シルク雑感日記

あくまでも個人的な雑感日記です。内容は他人には理解できないと思います。

自己探求瞑想と雑感日記(過去ログその8)

2014-02-20 14:44:03 | 過去ログ
釈迦の時代の仏教
2012-08-27 | 生活雑感
たまたま、ジャイナ教の本を読んでいたら
シャカ時代の仏教が今のジャイナ教と
色々な点で実によく似ているという話だった。

1.まず、お寺や寺院を作らない。
2.偶像崇拝をしない。
3.托鉢によって食べ物を得ている。
4.戒律を重視している。
5.教団は出家修行僧が中心となり、妻子を持たず世襲もない。
6.理論よりも実践である瞑想を重視する。

この話を読んで思うのですが、
今の日本の仏教は、
本来の釈迦の頃の仏教とは正反対の全然違うものに変わってしまったようですね。

シャカの時代はブラモン教という宗教が支配していたのですが
バラモン階級の人たちは聖職者という職業を持っていた。
その時代のバラモン教は寺院を持ち、
バラモンの神々の偶像を崇拝し、
ヴェーダという経典を読むことがお勤めであり
帯妻者を認めてその職業は世襲され、
内容も形式主義に陥っていて、
儀式を執り行うだけの僧侶という職業になっていた。

シャカはそういった形式主義的な宗教に反発して
真理を探究し
新たな教えを説いたのです。

それがビックリすることに現代の日本の仏教は
その当時のバラモン教とそっくりなんですね。

現代の僧侶は寺院を所有して世襲となり、
葬式という儀式を執行する職業となる。
戒律などは無視されて
ただ、頭を剃ることで出家したことに見なされる。
お経を読むことがお勤めであり
内容は漢文なので理解できない。
そして釈迦牟尼仏の偶像を拝んで崇拝する。
そして理論だけは重視する。

はて?
今の世の中にシャカが現れたなら
現代の仏教に反発を感じるに違いないな。
なぜならその当時のバラモン教とそっくりではありませんか。

こういう今の仏教では本物が現れる訳がない。
自分自身が現代の宗教に何となく反発を感じる理由が分かります。
結局は、宗教や宗派やお金儲けに関係せずに
ただ真理を求めることだけが自分には必要だと感じます。

心の真ん中
2012-09-01 | 瞑想
徳永英明の歌で『抱きしめてあげる』という歌の歌詞の中でこういうフレーズがある。
『心の真ん中が痛い
あなたを愛してる・・・
心の真ん中が痛い
心が叫んでる・・・
心の真ん中が痛い
触(さわ)れそうなくらい・・・・』

この徳永英明の歌のように
心の真ん中の痛くなるような場所、
さわれそうな感覚の場所
というのが自分自身の中の感情の中心だろうと思っていた。
この心の真ん中が私という自己であり心という存在だろうかとずっと疑ってきた。
何年も前から瞑想の時にこの場所に意識を集中しようと努力していた。
時間と共に瞑想が深まり、雑念や想念が浮かばないようになると、
この場所への集中がよりスムーズに行くだろうと思っていたのだが
ところが、何度集中しようとしても
心の真ん中に痛さやさわれそうな存在感を感じる事ができないのだ。
雑念を抑制し、その場所に集中しようとすると
何故だか心は静寂へと導かれていってしまう。
そして、その存在感は消え失せて行ってしまい、
ただ静寂のみが心の中心を支配するという繰り返しが続くのである。

ところで、オリンピックで柔道を見ていた後に瞑想をしたら、
選手の勝ちたいという感情と
その後の負けて落胆した感情がヒシヒシと伝わってきて、
心の中心の痛みと触れそうな存在感を非常にリアルに感じた。
なにやら心自体が勝ちたいという感情と共に肥大化するのを感じた。

本当の事は分からないのだが自分自身の色々な経験から推測すると
心というのは自我を主張している時は感じる事ができるので、
心の中心の真ん中に集中する事もたやすいが、
心が自我を主張して来ない時は、
心自体を感じる事ができないように感じる。
だから集中する事がうまくできないのではないかと推測している。
心が存在できる状況を分析すると
心は何かの対象に依存することによってしか存在できないようで
心自体に集中しようとしても
限定された何も無い空間のような感じになる。
すると、心が静寂そのもののような状態になる。
だから集中する対象として心を認識することはできないようなのだ。
実際、瞑想が進むほど心の囚われがなくなるので、
心の執着も減っていき自我を主張することも少なくなる。
自己の自我が縮小していくことに伴い心の自己主張も少なくなる。
だから、心を感じようとしても感じる事ができないのではないか。
最近はそう思う様になった。

私は満たされないという感覚
2012-09-03 | 瞑想
瞑想をしていて自分の心を見つめる内に
自分の中に、「私は満たされないという感覚」がずっと有って、
それが心の中心から生じてくるのを感じた。

お酒を飲もうが、
異性と恋をしようが、
お金を儲けようが、
仕事に燃えようが、
すばらしい地位に就こうが
どんな事をしようが
何か満たされない。


そんな感覚がいつまでたっても自分の中に残っている。
そこには私は満たされないという漠然とした感覚がある。
そもそも心が生まれると

最初に心に生まれる想念がある。

それは多分『私は満たされないという感覚』である。
心は自分の本来の状態である『幸福』を探そうとして
心はその原因を外界の世界に探し求めることから
全ての人の行動は始まるのではないだろうか。
瞑想する内に「私は満たされないという感覚」がある事を感じる。
この原因は、『漠然とした私という感覚』であって
その中心に『私』という意識を感じる。
自己を探求する内に分かったのだが、
この漠然とした私という感覚が、
一般に『自我』とか『エゴ』とかいわれるもので
それが全ての苦しみの原因をなすもののように感じる。
この『漠然とした私という感覚』は
一般的な言い方で述べるならこうなる。
『漠然とした不安』
『漠然とした孤独や孤立感』
『漠然とした寂しさ』
『漠然とした悲しさ』
『漠然とした虚しさ』

これらは全て『漠然とした私という感覚』と同意語だ。
ただ、それに直面することは苦痛であり、
何かに逃げたいような衝動を感じるのだが、
もしも逃げたとしても、
満たされないという物足りなさは解消することができないであろうことを感じる。
そして、その中心の自我自体に意識を向け、
その自我の存在感を感じる心の中心に意識を向ける。
それは私という想念が生まれ出てくる胸の心の真ん中に存在している。
これこそが自我の本体で私という意識だと強く感じる。
この自我自体を意識して直接感じる事ができるとは不思議なことなのだが
もっと不思議なことには
何故だかこの自我こそが全ての不幸の原因であるように感じるのだ。

散漫と集中の繰り返し
2012-09-05 | 瞑想
瞑想していて非常に深い瞑想状態になり、
こんなに集中したのは久しぶりだと思った次の日に限って、
瞑想していても集中が浅く、
心が散漫な状態になってしまって、
昨日の瞑想は何だったんだろうと思うことが良くある。
どんなに努力しても心が散漫で、
こうなりたいという心の想いが
むしろ障害になっているのではないかと思うことがある。
そういう時は瞑想していても終わってから失望感が残り、
一体自分は何をやっているのだろうと
自己嫌悪に陥ったりもした。
ところが、実はそれが心の性質であって、
後になって思うと、
表面意識で進歩がないと思っている時に限って、
潜在意識の中では見えない進歩が蓄積していると感じる事がある。
それはその時には分からないもので、
後で振り返ってみて気が付くもののようだ。

私は満たされているという感覚
2012-09-07 | 瞑想
ある時、海岸で瞑想していたら

突然、私の中に「私は満たされている」という想いが生まれて来た。

私の中には「私は満たされない」と言っているものが居たはずなのに、

私の中にはもう一人の自分がいる様に感じた。
その自分は、「私は満たされている」と言っている私である。
いつもの対象を追いかけ、
そのために苦楽に振り回されながら常に刺激を求める者で
『私は満たされない』と言っている自我という存在ではなく、
対象や欲望からは離れ、
自我という存在ではなく
『私は満たされている』と言っている自己が同時に存在している様に感じる。
以前、この感覚をどこかで感じたことがあるような気がしたが、
思い出せない。
この『私は満たされている』という感覚は、対象や欲望が無くなった状態の時に、
自分の心を見つめていると、
何者にも縛られずに
満足しているもう一人の自己がある事にふと気が付いた。
それは、個人的な欲望を求めるような自我とは無縁の存在で、
何も無くともただ存在しているだけで
満たされているという感覚しかない状態なのだ。
それは、静寂の中に満足している自己とでも表現すべきだろうか。
今まで、あんなに悩んでいた対象を探し求める自我があったはずなのだが、
対象や欲望から離れてみると、
何も無くとも満足する自己が居ることに気が付く。
結局、今まで探していたものは、
この満足する自分だったのではないだろうか。
この満足する自己こそは幸福そのものであり、
真の自己ではないかと思えた。
ふと、ある本の聖者の言葉を思い出す。

「無知は、あなたの思いの中にだけ存在する。
あなたは自分の現在の無知を自分であると考えてきた。
今度は、退いて叡知を自分であると思え。
それは自覚と同じものである。
思考は、人を山のトンネルの闇の中に運び込む牛車のようなものだ。
それを引き返させると、
あなたは再び、光の中に連れ戻されるのだ。」

結局、思考は人々を対象へと導き、
そして欲望を生み出す自我を強める働きをするものあり、
思考こそは無知へと導く原因であるように感じる。
欲望から離れ、
対象から離れ、
そして思考から離れる事により、
自我は縮小し、
無念無想の状態にたどり着く。
すると、ふと、自分が実は満たされている者である事に気付く。
自己を探求することとは実は、
何も無くても私は満たされている存在であると気が付くことかもしれない。
言葉で書くのは簡単だが、
それは知識では無く、
瞑想による無念無想の状態の先に存在する経験的な出来事であって、
思考することを超越した所に存在するものである。
瞑想を伴わない人々にとっては、
只の知識でしか無く、
経験的な理解が必要な世界である。
思考することを止めて、
欲望と対象から離れた境地にしか見いだせないものだ。

知性から離れて
2012-09-11 | 瞑想
呼吸を見つめるだけの瞑想状態になり
しばらくすると、ほとんど想念も現れない状態になる。
そして、自分自身の自己が知性から離れてある状態になる。
知性を使って思考することから、
自分自身が離れて存在し、
もはや、考える思考自体から離れ、
想念も無く、
思考も無い、
ただ存在しているだけで楽な状態になる。
途中からそのことに気付き、
時々雑念が現れるが、
雑念自体はやり過ごす。
ただ、自己のみが知性から離れて存在しているのを見つめている。
そうしている内に、呼吸を意識しながら、
胸の中心を感じる自分が居ることに気が付く。
そこには、全く自我やエゴがなく、
ただ私を意識している自己がある。
自我やエゴの私はもうどこかに行ってしまい、
静寂と沈黙の中から全く自我のない別の私がある事に気が付く。
その私という存在は呼吸と共に胸の中心に存在していて、
何の欲望も想念も無い純粋の私が呼吸と共に胸の中心に存在していたのだ。
自我とかエゴの私とは別のもう一つの全く純粋な私が
静寂と共に存在していることを感じる。
もはや、想念も知性からも離れ、
静寂そのものの沈黙の状況にあって、
もう一つの私は呼吸と共に存在していて、
ただ私は在ると感じるだけなのだ。
無念無想の後に存在する静寂の向こうに
自我とは別の私という存在があるように感じる。
ただ、あまりにも体験的な事柄なので、
こうして文章にしていてもうまくその境地を説明できないのは残念だ。
ただ、私は在るというのは、静寂の先にある自我のない状態で
私自体を意識する事によって感じる事ができる状態のようだ。
想念からも知性からも離れて
ただ自己が存在するだけの境地を垣間見る。
そういった瞑想中の経験を日常的な言葉として表現することが難しいと感じる。
また、その時はその境地にある事を感じるのだが、
後で思い出そうとすると知性からも離れているせいで
記憶として曖昧で明確な記憶として表現することも難しい。

シヴァ神の像
2012-09-14 | 瞑想

パソコンのYouTubeでガヤトリーマントラを聞いていた。
そこに瞑想するシヴァ神の像が出てきた。
その像を見てたら、なぜかその像に視線が釘付けになった。
ふと、昔の事を思い出した。
自分自身はこのシヴァ神が理想だったと思い出した。
長い髪を束ね、
座って瞑想しながら自己に集中するシヴァ神に対して
何とも言えないような畏敬の念と尊敬と理想を感じていた。
若い頃からこの瞑想するシヴァにあこがれを感じていたのだった。

その後に瞑想をしてみた。
なぜだが、私は誰かという問いに対して心が
『我はシヴァなり』、
『我は私の源のアートマンを瞑想するシヴァなり』
という答えと共に、
ガヤトリーマントラに出てきたシヴァ神が自分と重なり、
胸の中心のアートマンに瞑想するシヴァであるかのようなイメージと共に瞑想する。
自分自身がシヴァ神であるかのように一体となり、
瞑想がしやすい感じがしていつもよりも集中が深い感じになる。

多分これも一つの瞑想の方法なんだろうと思う。

自分自身がシヴァ神と一体化したように感じながらシヴァ神を瞑想する。

もはやシヴァ神は私自身であると感じる出来事だった。

足下の紙切れ
2012-09-20 | 生活雑感
ある本にある聖者の信奉者の話が書かれていた。

『バガヴァン(聖者の尊称)に話しかけたことなどほとんどないような内気な信奉者が、
通りすがりに勇気を出して、バガヴァンの足下に一枚の紙切れを投げた。
バガヴァンはそれを拾って読むと、紙を投げた信奉者を連れてくるように言った。
従者たちは規則を破って叱責される犯人でもあるかのように
その信奉者をバガヴァンの前に引っ張って来たが、
バガヴァンは寛大でやさしい笑みを浮かべて彼を見つめ、
承知したようにうなずいた。
その紙には「バガヴァン!私を救いたまえ」と書かれていた。』

