとも僕の育った環境では、それ以前から(中高生のロックファンの間では)そう言われていた。かと言って、Rolling stonesは下手ともうまいとも言われず、Whoは存在自体知られていない、そういう時代だった。この本を読んで、そんな他愛もない事がふと頭に浮かんだ(苦笑)僕のBeatlesに関する最初の記憶は、ラジオから流れた「Hey jude」なので68年以降(万博よりも前の記憶なので68年か69年)なのだから、来日の頃は何も記憶に無い。でも78年のTV放送も1回限りだったから、フルで覚えているとは言いがたい。
http://jdanalog.blog111.fc2.com/blog-entry-1025.html

  アニメ◆動画:The Beatles - Live In Japan 1966 1_4
  ダイジェスト◆動画:The Beatles - Live In Japan 1966 1_4
  静止画◆動画:The Beatles - Live In Japan 1966 1_4
 映像◆The Beatles - Live In Japan 1966 1_4  https://youtu.be/Ou__mIGfimU
 
 映像◆The Beatles in Japan 1966 Part1 (rare!) https://youtu.be/8_vP8OF2KDg
 
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 ┃ ザ・ビートルズ来日 今日の出来事 ┃
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 |1966(昭和41)年 6月29日(水)|ザ・ビートルズ来日GOOD MORNINGヨウコソ(=^◇^=)O♂
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午前3時39分 ビートルズの乗った日航機が羽田の31番スポットに到着。日航から贈られたハッピを着たビートルズの4人がにこやかに手を振ってタラップを降りてくる。それを見ることが出来たのは関係者と250人の報道陣だけであった。一行を載せたピンクのキャデラックは、独占放送権を得た日本テレビのカメラクルーを乗せた車と、警備陣のパトカー前後5台に囲まれて、滑走路から直接高速へ(国賓並み!税関パス!)。そのまま夜明けの東京の街を駆け抜け(およそ20キロの道を19分10秒で)、東京永田町の東京ヒルトンホテルに入った。エプスタインが道を見て「日本は車が無いな…」と言ったそうだが、それは彼らのために交通規制されていたからだ。4人は10階(最上階)のプレジデンシャル・スイート(1005号室)に投宿。クルーらも10階を貸し切って宿泊。9階以下のほとんどの部屋は報道陣が借り切って、何か情報が流れる度に彼らが駆け回った。新進カメラマン浅井慎平が正式カメラマンとして選任され、以後離日までメンバーに密着して撮影を行う。 
午前7時30分 一行は仮眠。8時にはNHKニュース、『小川宏ショー』その他の番組で到着の模様を報道。
メンバーは11時にルームサービスの朝食(グレープフルーツジュース、スクランブル・エッグなど)を取る。 
午後12時 原宿グリーンファンタジアの真珠屋が訪問。永島からメンバーへの歓迎のプレゼントのために呼ばれた。ビートルズは愛妻のために真珠を選ぶ。ポールだけは義妹のためにブローチを選んだ。 
午後3時 ヒルトンホテル紅真珠の間で記者会見が行われる。その直前にE.H.エリックによるインタビューが行われる(1日の日本テレビ特番で放送される)。会見場には国内外の記者123社216人、カメラマン約70人が集まる。個別のインタビューには一切応じず、3団体の代表(東京音楽記者会、雑誌芸能記者クラブ、日本外国特派員協会)からの質問に限られた(質問者は内外タイムス文化部小坂、文藝春秋社小田切と外国を代表してロイター通信東京支社長ケビン・ギャリー)。
会場には雛壇が設けられ、左からジョン、ポール、ジョージ、リンゴの順で並んだ。マネージャーのエプスタイン、ビック・ルイス、広報担当のトニー・バロー、読売新聞企画部中山久人次長も同席。インタビューの前に10分程度のフォトセッションが行われた。質問の内容などについては「ユニオシの日記」を参照のこと。司会は読売新聞の伊藤(事業本部企画部員)。通訳(永島)による明らかな意思の不通とマイクなどのトラブルが多発し、何度か中断の不手際があった(今では考えられないが)。午後4時45分終了。 
午後5時から6時 イギリス大使フランシス・ランドール卿が表敬訪問。続いて加山雄三と東芝音楽工業の石坂範一郎専務、高嶋弘之ディレクターが訪問し会談と会食(石坂、高嶋はエプスタインと会談)。
加山「僕のLP『ハワイの休日』を持っていったらステレオでかけるので照れくさかった。その後彼らの新しいレコードを聞かせてくれた。日本食は何が一番?というので「すき焼き」と答えたら早速用意されて皆で食べた。僕が卵につける食べ方を教えた」。
さすが若大将(映画の若大将はすき焼き屋のせがれという設定である)、卵に浸けて食べることを教えたが、誰も箸を上手く使えず、肉を一本の箸で刺して食べたそうだ。ジョンは椅子をどけて床に正座しテーブルに顔をのせて食べた。加山が「それは行儀が良くないよ」と言ったらジョンが「僕は今日本人の気持ちを味わっているからいいんだ」と言ったという。「誰かが絵を描きたいと言い、水彩画で4人が30分以上は描いていた。俺の心の中には彼らが俺の前で絵を描いたという誇りがある」などと証言。新作とは何だか不明だが6月10日に発売された『ペーパーバックライター』か? 
