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イギリスの王室とポルフィリン症

2010-11-28 10:53:39 | 日記
>王室や名家では家計図がしっかりしてるため遺伝性疾患の謎を解くのに役立つ、ポルフィリン症はスコットランド女王メアリまで遡れる遺伝性の病気である。歴史家の中にはこの病気がアメリカの独立戦争とフランス革命という歴史に重要な役割を果たしたという人もいる。
イギリス国王ジョージ3世はアメリカ独立戦争とフランス革命という世界史上にのこる重大事件があった当時イギリスを統治していた。
・・・・・がこの国王はポルフィリン症の発症者でこの激動の時代に精神状態に大きな問題。を抱えていた。王が26歳のとき(1765)精神障害の発作をはじめて起こしたと記録されている。より重い発作を(1788年)王が50歳のときに起こしている。
王の診断記録によれば重度の肉体的症状や狂乱・幻影と記述された時期が5度会った。王はその当時の医学的慣習にのっとって治療されていた。「強制的な嘔吐」「瀉血」「「はげしいムチうち」そのあいだ王はベットや椅子に縛り付けられていた。医師団はなにが原因かわからなかった。医師団は精神障害はイギリスの王族のあいだでは一般的で何世紀にもわたって、スチュアート朝、ハーノバー、プロシアにつたえられていたことに気づいていた。
今日、ジョージ3世およびその先祖と子孫は「急性の周期的ポルフィリン症」だったことが確認されている。その症状は腹部や時には手足と背中の急激な痛み、頭痛、吐き気、不眠、幻覚、うつ状態そして狂乱である。
この疾患は優性遺伝するがその程度には幅があり気づかないで済んでしまう程度のものから本格的な精神病や呼吸麻痺による死まで幅がある。参考文献「 ヒトの遺伝学」東京化学同人
さて、スコットランド女王メアリまで遡れると書いたが「ポルフィリン症」は優性遺伝である。メアリやジョージ3世以外にもその症状に悩まされた人はいたはずである。メアリの息子、ジェームスもその1人でしばしば奇怪な行動をとったそうである。その上ジェームスは容姿は均整が取れておらず、足が湾曲しているためいつも足元がふらついていた。大きな眼をぎょろぎょろ回す癖がありそのしぐさはグロテスクで目玉が飛び出しているように見えた。舌が唇に比べて大きすぎ、目は涙で潤み、だみ声ではなすせいで論旨が明確に理解されなかった。立ち振る舞いは野暮ったく礼儀作法をしらず、言葉使いは粗野だった。これがあの美しかったメアリ・スチュアートの息子かと誰もが目を疑った。それでいてさらにポリフィリン症なのであるから・・・・である。しかしジェームスはスコットランドで与えられる限りの高い教育を受け「欽定訳聖書」や「悪魔学」などを刊行しその知性には煌くものがあった。ジェームスはキリスト教圏で1番賢い愚か者とよばれたのだった。
参考文献「イギリスの王室」石井美樹子 河出書房新社
ジェームスの長男ヘンリー皇太子はやはり、ポルフィリン症だったが19歳で死亡しているため王位は次男のチャールズが継いだチャールズは父からポルフィリン症の症状は受け継がなかったが保因者である可能性は高かった。その証拠に娘のオルレアン公妃はポルフィリン症だった。しかしポルフィリン症でないからといって幸運とは限らないチャールズ1世は失策を重ねついには議会派相手に王軍を組織し宣戦布告し、議会軍に敗れ去り裁判で有罪を宣告されて処刑台で断頭に処せられた。フランス革命の150年もまえのことである。
