釈迦の時代の仏教
2012-08-27 | 生活雑感
たまたま、ジャイナ教の本を読んでいたら
シャカ時代の仏教が今のジャイナ教と
色々な点で実によく似ているという話だった。
1.まず、お寺や寺院を作らない。
2.偶像崇拝をしない。
3.托鉢によって食べ物を得ている。
4.戒律を重視している。
5.教団は出家修行僧が中心となり、妻子を持たず世襲もない。
6.理論よりも実践である瞑想を重視する。
この話を読んで思うのですが、
今の日本の仏教は、
本来の釈迦の頃の仏教とは正反対の全然違うものに変わってしまったようですね。
シャカの時代はブラモン教という宗教が支配していたのですが
バラモン階級の人たちは聖職者という職業を持っていた。
その時代のバラモン教は寺院を持ち、
バラモンの神々の偶像を崇拝し、
ヴェーダという経典を読むことがお勤めであり
帯妻者を認めてその職業は世襲され、
内容も形式主義に陥っていて、
儀式を執り行うだけの僧侶という職業になっていた。
シャカはそういった形式主義的な宗教に反発して
真理を探究し
新たな教えを説いたのです。
それがビックリすることに現代の日本の仏教は
その当時のバラモン教とそっくりなんですね。
現代の僧侶は寺院を所有して世襲となり、
葬式という儀式を執行する職業となる。
戒律などは無視されて
ただ、頭を剃ることで出家したことに見なされる。
お経を読むことがお勤めであり
内容は漢文なので理解できない。
そして釈迦牟尼仏の偶像を拝んで崇拝する。
そして理論だけは重視する。
はて?
今の世の中にシャカが現れたなら
現代の仏教に反発を感じるに違いないな。
なぜならその当時のバラモン教とそっくりではありませんか。
こういう今の仏教では本物が現れる訳がない。
自分自身が現代の宗教に何となく反発を感じる理由が分かります。
結局は、宗教や宗派やお金儲けに関係せずに
ただ真理を求めることだけが自分には必要だと感じます。
心の真ん中
2012-09-01 | 瞑想
徳永英明の歌で『抱きしめてあげる』という歌の歌詞の中でこういうフレーズがある。
『心の真ん中が痛い
あなたを愛してる・・・
心の真ん中が痛い
心が叫んでる・・・
心の真ん中が痛い
触(さわ)れそうなくらい・・・・』
この徳永英明の歌のように
心の真ん中の痛くなるような場所、
さわれそうな感覚の場所
というのが自分自身の中の感情の中心だろうと思っていた。
この心の真ん中が私という自己であり心という存在だろうかとずっと疑ってきた。
何年も前から瞑想の時にこの場所に意識を集中しようと努力していた。
時間と共に瞑想が深まり、雑念や想念が浮かばないようになると、
この場所への集中がよりスムーズに行くだろうと思っていたのだが
ところが、何度集中しようとしても
心の真ん中に痛さやさわれそうな存在感を感じる事ができないのだ。
雑念を抑制し、その場所に集中しようとすると
何故だか心は静寂へと導かれていってしまう。
そして、その存在感は消え失せて行ってしまい、
ただ静寂のみが心の中心を支配するという繰り返しが続くのである。
ところで、オリンピックで柔道を見ていた後に瞑想をしたら、
選手の勝ちたいという感情と
その後の負けて落胆した感情がヒシヒシと伝わってきて、
心の中心の痛みと触れそうな存在感を非常にリアルに感じた。
なにやら心自体が勝ちたいという感情と共に肥大化するのを感じた。
本当の事は分からないのだが自分自身の色々な経験から推測すると
心というのは自我を主張している時は感じる事ができるので、
心の中心の真ん中に集中する事もたやすいが、
心が自我を主張して来ない時は、
心自体を感じる事ができないように感じる。
だから集中する事がうまくできないのではないかと推測している。
心が存在できる状況を分析すると
心は何かの対象に依存することによってしか存在できないようで
心自体に集中しようとしても