午後8時 メンバー数人がホテル地下のスチームバスへ。その後部屋で夜食。 
午後9時30分 フジテレビ『スター千一夜』で記者会見の模様を、10時45分には日本テレビ『11PM』で『ミュージックライフ』誌の星加ルミ子編集長とファンらが出演した特番が放送される 
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 ┃ ザ・ビートルズ来日 トリビアなどヨ(=^◇^=) ┃
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●来日時すでに彼らの新しいアルバムは出来上がっていたがまだタイトルを決めていなかった。ポールがヒルトンホテルの警備に当たっていた警官の持っていた拳銃を見て『リボルバー REVOLVER』と名づけたとされる。実は「リボルバー(回転式拳銃)」は以前から候補に挙がっていたのだが、日本滞在中にEMI本社に電報で最終決定が伝えられているので、この噂は確かなようだ(ただし中山康樹著『ビートルズの謎 (講談社現代新書)』ではアルバム中最大の自信作『トゥモロー・ネヴァー・ノウズ』で試みた録音テープのループを使った手法を表した「リボルブ(回転する」からインスパイアされたものであり、この話の信憑性は乏しいとしている)。因みにジョン・レノンは38口径のリボルバーで撃たれ落命した。リボルバー以外の候補は「Magic Circle」「Four Side To The Circle」「Beatles On Safari」「After Geography」「Aftermath」などがあった。因みに「Aftermath」はストーンズの傑作アルバムの名になった。
●リンゴ・スターは来日直後からお腹をこわし、ずっと体調が悪かった。公演でも愛想が悪いのはそのせい。彼は「僕たちは今まるで虫かごの中のカブト虫さ」とホテルに足止めされた状態を皮肉った発言をしている(『女性セブン 1966年7月21日号』)
●カメラマン浅井慎平はヒルトンのビートルズと同じ階の部屋に泊まり撮影が許された。しかし実際に部屋に入って彼らを撮影できたのはたったの2時間(いつか不明)。この2時間の間ジョージに「君はニヒルだと言われているけどニヒリストなのか?」と質問したら「何だ?そのニヒリストって?」。ジョンがその「ニヒルとは」を30分かけて説明、それを聞いたジョージが「それなら俺はニヒルじゃないよ」と答えたそうだ。あとは公演中の留守の部屋に入って彼らが使った灰皿やら飲みかけのビール瓶などを撮った。部屋のドアを少し開けて寝て、明け方に赤いパンツ姿で廊下を歩くジョンの撮影に成功した。これが浅井の最初にして最後の「盗撮写真」だそうだ。これらは写真集『ビートルズ東京 100時間のロマン』として出版された。しかし当時の写真家たちからは無視され、評価されたのはずっと後になってからである。因みにこの写真集のギャラはすべて中間に立った人に取られ、一切もらってないそうで、また写真集に載った以外の何千枚もの写真も行方不明だそうだ。浅井は当時のことなどを『気分はビートルズ(角川文庫)』『シリーズ20世紀の記憶・高度成長ビートルズの時代』などに書いている。
●テーラー山形屋で仕立てたスーツはこの後8月に行われたアメリカ公演で着用された。因みにビートルズはこの公演を最後に観客を前にしたライブを一切辞めた。次の公演地フィリピンではイメルダ大統領夫人の歓迎会の誘いをすっぽかし、フィリピン国民の感情を損ね、公演は無事済んだもののマニラ空港で若者から暴行を受けるなどした(ビートルズらは歓迎会の予定をプロモーターから聞いていなかった)。その後ジョンが「ビートルズはキリストより有名だ」発言が世界中で問題となり、とりわけ8月の公演地であるアメリカで排斥運動が高まるなどしたためツアーにはもううんざりといった感じだった。この年は実はビートルズにとって大きなターニングポイントとなる。ライブを止めることで「レコーディング」という表現を重視するようになった彼らは次の傑作『サージェントペパーズ』を生むことになる。
●来日中ビートルズが乗り回していたピンクのキャデラックはジョニー・ティロットソン公演に来ていた埼玉県川口市の会社員に抽選で贈られた。
●ジョンは日本に特に関心を抱いていた。「日本人に会うたびに日本に行ってみたいと思っていた。日本製のトランジスタラジオを持っているよ。(ジョージの影響でインドや)東洋音楽に関心を持って日本の音楽も聴いてみた。どちらも素晴らしいものだと思った」という発言が残っている。機内で真っ先にハッピを着たのも彼だし、すき焼きの食べ方を加山雄三に教わったり、おみやげも大量に買っている。因みにこの来日からおよそ4ヶ月後の11月9日の夜、ロンドンのインディカ・ブックス&ギャラリーで個展を開いていた日本人アーティスト小野洋子と運命の出会いをしている。