たったこれだけの話なのだが、
この話を読んだら、
なぜだか涙が出てきて止まらなくなった。
最初はどうして涙が出てくるのか分からなくて
それでもボロボロと涙が出てきた。
もう一度読んでみた。
紙切れに書かれた言葉を読んだら
「神よ!どうか私をお救い下さい」という祈りの言葉を思い出した。
以前、何度となくその言葉を口にした。
何度も口にしたけれども
いつも神は何も返事をしてくれないと感じた。
でも、その祈りの言葉は今でも心の中に染み込んで存在している。
多分、その信奉者の気持ちと自分の気持ちが重なったのだろう。
よく考えると最近はその言葉を言わなくなった。
そして、今では心の中でこうつぶやくようになっていた。

「全ては神の思し召しのままに」

精神的な進歩と退行
2012-09-22 | 瞑想
不思議なことだが
日によってあるいは瞑想する時間帯によって
達する境地がいつも違うようだ。
急激な変化を心は期待するものだが、
少しずつ少しずつしか瞑想は変化していかないのを感じる。
まるで、三歩進んでは二歩下がり、
時には十歩下がるのだが、
一歩ずつ進んでまた元の場所に戻るというような、
進んでいるのかどうか分からないような進歩の仕方をしている。
だから、途中では同じ所をぐるぐる回っているように感じるのだが、
一ヶ月が経過してみて振り返ってみると
この一ヶ月で一歩しか進んでいない事に気付く。
時には後退している事もあるのだが、
一年という長いスパンで見ると、
三歩も四歩も進んでいることに気が付くようだ。
それほど、精神的な進歩というのは分かりづらいものだ。
目の前が開けてすごい境地に達したなどと感じた次の日に限って、
今度は後退した状態に落ち込んでいると感じるようで、
そういった焦りが精神的な進歩の障害となる様にも感じる。
人々は、奇跡的で急激な変化や進歩を常に望むものだが、
精神的な進歩は決して急激には進歩しない。

ありがたい
2012-10-08 | 生活雑感
心を見つめる内に自分の中の欲望や感情が見えてくることがある。
瞑想していたら、今の自分が非常に恵まれた状態にいるのにも関わらず、
今の自分がそれ以上に何かを欲しいと望んでいることにふと気が付いた。
自分の中にまだお金がもっと欲しいとか
もっと増やしたいとかという欲望がある事に気が付いた。
『まだ欲しい、まだ欲しい』という欲望にはキリが無い。
どうして今をありがたいと思えないのだろうか。
『ありがたい、ありがたい』とは今に満足することである。
今、現在の自分を満たされていると感じる事だ。
今で十分ありがたいと思えば、
欲望は満たされ、
そして苦しみもなくなるのに、
ほとんどの人は今を『ありがたい』と思わずに
『まだ欲しい』と言っている。

お金が欲しい、
財産が欲しい、
地位が欲しい、
名誉が欲しい、
健康が欲しい、
若さが欲しい、
あれが欲しい、
これが欲しい。
一体、人はいくつの欲しいがあるのだろう。

最近、良く考えることがある。
生まれる前からその人の人生では、
これだけのお金と財産を与えられる事があらかじめ決められていたのではないか思う。
それは、因果応報とかカルマの法則によって決められていたのかもしれない。
または、神によって決められていたのかもしれないし、
もしかすると自分自身が決めたのかもしれない。

でもほとんどの人は決められていた以上を望もうとする。
いずれにしても、
ブッダは今に満足せず、
欲望から離れられない事が苦しみの原因であると説いた。
つまり苦しみから逃れる方法は、
『まだ欲しい』ではなく
『ありがたい』と思えることなのだろう。
欲望から離れ、
今に満足することが
そして『ありがたい』と言えることが
自我やエゴを消滅させる一つの方法なのだろうと思う。

偶像崇拝
2012-10-22 | 生活雑感
世界の四大宗教は元々は偶像崇拝を認めていなかった。
ユダヤ教とイスラム教は、戒律に偶像崇拝の禁止があるので
現在でも偶像崇拝をしていない。

キリスト教は、元々はユダヤ教の変革者であったイエスが 
『天にまします我らの父よ』
と神様に祈りは捧げたのだが
決して偶像崇拝はしていない。
むしろ偶像崇拝は認めていなかった。
だから、初期のキリスト教ではイエスは一人の人間であって
彼の教えと無形の神に対する崇拝のみだった。
それがいつの間にやらイエスに対する個人崇拝になってしまって
十字架のイエスとマリアの像を造り
偶像崇拝するようになってしまった。

仏教でもブッダは偶像崇拝を認めていなかった。
教えを崇拝することを望んだ。
初期の仏教では仏像などなかったのだ。
偶像崇拝はバラモン教のものであり
既存宗教を否定して生まれたブッダの教えには偶像崇拝なんてない。
逆に偶像崇拝とか占いについては否定的な言葉を語っている。
ブッダの最後の言葉
『汝らは、ただみずからを灯明とし、
みずからを依処として、
他人を依処とせず、
法を灯明とし、
法を依処として、
他を依処とすることなくして、
修行せんとするものこそ、
わが比丘たちの中において最高処にあるものである』

自分ではこの文章の『他』とは偶像崇拝のことだと思う。
法を拠り所にするはずが
いつの間にやら、ブッダに対する個人崇拝になり
そして、ブッダの像を造って偶像崇拝するようになってしまった。
今の時代にブッダが生まれたら、
きっと偶像崇拝を戒めるでしょうね。

このブログについて
2012-10-22 | 説明


最初は自分自身に対する戒めと思ったことを書くブログだったが
旅先で有る人物と知り合いになったことで
全然違うものに変わっていった。

ここに書かれた内容をしっかり理解できる人などいないと思っていたが
このブログの存在を教えると内容がすごいと言われてびっくりした。
それからはその人に読まれていることを念頭に置いて書いていた。

最近に書いていることは
本などの知識に頼らない自分自身の経験の話になっていて
座禅や瞑想をしたことが無い人には理解できないだろうし
あまりにも経験的な話なので
自分自身の言葉で表現することが難しいと感じる。
でも、自分自身の瞑想の記録として残しておこうと思う。

人に知られずとも、
真理を知ることができれば
自分の人生は成功であろうと思うが
真理を知ることができなくとも
自己を探求することができるだけで幸せである。

ただ、全ては神のお導きのままに。

また、旅の途中で知り合ったカーミュラーデザインの浦上氏には感謝しています。

『水月にて、私の姿を(神の姿にて)見定めて頂きたい』とお願いしたら

黒いシヴァ神の画像を作ってもらいました。(これが私の姿とは驚きました。)



あっ。それからこのブログを初めて読む人は
最初から読んだ方がいいかもしれません。
最後から読むと難解すぎます。

最初から読むと瞑想をするように至った流れが分かると思います。

一日断食
2012-11-03 | 食べ物
時々は一日断食を実行することがある。
前日に普段の半分位の食事量にして
断食の次の日の朝はミルク粥を食べるようにしている。

今までの経験から言えば一日断食をすると、
夕方の7時に食べたとして二日後の朝の7時に食べるとすると、
約36時間もの間、何も食べなかったことになる。
すると、体と精神が食べ物に依存としないためと
食欲という根本的な欲望を一時的に断つためによって
欲望に依存しない生活が実践できる。
その結果、その禁欲の効果がその後の瞑想に現れるようだ。
内臓自体が休息を得るせいで
眠気の減少と精神集中の向上が期待できるようだ。

また、一部の宗教で断食がある理由も分かる様な気がする。

ただ、二日以上の断食は別である。
その場合は60時間以上の禁欲になるので、
断食中特有の精神的そして肉体的な症状が現れてくる。
肉体的には、好転反応ともいわれる体調の変調や
貧血による立ちくらみや体のだるさ。
塩分不足や水分不足による動悸や息切れの症状。
特に冬場のような寒い時期には体の冷えと血行障害が現れる。
また精神的には、食欲という欲望の猛烈な反動がある。
余程の意志が強い人でも、
最初は食欲を制御するのが難しいので
一人で行うのはお勧めしない。
できたら断食道場のような専門的な所に行くべきだろうと思う。

ところで、お釈迦様はあの時代に一体何を食べていたのだろうかと思う事がある。
そのことは仏典には書かれていないので
何を食べていたのかははっきりしない。
ただ彼が間違いなく食べた食事が一つある。
それは、スジャータによって施された乳粥、つまりミルク粥だ。
そういった訳からではないが
一日断食の次の日はミルク粥を食べることにしている。

瞑想の進歩
2012-11-13 | 瞑想
瞑想の進歩は非常に分かりづらいもののようだ。
人は得てして劇的な変化や目標の達成を望むものだ。
最初の頃は変化や達成感を感じたりするのだが、
時間が経過すると共に、最初とは裏腹に
しばらくすると、まるで長いトンネルを進んでいるように
希望の光も見えず、何の変化もない単調な時が流れるようである。
変化は心の深くてとらえにくいレベルで起こり、
すぐには外には表れないもののようだ。

ある本に瞑想がどれだけ進歩したかの判断として
心の穏やかさと落ち着きで判断できると書いてあった。
次の質問に答えてみる。

無気力で怠惰な心を少しでも振り払えるようになったか?
今までより安らぎと幸せを感じ、感情的になることが少なくなったか?
心が冷静になって、満足感が増え始めているか?

この質問のいずれかの答えがYESならば、あなたの瞑想は進歩しているらしい。
しかし、自分ではどれもYESとは思えない。


現在、毎日やっていることと言えば、
瞑想とハタヨガと水泳くらいで
それ以外は生活する上で必要な買い物のような雑用ぐらいである。
そんな単純で単調な毎日の生活に苦痛を感じないし、
生活に刺激が欲しいとも思わない。
ただ瞑想中には、自分とはそして心とは何なのかを探求しているだけである。
不思議なことに最近は本当に自分が非常に自由だと感じるようになった。
これまでは何かに執着して苦しんでいたりもしたが、
その執着自体が減っていることに気が付く。
瞑想をする内に、色々な感情が表れる事が少なくなった。
寂しさや孤立感や不安や恐れや怒りといった感情が減ったようだ。
時には、定期的に自分のエゴが色々な感情を伴って自己主張してくる。
しかし、瞑想して呼吸に集中すると、
ゆっくりとした深い呼吸によって感情を伴った雑念は静まり、
心は静寂の状態へと導かれる。

もはや最近では進歩しているのかどうかという事を
あまり気にかけないようになった。

自分の心を見つめる内に、
私は決して宗教的な天才ではないし、
宗教的な天才にもなれないただの凡人なのだということがはっきりしてくる。

宗教的な天才達、
例えばラーマクリシュナの様な人達の書物を読んで感銘したところで、
自分には、彼らと同じような領域に達するのは無理だろうとつくづく感じる。
信者に彼の事を聞けば必ずこう言うだろう。
『ラーマクリシュナは神の化身だ』と。
だいたい自分は神の化身でもないし、
神の化身になれる訳も無い。
そもそも神の化身が神を悟ったとしても、
それを自分と同一視するのが間違いなのだ。

どんなに見栄を張ろうとしても、
あるがままの自分以上にはなれないのだ。
結局、自分はただの凡人であって、
どんなに努力しても自分の力には限界があるのだ。
全ては神の思し召しのままである。
神が望まぬ事はどんなに努力しようとも結果には表れない。

自己探求瞑想と雑感日記(過去ログその7)

2014-02-20 14:42:26 | 過去ログ
瞑想と知識(Meditation and knowledge)
2012-01-26 | 瞑想
現代にはお釈迦様の時代と同じように
本当の真理を求める人も場所も無い。
只の言葉や知識だけを振り回している人ばかりだ。
瞑想をして心を探究しようなどという人はほとんどいない。
立派なことを言う人のほとんどは経験した知識では無く、
何かに書いてあった知識または聞いた知識のようだ。
知識はどのようにできるのか?
最初に心が何かに執着する。
すると概念が生まれ、
概念は言葉になり
言葉が集まると知識になる。
ところが、瞑想をすると知識自体から段々離れて行く。
瞑想や座禅はその逆の道をたどる。
知識を捨て、
言葉を捨て、
概念を捨て、
執着を捨て
最後に残るのが心である。
その時には沈黙と静寂がある。
只それだけである。