限定された何も無い空間のような感じになる。
すると、心が静寂そのもののような状態になる。
だから集中する対象として心を認識することはできないようなのだ。
実際、瞑想が進むほど心の囚われがなくなるので、
心の執着も減っていき自我を主張することも少なくなる。
自己の自我が縮小していくことに伴い心の自己主張も少なくなる。
だから、心を感じようとしても感じる事ができないのではないか。
最近はそう思う様になった。
私は満たされないという感覚
2012-09-03 | 瞑想
瞑想をしていて自分の心を見つめる内に
自分の中に、「私は満たされないという感覚」がずっと有って、
それが心の中心から生じてくるのを感じた。
お酒を飲もうが、
異性と恋をしようが、
お金を儲けようが、
仕事に燃えようが、
すばらしい地位に就こうが
どんな事をしようが
何か満たされない。
そんな感覚がいつまでたっても自分の中に残っている。
そこには私は満たされないという漠然とした感覚がある。
そもそも心が生まれると
最初に心に生まれる想念がある。
それは多分『私は満たされないという感覚』である。
心は自分の本来の状態である『幸福』を探そうとして
心はその原因を外界の世界に探し求めることから
全ての人の行動は始まるのではないだろうか。
瞑想する内に「私は満たされないという感覚」がある事を感じる。
この原因は、『漠然とした私という感覚』であって
その中心に『私』という意識を感じる。
自己を探求する内に分かったのだが、
この漠然とした私という感覚が、
一般に『自我』とか『エゴ』とかいわれるもので
それが全ての苦しみの原因をなすもののように感じる。
この『漠然とした私という感覚』は
一般的な言い方で述べるならこうなる。
『漠然とした不安』
『漠然とした孤独や孤立感』
『漠然とした寂しさ』
『漠然とした悲しさ』
『漠然とした虚しさ』
これらは全て『漠然とした私という感覚』と同意語だ。
ただ、それに直面することは苦痛であり、
何かに逃げたいような衝動を感じるのだが、
もしも逃げたとしても、
満たされないという物足りなさは解消することができないであろうことを感じる。
そして、その中心の自我自体に意識を向け、
その自我の存在感を感じる心の中心に意識を向ける。
それは私という想念が生まれ出てくる胸の心の真ん中に存在している。
これこそが自我の本体で私という意識だと強く感じる。
この自我自体を意識して直接感じる事ができるとは不思議なことなのだが
もっと不思議なことには
何故だかこの自我こそが全ての不幸の原因であるように感じるのだ。
散漫と集中の繰り返し
2012-09-05 | 瞑想
瞑想していて非常に深い瞑想状態になり、
こんなに集中したのは久しぶりだと思った次の日に限って、
瞑想していても集中が浅く、
心が散漫な状態になってしまって、
昨日の瞑想は何だったんだろうと思うことが良くある。
どんなに努力しても心が散漫で、
こうなりたいという心の想いが
むしろ障害になっているのではないかと思うことがある。
そういう時は瞑想していても終わってから失望感が残り、
一体自分は何をやっているのだろうと
自己嫌悪に陥ったりもした。
ところが、実はそれが心の性質であって、
後になって思うと、
表面意識で進歩がないと思っている時に限って、
潜在意識の中では見えない進歩が蓄積していると感じる事がある。
それはその時には分からないもので、
後で振り返ってみて気が付くもののようだ。
私は満たされているという感覚
2012-09-07 | 瞑想
ある時、海岸で瞑想していたら
突然、私の中に「私は満たされている」という想いが生まれて来た。
私の中には「私は満たされない」と言っているものが居たはずなのに、
私の中にはもう一人の自分がいる様に感じた。
その自分は、「私は満たされている」と言っている私である。
いつもの対象を追いかけ、
そのために苦楽に振り回されながら常に刺激を求める者で
