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この通りですね ()
2008-04-12 11:33:23
僕はかってプロテスタント教会に通っていました。
そこでは、この世は仮の宿り、礼拝こそが生活の中心と牧師が語ります。

神から使命を与えられてこの世に生かされているというところまで信仰が深まり、この世での生活を肯定「恵みとして感謝」しながら享受出来ている方。
この方々は充分に(その人なりに)社会に適応し、生かされていることに喜びを見出すことが出来ている方々。
(これは、病気、肉体にハンディキャップが在る無しに関わらないです。また、愛する人との死別離別などを乗り越えた方もそうです。)

一方で、社会に適応できない心病んだ状態で信仰に慰めを求めている方々が居ます。
(病気、肉体のハンデ、心病んだ状態、愛する者との死別離別を乗り越えられていない方。)
信仰が深まり、慰めを求める段階から、癒やされて、「神と共に在る自立」が為されたならば、その人なりに社会に適応し、やがてはこの方々も、神から与えられた命、使命をもってこの世に貢献している、というところまで行きます。
感謝してこの世の生を享受します。

しかし、途中でつぶれる人が居ます。
この世は仮の宿り、自分の居るべきところは「ここではない」という言い訳で、自殺する人が居るのです。
それに先立っては、教会内でのみ生きようとし、社会に出て行こうとしない、聖書を読んで「原理主義的にしか読めない」という段階があります。

はっきり言って、キリスト教自体、牧師自体がそういう誤謬を含んだ危うい存在です。
どんなに素晴らしい事を語り、世に貢献していようが、「この世が仮の宿り、我々には帰るべき場所が在る」と言うことを語るなら「現実からの逃避」に、格好の口実、機会を与えることに繋がっています。

仮の宿りをも満足に生きられないようなら、死んだ後天国も、復活して永遠の生もあったもんじゃないだろうに・・・と僕は思ったりします。

いい加減な事は語ってはなりませんね。
痛感しました。


 
 
 
今、ここで主人公 (岩井俊憲)
2008-04-13 18:27:10
梅さん

2日連続でコメントありがとうございます。

私は、仏教徒です。
その立場からすると、今、ここで主人公になれない人が来世で主人公になれるとは思えません。自分以外の誰かが自分を主人公にしてくれるとも思いません。

自分は自分の人生に責任がある、というアドラー心理学の考え方は、仏教に近く、それが好きです。
 
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