苦楽(生老病死)
2012-01-31 | 幸福
夜中に目が覚めてふと仏教のことを考えた。
以前から、ずっと不思議に思っていたことがある。
お釈迦様が『生老病死は苦だ』と説いたと言われるが
どうしても納得がいかなかった。
老病死が苦であることは何となく分かるが
生まれることが苦なんておかしいではないか。
第一、生まれる時は誰もが赤ちゃんなのだから
苦など感じるはずがないのだ。
今の仏教は難解なのに
お釈迦様が生きていた時は多くの女性が帰依した。
『生老病死は苦だ』などと言ったところで
一般の人々に共感される訳がない。
どうもおかしい。
ふと、気が付いた。
それは本人のことを言っていたのではない。
母親のことだ。
女性にとっては子供を産むことは大変な苦しみを伴う。
出産は、女性にとっては人生最大の苦しみだ。
それにもかかわらず、多くの女性はその苦しみを喜びとして感じる。
なぜなら、生命を生み出す喜び。
そして、愛する人との結晶である我が子を生み出す喜び。
そして、母としての愛を初めて感じる喜び。
産みの苦しみは、心の苦しみではなく
心の喜びである。
女性は自分の本来の心を見つめるならば
出産という苦しみを心の喜びとして感じるはずである。
次に、子供が生まれると成長していく。
親は我が子の成長を喜びとして感じる。
子供自身も成長することに喜びを感じる。
たとえば中学校を卒業する時、
今までの友と別れる悲しみもあるが
それ以上にこれからの未来に旅立つ喜びを感じる。
新しい出会いと、新しい生活。
好きな人を見つけて恋をして恋愛し、
成長するごとに喜びを感じていく。
生きることは喜びそのものであるのだ。
しかし、成長することを老いと表現する人にとっては
生きていくことは苦しみでしかない。
その原因は、自分自身が老いることを
あるがままに捕らえることができず、
多くの人々が老いを止めようと努力する。
老いることをあるがままに受け止めることができないから
人々は老いる事の為に苦しむのだ。
人間は老いるのではなく、成長していくのである。
植物が芽を出し、成長して花を咲かせ、そしてやがて枯れ果てる。
枯れ果てる植物は、決して苦しんではいない。
生きとし生けるもの、全ては流転する。
自分の心が成長を苦しみととらえず
喜びと感じるならば、
生きることは成長することであり
老いることこそ喜びである。
病気を人々は苦しみという。
病気は、何かの原因によって引き起こされる。
糖尿病、肝臓病、心臓病など
全ての病気は、自分の体が本来の状態でないと自分の心に対する警告である。
心と体は一体であり、一つの物である。
体はその警告を苦痛という信号によって心に送る。
病気の苦痛を苦しみと感じる人は
何と心の狭い人だろう。
病気の苦痛を体からの警告として喜んで受ける人が
いったい何人いるだろうか。
本来、病気は警告であり、
本当の心を持つ人は体に感謝して
病気を喜びとして感じる。
人々は死に恐怖する。
死こそは自分が所有する全てのものを持ち去ってしまう。
人々は死ぬことは苦しみだと言う。
もし、あなたが明日に死ぬとしたら
考えなければいけないことがある。
果たして私の人生は成功であったのか。
そもそも、私は自分の人生がどうなれば成功だと思っていたのか。
その答えは、人それぞれ違う。
ある人はお金を儲けることかもしれないし
地位や名誉を持つ事かもしれない。
またある人は剣の道を極めることかもしれない。
千人の人がいれば、千通りの成功がある。
死を迎える時は、自分の人生を振り返る時だ。
人生の苦しかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと。
全ては、良き思い出でしかない。
自分の本来の心にいかに正直に生きることができたのか。
死は、その総括である。
自分の心を見つめ
自分の心に正直に生きること。
それこそが大切なことである。
死ぬことは、自分の今世の人生を見つめ直す時である。
死ぬ時に自分本来の心のあるがままに生きていた人は喜びを感じる。
死は、自分の人生を振り返り喜びを感じる時だ。

お釈迦様は、生老病死が苦しみではなく
喜びそのものである事を多くの人々に説いたのだと思う。
そして、その方法は、自分自身の私利私欲を捨て
本来の自己である自分の心を見つめ
自分の心に従うことである。

私自身がずっと悩んでいたテーマがある。
『幸福とは何か?』
これがその答えだと気が付いた。


瞑想の最終経過と留意点
2012-05-11 | 瞑想
瞑想をするに当たってどのような経過をたどるのかをここに記しておきます。
ここに書かれたことは
今の自分自身の瞑想の経過と非常に類似しています。
また、瞑想や座禅によって
自分自身の潜在的な心象から抜け出せなくなって鬱状態になり
自分自身の存在価値を否定するような感情におそわて
自殺のような行動に向かって行ってしまう人がいます。
その人たちの為にここに記述しておきます。

・・・・・・・
瞑想によって私たちは、リラックスすることができ、
段階が進むと、肉体を忘れ、
雑念を完全に取り除くことが可能になる。
しかし、そこにはまだ、自我の存在という問題が残る。
完全にリラックスし、雑念が取り払われた状態においても、
まだ、自我に囚われているのである。
この状態から抜け出し、究極の平安に到達する方法は、
自分自身が肉体ではないと気付くことと共に
自分自身は心でもないと気付くことである。
あなたは、心ではない。
心を見つめている意識である。
私たちはしばしば、悲しみや惨めさをもたらす出来事に遭遇する。
それらの心の痛みは、
外的な現象がきっかけとなって引き起こされるかもしれない。
しかし、その真の原因は、
私たち自身の心の内にひそむ何らかの不純性である。
心の不純性によってもたらされた痛みがハートセンターの中にある時も
それを癒やすことができる。
ハートセンターで呼吸をしながら呼吸を見つめる。
吸気と共に心を見つめながら胸に吸い込み、
呼気と共に心を見つめながら息を吐くのである。
呼吸と共に心を見つめることによって
心の中の痛みとしこりは揉みほぐされていく。
あなたは、誰かに意地悪いことをしてしまったかもしれない。
あるいはトゲのある言葉を吐いてしまったかもしれない。
それは、あなたの心に暗い痕跡となって残る。
心に内在する光の輝きを遮っているこの暗いしみは取り除かれなければならない。
しばらくすると心の表面の不純性は取り除かれるであろう。
呼吸と心への集中を保ったまま、
意識の更に奥へと潜っていくのである。
すると心象に出会う事となる。
心象とは心の中に潜在している過去の記憶や感情である。
心の表面部を覆っていた暗い心象が取り払われると、
より深く潜んでいた心象がひとりでにあらわになってくる。
それらの一つ一つに呼吸を続けながら意識の光を当てていくのである。
憎悪、恐怖、悲しみ、寂しさなどの抑圧されていた感情が
浮かび上がってくるかもしれない。
たとえ、どのような心象に出くわそうと、
呼吸と共に忍耐強く心を見つめていることによって
それらの不純性は揉みほぐされ、
洗い流されていく。
ここで、心の中の暗い心象に囚われることに注意しなければならない。
それは、あなたを否定する想いへと導く事になる。
『自分自身の存在価値が見いだせない。
いったい自分は何をやっているんだろう。
このまま人生が終わっていくのだろうかと考えていたら、
心の中心がむなしくなる。
人生の無常を感じ、
生きている意味が見いだせないような感覚が心を支配する。
そして、異常に鬱の気分になる。
自分の人生には意味があったのだろうか。
むなしくこのまま終わってしまうのだろうか。
何だか生きていても仕方がないような気分に襲われる。』
こんな想いに心が囚われていく。
呼吸と共に、心を観じるようにすることだ。
もう一度繰り返すが、あなたは心ではない。
むなしいと言っているのはあなたではなく心です。
呼吸はあなたを導く灯火であり、
心の静寂へと導きます。
決して心の中の暗い心象に引きつけられないように。
自己とは本来は幸福そのものであり
生きることとは喜びに満ちたもののはずなのだ。
どうしてもだめなら
自分自身を神に明け渡し、神に祈る事も一つの方法だ。

このようにして心の中の全ての暗い場所に意識が向けられて、
不純性が残らず洗い流された時、
私たちは、自分自身の内部に「光の空間」を体験する。
それは、「広大な光の海」のようで、
私たちはその中に浮かんでいる。
光に包まれ光に浸されながら
心があるがままに存在する。
それが純粋な心の自然な状態である。
それは純粋意識あるいは真我とも言われる。


表層意識と潜在意識の感情
2012-07-01 | 瞑想
感情について気付いたことをここに書いておきます。
感情がどのようにできるのかを観察していて分かったことがある。
感情とは何なのか?
心に想念が起こり
その想念に対する執着が生まれると
それが進み一般的には欲望と言われるものになる。
この想念と欲望が混じり合ったものが感情のようである。

感情=想念+欲望

つまり、この方程式ができあがる。
ある想念に対する欲望が満たされないと
自分の態度によって色々な現れ方をするようだ。
自分自身の思い通りにならない感情は
高慢な心が有る場合には怒りという感情になるし、
人に対する感情は嫉みや憎しみと言われる。
絶対に思い通りにならないと分かると
失望とか落胆と言われる感情で表される。
また、欲望が満たされると喜びとか楽しみと言われる。
いずれにしても、
心を感情という刺激から離し、
心の本来の状態である静寂に導こうとするならば
心に感情が起こることを防がなくてはならない。
さて、心に感情が現れないようにするためにはどうするか?
方程式を見て分かるように
心に想念と欲望のどちらかが無くなれば
感情自体は縮小し、
心が静寂という平安に満たされる。
つまり想念が心に現れないようにするか
心に欲望を持たないことである。
まず、想念を浮かばない様にするのは
禅の世界でいわれる方法で心に雑念や想念が浮かんでも
それを追いかけずに心自体をただ見つめる方法だ。
もう一つは、その感情そのものに集中することである。
すると、その感情そのものが少しずつ縮小していく。
感情自体に集中しようとしても
感情自体は心の中心に現れるもので
それは心の反応活動なのでそれ自体が単体では存在できない。

あるいは、何かの対象に対して意識を集中することにより
想念を浮かばない状態に持っていく方法である。
その対象は、呼吸とか視覚的な対象(神像や光や概念など)や音とか鼓動とかである。

もう一つは心に欲望が浮かばない様にする方法であるが
それは大層難しい道だ。
だから信仰の道のようにレベルの高い欲望に置き換える方法だ。

自分自身は、心に想念が浮かばない自己探求の内観によって
瞑想状態を無念無想に近い状態に持って行けるようになった。
ところが、瞑想をする内にどうも変だということを発見する。
対象となる想念が無いにもかかわらず
何やら心の中から違う感情が湧き起こることに気が付いた。

ここで書いた感情の方程式は心の表層意識でしか成り立たない。
心の表層意識では想念が無くなれば感情自体も現れなくなる。
それによって、表層意識ではほとんど心は静寂の様な境地に達する。
その状態に留まっていると、
違う感情が潜在意識から現れて来る。

その感情には対象が無く、感情自体が単独で存在している。
自我とかエゴと呼ばれる潜在的な意識のようである。
具体的に言うと一般的には『漠然とした』という形容詞で表されるものだ。

漠然とした不安
漠然とした閉塞感
漠然とした虚しさ
漠然とした恐怖
漠然とした孤立感や孤独
漠然とした寂しさ

自己を探求して瞑想する内に
これらはどうも自分の潜在的な感情として持ち合わせているもので
心の表層意識がある程度の静寂に満たされるようになると
特に意識するようになる感情のようだ。
普通の人は忙しくして自分を誤魔化しているので
表層意識の感情に振り回されてなかなか気付くことが無い。
ふと、ひとりぼっちになった時などに
言いようのない寂しさや虚しさを感じる事がある。
でも、テレビとかお酒とか何かで紛らわせて自分を誤魔化せば
その感情はまた潜在意識へと沈んでいく。

瞑想をしていて適切な指導者が居ない場合、
このような潜在的な感情が出てきた時に
どうやって対処していいのか分からなく人がいる。
この感情から逃げようとすればする程、
この感情が肥大化してくるので
その場合は一時的に瞑想をやめるとか
運動をしたりしてその感情に心を占領されないようにした方が良い。

今現在、その潜在的な感情が出てきた場合に自分自身が行っている方法は、
その感情から逃げずに
その感情がどこから出てくるのか
そしてそれが何なのかを探求する方法である。
それを探っていくと、
それが心の中心と思われる胸の中心にある感情が現れ出てくる中心、
多分一般的にはエゴとか自我意識と言われる中心から現れて来るのに気が付いた。
まだ、自分がその探求の途中であって
これ以上の事はまだここに書けないが
いづれ書くことがあるでしょう。

瞑想中の過去の記憶
2012-08-15 | 瞑想
瞑想をしていて感じるのだが、
同じ事をやっているはずなのに
心の状態やその時々によって
瞑想自体が全く違ったものになっていることに気付かされることがある。
その幾つかを少し書いてみることにした。

瞑想中の過去の記憶

普段は雑念が浮かんでも呼吸に集中している内に消えていくものなのだが
それとは逆に、膨大な雑念が次から次へと浮かんでくることがある。
一体どうしてこんなに浮かぶのか分からない位の量なのだ。
それも何故だか特に過去の古い記憶の事が思い出されてくるのだ。

小学生の時のちょっとした思い出とか
亡くなったおじいさんとの記憶とか
中学生の時の恋愛とか
高校生の時の嫌な思い出とか

どうしてそんな忘れてしまっていたような過去の出来事や記憶が
思い出されるのだろうかと不思議な感じがする。

あの時はああすれば良かったとか
こうすればよかったとか
こうしたかったとか
過去の記憶が自分に語りかけてくる。

しかし、自分の中の何かがその想念を追いかけることに対して警告する。
もしそこで、その想念に興味が湧いて来て追いかけようとすると
自分の中に新たな欲望が生まれてくるのが分かるのだ。
それで、ただ現れるままにしておくようにしていく。
表層意識に現れ出たその想念を現れ出たままにして
決してその想念を追いかけないように努める。
その想念に執着しないようにしていると
不思議なことだが何故だかその出来事の想念は自然に消えていく。
それを繰り返している内に45分が経過したことを感じて瞑想をやめる。

たまにこういう膨大な過去の記憶との葛藤がある。


限定された何も無い一つの空間
2012-08-21 | 瞑想
瞑想している内にある時に変な事に気が付いた。
心とは胸の中心にある空間のような感じがしたのだ。
まるで丸い瓶のようで中は何も無い入れ物のように感じる。
激しい感情が起こる時は、
その入れ物の中はまるで色の付いた気体が充満しているように存在感があり、
まるで触われることができる様な
そして、痛い様な実態のある存在感を伴う。
しかし、その空間自体を探っていくと、
感情によって色付けされた気体はどこかに消え去り、
本来の心の状態である無職透明な空間として存在している。

違う例えで言うと、
まるで水晶の玉のように、
何かの光が当たると水晶自体に色が付いているように光って見えるのだが、
よく見ると水晶自体は光を映して増幅しているだけで、
それ自体は無色透明で実態が無いようなものだ。
しかし、水晶のように実態がある訳ではなく、
心とは胸の中心にある限定された何も無い空間のように感じる。
その空間は感情とか想念のような何かを映して増幅している。
それが想念とか欲望や感情から離れて
心の実態を探求すると、
心自体は限定された何も無い一つの空間である様に感じるのだ。

