ピンコロ往生伝

ピンコロで逝った方々のエピソードを集め、ぜひ自分もピンコロで逝きたいと願うブログ。

「この先の私の目標は、ポックリ逝くことだけよ」

2019-03-04 00:04:55 | 日記
 2012年に79歳で亡くなったTさん(女性)の晩年は、幸福感に包まれていた。
 ご主人は小さな出版社を経営していたが、本がなかなか売れず、ご主人の会社で経理をしていたTさんも、年がら年中、資金繰りの心配をしなくてはいけない毎日。持ち家もなく、何十年も、家賃の安い、団地暮らしをしていた。エレベーターのない五階建ての五階。
だが、思いがけず、出したうちの一冊がベストセラーとなり、突然、まったくおカネの心配をしないですむ時が訪れる。会社も息子が跡を継いでくれるメドがたち、彼女にとっては長年の苦労が報われた日々となった。
「もう思い残すことはない。この先の私の目標は、みんなに迷惑をかけず、ポックリ逝くことだけ」
 と口癖のように語っていたという。
 
 だが、日常生活の中で、死を予感させることはまったくなかった。
 せいぜい高血圧の薬を飲むくらいで、かえって心臓が弱く、常にニトロを欠かせなかったご主人の方が、よほどいつ倒れるかと周囲が心配していたくらい。
 ボケもない。ご主人の会社での経理の仕事は80近くなっても続けていて、11時から6時まで、規則正しく仕事をこなしていた。
 どちらかといえば「健康マニア」。酒もタバコもやらず、コーヒーもあまり健康に良くないからと言って飲まない。イワシが、体にいいアガリクスがたくさん含まれているからと、自分はもちろん、家族にもせっせと食べさせる。
 おかげで、Tさんの外見も、とても70代後半には見えない若さだった。

 そんなTさんが突然倒れたのが、ある秋の日。息子さんの話によれば、その2日前に電話でやり取りした時には、いつもとはまったく変わらない元気な声だったという。
 ところが、その息子さんが、新しい本を作るための取材旅行に出掛けている最中、いきなり朝、会社から電話が入った。

「お母さんが倒れた。すぐに戻ってきてくれ」
 と。戻ってみたら、すでにTさんは亡くなっていたという。
 検死した医師の話では、突発性の動脈瘤破裂。だが、あまりにも急で、痛みを伴う死ではなかったのは、穏やかな死に顔を見てわかったとか。会社で一緒にいた社員によれば、もう突然に倒れて、近づいてみたら、すでに息をしていない状態だったらしい。救急車は呼んだものの、すでに手の施しようはなかった。

 亡くなった後でも、周囲の人たちは、なぜあんなに若くて元気だったTさんが突然倒れて亡くなったのか、原因がわからない。そして、
「ようやく本が当たったのだから、もう1年長生きして、おカネをたっぷりつかってから逝けばよかったのに」
 とも言い合ったそうだ。


(Tさんから学ぶピンコロへの道)
 ずっと健康と若さを維持し、長年やってきた仕事の成果もようやく出て来たところで痛みもなくコロッと死ねるとは、羨ましいくらいの人生の結末だ。
 恐らく、自分はまだ世の中や、夫、子供たちに必要にされている、という状況が支えとなって、日々、心地よい緊張感を保ち続けた結果、アタマも老化せず、鮮やかな最後を迎えられたのだろう。
「役者は舞台の上で死ぬのが夢」
 なんて話もよく聞く。ポックリ死願望を果たしたTさんも、仕事の最中に亡くなったことには強い満足感があったろう。
 緊張感を伴って、やれる限り仕事を続ける、そこにもピンコロを実現できる要素があるのかもしれない。



再開、というほどのことでもないが・・・

2019-02-05 02:12:24 | 日記
 ほぼ2年以上、ほっぽらかしにしていた、このブログ。久しぶりに投稿してみる。


 再開、というほどのものでもないが、どうもやはり「ピンコロ」にはこだわりがあるのだ。というか、私も還暦を過ぎ、64歳まで来ているのだが、前以上に、死ぬときはピンコロで逝きたい願望は強くなっている。家族の者には、「あなたは飲みすぎだから、脳梗塞とか担って、簡単には死ねない」などと
よく脅されているが、こればっかりは「運」でもあるし、願いが叶うかもしれないではないか。