●東京ヒルトンホテルは北大路魯山人の美食倶楽部(漫画『美味しんぼ』のモデル)が開催されていた「星ヶ岡茶寮」の跡地(東京永田町・日枝神社の隣)に日本初の外資系ホテルとしてビートルズ来日の2年前に東京オリンピックに合わせて開業(東急と共同経営)。彼らの泊まったプレジデンシャル・スイート(1005号室)は50~60坪の広さで当時一泊7万円(因みに大卒初任給が24,900円の時代である)。寝室は左右にあり、2人ずつ分かれて寝た。ホテル側は、「ビートルズ来日」のあまりの反響に彼らを泊めることに怖れを抱き、直前になって主催者CBC側にキャンセルして欲しいと申し出た。CBCが損害保険をかけることでなんとか承知してもらっている。その後「東急キャピトルホテル」となり、エリック・クラプトンやデビッド・ボウイ、マイケル・ジャクソンら、有名海外ミュージシャンやハリウッドセレブの定宿としても知られる高級ホテルであった。また、映画『007は二度死ぬ』のロケでも使用されている。ここの地下にあったコーヒーハウス兼レストラン「オリガミ」も有名で、ジャイアント馬場やユーミン、ピンクレディーもよく利用していた。2006年に建て直しのため閉業。『東京ヒルトンホテル物語』 
●ヒルトンの部屋でテレビで柔道の中継を観たジョージは、イギリスに帰ってからレコーディングの合間に柔道の真似をしてリンゴをスタジオの床に投げ飛ばしてしまった。
●ポールはテレビで放送していた時代劇『名月走馬燈』(1951年・衣笠貞之助監督・長谷川一夫主演)を鑑賞した。 
●ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインを取材した浅井慎平は禁じられていた彼の写真を撮ってしまい、「何故撮るんだ?」と怒られるが「俺はカメラマンだから」と答えたらOKとなったそうだ。エプスタインは若い頃ハムレットを演じたくて王立演劇学校に入ったことなど話してくれたという。エプスタインはよく知られるように同性愛者である(徴兵された軍隊をその理由で除隊されている)。何とジョンとも噂があり、二人だけでスペイン旅行に行ったことがある(映画『僕たちの時間』参照)。この来日時は「彼氏」同伴でビートルズとは別の部屋に泊まっていた。彼はこの来日から約1年後1967年8月に亡くなっている。ビートルズをつくった男―ブライアン・エプスタイン (新潮文庫)
●ビートルズ来日公演が与えた影響
上記内田裕也が述べた、「もしビートルズが来なかったら日本の音楽シーンは演歌とポップスとフォークだけだったろう」という言葉に集約できると思うが、確かに「グループサウンズ」から本格的な「日本のロック」へと変化を生む大きな契機になった。また阿久悠や松本隆など「作詞」の改革者も多く生み、愛だの恋だの一辺倒だった歌詞が多彩なバリエーションを展開してくことになった。
こうした音楽家だけでなく、「巨大ホールでの来日コンサート」の方法は音響関係者や楽器メーカー、音楽プロモーターへも多大な影響を与えている。また若者だけでなく一般のファッションや文化にも大変な足跡を残している。
日本武道館はこれ以降、武道やスポーツだけでなく、コンサート会場、イベント会場として幅広く利用されることになった。「日本武道館」の項にも書いたが、「ビートルズが日本で演奏した唯一の会場」というブランドが生じ、多くの洋楽アーティストがブドーカンで演奏することをステータスとした。中でも有名なのは以下  
 http://blog.goo.ne.jp/beatle-lennon/e/71de2062fb4c1f53b0a64b3cb8e6be94
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 ┃ ビートルズ来日時の新聞報道 ┃
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 |1966(昭和41)年 6月29日(水)|夕刊 東京国際空港(羽田)に到着したビートルズ
 └─――――――――――――┘http://www.thefabfourarchives.com/Gallery-1-memorabilia-.html
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 ┃ 1966年 ザ・ビートルズ来日日記 ┃
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 |1966(昭和41)年 6月29日(水)|当時人気絶頂の中にあったザ・ビートルズは
 └─――――――――――――┘最初で最後の日本公演を行うため羽田空港に降り立ちました。空港、宿泊先の東京ヒルトンホテル(現:ザ・キャピトルホテル東急)、そして会場となった日本武道館では連日6,000人規模の警察官による空前の警備体制が敷かれ、公演は6月30日、7月1日、2日の3日間で計5回実施、約5万人を動員し、コンサートのテレビ中継では59.8%という異例の高視聴率を記録!