実は、この感覚は一度感じただけで
その後に何度もこの感覚を感じようと試してみたが
ほとんど感じる事ができなかった。
それを感じようとすると逆に感じる事ができないのだ。
多分、心にとらわれが有るせいなのかもしれないと思う。
心が静寂で想念も無く、
ただ心を客観的に見つめている状態の時にしか感じないようで
それがどういう訳なのかは分からない。
しかし、メモを読み返してみると
確かに心とは限定された何も無い一つの空間である様に感じる。


瞑想を極める生活
2012-08-23 | 瞑想
早いもので瞑想を極めようと高知に来て一人暮らしをしてからもう一ヶ月を過ぎようとしている。
さて、一体何かが変わっただろうか。
生活自体を考えてみると、
この一ヶ月間、誰ともほとんど話をしなかった。
特に電話では必要なこととかを話すことはあるのだが、
面と向かって人と話をすることがほとんど無かった。
話をしたことと言えば、
『これ下さい』とか必要最小限の簡単な言葉しか話さなかったのだが、
それに何の苦痛も感じなかった。
言葉にはしないが、あれは美味しそうだとか、
どこどこに行こうとか心は相変わらず一人で勝手に話をしている。
不思議なことに今の心の状態は別に何か生活に悩みがある訳でもなく、
心を煩わせる出来事もほとんど無いし、
安らぐまでとは言えないが、
心自体は安定していて別に不満がある訳でもない。

最近は一日に4時間も5時間も瞑想をしているのだが、
それが別に苦にならなくなった。
午前中に2・3時間と昼過ぎに1時間弱、夜に2・3時間という感じなのだが
瞑想の内容自体はその日の時間によっても絶えず変化していてなかなか一定しない。
不思議なのは、その時々の瞑想によって感じる事や体験することが違うのには驚く。

その時によって、
異常に眠気に襲われたり、
雑念ばかり浮かんだり
自我やエゴ自体を異常にはっきり感じたり
呼吸だけに異常に集中したり
心自体を一つの対象として感じたり
全く想念の無い状態になったり
心が漂うように感じたり
知性から離れた存在として感じたり
自己を幸福そのものと感じたり

そのそれぞれの体験を一体どう表現したらいいのかが分からない。
そういう瞑想体験に対する自分なりの理解と把握がイマイチできていない。
その瞑想全てに対する統一的な見解を今だ見いだせないのと
今の瞑想には何かが足らないという想いがずっとある。
それで、瞑想していて進歩しているのかどうかもよく分からない感じがする。
だから、文章化することにためらいがあって
まだここに細かいことを書く訳にはいかないという思いがある。

静寂
2012-08-25 | 生活雑感
瞑想をする様になってから心が変化してきた様に感じる。

以前は、雑念やら囚われていた事などが頻繁に浮かんだものだ。
それが、心を見つめる様になってから
心が何者にも囚われない静寂な境地を体験する様になった。

すると、普段の生活でも少しずつ変化が現れた。

心は刺激を求めていたはずなのに
いざ刺激を受けると

今度は静寂で在りたいと思う。
只、静寂で在りたい。
只。静寂と沈黙の境地に留まりたい。
そして、神と共に在りたい。


そんな心境になっていた。


今までは、心が静寂自体に抵抗を感じていた。
心は常に刺激を求めていた。
『静寂』という言葉を使おうとはしなかった。
いつも違う言葉を使った。

『退屈』

『空虚』

『孤独』

『寂しさ』

『孤立』

『不安』

そしてその言葉に苦しんでいた。
心と向き合うことが苦痛だった。


瞑想する様になって
心が囚われから離れていった。
心の本来の状態は静寂なのだろうかと思う。
心の静寂は心を『無』へと導いていくのだろうかと思われた。

静寂が苦痛でなくなった。
むしろ心地よさを感じる様になった。

自己探求瞑想と雑感日記(過去ログその6)

2014-02-20 14:41:40 | 過去ログ
魂のインフレーション
2012-01-03 | 瞑想
インターネットで『瞑想』とか『自己探求』と検索すると
魔境とか増上慢に陥っていると感じる人によく出会う。
心理学者のユングが『魂のインフレーション』といった状態なのだが
その人自身はそのことに気付いていないようだ。
そういう人たちのブログやホームページを見ていると
気分が悪くなってくるので
最近はほとんど見ないようになった。

それは禅病の一種として分類されるもので
座禅とか瞑想を始めた人が
神秘的な体験をしたり
感覚が鋭敏になったり
知的な閃きを感じたりすると
自分自身は人とは違う優れた存在なんだと
過剰な優越感に浸ったりする。
そして、悟りを得たなどと錯覚してしまう。
するとやがては自らが神になったかのように錯覚して
傲慢な心理状態に陥るものだ。

瞑想とか坐禅をすると必ず途中で通る道なのだが
残念な事にそこで進歩が止まってしまう人が多い。
「相手にせず、邪魔にせず。」
本当はそれが必要な事だと思う。

それにはいろいろな原因があるようだ。
なにかのビジョンを見たり天の声が聞こえたりする。
例えば、お釈迦様やキリストや天使が現れるとか
神のお告げが聞こえるとかいうことだ。
それは、自己の潜在意識にある願望が
幻覚として現れる場合もあるし
その場の残留思念や誰かの思念のようなものを
視覚や聴覚で捕らえることもある。
また、肉体を持たない霊的な存在ということもある。

特に神社やお寺では人々の残留思念が多いので
敏感な人はそういうことを感じやすいと思う。
でも冷静に考えれば分かることなのだ。
人々が神社仏閣の賽銭箱の前に行くと
まず最初に神仏を思い浮かべる。
そして、普段は心に思い浮かべない具体的な自分の欲望を神仏に祈る。
だから、そこには自己の欲望をかなえてくれる神仏という思念と
自己の実現したい欲望という思念が渦巻いて残っている。
そこに来た人が自分自身のそういった思念と共鳴すると
その思念を具体的な感覚として感じ取ってしまう。

特に瞑想をするようになると心が敏感になり
人の思念や気を感じやすくなる。
私自身も断食とかをして世間から離れて瞑想を繰り返すと
そういった人の思念や気を感じる事が時々ある。

また、ある時は瞑想中に浅く中途半端な睡眠になったことがある。
半分眠っているのだが意識がはっきりしている状態なのだ。
そういう時は夢を見ている状態なので
自分の想像力と夢見の状態が重なっていて
色々な人物や場所が出てくるのだが
それを見ている自分の意識がはっきりしているので
見ていることが現実なのかと錯覚してしまうことがある。
そういった経験が無い人がビジョンなど見たり幻聴を聞くと
悟りを得たなどと錯覚してしまうようだ。
すると自我が強くなり、
自分は神仏など高次の存在に認められたという錯覚を起こし
自分は選ばれた人間であると思ってしまう。
また、仏教の『衆生を救う』などという言葉を聞くと
自分は人々を救う使命があるなどと勝手に勘違いして
救世主だとか神託を得たなどという増上慢が生まれてくる。
その人が語る言葉は最もらしい宗教的な言葉も多い。
でも、中途半端で本当の知識がないので
質問に困ると何でも霊や神仏の仕業に結びつけ
はては、過去世のせいにしたり
家系とか生まれのせいにしたりして
先祖供養が足らないと言い出す。
そして、裏ではそれで収入を得ようとして画策する。

そういう人は、自分が正しい事をしていると思っているのでたちが悪い。
でも、神がそういう存在を許しているのだから
何かそれなりの存在理由があるのだろう。

『私の手から出る見えない光は全ての衆生を救うエネルギーを持っている。』

などと言い出すが、見えないと断言しているので誰にも見えない。
しかし、精神的に不安定な人にとっては
心にすがるものが何もない状態だった所に渡りに船で
ちょうどぴったりの同一化するものが現れたと喜ぶのでしょう。
きっとそれで心が安定するんでしょうね。


本物と偽物の違い
2012-01-05 | 生活雑感
救世主と名乗る人が多いので
本物と偽物の違いについて
自分の判断基準を書いてみるとこんな感じだろうか。
人によっては判断基準は大きく違うと思う。

1.金銭的な報酬や寄進を要求する。
本物はお金に執着しないし、
必要ともしない。
食べ物が無ければ
何日断食しても苦にしない位の態度で生きている。

2.自分は人より優れていると思っているので、自分自身を尊称で呼ばせたがる。
○○様、○○導師、大師、先生などと呼ばせるし、自分でもそう名乗る。
本物は自分を含めて全てを平等と見ているので
さん付けでいいと思っている。
別に呼び捨てにされても気にしない。

3.団体や人々に表彰されたとか、こんなすごい肩書きがあると言いたがる。
本物は肩書きなどはどうでも良くて、
むしろそういった地位や肩書きは自分を束縛するものだとして退ける。

4.見た目や地位や財産で人を判断する。
本物は年齢や財産が違っても、全ての人は平等とみている。

5.何でも知っているような態度をして人に教えられるのを嫌がる。
本物は知らないことや分からないことははっきり分からないと言う。

6.自分自身を向上させようとする意思が感じられない。
自分は悟っているので覚者であり
人に教えられる事はもう何もないという態度をとる。
本物は真理を悟ろうとも
現世で自分自身が有限の肉体と有限の心を持っている限りは
この相対的な世界に束縛されていることを知っている。
だから感覚的認識がある相対的なこの世では
絶対なる神との分離があるので
全てを知っていることはあり得ない。
全ては絶対的な神の思し召しのままという態度を取り
相対世界では必要に応じて自己の向上もあると認識している。
だから、小さい子供からでも教えられる事があると思っている。

7.自分はもう悟っているのだからと言って瞑想や座禅やジャパをやりたがらない。
本物は自分自身が人々の模範となるように瞑想やジャパを進んで行う。
また自分自身の心の中からの欲求として瞑想をすることを望む。

本物に会ってみたいものです。


砂の聖者
2012-01-06 | 過去の思い出
今までの人生で本物だと思った人に出会ったことが無いと思っていた。
そういう人は自分から尊敬されようとしないので
もしも出会っていても自分が気付いていないのだろう。
今考えると以前に出会ったであろうと思われる人が一人いて
それはインドのリシケシュで会った砂の聖者と呼ばれる人だった。
その人がすごい人だと知ったのは、
出会ってから3年後に日本ヨーガアシュラムの佐保田鶴治氏(故人)が
インドには砂の聖者というすごい聖者がいるという話をしたからだ。
その聖者は無欲で神にのみ意識を集中していて
弟子も持たないらしい。
その聖者に見つめられることをダルシャンといって
大変に神聖なありがたいことらしく
佐保田氏はその聖者にダルシャンをお願いしたそうだ。
そしたら私は人々にむやみにそういうことをしないのだと断られたらしい。
そんなすごい聖者がいるのかと思い
その聖者の写真を見せてもらった。
そしたら何と知っている人だった。
リシケシュではババジと呼ばれていて
ガンジス川の砂地を住まいとして
上半身裸で暮らしている聖者だった。
リシケシュでは有名な人らしく
そこに長く滞在している日本人にそのことを聞いた。
それで会いに行ってみた。
そしたら川岸の砂の上に座っていて
信者らしき人が周りを取り囲んでいた。
その聖者は何もせずに半跏趺坐で座っていた。
遠くから見ていて彼がその聖者だろうと分かった。
近づいたら視線を下の方に向けていたので
何を見ているのかと思ったが
よく見ると足下の新聞のようなものを見ているようだった。
思わず、
『こんな聖地にいても世俗のことに興味があるんだ』
と思ったら、がっかりしてしまった。
なにか只の乞食のようなおじさんにしか見えなかったのだ。
そう思った瞬間になぜ気付いたのかは分からないが
突然、その聖者は遠くから見ていた自分の方に顔を向けて
自分の顔をじーっと見つめてきた。
しばらくすると顔を前に向け
目を開けながら視線を虚空に向けて座った。
しばらく、様子を見ていたのだが、
別にすごい人という印象も感じなかった。
それで宿に帰ったのだった。
その次の日に、教えてもらった日本人にそのことを話すと
こう言った。
『その聖者は、普通の人とは全然違っていて
まったく世俗に対する欲が無い。
本物の聖者だよ。』
そう言われてもそんなことは信じられなかった。
その時はその人に何も感じなかったし
どんな人なのか分からなかったのだ。
それが、佐保田氏曰く、ダルシャンらしい。
今思えば、その聖者は自分の思念を敏感に感じたのだろう。

ベナレスで出会ったヨガの講師にこう言われたことを思い出す。
『本物は探しても見つけられないものなのだ。
 もし本物が目の前に現れたとしても
どうやって君は目の前の人が本物だと分かるのだね。
それよりも自分自身を磨きなさい。
自分に準備が整えば自ずと本物は現れるものだ。』

もう30年も前の話なのだが
なぜだか今でもその言葉を思い出す。


色々な組織
2012-01-08 | 過去の思い出
ブログを書いていて過去のことを振り返ると
自分が多くの組織に接触した事を思い出した。
色々な組織に首を突っ込んでは
辞めるという事を繰り返していたことを思い出す。
最初はここには自分が求める何かがあるのではないだろうか
という期待に胸を膨らませて組織に接するのだが
最後はここは自分の求めるものではないとして
また他の組織を探し求めていたようだ。
思い出すとかなりあったなあと感心する。

1.共産党の下部組織の民主青年同盟
【マルクス主義の理想主義】
2.革マル
【マルクス主義の過激派】
3.創価学会
【日蓮と池田大作への信仰】
4.歎異抄研究会
【親鸞への信仰】
5.GLA
【高橋信二とその娘のミカエルへの信仰】
6.三島の沖ヨガ道場
【沖正弘のヨガ】
7.日本ヨーガアシュラム
【佐保田鶴治のヨーガ、日本のインド哲学の第一人者】
8.シュリチンモイの組織
【シュリチンモイを信仰】
9.ラジニーシの組織
【ラジニーシを信仰】
10.山岸会
【有精卵で有名・お金や財産の無所有が理想】
11.モルモン教
【キリスト教の新興宗教】
12.日本ヴェーダンタ協会
【インドのラーマクリシュナミッションの日本支部】
13.シバナンダアシュラム
【インドのリシュケシにあるヨーガアシュラム】
14.地域のボランティアサークル(複数入った記憶がある)
【老人や身体障害者への福祉活動・主義思想はない】
15.カナ共同体
【韓国のキリスト教の組織団体だったかな?】
16.禅宗の臨済宗
【座禅の指導】
17.禅宗の曹洞宗(これはかなり最近のこと)
【仏教の禅寺】
他にもあったような気がするが思い出せない。