そして次のポルフィリン症の被害者となったのは、アン女王であるアンは18人もの子を胎に宿したが1人も成長しなかった。これがポルフィリン代謝異常のせいだといわれているそしてこのアン女王を最後にスチュアート朝はおわりをつげる。そして、ハーノバー選帝侯ジョージが(ジェームス1世の曾孫)ジョージ1世として即位した。さて英語のはなせなかったジョージ1世はやはりポルフィリン症の保因者だった。この国王はイギリス入りしたとき55歳その息子は28歳だった。この父と子は優れた武将ではあったが背が低く、醜く、粗野で礼儀知らず、王者の威厳は微塵もなく王冠が懐に転がり込んできたことにいささかの感謝の念も抱いていなかった。そして英語が話せず大臣たちはラテン語で意思の疎通を図らなければならなかった。またジョージ自身はイギリスの政治に関心がなかったため、ロバート・ウォルポールがイギリス初の首相として政権を握り議会に責任を負う責任内閣制を発展させた。ジョージ1世は政務をウォルポール卿に任せてたびたび里帰りし愛するハーノバーに長期滞在した。このジョージ1世もそして息子のジョージ2世もともにポルフィリン症の保因者であった。こうしてみるとイギリスの「立憲君主制」「君臨すれども統治せず」という政治体系は崇高な理想ではなく単なる国王の怠惰のために生まれた気がする。
ジョージ2世の孫のジョージ3世が即位したのは、22歳最初の議会で「私はこの国で生まれ、この国で教育をうけた。イギリス人であることを誇りに思う」と演説し喝采を浴びた。1761年メックレーンブルク・シュトゥレリッツ公爵カールの17歳になる娘シャーロットと結婚した。他の王のように愛人を持つこともなく生涯王妃を大切にした。1764年ジョージ3世はポルフィリン症のため突然、精神に異常をきたした。異常に苛立ち、強迫観念にかられ幻覚に悩まされた。すぐに病から回復したが、1783年アメリカが独立すると、ジョージはまたもポルフィリン症に見舞われた。翌年には回復したが強迫観念付きまとわれ続けた。さらにフランスで起きた革命がジョージを脅かした。そして1810年末娘アメリアの死が引き金となってまたも同じ病に見舞われる。翌年2月「摂政令」が可決されジョージの長男ジョージが摂政となる。1820年1月29日ジョージ3世はこの世を去った。享年82歳。2年ほど前に王妃はなくなっていたがすでに王妃の死を理解できる状態ではなかったという。晩年のジョージは目が見えず耳も聞こえなくなっていた。もしジョージ3世がポリフィリン症でなかったら、イギリスのそしてヨーロッパの歴史は変わっていたのだろうか?ポルフィリン分子は体のほとんどの細胞に存在し多くの酵素の機能に必須である。ポルフィリンは赤血球のヘモグラビン分子の一部であり、酵素を運搬するのに特に重要な働きをしている。ジョージ3世統治の時この病気について何も分っていなかったので王の精神障害は心理学的理由によるものとみなされた。今日の医学研究によれば精神障害を含むこの疾患のすべての症状が、食事や、アルコールなどで影響されて過剰産生された、ポルフィリンの毒性によるものだということがあきらかにされている。ポルフィリン症に悩まされたイギリス王家であるがその上、跡継ぎ問題が持ち上がるジョージ3世の息子たちは4人ともポルフィリン症だった。そいてジョージ4世にもその弟のウィリアム4世にも王女たちにも子供がいなかった。王朝の危機を救ったのはジョージ3世の4男ケント公爵エドワードだった。次世代の王位継承者が、皆無となったので50歳過ぎて慌てて結婚しビクトリアをもうけた、そしてビクトリア生後八ヶ月の時ケント公爵は亡くなった。ケント公爵はもれなくポリフィリン症の発症者だった。私の持っている家系図ではビクトリアは、ポリフィリン症は遺伝していない。・・・・・・がこの女王は血友病の保因者だった。ここからまた新たなるドラマが生まれることになるのである。
参考文献「ヒトの遺伝学」エドリン著、東京化学同人「イギリスの王室」石井美樹子著、河出書房新社
王室や名家では家計図がしっかりしてるため遺伝性疾患の謎を解くのに役立つ、ポルフィリン症はスコットランド女王メアリまで遡れる遺伝性の病気である。歴史家の中にはこの病気がアメリカの独立戦争とフランス革命という歴史に重要な役割を果たしたという人もいる。