『私は満たされない』と言っている自我という存在ではなく、
対象や欲望からは離れ、
自我という存在ではなく
『私は満たされている』と言っている自己が同時に存在している様に感じる。
以前、この感覚をどこかで感じたことがあるような気がしたが、
思い出せない。
この『私は満たされている』という感覚は、対象や欲望が無くなった状態の時に、
自分の心を見つめていると、
何者にも縛られずに
満足しているもう一人の自己がある事にふと気が付いた。
それは、個人的な欲望を求めるような自我とは無縁の存在で、
何も無くともただ存在しているだけで
満たされているという感覚しかない状態なのだ。
それは、静寂の中に満足している自己とでも表現すべきだろうか。
今まで、あんなに悩んでいた対象を探し求める自我があったはずなのだが、
対象や欲望から離れてみると、
何も無くとも満足する自己が居ることに気が付く。
結局、今まで探していたものは、
この満足する自分だったのではないだろうか。
この満足する自己こそは幸福そのものであり、
真の自己ではないかと思えた。
ふと、ある本の聖者の言葉を思い出す。
「無知は、あなたの思いの中にだけ存在する。
あなたは自分の現在の無知を自分であると考えてきた。
今度は、退いて叡知を自分であると思え。
それは自覚と同じものである。
思考は、人を山のトンネルの闇の中に運び込む牛車のようなものだ。
それを引き返させると、
あなたは再び、光の中に連れ戻されるのだ。」
結局、思考は人々を対象へと導き、
そして欲望を生み出す自我を強める働きをするものあり、
思考こそは無知へと導く原因であるように感じる。
欲望から離れ、
対象から離れ、
そして思考から離れる事により、
自我は縮小し、
無念無想の状態にたどり着く。
すると、ふと、自分が実は満たされている者である事に気付く。
自己を探求することとは実は、
何も無くても私は満たされている存在であると気が付くことかもしれない。
言葉で書くのは簡単だが、
それは知識では無く、
瞑想による無念無想の状態の先に存在する経験的な出来事であって、
思考することを超越した所に存在するものである。
瞑想を伴わない人々にとっては、
只の知識でしか無く、
経験的な理解が必要な世界である。
思考することを止めて、
欲望と対象から離れた境地にしか見いだせないものだ。
知性から離れて
2012-09-11 | 瞑想
呼吸を見つめるだけの瞑想状態になり
しばらくすると、ほとんど想念も現れない状態になる。
そして、自分自身の自己が知性から離れてある状態になる。
知性を使って思考することから、
自分自身が離れて存在し、
もはや、考える思考自体から離れ、
想念も無く、
思考も無い、
ただ存在しているだけで楽な状態になる。
途中からそのことに気付き、
時々雑念が現れるが、
雑念自体はやり過ごす。
ただ、自己のみが知性から離れて存在しているのを見つめている。
そうしている内に、呼吸を意識しながら、
胸の中心を感じる自分が居ることに気が付く。
そこには、全く自我やエゴがなく、
ただ私を意識している自己がある。
自我やエゴの私はもうどこかに行ってしまい、
静寂と沈黙の中から全く自我のない別の私がある事に気が付く。
その私という存在は呼吸と共に胸の中心に存在していて、
何の欲望も想念も無い純粋の私が呼吸と共に胸の中心に存在していたのだ。
自我とかエゴの私とは別のもう一つの全く純粋な私が
静寂と共に存在していることを感じる。
もはや、想念も知性からも離れ、
静寂そのものの沈黙の状況にあって、
もう一つの私は呼吸と共に存在していて、
ただ私は在ると感じるだけなのだ。
無念無想の後に存在する静寂の向こうに
自我とは別の私という存在があるように感じる。
ただ、あまりにも体験的な事柄なので、
こうして文章にしていてもうまくその境地を説明できないのは残念だ。