それで結局のところは、
求めるものは自分の中にあるという結果に終わる。

ところで、会社を経営している時には
世俗にドップリ浸かっていたので
宗教色は無くなり全然違うのだろうが
世の中を知る為には大変良い経験になったので
ちょっと書いてみる。
別に自分がやりたくてなった訳ではないのに
何故だかやらされてしまったようだ。
1.商工会の理事
2.宅地建物取引業協会の評議員
3.PTAの副会長
4.民主党の市会議員の後援会の副会長
今思うと仕事を続けていたら
商工会の会長にさせられていたような気がする。


思念(共鳴と増幅)
2012-01-09 | 生活雑感
自分が今までに何となく感じていた事なのだが
思念の共鳴と増幅の法則について述べてみたい。

*思念の共鳴
同じ思念を持つ人がいると
最初に思念の共鳴が起こる。

『類は友を呼ぶ』という言葉が有る。
同じような性質の人は同じような人に自然に惹かれる。
それは思念の共鳴が起こるからだと推測される。
ギャンブルが好きな人はギャンブルの仲間ができるし
運動が好きな人には運動仲間ができる。
お互いが惹き付け合うのだ。
その人の潜在的な思念は、
自分が惹かれる趣味や同じような思念の人と出会うと
知らず知らずのうちに興味を感じるようになる。
そしてそういう仲間と親しくなっていく。
でも興味が無いものや全く違う思念の人と知り合っても
金銭的な事とか寂しさとか
どうしても一緒にいなければいけない理由があったり
何か他の要因があると親しくなったりする。
逆に正反対の性格の人に惹かれたりする事もあるから不思議だ。
潜在的な思念は幼い頃の心の傷のような思念もあれば
もしかしたら先天的なものである過去世の自己の気質であったりもする。

*思念の増幅
同じ思念を共有すると思念の増幅が起こる。

例えば学校生活でクラスにすてきな人がいたとする。
誰かが、あの人がすてきだと言うと
他の人もそうかなと思う。
すると、益々その人がすてきな人に思えてきて
クラスの全員がその人を好きになってしまったりする。
逆のことも起こる。
ある人物がたまたま小さいミスをした。
誰かがその人の悪口を言ったりする。
他の人が何となくそれに同調したりすると
そこで思念の増幅が始まる。
その人物が嫌な人間だと思えてきて
それがいじめに発展したりする。
問題化した後になって、
どうしていじめたのかと聞くと
知らないうちにいじめが加速していたと答える。
不良グループなども同じようなことが起こる。
グループの一人一人と話をすると
少し悪い位でそんなに悪いやつはいないと思ったりするが
それが集団となると思念の増幅現象が起こり
そのグループがとんでもない悪いことをしたりする。

仕事の話を例にするとおもしろいことが分かる。
仕事の愚痴ばかり言う人には
愚痴ばかり言う人が近寄ってきて
益々仕事ができない集団となる。
今の社会が悪い、
時代が悪い
上司が悪い
運が悪い、
給料が安いなどと愚痴をこぼし合い
自分が悪いなどとは少しも思わなし
残念なことに考えようともしない。
お互いの不幸な境遇を共感し合う。
逆に仕事ができる人は
仕事の愚痴よりもどうしたら改善できるかと考える。
だから、愚痴を言う人には惹き付けられず
仕事のできる人に惹き付けられて
現状を改善しようと努力して
益々仕事のできる集団となる。
仲間と仕事の喜びを共感し合う。

心と思念は別のものであり
自分の心は選択した思念の共鳴と増幅を繰り返している。
そういう人生を歩んでいることに
気付くことは非常に大切なことだ。
心が肥大化して負の思念の暴走が始まると
怒りと憎しみやねたみの塊になったりする。
そうなると、もはや自分では止められない。
そんな人生は振り返ると楽しくない不幸なものだ。
できれば、喜びを感じる思念を持つ様に心がけたい。
人々の心には起こる出来事は選べないが
その出来事に対する思念を選択することはできる。
選択した思念によって
喜びを感じるか不快を感じるかが決まる。
例えば誰かに注意されると
その言葉をお節介だと腹が立つ人と
良い忠告をしてもらえたと喜ぶ人がいる。
つまりどんな思念に囚われるかによって幸福と不幸が決まるようだ。


霊について
2012-01-11 | 生活雑感
オカルトの話なので
このようなことを書くのはどうかと思ったが
支配欲の強い一部の人に騙されて
もはや自分で思考しようとしない狂信的な人々や
霊の事を真剣に信じている人があまりにも多いので
参考に自分の考えを書いてみた。

一般の人が霊と呼ぶものの影響を
自分自身はあまり信じていない。
現実にはそういった霊として恐れられるものは
ほとんどが人間の作り出した思念ではないかと推測する。
その思念には次の2つがあるように感じる。

1.自分自身の潜在的な思念。
自分の記憶や欲望や感情などが
視覚や聴覚のような感覚的なイメージとして捕らえられたもの。
見たことがないものでも
潜在的なイメージとして心の中に蓄積しているので
それが感覚的なイメージである動物や人間の形として捕らえられる。

2.他人が作り出した思念。
地縛霊と言われるもののほとんどは
残留思念だと思って間違いない。
特定の場所で同じ事を何度も考えると
その場に思念が滞留して
たまたまそこに来た人がその思念を受け取る時に
感覚的なイメージとしてとらえる。
例えば自殺の名所などは思い悩んでいる人の思念が
残留思念と共鳴を起こす。
すると、思念の増幅が起こる。

また、お墓で幽霊を見たと言う人がいるが
特にその場合はほとんど霊であるとは考えられない。
よく考えてみると、
もしも自分自身が死んだとしたら
自分の霊魂はどんな場所に惹き付けられるのかを考えてみよう。
すると分かることがある。
それは、心が執着していた場所や人や物であって
絶対にお墓には惹き付けられない。
それと同様に他の人だって
絶対にお墓には惹き付けられない。
肉体が無くなった場合は
自己の意識だけが存在するはずなので
潜在的に嫌悪を感じるお墓には絶対に行かないはずなのだ。
死んだとしても、
肉体が無くなっただけで
意識自体は変わらないはずだからだ。
つまり、人間の霊魂が地縛霊として墓場に留まることは絶対にあり得ない。
ただし、私は墓場が好きでどんな時でもずっと墓場に居たいという人は別だ。
(そんな人はいないでしょう)
お墓は心の中に潜在的な死への恐怖という思念を連想するので
その思念が感覚的なイメージとして実体化するのだと思う。
もう一つは過去の亡くなった人を思い浮かべるので
他の人のそういった思念が実体化する場合もある。
それがほとんどだろうと思う。
別に霊を否定している訳では無い。
只、この世の中にいる人々は生きた霊であり
死んだ霊にそれ以上の影響力が有るとは思えない。
影響力があるのは霊ではなくて思念なのだと思う。
取り憑かれているとよく言うが
死んだ霊よりも
生きた霊に取り憑かれていると思える人々が
この世には多数いるように感じる。
それも生きた霊の思念に取り憑かれている。
全てを死んだ霊と結びつけて理解する一群の人々には
くれぐれも気をつけた方が良いと思う。


心の同一化の崩壊
2012-01-12 | 生活雑感
心の同一化に関しては
注意しなければならないことがある。
心の同一化が非常に強固な場合、
何かのきっかけでその同一化が崩れると大変なことが起こる。
心は同一化するものを失ったショックと
新たな同一化するものを見いだせない為に
自分の存在価値を見いだせなくなってくる。
そして、自己の存在価値の否定へと進み
心が心を追い詰めるようになると
負の連鎖の状態になっていく。
もはや、自己の存在は不幸の塊であると思う。
生きることへの不安と無気力の状態に陥って
周りから見ても鬱病のように見える。
最悪の場合は自己を否定する行為へと走る場合もある。
そういった時は次のように考えているのが分かる。
『いったい自分は何をやっているんだろう。
このまま人生が終わっていくのだろうか。
考えていたら心がむなしい。
人生の無常を感じずにはいられない。
こうして生きている意味が見いだせない。
自己とは不幸そのものだ。』
これに類したことを何度も繰り返し考えるようになる。
普通は生気が上に向いているので、
生きる喜びを感じるのだが、
生気が下向きになってしまって
生気がどんどん下に落ちていく。
こういった状態が起こるきっかけは色々ある。
特に自分が大切にしていた人やものを失った場合に顕著に表れる。
地位を失った。
全財産を失った。
家族や恋人を失った。
現在の価値観や思想が否定される出来事があった。
こういった時の解決策は
心が同一化するものを新たに見つけることだ。
でも、実際はなかなか見つけられないものだと思う。
それより先は本人が解決するものなのだが、
生気を一時的に上向きにする方法は幾つかある。
参考に負の思念から逃れる方法を言うと

1.心と体は連動しているので
水泳とかジョギングなどの運動などをして
体を活性化させると心も活性化する。
2.生気のある人と話をしてみて相手の生気を感じる。
3.大自然の生気のある動物や植物と接してみる。
4.全然違う環境の所に出かけてみる。
そして、一度自分を離れた所から客観的に見つめ直してみる事でしょうね。


もし現代に仏陀がいたとしたら
2012-01-18 | 生活雑感
もし現代に仏陀のような人が生まれていたとしたら
どんな話になっていたかと想像すると
笑い話のような話になってしまうから不思議だ。

彼は、とある中堅会社の経営者の息子として生まれる。
幼くして母を亡くすが
父と同居していた叔母が育ててくれる。
その後、大学卒業後に家業の会社に入り
将来は次期社長として有望視されていた。
大学卒業後の20代の前半で結婚し
29才の時に一児をもうける。
全ては順風満帆と思われた矢先に
人生に疑問を感じたと言い出す。
『生きるとは何か、苦楽はなぜあるのか、その疑問を解決したい』
と言うが、そんな訳の分からない事を言っている姿を見て
社長の父親も妻も理解するどころか逆に変人扱いし、
誰も理解しようとはしてくれない。
『子供までできたのだからいい年をした大人が何を言っているんだ。
責任のある親としての自覚を持ってしっかり仕事をしなさい。』
ところが、全てを解決したいと言って突然失踪してしまう。
最初は、既存の宗教に入信し座禅などを極めるが
それに満足できなかった。
それで苦行を求めるような新興宗教に入信する。
35才になってやはり苦行にも疑問を感じ脱退する。
そして一人になって暮らすようになる。
しばらくすると、ある女性がミルク粥を持ってきてくれるようになる。
しかし、こんな事をだらだらとしていてもよくないと感じて次のように決心する。
『松の木の下で座禅をしよう。
たとえ死ぬことになったとしても
自分自身の全ての疑問が解決するまでは
この場からは決して離れまい。』
しばらくすると突然大悟するが
自分の悟った事は非常に深遠であって
一般の人には理解できないであろうと思う。
だから布教することはためらう。
そして輪廻からも解放された覚者として
その場で座禅を続けやがて肉体は朽ち果てる。
その後、山中の松の木の下で遺体が発見される。
遺体は結跏趺坐で座りながら死んでいた。
警察の検死の結果は自殺か凍死であろうとして
遺族に引き取られる。
父親は葬式の席でこうつぶやく。
『馬鹿な息子だ。』
結局は、一人の男が突然家族も仕事も捨てて失踪し、
その6年後に山中で遺体として発見されるという話なのだ。

現代では仏陀のような本物は評価されないのかもしれない。
多分人に知られずに存在しているんだろうと思う。

自己探求瞑想と雑感日記(過去ログその5)

2014-02-20 14:40:37 | 過去ログ
現代のシッダールタ
2011-12-01 | 生活雑感
現代の日本にシッダールタ(仏陀の若い時の名前)のような人は現れるのだろうか。
現代と仏陀の時代とを比べると
似ている所と、明らかに異なる所がある。
似ている所は、宗教が形骸化してしまって、
ただの形式主義と化している所だ。
宗教にはもはや真理はなく、
形式と規律のみである。
聖典を読むのは毎日のお勤めであって
内容自体の意味も分からず
ただ聖典を読むことに意義がある考える。
瞑想も座禅という形で存在するが
それも只座るという行為の形式が重要である。
つまり全てが形式主義と化している。
本当の真理が隠されている時代という点では共通している。
異なる点は、昔は世の中の人々が真理を探究する人々、
つまり修行者や沙門といわれる人を容認していた。
彼らは托鉢乞食として生活していた。
そして、世の中の人々は修行者に対する尊敬を少なからず持っていて
食べ物をお布施として捧げることを可能にしていた。
そして、そういった修行者達が社会の中にいることを容認していた。
しかし、現代ではそういった真理を探究する人々は社会では容認されない。
もしも、真理を探究したいのであれば
何らかの宗教組織に入ることを求められる。
宗派を離れて本当の真理を探究する修行者として存在することは否定されてしまう。
だから、そのような修行者に食べ物を捧げる事もしないし、
本当の修行者が生命を維持することはきわめて難しい。
今の時代は、価値観をお金に換算する時代なので
誰に対しても働くこと、つまりお金を稼ぐことを求める。
真理を探究する本当の修行者は働かない人と見なされて軽蔑さえされる。
現代にシッダールタの様な人が現れれば
宗教の枠組みからは外れて生活することになるだろう。
それこそが彼の道だからである。
既存の宗教から離れ、ただ自己を探求する道なのだ。
でも社会の枠組みから外れているので社会が容認しない。
だから彼が存在する場所はない事になってしまう。
しかし、現代の彼が存在できる方法があるとすると
自分か誰かの蓄えたお金で生活するか
ミラレパのように、草を食べて生きる位しかないのではないか。
でも、世を捨てて誰もいない山で暮らす必要はないと思う。
多分予想では、普通に生活しているような人々の中に紛れ込んで
現代のシッダールタは存在しているのだと思う。
何らかの方法でお金を稼ぎ、その蓄えさえあればいいのだ。
逆に今の社会はお金さえ有れば容認される社会なのだ。
また仏陀の時代、真理を知る方法は聞き伝えでしかなかった。
書籍がなかったのである。
だから、仏教のほとんどの経典の書き出しは
『私は釈迦牟尼より次のように聞いた』
として始まる。
でも、現代は真理を知るための書籍がある。
真理を知ろうと欲するならば
思索による推理と書籍の研究と自己の探求によって
条件はそろっているのである。
過去の色々なタイプの聖者の記録は
あなた固有の道を指し示すはずである。