イギリス国王ジョージ3世はアメリカ独立戦争とフランス革命という世界史上にのこる重大事件があった当時イギリスを統治していた。
・・・・・がこの国王はポルフィリン症の発症者でこの激動の時代に精神状態に大きな問題。を抱えていた。王が26歳のとき(1765)精神障害の発作をはじめて起こしたと記録されている。より重い発作を(1788年)王が50歳のときに起こしている。
王の診断記録によれば重度の肉体的症状や狂乱・幻影と記述された時期が5度会った。王はその当時の医学的慣習にのっとって治療されていた。「強制的な嘔吐」「瀉血」「「はげしいムチうち」そのあいだ王はベットや椅子に縛り付けられていた。医師団はなにが原因かわからなかった。医師団は精神障害はイギリスの王族のあいだでは一般的で何世紀にもわたって、スチュアート朝、ハーノバー、プロシアにつたえられていたことに気づいていた。
今日、ジョージ3世およびその先祖と子孫は「急性の周期的ポルフィリン症」だったことが確認されている。その症状は腹部や時には手足と背中の急激な痛み、頭痛、吐き気、不眠、幻覚、うつ状態そして狂乱である。
この疾患は優性遺伝するがその程度には幅があり気づかないで済んでしまう程度のものから本格的な精神病や呼吸麻痺による死まで幅がある。参考文献「 ヒトの遺伝学」東京化学同人
さて、スコットランド女王メアリまで遡れると書いたが「ポルフィリン症」は優性遺伝である。メアリやジョージ3世以外にもその症状に悩まされた人はいたはずである。メアリの息子、ジェームスもその1人でしばしば奇怪な行動をとったそうである。その上ジェームスは容姿は均整が取れておらず、足が湾曲しているためいつも足元がふらついていた。大きな眼をぎょろぎょろ回す癖がありそのしぐさはグロテスクで目玉が飛び出しているように見えた。舌が唇に比べて大きすぎ、目は涙で潤み、だみ声ではなすせいで論旨が明確に理解されなかった。立ち振る舞いは野暮ったく礼儀作法をしらず、言葉使いは粗野だった。これがあの美しかったメアリ・スチュアートの息子かと誰もが目を疑った。それでいてさらにポリフィリン症なのであるから・・・・である。しかしジェームスはスコットランドで与えられる限りの高い教育を受け「欽定訳聖書」や「悪魔学」などを刊行しその知性には煌くものがあった。ジェームスはキリスト教圏で1番賢い愚か者とよばれたのだった。
参考文献「イギリスの王室」石井美樹子 河出書房新社
ジェームスの長男ヘンリー皇太子はやはり、ポルフィリン症だったが19歳で死亡しているため王位は次男のチャールズが継いだチャールズは父からポルフィリン症の症状は受け継がなかったが保因者である可能性は高かった。その証拠に娘のオルレアン公妃はポルフィリン症だった。しかしポルフィリン症でないからといって幸運とは限らないチャールズ1世は失策を重ねついには議会派相手に王軍を組織し宣戦布告し、議会軍に敗れ去り裁判で有罪を宣告されて処刑台で断頭に処せられた。フランス革命の150年もまえのことである。
そして次のポルフィリン症の被害者となったのは、アン女王であるアンは18人もの子を胎に宿したが1人も成長しなかった。これがポルフィリン代謝異常のせいだといわれているそしてこのアン女王を最後にスチュアート朝はおわりをつげる。そして、ハーノバー選帝侯ジョージが(ジェームス1世の曾孫)ジョージ1世として即位した。さて英語のはなせなかったジョージ1世はやはりポルフィリン症の保因者だった。この国王はイギリス入りしたとき55歳その息子は28歳だった。この父と子は優れた武将ではあったが背が低く、醜く、粗野で礼儀知らず、王者の威厳は微塵もなく王冠が懐に転がり込んできたことにいささかの感謝の念も抱いていなかった。