 ピンコロ否定派の人たちは、よく「ピンコロなんて突然死。せっかく最後の別れをしたい人がいてもできないなんて哀しいじゃないか」と言う。
 エーッ! 「最後の別れをしたい人」なんて、いるか? 人間は、結局、一人で生まれ、一人で死ぬ。別に、わざわざ「これから死にますよ」と挨拶しなくたっていいじゃないの。それより、長く不自由な体と心で、周囲に迷惑をかけつつ生き続ける方がずっとツラい。

 私のまわりでも、親の介護に苦しめられ、人生の袋小路に入っちゃった人たちをよく見かけるようになった。
 これ考えると、健診もなく、延命治療もなかった昔はよかった。自然に、天から与えられた寿命が来たら死ねたんだから。抗がん剤だの手術だので、無理やり切り刻んだり、体の中をいじくりまわして、体はもっと不自由になった代わりに余命が半年のびたとかで、いったい何がうれしいっていうの。

 ピンコロで逝きたいな。ほとんどの確率で無理とは知りつつ、そうなるいい方法ってないかな。もちろん、自殺とかそういうんでなしに。
 そう思いつつ、また気が向いたら、このブログになんか書いてく。


「熱がひどければ病院に行けよ」

2016-12-26 01:42:15 | 日記
 今から12年前に亡くなったYさん(76・男性)。
 戦争にはぎりぎり兵隊として行ったものの、戦死もせずに帰還。見合いで結婚もし、税理士として40年以上働き、家も建てて70歳くらいでリタイアする。特に金持ちでもビンボーでもない「一般庶民」として生きた。
 ただ健康には関心が深く、死ぬ直前まで健康そのもの。散歩は毎日二時間は欠かさず、東京に住んでいたため、とげぬき地蔵や、都内各地の七福神めぐり、神社仏閣の名所めぐりなどはずっと続けていた。
 酒はたしなむ程度でタバコも吸わず、アタマも足腰もいたって健康。亡くなる三日前も近所の神社にお参りしている。
 とはいえ、亡くなる4~5日前から、風邪気味で食欲がなかった。あるいは奥さんの風邪がうつったのかもしれず、奥さんの方が38度くらいの熱を出して寝込んでいた。
 Yさんは、その奥さんに、
「熱がひどければ病院に行けよ」
 とアドバイスしていたくらい。

 そのYさん、死の前日に、突然、激しい下痢に襲われる。ただし、翌日は祝日で病院も開いていないから、翌々日に病院に行ってみる、と奥さんには語っていた。
 で、一日は用心のために朝から床に就き、とにかく体をやすめていたはずのYさん。夜になって、突然、絶叫ともなんともつかないような奇声を発して胸を押さえ、気を失ってしまう。
 別室にいた奥さんも駆けつけ、一生懸命に体をゆすって起こそうとしても、まったく意識が戻らない。すっかり動転した奥さん、すぐに救急車を呼ぶところにアタマが回らず、「どうしよう?」としばらくYさんの体をさするなどアタフタした末、別の場所に住む息子さんのもとに連絡する。すぐに息子さんが救急車を呼んだものの、すでにYさんは心肺停止。
 死因は虚血性心不全。
 生前から、「寝たきりで長生きはしたくない」と語っていたYさんにとって、ある意味、理想的な死に方だった。

(Yさんから学ぶピンコロへの道)
奥さんにとっては痛恨だったかもしれないが、救急車を呼ぶタイミングが遅れ、Yさんがすでに心肺停止になったのは「ラッキー」だったかもしれない。「無駄な延命治療」をされる余地がなかったのだから。
 また、祝日で病院が開いていなかったのも、あえて「ラッキー」ととらえたい。もし開いていて、検査でもして、何らかの異常が発見されれば、「治療」しなくてはならない。70代も後半になっての「治療」は、かえって体を痛めつける危険もあり、楽しみだった散歩ができなくなってしまうかもしれない。そんな辛い思いもせずにすっきりと逝けたのだから、これは羨ましい限りだ。


「鍋や釜に入ってるようなお風呂はイヤ」

2016-10-31 00:46:28 | 日記
 98歳で亡くなったHさん(女性)は、90歳までアパートで1人暮らしをしており、介護士さんや息子さんの手助けも受けつつ、食事やトイレなど、死ぬ直前まで自分ですませていた。
 根っからの病院嫌い。昔堅気の人間だから、病院なんていかずに養生さえしてればいい、とさかんに言っていたらしい。手術も受けたことはない。

 食事はもっぱら野菜中心の菜食主義。肉や魚はほとんど食べない。たとえば一日二食として、麦入りのご飯に糠味噌漬けしたキューリなど、豆腐、みかんなどの果物、といったあたりがよくある献立。若いころは酒もタバコもやっていたらしいが、80代になったら、どちらもやめていた。
 体格は小柄。ご主人は宮大工で、40代で亡くなっている。