結局、多くの人々には知られることなく
社会の中に隠れ住んでいるのだろう。
ほんのわずかの人にしか知られない形を取って
現代のシッダールタは存在しているのだろうと感じる。


お金と富(お金の総量の増加)
2011-12-06 | 生活雑感
最近は国家や地方公共団体は国債や地方債をどんどん増発している。
そして財政赤字もどんどん増えている。
国家は人々のためにお金を使っているはずなのに
しかし国民の生活はいっこうに良くならない。
そんな悲観的な事ばかりが世の中の話題になっている。
国家の借金が益々増えると共に
これからはどんどん景気が悪くなって、
先行きは非常に暗いように感じている人も多い。
これが、今の世の中の人が感じている事かもしれない。

ところがよく考えるとおかしい事に気付かされる。
お金には一つの法則がある。
それは借り手と貸し手の法則で
『借り手と貸し手の金額は同額である』という法則である。

国家の借金と同じ金額の金融資産が生まれていて
それを誰かが新たに所有しているのである。
つまり、国家の借金が増えるということは
お金の総量がどんどん増えていることなのだ。
言い換えると、誰かの金融資産がどんどん増えている事になる。
総量が増えているのであれば
総人口の割合で割れば、
一人当たりの金融資産も増えるはずなのだが
今の世の中はそうなっていない。
総量が増えているのに貧しい人が多いという事は
誰かの所に金融資産が集中しているとしか考えられない。
つまり、一部の人々に資産が集中している事になる。
そうなると財政赤字で国家が破綻してしまうのかというと
そうはならないようになっている。
なぜなら、金融資産として膨大な富を持っている一部の人々は
国家が破綻して自分の持っている金融資産の価値が無くなる事は望んでいない。
だから、国債を買い続けるだろうし、
今のシステムが破綻しないように行動する。
そして自分たちが不利益にならずに存続し続ける方法を考え出す。

結局はお金は人間の心が作り出した幻なんだろうが
その幻が幻想だったとは誰も信じたくないのだ。
だから誰も変化を望まないので
そのまま永遠に続いて行く事を望んでいく。
誰も夢から覚める事は望んでいないのだ。

江戸時代に江戸幕府が赤字財政だったのに
200年も続いていたのもそんな理由なのだろう。

しかし、気をつけないといけないのは
一部の人に富が集中すると
いずれは貧富の格差が広がって
今の社会が変化する事を望む人が
多数になることです。
すると、社会変革が訪れるのかもしれません。


聴覚への瞑想
2011-12-15 | 瞑想
心を鎮める方法の一つとして
聴覚への瞑想がある。
何かの音に集中するのではなく、
聴覚の感覚自体に意識を持って行く。
しばらくすると、
耳鳴りがほんの微かに聞こえるのを感じる。
キーンという音に集中していると
耳鳴りが段々大きくなり
音と音に集中している自分の意識だけを感じるようになる。
集中が進むと音があるだけで
想念がほとんど浮かばない状態になる
これも瞑想の一つの方法なのだろう

呼吸に意識を集中できなかっり
心の源に集中できなかったり
私は誰かと問うことが出来ない時など
この瞑想もかなり有効だと感じる。

個人的にはずっと長時間にわたって
聴覚に対する瞑想をする事はほとんど無い。
多分自分がその瞑想に惹かれないからだと思うし
自分自身の気質には合っていないからだ。
しかし、瞑想の途中でどうしても雑念が浮かぶ時、
聴覚自体に意識を持っていくと雑念が消えるので
集中を助ける補助的な役割としていいみたいだ。
聴覚への集中も
雑念を振り払うためには
非常に有効な方法だと思うし
実際、瞑想の途中でこの聴覚への瞑想法を使っている。

ただこれは個人差があるだろうから
自分以外の人が耳鳴りを聞く事ができるかどうかは疑問だ。
他の人に今まで聞いた事がないので
この方法は自分独自のものかもしれない。


原質
2011-12-17 | 瞑想
想念と欲望によって感情が生み出されるのは分かるのだが、
感情が現れる源に意識を集中する内に
不思議な事に気付いた。

感情とは何かが変質して感情に変わっている様に感じるのだ。
想念とそれ対する欲望によって感情が生み出されるのだが
想念や欲望がない時であっても
感情に変質していない状態の存在がある様に感じる。
それは、心の中心にある心の一つの状態で
感情自体になる前の心と表現すれば良いだろうか。
一般的に言えば、不安や寂しさが現れてくる心の中心であり
恋をした時に胸の中心に痛みとして感じる場所としてあるものだ。
その場所は感情になる前でも一つの存在として感じる事ができる。
心が温かいとか表現される場合の心がそれで
自我とか心とか言われるものの様に感じる。
それを自分では心の原因物質ではないかということで原質と名付けてみた。

この心の中心にある原質自体に意識を集中する。
現在の自分が瞑想の対象として集中する努力をしているものである。
そこに心の本質を解く鍵があるような気がしてならない。
最近はそれ自体に集中できるようになってきた。

瞑想が深まって来ると、
心にほとんど想念が浮かばない状態になってきて
無念無想のような状態になる。
心はもはや言葉として概念化する前の意識という状態で
ただ見つめるものとして存在している。
その時には感情として現れていたものは
その原型である原質として心の中心に存在しているのを感じる。
それに集中しようとしていると
不思議なことにそれ自体が縮小していくように感じる。
ただ、それが自我という心の一部である事は間違いないと思う。
しかし、心のどこかでそれ自体は私という本当の実態ではないと感じている。
この原質が私なのかと調べてみるが、
本当の私ではないようだ。
なぜならこの原質は対象として認識できるからだ。
しかし、それが私という想念そのものであって
一般的に心として知られるもの本体のような気がする。


独居
2011-12-18 | 生活雑感
時々知らない所で独居することは
精神の進歩には非常に有益であると思う。

全ての宗教の戒律の主な趣旨は
人との関係についてのことだ。
仏教の八正道にしても
人との関係で起こることの戒めが中心を占める。
戒律を遵守するためには2つの方法があり
一つは、人と接する時に気をつけるようにすることであるが
もう一つは、誰とも会わないようにすることである。
例えば、他人の悪口を言わないという戒律があれば
一番簡単なのは、他人と接しないことであり、
悪口を言う相手に出会わないことでもある。
そういう面で、独居は誰とも接することがないので、
戒律自体を必要としない。
また、人や物と接する機会が少ないので
精神的な孤独を養うことができる。
そのために心が外に向かうことが少なくなり
心を常に内に向かうようにすることができるようになる。
また、普段見慣れて執着していた場所や物や人といった対象が無いので
執着しているものから遠ざかることができる。
仕事とか雑用とか自分を束縛する物もないので
自由に精神的な事柄に集中して熟考することができる。
そのような有益な点が多いので
1年に何回か独居することは良いことだと思う。
でも心は必ず理由をつけてやりたがらない。

忙しくて時間がない、
お金がない、
やりたくない。
寂しいから一人になりたくない。

では自分の心に聞いてみることだ。
だったら、いつならやれるのか。
死ぬまでやりたくないということか。
今のままで十分であって
つまり精神的進歩など望んでいないということかね。


本は自己を混乱させるものだ
2011-12-19 | 瞑想
最近、本に対して今までと違う思いを持つようになった。
最初の初期の内は本を読むことは、
霊的な事柄の理解と新しい気づきをもたらすので
大変有意義なことであって
人々にとっては重要なことだと思う。
しかし、ある程度年数を重ねて時間が経過すると
逆に本の知識自体が心を肥大化させ、
硬直化させる様に感じるのだ。

瞑想を始めた初期では
本は瞑想の良きガイドとして役に立つのだが
ある程度、瞑想をすることに慣れてくると
本の読み過ぎは心に混乱をもたらすようだ。
瞑想を自然のままの状態から
本の知識による方向付けへと強制的に導くことになる。
すると心の中で混乱が起こる。
自分の心に従うか、それとも本の知識に従うかである。
自分の瞑想が深まってきたと思うのであれば
内なる神である心の源に従うべきだ。

ある程度の道を進んでくると
本とか聖典の知識は捨てなければならないものだと思う。
そういった知識は、
心の肥大化を生み出す原因になる。
瞑想によって最終的に追求し求めるものは
心の肥大化ではなく

心の単純化である。

そのためには、知識自体を捨てなければならない。
実はラーマクリシュナが日本ヴェーダンタ協会に呼んだ理由は
そのことだったんだと今になって思う。
知識の肥大化した人物を見せたかったのだと思う。
先月はそれに気が付かなかったが、
今やっとそのことに気が付いた。

特に独居する場合は、本は最小限にして
できれば持っていかない方が良いのかもしれない。
それよりも、神や聖者の絵を持っていった方が良い。
困った時は、その絵に祈り、語りかける。
そうすれば、自分が神と共に居ることを感じられる。


心の同一化
2011-12-22 | 瞑想
心の性質である同一化について簡単に述べてみたい。
世の中を心という観点から詳しく分析してみて、
次のような分け方ができる。
世の中には、5つのものが存在する。
物質、肉体、思念、心(自我)、純粋意識(真我)である。
この中で純粋意識は存在するのだが隠されているようだ。
次回の『自己探求をする理由』という書き込みで説明できると思う
心という存在は、それ自体では単独で存在できないようである。
心は必ず何かと同一化という形を取って存在している。
物質とは名前と形のある物に心を同一化しようとする事である。
物質に価値を見出そうとする。
お金もその一つだろうし、
場所とか物がある。
変な例でいうと
お寺の住職はお寺という場所を自分と同一化する。
だから、寺の存続が自分自身に与えられた価値であり、
寺を守ることや維持することが全てとなる。
お経もそのためのお勤めなのだ。
肉体とは感覚を自己と同一化することである。
そのために感覚的な欲望を満たそうとする。
結果的には感覚的な快楽を求め、
感覚的な苦しみを嫌悪するようになる。
思念は思想のような信念とかポリシーといわれるもので
地位とか名誉もその一つだ。
それ以外の怒り・憎しみ・恐怖・孤独感・愛といった感情などもある。
そういった感情から派生した思念の全般を自己と同一化する。
心はこれらの同一化が集まった集合体として存在していて、
それが一般に自我といわれるものである。
実は、心とは何かと同一化することによってしか
存在することができない。
単独では存在できないのだ。
心自体を探求しようとすると
実態が無いと言われるのはそのためだ。
だから、心を探究していくと空と言う。


自己探求をする理由
2011-12-24 | 瞑想
私は誰かと問うことによる自己の探求は、
物質や肉体や思念と同一化した自己である心を
同一化から分離するために行う行為なのだ。
自己探求は、実は限定されない自己を探す行為にほかならない。
私は誰かと問うことによって、
心は何かに限定されていたのではないかと気づき、
それによって私が何かと同一化していたことに気付くのである。
そして、限定されない私を見つけようとして続いていく。
この問いは限定が続く限り続くのである。
最終的には限定されない意識に行き着くが、
それが主体そのものである純粋意識というものである。

また、違う方法としてもう一つの方法がある。
心とは何かと探求することによっても達成するはずだ。
なぜなら、心を探究することによって、
心を丸裸にしようとすると、
心自体は単独で存在できないからだ。
そうして心自体が徐々に縮小していき、
やがて心は完全に消滅する。
その心とは『私』とか『私の物』いう想念である。
心が消滅した時に初めて障害が取り除かれる。
そして、心が消滅することを空と言う。
すると、心という障害によって隠されていたものが現れる。
それが純粋意識である。
純粋意識は原初からずっと存在していたのだが
不純な心によって隠されていたのだ。
本来は、禅が追求していたものも同じものだと思う。
心に現れる想念や雑念を追いかけず
心そのものを見つめることによって
心をあるがままを見つめていると
心単独では存在しえないことに気づき
心自体の消滅を経験する。
それが、空なのだ。
ただ、禅ではそれ以降を言及しないのはなぜか分からない。

理論としては以上のようになるのだが、
実際に達成するのは非常に難しいことだ。
それを達成するのは何百万人に一人もいないだろうと思われる。
しかし、この道が最も直線的な道だと思う


最近の瞑想時間
2011-12-27 | 瞑想
1年以上以前に比べると
最近の瞑想の状態はかなり変わってきたようだ。
瞑想時間のことを言うと
今でも長時間の瞑想をすると
足の痛みが出てくるのは変わりが無い。
現在は1回の瞑想で1時間が限界のようだ。
しかし、長い時間を行うために
回数自体を増やすという形に変わってきた。
ある禅寺での座禅のやり方が、
休憩をはさんで40分を2回行うというものだったので、
それを参考にして休憩を挟んで瞑想を行うようになったのだ。
例えば2時間するのであれば
50分+30分+40分というようにして
合計で2時間したりもする。
3回の場合だと、
最初は右足を上にして半跏趺坐で行い、
次に左足を上にして半跏趺坐で行い、
最後は正座で行う。
足が痛くなると集中状態が途切れてくるのだが、
足を伸ばしてストレッチをして回数を重ねると
集中状態がより深くなることも多い。