そして英語が話せず大臣たちはラテン語で意思の疎通を図らなければならなかった。またジョージ自身はイギリスの政治に関心がなかったため、ロバート・ウォルポールがイギリス初の首相として政権を握り議会に責任を負う責任内閣制を発展させた。ジョージ1世は政務をウォルポール卿に任せてたびたび里帰りし愛するハーノバーに長期滞在した。このジョージ1世もそして息子のジョージ2世もともにポルフィリン症の保因者であった。こうしてみるとイギリスの「立憲君主制」「君臨すれども統治せず」という政治体系は崇高な理想ではなく単なる国王の怠惰のために生まれた気がする。
ジョージ2世の孫のジョージ3世が即位したのは、22歳最初の議会で「私はこの国で生まれ、この国で教育をうけた。イギリス人であることを誇りに思う」と演説し喝采を浴びた。1761年メックレーンブルク・シュトゥレリッツ公爵カールの17歳になる娘シャーロットと結婚した。他の王のように愛人を持つこともなく生涯王妃を大切にした。1764年ジョージ3世はポルフィリン症のため突然、精神に異常をきたした。異常に苛立ち、強迫観念にかられ幻覚に悩まされた。すぐに病から回復したが、1783年アメリカが独立すると、ジョージはまたもポルフィリン症に見舞われた。翌年には回復したが強迫観念付きまとわれ続けた。さらにフランスで起きた革命がジョージを脅かした。そして1810年末娘アメリアの死が引き金となってまたも同じ病に見舞われる。翌年2月「摂政令」が可決されジョージの長男ジョージが摂政となる。1820年1月29日ジョージ3世はこの世を去った。享年82歳。2年ほど前に王妃はなくなっていたがすでに王妃の死を理解できる状態ではなかったという。晩年のジョージは目が見えず耳も聞こえなくなっていた。もしジョージ3世がポリフィリン症でなかったら、イギリスのそしてヨーロッパの歴史は変わっていたのだろうか?ポルフィリン分子は体のほとんどの細胞に存在し多くの酵素の機能に必須である。ポルフィリンは赤血球のヘモグラビン分子の一部であり、酵素を運搬するのに特に重要な働きをしている。ジョージ3世統治の時この病気について何も分っていなかったので王の精神障害は心理学的理由によるものとみなされた。今日の医学研究によれば精神障害を含むこの疾患のすべての症状が、食事や、アルコールなどで影響されて過剰産生された、ポルフィリンの毒性によるものだということがあきらかにされている。ポルフィリン症に悩まされたイギリス王家であるがその上、跡継ぎ問題が持ち上がるジョージ3世の息子たちは4人ともポルフィリン症だった。そいてジョージ4世にもその弟のウィリアム4世にも王女たちにも子供がいなかった。王朝の危機を救ったのはジョージ3世の4男ケント公爵エドワードだった。次世代の王位継承者が、皆無となったので50歳過ぎて慌てて結婚しビクトリアをもうけた、そしてビクトリア生後八ヶ月の時ケント公爵は亡くなった。ケント公爵はもれなくポリフィリン症の発症者だった。私の持っている家系図ではビクトリアは、ポリフィリン症は遺伝していない。・・・・・・がこの女王は血友病の保因者だった。ここからまた新たなるドラマが生まれることになるのである。
参考文献「ヒトの遺伝学」エドリン著、東京化学同人「イギリスの王室」石井美樹子著、河出書房新社
王室や名家では家計図がしっかりしてるため遺伝性疾患の謎を解くのに役立つ、ポルフィリン症はスコットランド女王メアリまで遡れる遺伝性の病気である。歴史家の中にはこの病気がアメリカの独立戦争とフランス革命という歴史に重要な役割を果たしたという人もいる。
イギリス国王ジョージ3世はアメリカ独立戦争とフランス革命という世界史上にのこる重大事件があった当時イギリスを統治していた。
・・・・・がこの国王はポルフィリン症の発症者でこの激動の時代に精神状態に大きな問題。を抱えていた。王が26歳のとき(1765)精神障害の発作をはじめて起こしたと記録されている。より重い発作を(1788年)王が50歳のときに起こしている。