ただ、私は在るというのは、静寂の先にある自我のない状態で
私自体を意識する事によって感じる事ができる状態のようだ。
想念からも知性からも離れて
ただ自己が存在するだけの境地を垣間見る。
そういった瞑想中の経験を日常的な言葉として表現することが難しいと感じる。
また、その時はその境地にある事を感じるのだが、
後で思い出そうとすると知性からも離れているせいで
記憶として曖昧で明確な記憶として表現することも難しい。
シヴァ神の像
2012-09-14 | 瞑想
パソコンのYouTubeでガヤトリーマントラを聞いていた。
そこに瞑想するシヴァ神の像が出てきた。
その像を見てたら、なぜかその像に視線が釘付けになった。
ふと、昔の事を思い出した。
自分自身はこのシヴァ神が理想だったと思い出した。
長い髪を束ね、
座って瞑想しながら自己に集中するシヴァ神に対して
何とも言えないような畏敬の念と尊敬と理想を感じていた。
若い頃からこの瞑想するシヴァにあこがれを感じていたのだった。
その後に瞑想をしてみた。
なぜだが、私は誰かという問いに対して心が
『我はシヴァなり』、
『我は私の源のアートマンを瞑想するシヴァなり』
という答えと共に、
ガヤトリーマントラに出てきたシヴァ神が自分と重なり、
胸の中心のアートマンに瞑想するシヴァであるかのようなイメージと共に瞑想する。
自分自身がシヴァ神であるかのように一体となり、
瞑想がしやすい感じがしていつもよりも集中が深い感じになる。
多分これも一つの瞑想の方法なんだろうと思う。
自分自身がシヴァ神と一体化したように感じながらシヴァ神を瞑想する。
もはやシヴァ神は私自身であると感じる出来事だった。
足下の紙切れ
2012-09-20 | 生活雑感
ある本にある聖者の信奉者の話が書かれていた。
『バガヴァン(聖者の尊称)に話しかけたことなどほとんどないような内気な信奉者が、
通りすがりに勇気を出して、バガヴァンの足下に一枚の紙切れを投げた。
バガヴァンはそれを拾って読むと、紙を投げた信奉者を連れてくるように言った。
従者たちは規則を破って叱責される犯人でもあるかのように
その信奉者をバガヴァンの前に引っ張って来たが、
バガヴァンは寛大でやさしい笑みを浮かべて彼を見つめ、
承知したようにうなずいた。
その紙には「バガヴァン!私を救いたまえ」と書かれていた。』
たったこれだけの話なのだが、
この話を読んだら、
なぜだか涙が出てきて止まらなくなった。
最初はどうして涙が出てくるのか分からなくて
それでもボロボロと涙が出てきた。
もう一度読んでみた。
紙切れに書かれた言葉を読んだら
「神よ!どうか私をお救い下さい」という祈りの言葉を思い出した。
以前、何度となくその言葉を口にした。
何度も口にしたけれども
いつも神は何も返事をしてくれないと感じた。
でも、その祈りの言葉は今でも心の中に染み込んで存在している。
多分、その信奉者の気持ちと自分の気持ちが重なったのだろう。
よく考えると最近はその言葉を言わなくなった。
そして、今では心の中でこうつぶやくようになっていた。
「全ては神の思し召しのままに」
精神的な進歩と退行
2012-09-22 | 瞑想
不思議なことだが
日によってあるいは瞑想する時間帯によって
達する境地がいつも違うようだ。
急激な変化を心は期待するものだが、
少しずつ少しずつしか瞑想は変化していかないのを感じる。
まるで、三歩進んでは二歩下がり、
時には十歩下がるのだが、
一歩ずつ進んでまた元の場所に戻るというような、
進んでいるのかどうか分からないような進歩の仕方をしている。
だから、途中では同じ所をぐるぐる回っているように感じるのだが、
一ヶ月が経過してみて振り返ってみると
この一ヶ月で一歩しか進んでいない事に気付く。
時には後退している事もあるのだが、
一年という長いスパンで見ると、
三歩も四歩も進んでいることに気が付くようだ。