それで、一人で独居している時の生活では
朝に起床してから瞑想を2時間行い、
その後にヨガのアーサナを1時間行う。
そして、夕方に瞑想を2時間行うという事もあった。
すると、一日の半分近くがその為に費やされてしまう。
そういった時は、ビックリするような閃きや進歩を感じることがある。

ただ、自分がここまで出来るようになる為には
5年近くの月日を費やしたようだ。
焦りと無理な意気込みを持たない事が大切だと思う。
足の痛みは、自分自身の心に対する体からの警告だと思うべきだ。


危険な瞑想
2011-12-30 | 瞑想
昔、自分自身が瞑想で痛い目にあったので
余程の経験のある指導者が近くに居ない限りは
次のような瞑想はしない方が良いと思う。
特に好奇心や神秘的な力に惹かれたという理由だけで
そういった瞑想を行う人がいるが
あとで大変なことになるので
できればやらないことだ。
今の日本では、いろいろな書物の知識を寄せ集めて
それをあたかも自分の経験したことのように書いたり
ほんの僅かな経験や知識しかないのに
自分が全てを知っているように語る人がいる。
そういった人は、自分の周りに生徒や信者を集めたいとか
自分が救世主になって人々を救うように語る。
しかし、本当の瞑想の経験があまりないのに
自分が分からないことを分からないとは言わない。
そういう人に頼ると曖昧ないい加減な答えを出すので
益々恐ろしいことになる。
くれぐれも注意してもらいたい。

*危険な瞑想
1.自分の過去世を知りたいと思って過去世に瞑想すること。
くれぐれも過去世セッションなどそれに類したことはやるべきでは無い。
負の思念と過去世の負の記憶が共鳴すると大変なことになる。
その思念から抜け出せなくなる可能性がある。

2.宇宙エネルギーや体内のエネルギー中枢に瞑想すること。
エネルギー中枢であるチャクラに瞑想すると
最初は僅かなエネルギーを感じたりするが
チャクラのエネルギーが暴走した時に
もはや自分では制御できなくなることがある
制御不能のエネルギーは自分の肉体と精神に変調を起こす。
病院へ行けば、理解されずに原因不明と言われ
最悪は精神病と診断される。
肉体と精神の苦痛に苦しむことになる。

3.特定の呼吸法やプラーナヤーマを行うこと。
特にクンバク(呼吸を止める)呼吸法は絶対に指導者なしにはしてはいけない。
頭蓋骨の弱い所が割れて出血したり、
普通に呼吸できなくなったりして
発狂したり、死に至ったりする報告例もある。

4.瞑想ヒーリングと言われるもの。
自分の心を他人に支配されることを肯定することになる。
他人に支配され、依存することにつながる。
他人から見ると盲信とか洗脳といわれるもので
自分では物事を考えない奴隷状態となっていく。
しかし自分は正しいと思っているので、
心を支配される関係から抜け出せない。

参考に言っておくと指導者がいなくても次の瞑想は害があまりない

1.過去世では無く、自分の心の潜在的気質や傾向に集中する。
過去世の経験は今世での新しい心の潜在意識に
潜在的な気質や傾向として蓄積されている。
潜在的傾向を知ることにより心が安定する。

2.チャクラに瞑想するのであれば胸にあるチャクラに集中する。
喜びとか愛といった肯定的な感情の中枢なので
幸福や至福を感じる源であって神への喜びを感じる。 

3.呼吸法を行うのでは無く、只呼吸を見つめるだけにする。
呼吸を見つめると呼吸は本来の自然な姿になっていく。
ゆっくりした自然な呼吸は心を静寂に導き、
心の安定と幸福をもたらす。
  

最近の瞑想状態(Recent state of meditation)
2011-12-31 | 瞑想
時々、深い瞑想状態になる事がある。
それをここに説明してみよう。

瞑想に入るにあたって
最初は数息観つまり呼吸を1から10まで数える。
それを2回繰り返すと集中状態が進んで
あまり雑念が浮かばなくなってくる。
しばらくすると、随息観に変わる。
呼吸を数える事自体が煩わしくなってきて
ただ、呼吸を見つめている状態になる。
意識ははっきりしているのだが、
ほとんど、いや全くと言っていい程に雑念が浮かばなくなる。
ただ、呼吸を見つめているだけで
心は非常に静かで静寂そのものである。
今度はその心自体に意識を向ける。
胸の中心の感情が生まれる原初の源に向ける。
しばらくすると、只、静寂のみがそこにあり、
その静寂を見つめている自分だけがあり、
只そこに自己の意識だけがあるという状態になる。
足が痛くなっても、そのことに意識が行かない。

心を雲だとすると、
空に漂う雲をあるがままに漂わせている自己を感じる。
想念や雑念からはもはや離れて、
雑念は全く浮かばす、
呼吸と共に心がある。
心が言葉として概念化する前の原初の状態で
心があるがままに漂っている感覚なのだ。
見つめているものが只あるがままに存在していると表現するのが適切だろうか。

知識ではなく経験としてそれは存在し、
その状態を言葉として概念化する事は難しい。
言葉のような概念として捕らえることができない。

もっと詳しく言うと、言葉のような概念になる前の心の状態で
自我として自分がそこにある原初の状態なのだ。
驚く事に、もはやその状態では雑念を浮かべようとしても浮かばないのだ。
雑念の浮かばない無念無想の状態なのだが、
自我はまだそこに存在していて、
自我のみがあるような状態なのだ。
こうして書いていても、
その時はその状態をはっきり認識しているのだが、
思い出そうとすると概念が無い状態なので、
概念である記憶自体が曖昧でうまく表現できない。
それを言葉で表現するのはもっと難しいと感じる。

これは、瞑想直後に書いた文面であって
その時は、意識もはっきりしていてその状態を認識しているのだが
後で思い出そうとすると
あまりにも神秘的で概念化できない記憶なので
思い出そうとするとうまく表現できない。
体験した自分でも言葉に出来ないので
これを読んでいる人にとってはもっと分からないかもしれません。

自己探求瞑想と雑感日記(過去ログその4)

2014-02-20 14:38:35 | 過去ログ
瞑想の目的
2011-11-08 | 瞑想
ある方に仕事はしばらく休業すると挨拶に行った。
何をやるんだと言われて、
瞑想とか坐禅をやってみたいと言ったら
そのやる目的は何だと尋ねられた。
それで、自分の心を探究したいと言ったのだが、
その目的は何なのかと同じ質問を三回もされた。
そのたびに自分の心を知りたいとか返答するのだが
どうもその人には理解ができないらしい。
最初は、自分自身も相手の言っている意味が分からず
僧侶とか坊主になる気もないとか返事をしていたのだが
どうもその人曰く、何か違う目的が必要らしい。
途中で気がついたのだが、
心を探究すること自体は目的とはならないと考えている様だ。

多分、『心』というものに対する考え方が多くの人々と自分では違うのだろう。
私自身は心を本来の自己とは違うもので、
対象となるものと認識しているのだが
人々は心は対象とはならないものと認識しているのだろう。
一体目的が何だったらいいと思っていたのだろうか。
自分で今考えてもよく分からない。
『悟りを得る事』が目的ですと言って欲しかったのだろうか。
なぜか自分が『悟りを得る事』を目的としている訳ではないのが分かる。

まあ、それだけ今の自分の感覚が
一般の人とはかけ離れているということなんだろう。
なにやら今の自分が後戻りできない所まで来てしまって
普通の人々と同じ感じ方ができなくなっているのが分かる。
瞑想をして自己を探求している状態や
心が何にもとらわれずに無念無想の静寂の中にいる状態が
自分の今の目的であって
それ以外に何の目的も持てないのだ。
つまり自分が只そこに存在している状態を見つめる事が目的なのだ。
どうも自分の言っていることが
一般の人には理解できない領域の話である事を感じる。

また人々は坐禅とか瞑想を修行というのだが、
自分がやりたくてやっていることが
どうして修行と言われるのかも分からない。
無理をして努力しているのではなく
瞑想することが、自分の本来の自然の状態のように感じるのである。


内なる僧院
2011-11-10 | 生活雑感
15年ぶりにインドの聖者の宗教団体を訪問した。
なぜ15年も行かなかったかというと、
そこに居た人たちが、あまりにも私とは違うように感じたからだ。
もう死ぬまで行く事はないだろうと思っていたのだが、
最近その聖者に呼ばれたように感じた。
それで、行ってみたのだが、行って驚愕してしまった。
その場所の雰囲気が全然変わってしまって
愛情も感じない排他的なものに変わっていた。
一番最初に行った25年前は、そこに何やら神の愛を感じたのだ。
それが今ではかけ離れた雰囲気の場所になっていた。
これは自分が感じただけで本当は違うのかもしれないと断っておくが、
高慢と排他の思念が渦巻いているように感じたのだ。
そしてある事に気付いた。

実を言うと、最近は自分の居場所を探していた。
それでこの半年間に様々な寺院や僧院を回った。
そして、自分に合う僧院はないかと探してみたが
もはやこれ以上探してもどこにもないのが分かる。
そこに行ってはっきり分かった事は
実は僧院は私の心の中にある。
心の中に僧院を造り、
聖堂を造り、
そしてご本尊は内なる神である。
もはや私にとっては外界の僧院を求める必要はない事が分かる。

30年近く前は師を求めて歩き回ったが、
その後、自分の心の中に唯一の師が居る事に気づいた。
そして今度は、この何年かの行動が心の中に僧院と聖堂がある事を気付く為だったとは驚いた。
チベットの聖者ミラレパの詩の内容が今の自分の心境の全てを物語る。

*ミラレパの詩(理解しやすいように若干アレンジしてある)

『秘伝の教えを瞑想して
 宗教の書物を忘れてしまった。
 一人であることに喜びを感じて
 人といることを忘れてしまった
 自分の心の中に僧院を造って
 外の僧院を忘れてしまった
 言葉よりも心に帰依して
 言葉をもて遊ぶ仕方を忘れてしまった。』
聖者との別れ
2011-11-11 | 瞑想
聖者に呼ばれた理由を考えてみたがどうしても分からなかった。
それでその聖者に瞑想してみることにした。
そういえば、その聖者を心に浮かべて瞑想するなんて事は
遙か昔にして以来ずっとしていなかった事である。
その聖者が教えた道は、その聖者のイメージを心の中に浮かべるとか
自分の理想神を心に浮かべる事から始まる。
その心像である人格神に心を集中することにより、
対象である人格神への愛に自己を没入させるという瞑想である。
とにかく、その瞑想を何年かぶりに実行してみた。
(*ここからの話はほとんど私の妄想の話なので真実なのかどうか分からない)

しばらくすると、彼が何かを言っているように感じ始める。

『私の道はおまえの道ではない。
 私は人々に愛の至福を与える道である。 
 私の道は神様を対象とし、
 神様を楽しもうとする者の道である。
 だが、おまえの道は神様を楽しむ道ではなく、
 楽しんでいる主体である自己を知る道である。
 おまえの理想は私ではなくラマナマハリシである。
 私の道は今までのおまえには必要であったが
 これからは私の道はおまえにはむしろ害を与えるであろう。
 私と私に関係する書物はもう読む必要は無い。
 そして、私に礼拝する必要もない。
 これで私とはお別れである。』

なぜか、そう言われたように感じる。
確かに彼の団体の人たちと接したりしたくないし、
彼に関係した本については今はあまり読みたいとは思えない。
それで彼の団体から出版された本を破棄しようかと思った。
書棚にあった十冊以上の書籍を近くにあった段ボール箱に詰めた。
そして、それらの本はもう読まない事に決めた。

ただ、3冊だけは書棚に残した。
『バガヴァッド・ギーター』
『秘められたインド』
『謙虚な心』


謙虚な心
2011-11-12 | 生活雑感
なぜだか『謙虚な心』という本だけは残しておこうと思った。
その本は4年前に初版が発行された時に買ったものだ。
不思議なことに、それだけは残しておきたいと感じたのだ。
本を整理していてその理由が分かった。
聖者の団体に行ったのは15年前だと思っていたが、
13年前の1998年だった。
その時にそこで貰った冊子が出てきたのだ。
その発行日が1998年になっていた。
その冊子にその時の自分の思いがメモ書きしてあった。
そこには3つのことが書いてあり、
その一つがその本の主人公だった。

実は。高校生の頃、その主人公に惹かれるものを感じていた。
20才でインドに行った時に、その主人公の英文の自伝を買ってきた。
そして、こつこつ訳して35才(だったと思う)の時に自分で一冊の本にしたのだった。
でも、だれにも見せることなく、自分の本棚の奥にしまっておいた。
そんなことも、すっかり忘れていたのだ。
その本の題名は『NAGMAHASAYA』という。
自分はそれを『ナーグマハサヤ』として訳していたので
『謙虚な心』で出てくる名前とは読み方が違う。
なぜ彼に惹かれるのかは分かっている。

本当の真理は言葉の教えで表されるのではなく、
生活こそが最大の教えである。
どんなに立派なことを言おうとも
一番大切なのは実際の生活や実践なのだ。
逆に、言葉の教えがなくても生活こそが真理の教えである。
かれの生活はそんなすばらしい実践生活だと思った。
13年前のメモ書きにはこう書かれていた。

『全ての聖典の教えを捨てなさい。
 そして、あなたの内なる源から教えを請いなさい。
 またあなたが訳した「ナーグマハサヤ」のみを聖典として
 彼の自伝を読みなさい。
 彼のみを教えとし、毎日彼の本を読めばそれで十分です。
 それ以外の教えを受けることを止めなさい。』

よく考えると、今の私の手元にある『謙虚な心』という本は誰かの思いが訳に入っている。
もし所持するなら自分が翻訳した『ナーグマハサヤ』の本を持つべきだ。
それで『謙虚の心』の本は破棄することにして
書棚には『ナーグマハサヤ』を置いた。