王の診断記録によれば重度の肉体的症状や狂乱・幻影と記述された時期が5度会った。王はその当時の医学的慣習にのっとって治療されていた。「強制的な嘔吐」「瀉血」「「はげしいムチうち」そのあいだ王はベットや椅子に縛り付けられていた。医師団はなにが原因かわからなかった。医師団は精神障害はイギリスの王族のあいだでは一般的で何世紀にもわたって、スチュアート朝、ハーノバー、プロシアにつたえられていたことに気づいていた。
今日、ジョージ3世およびその先祖と子孫は「急性の周期的ポルフィリン症」だったことが確認されている。その症状は腹部や時には手足と背中の急激な痛み、頭痛、吐き気、不眠、幻覚、うつ状態そして狂乱である。
この疾患は優性遺伝するがその程度には幅があり気づかないで済んでしまう程度のものから本格的な精神病や呼吸麻痺による死まで幅がある。参考文献「 ヒトの遺伝学」東京化学同人
さて、スコットランド女王メアリまで遡れると書いたが「ポルフィリン症」は優性遺伝である。メアリやジョージ3世以外にもその症状に悩まされた人はいたはずである。メアリの息子、ジェームスもその1人でしばしば奇怪な行動をとったそうである。その上ジェームスは容姿は均整が取れておらず、足が湾曲しているためいつも足元がふらついていた。大きな眼をぎょろぎょろ回す癖がありそのしぐさはグロテスクで目玉が飛び出しているように見えた。舌が唇に比べて大きすぎ、目は涙で潤み、だみ声ではなすせいで論旨が明確に理解されなかった。立ち振る舞いは野暮ったく礼儀作法をしらず、言葉使いは粗野だった。これがあの美しかったメアリ・スチュアートの息子かと誰もが目を疑った。それでいてさらにポリフィリン症なのであるから・・・・である。しかしジェームスはスコットランドで与えられる限りの高い教育を受け「欽定訳聖書」や「悪魔学」などを刊行しその知性には煌くものがあった。ジェームスはキリスト教圏で1番賢い愚か者とよばれたのだった。
参考文献「イギリスの王室」石井美樹子 河出書房新社
ジェームスの長男ヘンリー皇太子はやはり、ポルフィリン症だったが19歳で死亡しているため王位は次男のチャールズが継いだチャールズは父からポルフィリン症の症状は受け継がなかったが保因者である可能性は高かった。その証拠に娘のオルレアン公妃はポルフィリン症だった。しかしポルフィリン症でないからといって幸運とは限らないチャールズ1世は失策を重ねついには議会派相手に王軍を組織し宣戦布告し、議会軍に敗れ去り裁判で有罪を宣告されて処刑台で断頭に処せられた。フランス革命の150年もまえのことである。
そして次のポルフィリン症の被害者となったのは、アン女王であるアンは18人もの子を胎に宿したが1人も成長しなかった。これがポルフィリン代謝異常のせいだといわれているそしてこのアン女王を最後にスチュアート朝はおわりをつげる。そして、ハーノバー選帝侯ジョージが(ジェームス1世の曾孫)ジョージ1世として即位した。さて英語のはなせなかったジョージ1世はやはりポルフィリン症の保因者だった。この国王はイギリス入りしたとき55歳その息子は28歳だった。この父と子は優れた武将ではあったが背が低く、醜く、粗野で礼儀知らず、王者の威厳は微塵もなく王冠が懐に転がり込んできたことにいささかの感謝の念も抱いていなかった。そして英語が話せず大臣たちはラテン語で意思の疎通を図らなければならなかった。またジョージ自身はイギリスの政治に関心がなかったため、ロバート・ウォルポールがイギリス初の首相として政権を握り議会に責任を負う責任内閣制を発展させた。ジョージ1世は政務をウォルポール卿に任せてたびたび里帰りし愛するハーノバーに長期滞在した。このジョージ1世もそして息子のジョージ2世もともにポルフィリン症の保因者であった。こうしてみるとイギリスの「立憲君主制」「君臨すれども統治せず」という政治体系は崇高な理想ではなく単なる国王の怠惰のために生まれた気がする。