それほど、精神的な進歩というのは分かりづらいものだ。
目の前が開けてすごい境地に達したなどと感じた次の日に限って、
今度は後退した状態に落ち込んでいると感じるようで、
そういった焦りが精神的な進歩の障害となる様にも感じる。
人々は、奇跡的で急激な変化や進歩を常に望むものだが、
精神的な進歩は決して急激には進歩しない。
ありがたい
2012-10-08 | 生活雑感
心を見つめる内に自分の中の欲望や感情が見えてくることがある。
瞑想していたら、今の自分が非常に恵まれた状態にいるのにも関わらず、
今の自分がそれ以上に何かを欲しいと望んでいることにふと気が付いた。
自分の中にまだお金がもっと欲しいとか
もっと増やしたいとかという欲望がある事に気が付いた。
『まだ欲しい、まだ欲しい』という欲望にはキリが無い。
どうして今をありがたいと思えないのだろうか。
『ありがたい、ありがたい』とは今に満足することである。
今、現在の自分を満たされていると感じる事だ。
今で十分ありがたいと思えば、
欲望は満たされ、
そして苦しみもなくなるのに、
ほとんどの人は今を『ありがたい』と思わずに
『まだ欲しい』と言っている。
お金が欲しい、
財産が欲しい、
地位が欲しい、
名誉が欲しい、
健康が欲しい、
若さが欲しい、
あれが欲しい、
これが欲しい。
一体、人はいくつの欲しいがあるのだろう。
最近、良く考えることがある。
生まれる前からその人の人生では、
これだけのお金と財産を与えられる事があらかじめ決められていたのではないか思う。
それは、因果応報とかカルマの法則によって決められていたのかもしれない。
または、神によって決められていたのかもしれないし、
もしかすると自分自身が決めたのかもしれない。
でもほとんどの人は決められていた以上を望もうとする。
いずれにしても、
ブッダは今に満足せず、
欲望から離れられない事が苦しみの原因であると説いた。
つまり苦しみから逃れる方法は、
『まだ欲しい』ではなく
『ありがたい』と思えることなのだろう。
欲望から離れ、
今に満足することが
そして『ありがたい』と言えることが
自我やエゴを消滅させる一つの方法なのだろうと思う。
偶像崇拝
2012-10-22 | 生活雑感
世界の四大宗教は元々は偶像崇拝を認めていなかった。
ユダヤ教とイスラム教は、戒律に偶像崇拝の禁止があるので
現在でも偶像崇拝をしていない。
キリスト教は、元々はユダヤ教の変革者であったイエスが
『天にまします我らの父よ』
と神様に祈りは捧げたのだが
決して偶像崇拝はしていない。
むしろ偶像崇拝は認めていなかった。
だから、初期のキリスト教ではイエスは一人の人間であって
彼の教えと無形の神に対する崇拝のみだった。
それがいつの間にやらイエスに対する個人崇拝になってしまって
十字架のイエスとマリアの像を造り
偶像崇拝するようになってしまった。
仏教でもブッダは偶像崇拝を認めていなかった。
教えを崇拝することを望んだ。
初期の仏教では仏像などなかったのだ。
偶像崇拝はバラモン教のものであり
既存宗教を否定して生まれたブッダの教えには偶像崇拝なんてない。
逆に偶像崇拝とか占いについては否定的な言葉を語っている。
ブッダの最後の言葉
『汝らは、ただみずからを灯明とし、
みずからを依処として、
他人を依処とせず、
法を灯明とし、
法を依処として、
他を依処とすることなくして、
修行せんとするものこそ、
わが比丘たちの中において最高処にあるものである』
自分ではこの文章の『他』とは偶像崇拝のことだと思う。
法を拠り所にするはずが
いつの間にやら、ブッダに対する個人崇拝になり
そして、ブッダの像を造って偶像崇拝するようになってしまった。
今の時代にブッダが生まれたら、
きっと偶像崇拝を戒めるでしょうね。
このブログについて
2012-10-22 | 説明
最初は自分自身に対する戒めと思ったことを書くブログだったが