回心
2011-11-13 | 教えの言葉
13年前の2つ目のメモ書き

スーフィーのある聖者は40回以上も回心をしたそうです。
失敗を恐れることなく進んでみよう。
失敗したっていいのです。
それで終わりではありません。
回心をすればいいのです。
何回でも。


幸福の源
2011-11-14 | 幸福
13年前も今も方向性は全然変わっていないことを感じる。
いったい自分は成長しているのかと疑問さえ感じてしまう。
結局は探求への思いが一貫しているということか。
よくもまあ同じ事ばかり考えていられるものだ。
3つ目のメモ書き

幸福の対象ではなく、
幸福の源を探そう。
それが胸にあることは間違いない。
楽しさ、喜び、悲しみ。不安、怒り、
全てはそこから来る。
そして、ギャンブルの時のときめき、生活の不満、
それらもそこから来る。
神への尊敬もそうだ。
それでは、その源は何か。
感情の源を探しなさい。
本を読み知識を探すのではなく、
直接的なもの。
幸福の源を探しなさい。
そこには何かがあるはずだ。
真理は外ではなく、
あなたの中にあります。
外界との接触ではなく
内界、内面にあるはずです。
決して急いではいけません。
すでに道は示されているのです。
あなたは胸の奥で何かを感じていることに気付いています。
それを探しなさい。

他のメモを読むと
この当時と今との相違点は瞑想の時間の様だ。
その当時は、ほとんど瞑想をしなかった。
もしやっても1日に10分位しかしていなかった様だ。
瞑想の目標は、朝夕10分と書いてある。


高慢(他人の欠点)
2011-11-15 | 生活雑感
最も気をつけなければならない煩悩は高慢である。
怒りや悲しみや憎しみなどの感情は外に表れるし
そういった感情は心に良くない事だと気付きやすいので
矯正する事も簡単である。
しかし、高慢の感情はほとんどの人が気付かぬまま、
どんどん心の中で大きくなる。
大きくなってしまった時にはもはや矯正も不可能な状態になる。
そして自分でも気付かぬままそれは過ぎていく。
それはあなたの心の中に大きな『エゴ』として君臨する様になる。

特に気をつけなければいけないのが他人の欠点を見る事である。
例えば、あなたが他人をだます性格ならば
隣の人が他人をだまそうとしても
あなたはその性格に対して何とも思わないはずである。
その性格はあなたと同一の性格なので
批判するならば自分自身を批判した事になるからだ。
だから、それを欠点とも思わないし批判もしない。
つまりあなたと隣の人は同一そして同等で有り
そこには何の優越の思いも生まれない。

ところがあなたが他人の欠点を見るとどうなるか。
隣の人を批判してこの人は他人をだます悪い人だと思う。
その時、あなたの心の中にある事が起こっている。
心の中には対比している二人が居る。
だますという隣の悪い人とだます事はいけないと思う自分がいる。
言い換えると、だましている悪人とそれは悪いと思っている善人の自分である。
この時、自分は善人であるという高慢の芽が生まれる。
他人の欠点を見て批判する思いが生まれるに従って、
だんだんこの高慢の芽は成長していく。
そして、徐々にこの優越を付けたがっている心が巨大化していく。
しばらくすると、あなたの心の中の大きな『エゴ』は我がもの顔で君臨する様になる。
そのエゴが正義とか善と呼ばれる様になると最もやっかいな事が起こる。
もはや、その巨大化したエゴを批判する事は悪だと言われてしまう。
なんと逆にその大きな『エゴ』を持つ事を賞賛されてしまうのだ。
他人の心はあなたの心を写す鏡である。
他人の心の中の欠点を見る時、あなたの心の中の高慢が心を曇らせる。
そうして、
『あなたの心は他人の欠点を見ることにより益々曇り汚れていく。』
よく考えてみてほしい。
あなたはエゴから離れて心を少しずつ小さくすることを
心を完全に滅することを望んでいたはずではなかったのか。
ならば、他人の欠点を見ないようにして気にとめないことだ。
どうしても見てしまうようなら欠点を長所と思う様にすることだ。
もしも、隣の人がお金に汚いと思うのだったら逆にこう考えてみることだ。

『この人のお金に対する信仰心の何とすばらしいことだろう。
 どんな時でもお金の信仰心を忘れず、
 いつも何時でも常にお金を儲ける気持ちを心に持っている。
 私も彼のように常に自己を探求する心を忘れずに持っていたいものだ。』

現代の宗教家たちが真理を知る事ができない最大の理由は
高慢という肥大化した『エゴ』から離れられないためだ。
今の世の中の宗教指導者や教師といわれる人たちは
衆生を救うとか人々に救いの言葉を広めるとか言いながら
自己を正当化してエゴが肥大化することを良いと思っている。
また僧侶になって頭を丸めてお袈裟を着るだけで
多くの人々が格好だけの自分を尊敬してくれる。
僅かな宗教的な知識を知っているだけで、
他人からの尊敬のまなざしを受けて満足する。
特に宗教を職業にすると
その職業に就いているだけで
多くの人からの尊敬を集めることができる。
そうなると、その地位から離れられなくなる。
でも、自分自身の肥大化したエゴを正当化できるので
そこから離れる事などとうてい考える事もできない。
そしてその場が自分自身の自尊心や優越感というエゴを育む温存と化すのだ。
寺院や僧院の中の自分の地位と振る舞いに執着する事によって
自分のエゴは益々肥大化していくが、
批判する人は誰もいないし、
自分自身でも肥大化したエゴを批判する理由を見つけられなくなっていく。
口では真理を求めていると言いながら
実は知っている知識を言葉として述べているだけで
本当は真理を求める気持ちなど全くない。
そして真理を知る事とはほど遠い
煩悩の塊のような正反対の世界の人間となっていく。

本当は高慢という『エゴ』こそが最大の障害だと誰が知っていよう。
なぜなら、真理はエゴを捨てた所にあるのだから。


高慢(苦行を捨てたもう一つの理由)
2011-11-16 | 生活雑感
仏陀が苦行を捨てたもう一つの理由は
肉体的な理由とは違う精神的な理由であったのだろう。
つまり自分自身の高慢というエゴを捨てる事だったのではないかと思う。
ここからは私の推測でしかないが、
多くの聖者が高慢を捨て去った時に
そして本当の孤独を実現した時に
初めて真理を悟るのである。
彼は苦行を捨てる時にこう思った。

『私は他の誰よりも厳しい苦行の道を歩んだ事を告白する。
しかし苦行の生活も心を静めて真理を悟る事はできなかった。』

それまでの私はこれだけの苦行をしたという慢心があり
同時に五人の比丘をはじめとする多くの人々からの尊敬によって
自分の心の中に高慢の心があった。
それは、彼に付き従っていた五人の比丘の言葉からも推測される。

『王子こそは他の誰よりも苦行の道を歩んでいた事を認めよう。
彼はいずれは真理を悟るであろう者と思って期待していたのだ。
しかし、今や世の楽に染まり、
もろもろの苦行を投げ捨ててしまった。
すでに根本の誓いを破ったのだから
供養を受けるに値しない。
尊敬されるべき人ではない』

仏陀は、苦行をしている自分に高慢な心があったことを気付いたはずだ。
心の中の執着を捨てる為には
苦行を捨てると共に
執着の根源である人との関係を全て捨てる必要があると分かったはずである。
そして、本当に必要な事はただ孤独でいることであり、
誰とも関わらずに只一人、
私として存在していることのみが必要なことである。
こうして、苦行を捨てると共に、
彼は高慢な心を捨て去った。
苦行者という地位を捨て去る事は
人々から尊敬を失う事である。
そして只の何の地位も持たない一人の人間になった。
それは高慢な心を全て捨て去る事でもあり、
弟子も仲間も持たず、
修行者の地位を捨て去る事であった。
それによって初めて苦行者という誇りを捨てた。
ここに来て苦行者としての高慢なエゴを捨て去り
一人になり、人と関わらない事によって
本当の一人の孤独な自分になった。
そうして、心を滅する準備が整ったのである。
仏陀の最後に捨て去られなければならない煩悩が高慢の心だったのである。


思念
2011-11-23 | 瞑想
ここに書くことは
ほとんどの人には理解できない話だということを
前置きしておきます

心が作り出すもので人々に知られていないものがある。
その一つが思念である。
この考え方は、遙か昔の30年ほど前に
『カレンよ永遠に』という書籍に書かれていた。
その時はあまり理解できなかったのだが、
とても大事なことのように感じて
何故だかそのことについて書かれていた箇所を
コピーして取っておいた。
最近はその思念の事をいろいろな所や瞑想する時に感じる様になった。
それで、その内容が今やっと理解できるようになって、
何十年ぶりかでその内容を読み返してみた。
自分ではそれを『思念』と名付けたが
その書籍では『思考』と書いてある。
でも、思考というと何か違う意味になってしまうので
思念の方が適切だろうと思う。
想念と欲望によって感情が生み出されるのは分かるのだが、
感情が現れる源に意識を集中する内に
分かったことがある。
一時的な感情に時間を与えてその感情を持続するように努めると
思念というものを作り出す。
ここで重要なことは

『思念とはものである。』

ということである。
世の中のほとんどの人はそれに気がついていない。
人々が思念を作りそれに力を与えると
その思念は作った本人から離れて
独立した一つの物のように存在するようになる。
最初は、何気なく生み出した思念であっても
時が経過する内にその思念が肥大化していく。
特にその思念自体を思い返したり考えたりする内に
その思念が心から何らかのエネルギーをもらって
強くなっていく。
その思念は、感情とか欲望とか言葉とか
また、感覚的な色合いも付加できるので
色とか香りとか音のようなものも添付することができる。
絵とか文章を批評する時に
『魂がこもっている』
と表現したりするのは思念のことだ。

強くなりすぎると、もはや作り出した本人では制御不能になっていく。
今度は作った本人がその思念の奴隷になってしまったりする。
また、思念は一つの物なので本人から他の人へと伝えたりすることもできる。
この思念は世の中ではあまり知られていないが
実は『思念』の力こそが世の中を動かしている原動力になっている。



2011-11-27 | 生活雑感
自分の人生を振り返ってみると師と呼べる人に会ったことがない。
多分、これから先の人生でも会うことがないだろうと思う。
今までに転機となった出会いもあったが
それはほんの一瞬の事であって
その時は自分自身の心の思索と経験によって切り開いてきたように感じる。
結局は、幾つかの書籍と自分の心のみが私の師であった。
仏陀が師を持たずに自分の心のみを拠り所として、
瞑想のみを方法としたように
自分自身もそういう道を取るように運命づけられているのだろう。
よく考えると真理は組織や人の中にあるのではなく
全ての真理は自己の内にあるということを知ることは重要なことである。
この知の道では必ずしも師や組織を必要とはしない。
本当に必要な事は何にも煩わされない事であり
ただ自己の心を見つめる事だけである。

多分、自分自身は生まれる前から師のいないこの道を用意していた様に感じる。
これからどうなっていくのかは分からないが
自分の縛っていた数多くの義務とか執着が有ったはずなのに、
今では自分自身から離れ始めているのだけは確かである。
そして用意されているのは、
ただ一人になって孤独にいることであり
内に向かう心を保ちながら
ただ心を内に向けて在る事だけである。



心は鏡
2011-11-28 | 生活雑感
ある人に自分の心の理想を描いて欲しいと頼んだ事がある。
出来上がった作品をじっくり見たら、
その絵は自分が頼んだ絵ではないと感じた。
自分の書いて欲しかった絵は自分の心だったのだが
その絵はその画家の心がそのまま出ている絵だった。
私の心に写った画家自身の心を描いてしまったのだろうと思う。

自分の心は自分ではなかなか気付くことができないのものだと痛感する。
それほど、高慢な心は最も大きな障害として存在し、
それを気付くのも取り除くのも難しい。

人の心の本当の姿を見る事は難しい事だと思う。
自分では、相手の心を見たつもりでも
実は相手の心に写った自分の心だったりする。
他の人の心を見ていると思っているのは錯覚で
本当は相手の心に映っている自分自身を見ている。
そのことに気付くのは本当になんと難しいのだろう。
高慢な心は内に向かうと自尊心・慢心・おごり・エゴと言われ
外に向くと怒り・軽蔑・見下し・そしてプライドを生む。

『類は友を呼ぶ』という諺は
他の人の心の中に自分と同じ性質の心を写す人に惹き付けられて、
同じような人が惹き付け合って集まる事から来ている。
人の心は自分を写す鏡である。

もしも他の人の心を見ても欠点を見ないようになったら
自分自身に欠点がなくなった時だと知る事ができる。
でも、それを知るのは非常に困難な事だ。
なぜなら、その時がエゴがなくなった時だから。


仲間
2011-11-29 | 生活雑感
よく考えると、今までに本当に尊敬できると思えた人に出会ったことがない。
そして、自分と同じような道を行く人にも会ったことがない。
多分、自分の道が一般の多くの人々とは異なった道なのだと思う。
だから仲間と言えるような人もいないし、
ましてや親友といえるような人も存在しない。
しかし、仲間がいないことがどうなのかという事よりも
自分の道は仲間のいない孤独の道なのだということだ。
孤独の道だからこそ、真理を知ることができるのだ。
結局は、人に期待すること自体が一つの執着であって
いずれは乗り越えなくてはならないものである。
自分自身の性格が他の人々と比べると大きな点で違う。
それは、既成概念を疑う事であり
思索によって本当の概念を知ろうとする事である。
それが、既成宗教・倫理・正義・道徳・真理といった
人々から一般的に広く信じられている概念を疑うことであり
本当の真実の真理を知ろうとする態度である。
それは、人との関係をも疑うことでもある。
もし、同じような道の仲間がいたとしても
仲間と共に暮らすことは、時が過ぎていくと
結果的には、自己の心を内に向けることから遠ざけるだろう。
そして他の人との関係は心を外へと向かわせるだろう。