ジョージ2世の孫のジョージ3世が即位したのは、22歳最初の議会で「私はこの国で生まれ、この国で教育をうけた。イギリス人であることを誇りに思う」と演説し喝采を浴びた。1761年メックレーンブルク・シュトゥレリッツ公爵カールの17歳になる娘シャーロットと結婚した。他の王のように愛人を持つこともなく生涯王妃を大切にした。1764年ジョージ3世はポルフィリン症のため突然、精神に異常をきたした。異常に苛立ち、強迫観念にかられ幻覚に悩まされた。すぐに病から回復したが、1783年アメリカが独立すると、ジョージはまたもポルフィリン症に見舞われた。翌年には回復したが強迫観念付きまとわれ続けた。さらにフランスで起きた革命がジョージを脅かした。そして1810年末娘アメリアの死が引き金となってまたも同じ病に見舞われる。翌年2月「摂政令」が可決されジョージの長男ジョージが摂政となる。1820年1月29日ジョージ3世はこの世を去った。享年82歳。2年ほど前に王妃はなくなっていたがすでに王妃の死を理解できる状態ではなかったという。晩年のジョージは目が見えず耳も聞こえなくなっていた。もしジョージ3世がポリフィリン症でなかったら、イギリスのそしてヨーロッパの歴史は変わっていたのだろうか?ポルフィリン分子は体のほとんどの細胞に存在し多くの酵素の機能に必須である。ポルフィリンは赤血球のヘモグラビン分子の一部であり、酵素を運搬するのに特に重要な働きをしている。ジョージ3世統治の時この病気について何も分っていなかったので王の精神障害は心理学的理由によるものとみなされた。今日の医学研究によれば精神障害を含むこの疾患のすべての症状が、食事や、アルコールなどで影響されて過剰産生された、ポルフィリンの毒性によるものだということがあきらかにされている。ポルフィリン症に悩まされたイギリス王家であるがその上、跡継ぎ問題が持ち上がるジョージ3世の息子たちは4人ともポルフィリン症だった。そいてジョージ4世にもその弟のウィリアム4世にも王女たちにも子供がいなかった。王朝の危機を救ったのはジョージ3世の4男ケント公爵エドワードだった。次世代の王位継承者が、皆無となったので50歳過ぎて慌てて結婚しビクトリアをもうけた、そしてビクトリア生後八ヶ月の時ケント公爵は亡くなった。ケント公爵はもれなくポリフィリン症の発症者だった。私の持っている家系図ではビクトリアは、ポリフィリン症は遺伝していない。・・・・・・がこの女王は血友病の保因者だった。ここからまた新たなるドラマが生まれることになるのである。
参考文献「ヒトの遺伝学」エドリン著、東京化学同人「イギリスの王室」石井美樹子著、河出書房新社
王室や名家では家計図がしっかりしてるため遺伝性疾患の謎を解くのに役立つ、ポルフィリン症はスコットランド女王メアリまで遡れる遺伝性の病気である。歴史家の中にはこの病気がアメリカの独立戦争とフランス革命という歴史に重要な役割を果たしたという人もいる。
イギリス国王ジョージ3世はアメリカ独立戦争とフランス革命という世界史上にのこる重大事件があった当時イギリスを統治していた。
・・・・・がこの国王はポルフィリン症の発症者でこの激動の時代に精神状態に大きな問題。を抱えていた。王が26歳のとき(1765)精神障害の発作をはじめて起こしたと記録されている。より重い発作を(1788年)王が50歳のときに起こしている。
王の診断記録によれば重度の肉体的症状や狂乱・幻影と記述された時期が5度会った。王はその当時の医学的慣習にのっとって治療されていた。「強制的な嘔吐」「瀉血」「「はげしいムチうち」そのあいだ王はベットや椅子に縛り付けられていた。医師団はなにが原因かわからなかった。医師団は精神障害はイギリスの王族のあいだでは一般的で何世紀にもわたって、スチュアート朝、ハーノバー、プロシアにつたえられていたことに気づいていた。