旅先で有る人物と知り合いになったことで
全然違うものに変わっていった。
ここに書かれた内容をしっかり理解できる人などいないと思っていたが
このブログの存在を教えると内容がすごいと言われてびっくりした。
それからはその人に読まれていることを念頭に置いて書いていた。
最近に書いていることは
本などの知識に頼らない自分自身の経験の話になっていて
座禅や瞑想をしたことが無い人には理解できないだろうし
あまりにも経験的な話なので
自分自身の言葉で表現することが難しいと感じる。
でも、自分自身の瞑想の記録として残しておこうと思う。
人に知られずとも、
真理を知ることができれば
自分の人生は成功であろうと思うが
真理を知ることができなくとも
自己を探求することができるだけで幸せである。
ただ、全ては神のお導きのままに。
また、旅の途中で知り合ったカーミュラーデザインの浦上氏には感謝しています。
『水月にて、私の姿を(神の姿にて)見定めて頂きたい』とお願いしたら
黒いシヴァ神の画像を作ってもらいました。(これが私の姿とは驚きました。)
あっ。それからこのブログを初めて読む人は
最初から読んだ方がいいかもしれません。
最後から読むと難解すぎます。
最初から読むと瞑想をするように至った流れが分かると思います。
一日断食
2012-11-03 | 食べ物
時々は一日断食を実行することがある。
前日に普段の半分位の食事量にして
断食の次の日の朝はミルク粥を食べるようにしている。
今までの経験から言えば一日断食をすると、
夕方の7時に食べたとして二日後の朝の7時に食べるとすると、
約36時間もの間、何も食べなかったことになる。
すると、体と精神が食べ物に依存としないためと
食欲という根本的な欲望を一時的に断つためによって
欲望に依存しない生活が実践できる。
その結果、その禁欲の効果がその後の瞑想に現れるようだ。
内臓自体が休息を得るせいで
眠気の減少と精神集中の向上が期待できるようだ。
また、一部の宗教で断食がある理由も分かる様な気がする。
ただ、二日以上の断食は別である。
その場合は60時間以上の禁欲になるので、
断食中特有の精神的そして肉体的な症状が現れてくる。
肉体的には、好転反応ともいわれる体調の変調や
貧血による立ちくらみや体のだるさ。
塩分不足や水分不足による動悸や息切れの症状。
特に冬場のような寒い時期には体の冷えと血行障害が現れる。
また精神的には、食欲という欲望の猛烈な反動がある。
余程の意志が強い人でも、
最初は食欲を制御するのが難しいので
一人で行うのはお勧めしない。
できたら断食道場のような専門的な所に行くべきだろうと思う。
ところで、お釈迦様はあの時代に一体何を食べていたのだろうかと思う事がある。
そのことは仏典には書かれていないので
何を食べていたのかははっきりしない。
ただ彼が間違いなく食べた食事が一つある。
それは、スジャータによって施された乳粥、つまりミルク粥だ。
そういった訳からではないが
一日断食の次の日はミルク粥を食べることにしている。
瞑想の進歩
2012-11-13 | 瞑想
瞑想の進歩は非常に分かりづらいもののようだ。
人は得てして劇的な変化や目標の達成を望むものだ。
最初の頃は変化や達成感を感じたりするのだが、
時間が経過すると共に、最初とは裏腹に
しばらくすると、まるで長いトンネルを進んでいるように
希望の光も見えず、何の変化もない単調な時が流れるようである。
変化は心の深くてとらえにくいレベルで起こり、
すぐには外には表れないもののようだ。
ある本に瞑想がどれだけ進歩したかの判断として
心の穏やかさと落ち着きで判断できると書いてあった。
次の質問に答えてみる。
無気力で怠惰な心を少しでも振り払えるようになったか?
今までより安らぎと幸せを感じ、感情的になることが少なくなったか?
心が冷静になって、満足感が増え始めているか?
