3年前には気づけなかったものがあったので記す
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芥川は
姫宮を「極楽も地獄も知らぬ腑甲斐ない魂」と手厳しく評価しながらも
しかしその「腑甲斐ない魂」の向こう側に横たわる「絶対的な虚無」を憐れみ、懐かしんでいる
あまりああだこうだ考えず
「生きるも死ぬも一つ事ぢや」と言い放つ姫宮の根源となる「絶対的な虚無」を凝視するその姿勢こそ『六の宮の姫君』の主題と捉えるのが良さそうだ
それゆえ『文放古』において芥川は、生活の自立云々について語る表層的批評を「一知半解」と一喝したのだ
(自発的な努力を一切行わぬ姫宮に苛立ち怒る読者があったであろうことも想像できる。いまもそういう読者は多い模様…)
逃れようのない宿命という大きな大きなウネリに恐怖し、しかしそのウネリを受け入れるしかもはや術なく、ただただ虚しさを深め、そしていつしかその虚しさに飲み込まれ、いっちもさっちもゆかなくなり、行き場を失っていったひとりの女に、芥川自身の虚無をたくしたのだろうとも想う
最後に高僧(浄土宗!)を登場させ、その高僧でさえ(仏教でさえ?)彼女を救うことができなかった、と強調させるところもいまはよくわかる…
そうなると「腑甲斐ない」という言葉も己芥川に対するものでもあったとも言えるか…
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