そしてわずか5日間の滞在で日本を後にしました
  03時40分、ビートルズを乗せた飛行機が羽田空港に到着した。4時にリムジンが出発し、宿泊先のヒルトン東京(永田町)へ向かった。ホテルの10階(最上階)をすべてビートルズ一行が借りきり、メンバー4人はプレジデンシャル・スイートを使用する。到着後、一行は就寝。
  15時10分頃、メンバーがスイートの前で公演の司会者であるE・H・エリックによるテレビ用インタビューを受ける。
  15時20分、ホテルの真珠の間で記者会見開始。3人の代表記者のみが質問をする。
  17時頃、東芝音工の石坂範一郎専務と高嶋弘之ディレクター、そして加山雄三がスイートを訪問。ビートルズの4人と加山は会食し、数時間を過ごす。専務とディレクターはエプスタインと会談した。
なお、10階に上がることができたのは、プロモーターの永島達司と通訳をしていた彼の兄や側近のスタッフ、ルームサービスなどホテル側のスタッフ、永島が手配した業者、許可されたごく少数のゲストのみである。
 ┌─――――――――――――┐当時人気絶頂の中にあったザ・ビートルズは
 |1966(昭和41)年 6月29日(水)|最初で最後の日本公演を行うため羽田空港に降り立ちました
 └─――――――――――――┘空港、宿泊先の東京ヒルトンホテル(現:ザ・キャピトルホテル東急)、そして会場となった日本武道館では連日6,000人規模の警察官による空前の警備体制が敷かれ、公演は6月30日、7月1日、2日の3日間で計5回実施、約5万人を動員し、コンサートのテレビ中継では59.8%という異例の高視聴率を記録!
そしてわずか5日間の滞在で日本を後にしました
 http://sp.universal-music.co.jp/beatles/special/2011_rainichi.php
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 ┃ ザ・ビートルズ来日 今日の出来事 ┃
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 ┌─――――――――――――┐午前3時50分、
 |1966(昭和41)年 6月29日(水)|羽田着の日航機"MATSUSHIMA"で予定より大幅に遅れてビートルズ初来日
 └─――――――――――――┘長旅の疲れを見せず、ハッピを着て手を振りながらタラップに姿を現す。その後旅客機に横付けされたキャディラックに乗り込み宿泊先であるヒルトン・ホテル(現キャピタル東急ホテル)ヘ向かった。同時にこの日、同ホテル地下の“紅真珠の間”にて共同記者会見が行われる。
Press Interview 
記 者 日本について何か知っているか
ポール 本で読んだ程度でよく知らない
記 者 あなたがたのファンは熱狂的で、音楽そのものを鑑賞するのではなくステージで演奏していれば満足しているといわれるが
ジョン 歌を聞きたい時はレコードで、僕らを見たいときはコンサートに来ればいい
記 者 ものものしい警備体制下で演奏を迎える心境は
ジョージ 出来る限り警備してもらえれば、演奏するほうも、見る人たちも安全でしょう
記 者 リズム中心だった音楽が「ミッシェル」「イエスタデイ」あたりからメロディ中心のバラード調になってきたのはどどういうわけか
ジョージ 区別は初めからつけていない。内容的にはなにも変わっていない
記 者 名誉と財力は十分に得られたが、幸せか。次になにを求めているか
ジョージ 幸福だ。これから欲しいのは平和だ。なによりもまして 平和が欲しい
記 者 日本のファンは外国のティーン・エイジャーと比べてどのように違うか
ポール 日本だけでなく、ファンに相違があるのは言葉が違うということだけだ。でも日本のファンは、ちょっと背が小さいかな
記 者 ある日本人は、あなたがたの演奏のために使用することは、伝統的武道のためという趣旨に反するといっているが
ポール 日本の舞踊団がイギリスの王立劇場に出演しても、劇場をけがしたことにはならない。我々の出演するする場所はボクシング場でもいいのだ。イギリスと日本の両国民はともに、伝統を重んじる国民性をもっている。
記 者 MBE勲章はもってきたか。どのような席でつけるのか
ジョン もってきている。しかし、これまでつけたことがない。勲章は見せびらかすものではなく、受けたという事実があればいい
記 者 ビートルズ台風の来襲といわれているが
ジョージ ビートルズのエネルギーはマスコミによるもので、自分 たちの力は微々たるものだ
記 者 ベトナム戦争について
ジョン 関心はもっている。戦争はいけないことだ。しかし我々はこれに反対しても、なにもすることが出来ないのである
日本テレビ『11:00PM』が記者会見の模様を放映