この質問のいずれかの答えがYESならば、あなたの瞑想は進歩しているらしい。
しかし、自分ではどれもYESとは思えない。
現在、毎日やっていることと言えば、
瞑想とハタヨガと水泳くらいで
それ以外は生活する上で必要な買い物のような雑用ぐらいである。
そんな単純で単調な毎日の生活に苦痛を感じないし、
生活に刺激が欲しいとも思わない。
ただ瞑想中には、自分とはそして心とは何なのかを探求しているだけである。
不思議なことに最近は本当に自分が非常に自由だと感じるようになった。
これまでは何かに執着して苦しんでいたりもしたが、
その執着自体が減っていることに気が付く。
瞑想をする内に、色々な感情が表れる事が少なくなった。
寂しさや孤立感や不安や恐れや怒りといった感情が減ったようだ。
時には、定期的に自分のエゴが色々な感情を伴って自己主張してくる。
しかし、瞑想して呼吸に集中すると、
ゆっくりとした深い呼吸によって感情を伴った雑念は静まり、
心は静寂の状態へと導かれる。
もはや最近では進歩しているのかどうかという事を
あまり気にかけないようになった。
自分の心を見つめる内に、
私は決して宗教的な天才ではないし、
宗教的な天才にもなれないただの凡人なのだということがはっきりしてくる。
宗教的な天才達、
例えばラーマクリシュナの様な人達の書物を読んで感銘したところで、
自分には、彼らと同じような領域に達するのは無理だろうとつくづく感じる。
信者に彼の事を聞けば必ずこう言うだろう。
『ラーマクリシュナは神の化身だ』と。
だいたい自分は神の化身でもないし、
神の化身になれる訳も無い。
そもそも神の化身が神を悟ったとしても、
それを自分と同一視するのが間違いなのだ。
どんなに見栄を張ろうとしても、
あるがままの自分以上にはなれないのだ。
結局、自分はただの凡人であって、
どんなに努力しても自分の力には限界があるのだ。
全ては神の思し召しのままである。
神が望まぬ事はどんなに努力しようとも結果には表れない。
2012-08-27 | 生活雑感
たまたま、ジャイナ教の本を読んでいたら
シャカ時代の仏教が今のジャイナ教と
色々な点で実によく似ているという話だった。
1.まず、お寺や寺院を作らない。
2.偶像崇拝をしない。
3.托鉢によって食べ物を得ている。
4.戒律を重視している。
5.教団は出家修行僧が中心となり、妻子を持たず世襲もない。
6.理論よりも実践である瞑想を重視する。
この話を読んで思うのですが、
今の日本の仏教は、
本来の釈迦の頃の仏教とは正反対の全然違うものに変わってしまったようですね。
シャカの時代はブラモン教という宗教が支配していたのですが
バラモン階級の人たちは聖職者という職業を持っていた。
その時代のバラモン教は寺院を持ち、
バラモンの神々の偶像を崇拝し、
ヴェーダという経典を読むことがお勤めであり
帯妻者を認めてその職業は世襲され、
内容も形式主義に陥っていて、
儀式を執り行うだけの僧侶という職業になっていた。
シャカはそういった形式主義的な宗教に反発して
真理を探究し
新たな教えを説いたのです。
それがビックリすることに現代の日本の仏教は
その当時のバラモン教とそっくりなんですね。
現代の僧侶は寺院を所有して世襲となり、
葬式という儀式を執行する職業となる。
戒律などは無視されて
ただ、頭を剃ることで出家したことに見なされる。
お経を読むことがお勤めであり
内容は漢文なので理解できない。
そして釈迦牟尼仏の偶像を拝んで崇拝する。
そして理論だけは重視する。
はて?
今の世の中にシャカが現れたなら
現代の仏教に反発を感じるに違いないな。
なぜならその当時のバラモン教とそっくりではありませんか。
こういう今の仏教では本物が現れる訳がない。
自分自身が現代の宗教に何となく反発を感じる理由が分かります。
結局は、宗教や宗派やお金儲けに関係せずに
ただ真理を求めることだけが自分には必要だと感じます。
心の真ん中
2012-09-01 | 瞑想
徳永英明の歌で『抱きしめてあげる』という歌の歌詞の中でこういうフレーズがある。
『心の真ん中が痛い
あなたを愛してる・・・
心の真ん中が痛い
心が叫んでる・・・
心の真ん中が痛い
触(さわ)れそうなくらい・・・・』
この徳永英明の歌のように
心の真ん中の痛くなるような場所、
さわれそうな感覚の場所
というのが自分自身の中の感情の中心だろうと思っていた。
この心の真ん中が私という自己であり心という存在だろうかとずっと疑ってきた。