今日、ジョージ3世およびその先祖と子孫は「急性の周期的ポルフィリン症」だったことが確認されている。その症状は腹部や時には手足と背中の急激な痛み、頭痛、吐き気、不眠、幻覚、うつ状態そして狂乱である。
この疾患は優性遺伝するがその程度には幅があり気づかないで済んでしまう程度のものから本格的な精神病や呼吸麻痺による死まで幅がある。参考文献「 ヒトの遺伝学」東京化学同人
さて、スコットランド女王メアリまで遡れると書いたが「ポルフィリン症」は優性遺伝である。メアリやジョージ3世以外にもその症状に悩まされた人はいたはずである。メアリの息子、ジェームスもその1人でしばしば奇怪な行動をとったそうである。その上ジェームスは容姿は均整が取れておらず、足が湾曲しているためいつも足元がふらついていた。大きな眼をぎょろぎょろ回す癖がありそのしぐさはグロテスクで目玉が飛び出しているように見えた。舌が唇に比べて大きすぎ、目は涙で潤み、だみ声ではなすせいで論旨が明確に理解されなかった。立ち振る舞いは野暮ったく礼儀作法をしらず、言葉使いは粗野だった。これがあの美しかったメアリ・スチュアートの息子かと誰もが目を疑った。それでいてさらにポリフィリン症なのであるから・・・・である。しかしジェームスはスコットランドで与えられる限りの高い教育を受け「欽定訳聖書」や「悪魔学」などを刊行しその知性には煌くものがあった。ジェームスはキリスト教圏で1番賢い愚か者とよばれたのだった。
参考文献「イギリスの王室」石井美樹子 河出書房新社
ジェームスの長男ヘンリー皇太子はやはり、ポルフィリン症だったが19歳で死亡しているため王位は次男のチャールズが継いだチャールズは父からポルフィリン症の症状は受け継がなかったが保因者である可能性は高かった。その証拠に娘のオルレアン公妃はポルフィリン症だった。しかしポルフィリン症でないからといって幸運とは限らないチャールズ1世は失策を重ねついには議会派相手に王軍を組織し宣戦布告し、議会軍に敗れ去り裁判で有罪を宣告されて処刑台で断頭に処せられた。フランス革命の150年もまえのことである。
そして次のポルフィリン症の被害者となったのは、アン女王であるアンは18人もの子を胎に宿したが1人も成長しなかった。これがポルフィリン代謝異常のせいだといわれているそしてこのアン女王を最後にスチュアート朝はおわりをつげる。そして、ハーノバー選帝侯ジョージが(ジェームス1世の曾孫)ジョージ1世として即位した。さて英語のはなせなかったジョージ1世はやはりポルフィリン症の保因者だった。この国王はイギリス入りしたとき55歳その息子は28歳だった。この父と子は優れた武将ではあったが背が低く、醜く、粗野で礼儀知らず、王者の威厳は微塵もなく王冠が懐に転がり込んできたことにいささかの感謝の念も抱いていなかった。そして英語が話せず大臣たちはラテン語で意思の疎通を図らなければならなかった。またジョージ自身はイギリスの政治に関心がなかったため、ロバート・ウォルポールがイギリス初の首相として政権を握り議会に責任を負う責任内閣制を発展させた。ジョージ1世は政務をウォルポール卿に任せてたびたび里帰りし愛するハーノバーに長期滞在した。このジョージ1世もそして息子のジョージ2世もともにポルフィリン症の保因者であった。こうしてみるとイギリスの「立憲君主制」「君臨すれども統治せず」という政治体系は崇高な理想ではなく単なる国王の怠惰のために生まれた気がする。