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 |1966(昭和41)年 6月28日(火)|台風4号の影響で、アンカレッジで足止めを余儀なくされ来日が遅れる
 └─――――――――――――┘激しい暴雨が羽田空港を見舞っていた午後10時過ぎ、翌朝4時の到着変更になったビートルズ来日に備えて、空港へ向かうタクシーを全て止め、●29日午前2時までビートルズ・ファンとおぼしき約250人に帰るよう指導した。
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 ┃ ザ・ビートルズ来日トミビア(=^◇^=) ┃
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●ヒルトンの部屋でテレビで柔道の中継を観たジョージは、イギリスに帰ってからレコーディングの合間に柔道の真似をしてリンゴをスタジオの床に投げ飛ばしてしまった。
**************** http://www.yunioshi.com/beatlesinjapan.html
 http://www.fsinet.or.jp/~magumi/BEATLES/japan/japandocument.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%AC%E6%BC%94
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 ビートルズがやって来た―来日50周年に振り返る4人の素顔
 2016(平成28)年06月25日(土)のインタビューを基にニッポンドットコム編集部が構成
 2016(平成28)年07月07日(木) 文化 星加 ルミ子【Profile】私とビートルズの出会いは東京オリンピック大会の翌年の1965年6月。生まれて初めて飛行機に乗って、ロンドンのアビイ・ロード・スタジオ(EMIスタジオ)で4人に単独取材をした。ビートルズの武道館での来日公演はそれから1年後のことだ。ジョン・レノンと同年生まれの私は、65年の独占取材に始まり、70年の解散に至るまで、毎年ビートルズを取材して同世代の4人の素顔に触れることができた。来日50周年を期に、あらためて音楽記者としてのビートルズとの関わりと、当時の日本を振り返る。
 1966(昭和41)年06月30日(木)バナー写真◆日本武道館で演奏するビートルズ(時事通信フォト)
 写真◆1965年ロンドンのEMIスタジオでビートルズを単独取材した会見記を掲載した「ミュージック・ライフ」の表紙。中央が星加ルミ子氏。
■25歳で「編集長」就任、いざロンドンへ■ビートルズの名前を意識するようになったのは、短大を卒業して、「ミュージック・ライフ」の編集者として数年の経験を積んでいた頃だ。アメリカのロック、R&B、エルヴィス・プレスリーが好きで、それが理由で音楽出版社に入ったようなものだったので、最初はビートルズにすごく関心があったわけではなかった。1963年頃から、米国の業界紙によくその名前が登場するようになった。64年の北米ツアーでは、彼らの行く先々で何万という熱狂的なファンが埋め尽くしているというニュースが日本のメディアにも届いた。同年半ば頃には、「ミュージック・ライフ」編集部にも、学校帰りの女学生が訪ねてきては、何かビートルズの新しいニュースや写真はないかなどと聞いてくるようになっていた。少女たちに、どうしてそんなにビートルズの曲をいろいろ知っているのかと尋ねると、「FEN(米軍の極東放送)で朝から晩まで曲が流れてる」「深夜ラジオでもよく聴いている」との返事。日本で最初にリリースしたシングル「抱きしめたい (I Want to Hold Your Hand )」も売れていたが、50年代のロックンロールを聞いていた私には、ビートルズのサウンドはまったく異質なものだったので、その人気も一過性のものだと思っていた。とはいえ、若い人に人気があるのだから、音楽雑誌としては関連記事を掲載したい。当時は写真1枚に何万円も払って通信社から買わなければならなかった。「ミュージック・ライフ」初代編集長の草野昌一さんから、実際にロンドンに行って取材してきなさいとこともなげに告げられ、国内外のあらゆる伝手(つて)を駆使して、ビートルズに会うための戦略を練った。マネージャーのブライアン・エプスタインにはもちろん、取材依頼の手紙を出したが、“Absolutely not” という返事が戻ってきた。世界中のマスコミから取材依頼が寄せられ、机の上に山のように積み重なっているとのことだった。結局、英国EMIの伝手から助言をもらって、65年6月、とにかくロンドンに向かうことになった。6月一杯『ヘルプ!』のレコーディングで4人がロンドンにいるので、会うには絶好のチャンスということだった。出発の1週間前には、突然、草野さんから編集長を引き継ぐことになった。エプスタインに面会の約束は取りつけてはいたが、もちろんビートルズ会見の承諾は得ていない。今では考えられないが、彼へのギフトに日本刀を持っていた。1本だとかえって目立つからと念のために偽物も4本買って、紙袋に入れて機内持ち込みの手荷物として持参した。ロンドンに行く前に、取材でドイツのハンブルグ、パリをまわったが、税関で厳しくとがめられることはなかった。
