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身体の景色 (karada no keshiki)

舞台という「場」

目の前に居る人と話し、触れ合う
これは喜びであろう筈なのに
より良き共存を模索する行為でもあろう筈なのに

いつ頃からか
人々の苛立ちの中に
目の前に人が居る煩わしさ
話すことの面倒臭さ
触れ合うことなどに至っては(皮膚の接触のことでは無く)嫌悪さえ伴う拒絶が
感ぜられるようになった

それは異なるものを拒絶する排他主義とはずいぶん様相が異なり
又他者を見下す卑小さ、愚劣さによるものとも少し異なる

これはなんだろうと思いつつも
この拒絶から生じる閉塞感と言ったら良いのか
そんな獏としたものが日本から希望を削いでいるな…
と、そんなことを考えていたら
養老孟司氏が実に興味深い発言をしていらっしゃって「おぉ」と思った

曰く「人が安くなったということですよ。人が増えすぎて有難くなくなったんです」

加えて氏は「合理的、効率的を謳い文句に加速するシステム化により生身は消失し、あらゆるものが単なる情報としてデジタル処理され、管理され、人の顔がいらなくなってるんです」と結ぶ

僕は舞台の傍ら、コールセンターでも働いているが、氏の話は腑に落ちる

システム化を進めれば進めるほどに便利で効率は良くなる
が、デジタル処理できないものは置かれてゆく
それが人の心であっても(或いは言葉にならない心であればこそ)
システムの網目から虚しく零れ落ちてゆく

曖昧なもの、不確定なもの、数値化できないもの、言語化できないもの
それらはシステムという世界に「存在しない」と見做される

それは人格否定でも、権利剥奪でも無い
(どちらかといえば権利は明確に与えられてゆく)
つまり倫理的な問題は特にない
コンプライアンスという言葉の中で倫理は積極的に守られているくらいだ

が、どこかで誰かが必ず声を出さずに泣いているし、ハラワタを煮えくり返している
そしてそれらは生産性、合理性の名の下、黙殺され、拒絶されてゆく

なんというか…
個は、システムそのものになることが求められる

芸術において、個を超え全に繋がることは喜びであるが、これは「全」が人智を超えた大きなものであることが前提
現代社会のシステムは、そのシステムを構築した一握りの人間たちの利が前提

僕はそれを「他者の不在」「管理層の傲慢」などと解し(僕はその管理層の末端にいるので)なんとか、個を尊重しつつシステムを機能させることはできまいか、システムと心の均等を保つことはできないか、と日々模索しているのだがこれがとても難しい
しかしその均等の視点がなくなったら終わりである、と思っている

養老氏の話はもっと大きな、国家規模の話ではあったが
僕の身近な組織での理解もけして遠からずの筈


さて、舞台である

舞台は
目の前に人が居ることを前提にしている
空間共有を前提にしている
少なくとも、今のところは…

舞台配信などもう珍しくなくなってきたし
もう少し技術が進むだけで立体映像による演劇興行も可能になるであろうし
上記前提が消失する日も近い
そしてそれは祝杯をあげるべき躍進と言えよう

しかし冒頭に記した
目の前に居る人と話し、触れ合う喜び
その共有に関して言えば
どんなに技術革新が進んでも
ライブ(生身)を超えることはまだまだ難しいのではないか
と踏んでいる

近い将来消えてしまう
しかしもしかしたら生身の交流のツールとしてしぶとく残るかも知れない
舞台という「場」は
その存在意義は
僕らの
舞台に立つ側の者たちの
日々の精神的かつ肉体的研磨と
未来の見詰め方、想像の仕方
そして覚悟による
と感じる

それは
僕がコールセンターで
システムと心の均等を見詰める日々と似ている

零れ落ちた心、置き去りにされてゆく感情
曖昧なもの、不確定なもの、数値化できないもの、言語化できないもの
おい、それらは本当に、不要なのか
その中にだって、孫たちに残すべき大切な何かがある筈ではないのか

舞台という格闘も
コールセンターにおける先の見えぬ模索も
今は、ここに尽きる
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