ジョージ2世の孫のジョージ3世が即位したのは、22歳最初の議会で「私はこの国で生まれ、この国で教育をうけた。イギリス人であることを誇りに思う」と演説し喝采を浴びた。1761年メックレーンブルク・シュトゥレリッツ公爵カールの17歳になる娘シャーロットと結婚した。他の王のように愛人を持つこともなく生涯王妃を大切にした。1764年ジョージ3世はポルフィリン症のため突然、精神に異常をきたした。異常に苛立ち、強迫観念にかられ幻覚に悩まされた。すぐに病から回復したが、1783年アメリカが独立すると、ジョージはまたもポルフィリン症に見舞われた。翌年には回復したが強迫観念付きまとわれ続けた。さらにフランスで起きた革命がジョージを脅かした。そして1810年末娘アメリアの死が引き金となってまたも同じ病に見舞われる。翌年2月「摂政令」が可決されジョージの長男ジョージが摂政となる。1820年1月29日ジョージ3世はこの世を去った。享年82歳。2年ほど前に王妃はなくなっていたがすでに王妃の死を理解できる状態ではなかったという。晩年のジョージは目が見えず耳も聞こえなくなっていた。もしジョージ3世がポリフィリン症でなかったら、イギリスのそしてヨーロッパの歴史は変わっていたのだろうか?ポルフィリン分子は体のほとんどの細胞に存在し多くの酵素の機能に必須である。ポルフィリンは赤血球のヘモグラビン分子の一部であり、酵素を運搬するのに特に重要な働きをしている。ジョージ3世統治の時この病気について何も分っていなかったので王の精神障害は心理学的理由によるものとみなされた。今日の医学研究によれば精神障害を含むこの疾患のすべての症状が、食事や、アルコールなどで影響されて過剰産生された、ポルフィリンの毒性によるものだということがあきらかにされている。ポルフィリン症に悩まされたイギリス王家であるがその上、跡継ぎ問題が持ち上がるジョージ3世の息子たちは4人ともポルフィリン症だった。そいてジョージ4世にもその弟のウィリアム4世にも王女たちにも子供がいなかった。王朝の危機を救ったのはジョージ3世の4男ケント公爵エドワードだった。次世代の王位継承者が、皆無となったので50歳過ぎて慌てて結婚しビクトリアをもうけた、そしてビクトリア生後八ヶ月の時ケント公爵は亡くなった。ケント公爵はもれなくポリフィリン症の発症者だった。私の持っている家系図ではビクトリアは、ポリフィリン症は遺伝していない。・・・・・・がこの女王は血友病の保因者だった。ここからまた新たなるドラマが生まれることになるのである。
参考文献「ヒトの遺伝学」エドリン著、東京化学同人「イギリスの王室」石井美樹子著、河出書房新社

2 コメント

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Acute Porphyria (Yoshiko Williams)
2012-05-02 05:10:27
私と私の家族は強い急性ポルフェリアをかかえています。この病気と生きていくのは耐え難いことばかりです。ポルフェリアの激痛で救急に行くたびに あれこれと言い訳をつのって治療から逃げてしまったり、ポルフェリアの治療薬のヘマチンの処方をオーダーするのを拒否したりする医者がほとんどです。そんな経験ばかりのなか 自分に叱咤激励を続けてポルフェリアと向き合えてきているのは 数人の心あるお医者さまのおかげです。一生懸命に向き合ってくれているお医者さまがいるのに 本人が怠けていては申し訳がたちません。もっともっと世の中の人たち、お医者様たちに この病気を知っていただけたら。。。と思います。
返信する
繰り返し (John.DO.)
2017-05-29 12:57:07
上から読むと64行目から同じ文章/段落が続くので、途中から読まなかった。
同じ文章を続ける意味が理解出来ないが、投稿者は、精神科受診を勧める。
若しかしたら、本人にしか、段落の繰り返しが見えないのかも知れんし、作文作成能力が、何等かの意識障害を引き起こしてるかも知れない。
返信する