■アビイ・ロード・スタジオでの3時間■日本のことは良く知らなくても、日本の音楽市場が急成長しているということは知っていたエプスタインだが、世界からの山のような取材依頼に、特別扱いはできないという方針だったのだろう。だが、はるばる極東の国からやって来た私の熱意と、刀が気に入ってくれたのか(黒澤明の『七人の侍』のことは知っていた)、最終的にビートルズとの会見をかなえてくれた。
 1965(昭和40)年06月15日(火)写真◆ロンドンのEMIスタジオでビートルズを単独取材。ジョン・レノン(手前)とポール・マッカートニーに挟まれて。
 写真◆星加氏が持参した「ミュージック・ライフ」を手にしたビートルズのメンバーとプロデューサーのジョージ・マーティン(後方、左から2人目)。
 ビートルズがレコーディング中のEMIスタジオに向かったのは
 1965(昭和40)年06月15日(火)の午後5時すぎ。第2スタジオ1階のミキシングルームでプロデューサーのジョージ・マーティンが迎えてくれた。地階のレコーディングスタジオにいる4人は、着物を着ている私を珍しがって、おしゃべりをやめて上を見上げている。ポール・マッカートニーが、あそこに階段があるから降りて来いと手招きをした。どこかから記者が来るとは聞いていたが、私のように小さな(身長150センチ)女の子が着物姿で現れるとは思ってもみなかったのだろう。ジョージ・ハリスンは飛んできて、どうしてこんな大きなベルトをしているのか、スリーブが長いのはどうしてかと聞いてきた。着物を着てきたことは、会話の良いきっかけを与えてくれた。年齢も同じぐらいで英語は片言、小さくて危害を加えそうもない私を見て、安心したのだろう。すぐにうちとけて、ざっくばらんな感じになった。最初は30分だけと言われたのに、結局3時間一緒にいた。4人に「ミュージック・ライフ」読者から応募した質問を10問ほどタイプした紙をポールに渡すと、君の英語だと明日の朝までかかるからと他のメンバーへの質問表を受け取って、ジョージ、ジョン・レノン、リンゴ・スターに渡してくれた。みんな一生懸命質問への答えを記入し始めた。4人の中では、最初は人見知りの印象を受けたジョンは、慣れてくると冗談を言ったりして、一番冗舌になった。彼は日本のことを知っていて、日本に行ったら“スモーレスラー”に会いたいという。美術学校の友人が日本の写真集を持っていて、その中に “beautiful” な力士の写真が載っていたのだそうだ。「僕は日本語を知っているんだ」と、イントネーションだけ真似をした「日本語もどき」をしゃべってみせたりもした。その後、ロンドンから米国に飛んで1カ月間取材をして帰国した時には、ビートルズ会見記を掲載した「ミュージック・ライフ」はすでに発売されていた。通常は5?7万部しか発行していなかった雑誌を25万部刷って、ほぼ完売だった。
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■ロンドン単独取材から1年後の来日■ビートルズが来日するという話を耳にしたのは、1966年の年明けだった。協同企画(現・キョードー東京)の永島達司さんに会った時に、ビートルズはどういう人たちだったかと聞かれた。いい人たちだけど、マネージャーのエプスタインは手ごわいなどと、雑談を交わした。ビートルズ来日の話が決まったのは、それからしばらくしてからだ。来日公演の主催は、協同企画と読売新聞、中部日本放送との相乗りになった。6月30日から7月2日までの5公演で、コンサートのチケットを入手するには、読売新聞に往復はがきで応募、ライオン歯磨きや東芝音楽工業(ビートルズのレコードの発売元)など協賛企業の懸賞に応募、日本航空の往復航空券を買って応募などの方法で、抽選に当たるしかなかった。チケット欲しさに、全部に応募したという子もたくさんいた。若者の熱狂ぶりの一方で、大人たちの中には、ビートルズの髪型を含めて、反感を持つ人たちも多かった。彼らが受け入れるのは、ブラザース・フォアのように髪を七三に分けてカレッジフォークを歌うバンドだった。来日は
‡1966(昭和41)年06月29日(水)未明。