 新聞も毎日読み、90歳くらいまでは4~5キロの距離のところを散歩もしていた。
 大好きだったのが風呂。それも、息子さんに連れられて、毎日、銭湯に通っていた。
「鍋、釜に入っているようなお風呂はイヤ」
 というのがHさんの信念で、銭湯のようにゆったりした湯舟につからなくては意味がない、と思っていたようだった。番台の前まで息子さんが連れていき、それからはもちろん一人。だから銭湯の奥さんには、
「おばーちゃん、よく一人で来られるね」
 と感心されていたらしい。まさに死ぬ前日も、しっかりお風呂には行っていた。

 年齢的な衰えはあったとしても、98歳でテレビを見て、ラジオも聴いて、一日に最低1~2回は顔を出す息子さんから見ても、特にさしたる異変はなかった。
 だから亡くなったのも、まったく突然。
 息子さんが行くと、Hさんはぐっすり寝ている。いつものことなので、あまり気にもかけなかったが、お風呂に行く時間になっても目を覚まさなくて、どうもおかしい、と気づき、救急車を呼んだものの、すでに手遅れ。一応、診察は心不全だったものの、実質的には老衰だろう。

(Hさんから学ぶピンコロへの道)
 マイペースで生き、ちょうど枯れ木が枯れるように亡くなっていった例の一つ。
 ポイントは「根っからの病院嫌い」にあったのだろうと思う。病院とは縁がなかったからこそ、体のバランスを壊すような余計な薬をもらうこともなく、体に負担をかける過度な「治療」経験もない。
 結果的に、自然に生き、自然に死ぬことが出来た。
 こういう死に方を聞くと、いったい医療行為って何なんだろう、と考えさせられる。



「草履作りに大切なのは、最後のシメだよ」

2016-10-24 00:22:30 | 日記
 Tさん(77・男性)が亡くなったのは、まだ昭和20年代後半。つまりだいぶ昔のことになる。
 正月元旦の朝、元気で、雑煮を普通に食べて、午後には寝つき、翌朝、死んでいるのが発見されたという。この時代は、こうしたピンコロが、さほど珍しくないくらいにあったのだ。

 Tさんは、もともと北九州の農家。田んぼもたくさんもっていたのだが、山っ気のある人で、知り合いの口車に乗って投資話に乗っかってしまい、土地のあらかたを手放してしまった。軍隊に行って戻ってきた長男がその半分近い土地を買い戻したものの、Tさんは責任をとって50代で隠居。それからは、地元の自治会長をやるなど、ご近所の世話役やっていたらしい。
 
 酒は一日1~2合は飲み、タバコも好き。持病は喘息。ただなかなかタバコをやめられなかった。
 すでに年取って農作業はしなかったものの、手先が器用で、藁を編んだり、げたや草履を自分で作ったりもしていた。
 それで、草履の作り方を周りの人たちに教える時などに、
「草履作りに大切なのは、最後のシメだよ」
 などとよく話していたという。草履を作る際には、まず足に合わせて全体をまとめて、最後は鼻緒に当たる部分をキュッと止めて形をキメる。このシメの作業がうまくいかないとバラバラにほどけてしまったり、形が崩れる。
 10人以上の人たちが一緒に住んでいた大家族で、正月のしめ飾りなどもみんなで作ったが、Tさんは特にうまかったという。
 
 病院にはほとんどかかったこともない。だいたい当時の田舎の農家は、病院に行ったり、そんな寝たきりでもないのに医者を呼んだりする習慣があまりないのだ。
 年とっても健康そのものだったTさんがまさか突然死ぬとは誰も思わず、今になってみたら死因もよくわからない。
 最近なら不審死として刑事が捜査に来るケースだが、当時は、そんなこともなかったらしい。

(Tさんから学ぶピンコロへの道)
 古き良き牧歌的時代の中のピンコロ死というべきか。今は、こんな死に方をするのはめっきり難しくなっている。
 たぶん定期健診を受けていれば、すでにどこか病気も見つかっていただろうし、そうなったら病院も家族も、寄ってたかって、その病気を治すために様々な手を打ってくるだろう。
要するに昔と比べて、病人に対してやたらと「おせっかい」なのが現代なのだ。おかげで、とっとと死ねる人が生き続ける不幸に陥ったりする。
 できれば、そんな「おせっかい」は受けたくないが、これがそう簡単にはいかないのだなぁ。