 1966(昭和41)年06月28日(火)到着の予定が、台風の影響で遅れたのだ。同日の午後には記者会見が開かれた。舞台の上にビートルズの4人が並び、3名の代表記者しか質問できない取り決めだった。代表質問者がおもむろに巻物のような紙を広げて質問を始めたので、記者席にいた私は「何アレ」、と思わず笑ってしまった。こんな堅苦しいプレスインタビューとは思っていなかっただろうが、4人とも質問をウィットではぐらかすのがうまかった。
■ジョン・レノンの奇妙な「乾杯」■来日中の4人に会ったのは
 1966(昭和41)年07月02日(土)の午後だ。彼らが滞在していた東京ヒルトンホテルの10階プレジデンシャル・スイートに、記者として正式に招かれたのは私だけだった。ただ、部屋は人の出入りが激しくて、一問一答の取材をする雰囲気ではなかった。4人は外出が許されなかったので、空き時間にはファンクラブに頼まれた絵を描いたり、主催者からプレゼントされた民謡などのレコードを聞いたりして過ごしていた。私が部屋に入った時には、カメラ屋や、着物、帯などを売る土産業者が品物を広げていた。4人は特にカメラに興味があり、私と同行した長谷部宏カメラマンに、どれがいいんだと聞いたりしていた。
 1966(昭和41)年07月02日(土)写真◆東京ヒルトンホテルで。ジョン・レノンから「日本のキッズの間で流行っていることは?」と聞かれ、『おそ松くん』の“シェーッ!”を伝授。早速やってみせるジョンと、興味を示すリンゴ・スター。リンゴもポーズを取ったそうだが、写真は残っていない。ジョンは部屋を出たり入ったりしていたが、突然テーブルの上のオレンジジュースのグラスを高々と上げて、 何か叫んだ。私には “The Beatles will fade out” と言ったように聞こえた。みんなは冗談だと思って笑ったが、そばにいたリンゴが、「ブライアン」とエプスタインを指さして、言った。「こんなにたくさん稼いだのに、僕たちは一歩も外に出られない。どこで使えばいいのさ?」その後、エプスタンがスーッと私のそばに寄ってきて、指を口に当て、「今のジョンの発言は書いてはダメだよ」とささやいた。彼は真剣だった。私が聴いた来日コンサートは、初日と最終日の7月2日の夜だ。彼らが歌っている間、嬌声(きょうせい)はすごいものの、歌声はちゃんと聞こえた。また、「イエスタデイ」を歌うときは、女の子たちが、「シーっ、静かにしましょうよ」とお互いに注意しあって、水を打ったように静かになったのを覚えている。
■ジョンとポールのコラボ場面に居合わせた幸運■ビートルズ来日前と後では、日本社会のビートルズの受容が全く違う。来日前には、武道の“聖地”武道館を英国の長髪のロッカーなんかに使わせるなという反対運動もあり、“来日反対”の右翼の街宣車も出没していた。それがたった5日間足らずの来日で、ビートルズを認めざるを得ないと、世間の空気が変わっていく。来日を境にレコードも発売枚数が桁外れに増え、あれやこれや書きたてていたマスコミも、好意的なトーンに変わった。ビートルズの音楽に無関心だった大人たちの間でも、聞いてみたらいい曲じゃない、という認識が広がったと思う。そして、ビートルズ以降、大きなコンサートは武道館で開催されることが普通になっていった。いろいろな面で若者に対するプレッシャーが緩やかになった気がする。
 写真◆来日公演から半世紀を経ても、日本人のビートルズへの熱い思いは消えない。ビートルズを何度も取材した星加氏はトーク・イベントで引っ張りだこだ。
 私自身は来日公演後の「最後のライブ・ツアー」となる1966年8月の北米ツアーの同行もオファーされて取材、以降、1970年の解散まで毎年ビートルズと顔を合わせることになった。その間、ビートルズの歴史の中で貴重な場面や、歴史的瞬間にも立ち会っている。そういえば、66年北米ツアーのシカゴでのオープニングコンサートの時には、リハーサルの合間に、シャワーを浴びたジョンが素っ裸で私の前に現れ、「ルミ、その椅子にかかっているタオルを投げてくれ」とニコリともしないで声をかけてきた。ジョークのつもりだったらしい。1967年9月にはEMIスタジオで、ポールとジョンが一緒に「フール・オン・ザ・ヒル」の歌詞を仕上げながら、4人でレコーディングする場面にも居合わせた。ちなみに、この時にスタジオの隅っこに座っていた日本人女性が、この年の暮れにジョンと結婚することになるオノ・ヨーコだった。1969年1月、今や伝説の「ルーフトップ・コンサート」にも偶然居合わせた。ビートルズとは関係のない仕事でロンドンに行ったのだが、彼らが設立したアップル社のスタッフから、屋上でビートルズが演奏するから来てみたらと言われて行ってみた。ビートルズの気まぐれで4人が久しぶりに集まったからやってみようぐらいのノリかなと思っていたのだが、その後アルバム『Let It Be』がリリース、映画も公開されて驚いた。
■日本人にとってビートルズの思い出は宝物■1970年、ビートルズ解散のニュースには、残念だとは思っても、驚きはしなかった。68年ごろからアップル社はうまくいっていなかったし、4人も「ルーフトップ・コンサート」以外は、ほとんど会社に寄りつかなかった。「フール・オン・ザ・ヒル」ではジョンとポールが仲良く歌詞を作っていたけれど、『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』(1968年)を聞くと、2人の方向性がはっきりと違うのがわかる。やがては別々の道を行くのだろうと思っていた。来日から50年経っても、ビートルズのことをまだ語っているとは、夢にも思わなかった。もちろん、彼らの曲にはいつの時代にどこで、どんな人が聞いても素直に心に入ってくる普遍性がある。ただ、来日何十周年というように、なにかにつけてビートルズ関連の大々的なイベントをするのは日本だけ。いつまでもビートルズの思い出を宝物のように大切にしているファンが日本には特に多いのかもしれない。
 本文中写真提供:シンコーミュージック
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 ビートルズ来日!素顔を撮ったカメラマンが回顧するジョン・レノン “脱走” 騒動/6月29日の話
‡2021(令和三)年06月29日(火) 6:02配信 SmartFLASH ジョン・レノン
‡1966(昭和41)年06月29日(水)、世界的ロックバンド・ビートルズの4人を乗せた飛行機が羽田空港に降り立った。翌日の30日から7月2日までの3日間、日本武道館で来日コンサートが予定されていた。空港には、熱狂的なファンが押し寄せ、470台の車と約2000人のファンが追い返されたという。当時、ビートルズは日本でも人気で、レコードもよく売れていた。マネージャーのブライアン・エプスタインが新たな市場として日本に目をつけ、コンサートを企画。メンバーたちも仏教や禅などの東洋思想に興味があり、日本に来たがっていたという。そして来日が実現する。羽田空港に到着したビートルズは、厳戒態勢のなか、ヒルトンホテル(現・キャピトル東急ホテル)へ移動する。そんなビートルズのメンバーを、ホテルで待ち構えていたカメラマンがいた。当時22歳だった佐々木恵子さんである。佐々木さんは、警備の網をかいくぐり、ホテル内に潜入していた。
「まだ隠し撮りをするようなカメラマンがいなかった時代で、誰にも注意されず、ホテルのなかに入れました。エレベーター前やホテルの玄関で澄ましていられたのよ。こんな脇の甘さ、今じゃ考えられないわね。一応、カメラマンっぽく腕章もしていましたから、スタッフたちは公式のカメラマンだと間違えたんでしょう」最初に4人を撮影できたのは、武道館公演の初日が終わり、メンバーたちがホテルに戻ってきたタイミングだった。
「夜になってスタッフが慌ただしく動きはじめて、私も右往左往。けれど、地下の駐車場に警備員が集まってきたので、『ここに帰ってくる!』と確信しました。緊張しながら待っていると、ピンクのキャデラックが到着したので、すぐに駆け寄って夢中でシャッターを切りました。このとき、ポールが一瞬笑顔を見せてくれたのを覚えています」この日の公演は「Rock And Roll Music」から始まり、「Yesterday」などを挟みながら「I’m Down」で締めくくられた。約30分間で11曲を演奏する短いものだったが、ビートルズのコンサートではこれが普通だったという。なお、前座は若き日の内田裕也やドリフターズが務めていた。当時、メンバーは全員外出禁止を言い渡されていたが、ホテルを抜け出し、ショッピングを楽しんで帰ってきたジョン・レノンも撮れたという。
「ちょうど、ジョンが帰ってきたところをエレベーター前で撮影しました。紙袋をいくつか大事そうに抱えていて、なかに入っていたのは骨董品でした。日本の骨董品が好きで、青山にあった朝日美術や、原宿のオリエンタルバザールに行ってたんですって。“脱走” は、ポール・マッカートニーもやっていました。お付きのスタッフが滞在中に夜の街に行ったらしく、それを聞いたポールが『僕も行きたい』って言いだして。でも、報道陣に車を尾行されて、結局は行けずじまいだったみたい(笑)」ビートルズは、
 1966(昭和41)年07月03日(日)の午前中に日本を飛び立った。メンバー全員がそろった来日は、これが最初で最後だった。
【写真あり】世界的ロックバンド・ビートルズのメンバー4人
 https://news.yahoo.co.jp/articles/5556989b79e2f9913320f7110926c002b9e97cbc

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