何年も前から瞑想の時にこの場所に意識を集中しようと努力していた。
時間と共に瞑想が深まり、雑念や想念が浮かばないようになると、
この場所への集中がよりスムーズに行くだろうと思っていたのだが
ところが、何度集中しようとしても
心の真ん中に痛さやさわれそうな存在感を感じる事ができないのだ。
雑念を抑制し、その場所に集中しようとすると
何故だか心は静寂へと導かれていってしまう。
そして、その存在感は消え失せて行ってしまい、
ただ静寂のみが心の中心を支配するという繰り返しが続くのである。
ところで、オリンピックで柔道を見ていた後に瞑想をしたら、
選手の勝ちたいという感情と
その後の負けて落胆した感情がヒシヒシと伝わってきて、
心の中心の痛みと触れそうな存在感を非常にリアルに感じた。
なにやら心自体が勝ちたいという感情と共に肥大化するのを感じた。
本当の事は分からないのだが自分自身の色々な経験から推測すると
心というのは自我を主張している時は感じる事ができるので、
心の中心の真ん中に集中する事もたやすいが、
心が自我を主張して来ない時は、
心自体を感じる事ができないように感じる。
だから集中する事がうまくできないのではないかと推測している。
心が存在できる状況を分析すると
心は何かの対象に依存することによってしか存在できないようで
心自体に集中しようとしても
限定された何も無い空間のような感じになる。
すると、心が静寂そのもののような状態になる。
だから集中する対象として心を認識することはできないようなのだ。
実際、瞑想が進むほど心の囚われがなくなるので、
心の執着も減っていき自我を主張することも少なくなる。
自己の自我が縮小していくことに伴い心の自己主張も少なくなる。
だから、心を感じようとしても感じる事ができないのではないか。
最近はそう思う様になった。
私は満たされないという感覚
2012-09-03 | 瞑想
瞑想をしていて自分の心を見つめる内に
自分の中に、「私は満たされないという感覚」がずっと有って、
それが心の中心から生じてくるのを感じた。
お酒を飲もうが、
異性と恋をしようが、
お金を儲けようが、
仕事に燃えようが、
すばらしい地位に就こうが
どんな事をしようが
何か満たされない。
そんな感覚がいつまでたっても自分の中に残っている。
そこには私は満たされないという漠然とした感覚がある。
そもそも心が生まれると
最初に心に生まれる想念がある。
それは多分『私は満たされないという感覚』である。
心は自分の本来の状態である『幸福』を探そうとして
心はその原因を外界の世界に探し求めることから
全ての人の行動は始まるのではないだろうか。
瞑想する内に「私は満たされないという感覚」がある事を感じる。
この原因は、『漠然とした私という感覚』であって
その中心に『私』という意識を感じる。
自己を探求する内に分かったのだが、
この漠然とした私という感覚が、
一般に『自我』とか『エゴ』とかいわれるもので
それが全ての苦しみの原因をなすもののように感じる。
この『漠然とした私という感覚』は
一般的な言い方で述べるならこうなる。
『漠然とした不安』
『漠然とした孤独や孤立感』
『漠然とした寂しさ』
『漠然とした悲しさ』
『漠然とした虚しさ』
これらは全て『漠然とした私という感覚』と同意語だ。
ただ、それに直面することは苦痛であり、
何かに逃げたいような衝動を感じるのだが、
もしも逃げたとしても、
満たされないという物足りなさは解消することができないであろうことを感じる。
そして、その中心の自我自体に意識を向け、
その自我の存在感を感じる心の中心に意識を向ける。
それは私という想念が生まれ出てくる胸の心の真ん中に存在している。
これこそが自我の本体で私という意識だと強く感じる。
この自我自体を意識して直接感じる事ができるとは不思議なことなのだが
もっと不思議なことには
何故だかこの自我こそが全ての不幸の原因であるように感じるのだ。
散漫と集中の繰り返し
2012-09-05 | 瞑想
瞑想していて非常に深い瞑想状態になり、
こんなに集中したのは久しぶりだと思った次の日に限って、
瞑想していても集中が浅く、
心が散漫な状態になってしまって、
昨日の瞑想は何だったんだろうと思うことが良くある。
どんなに努力しても心が散漫で、
こうなりたいという心の想いが
むしろ障害になっているのではないかと思うことがある。
そういう時は瞑想していても終わってから失望感が残り、
一体自分は何をやっているのだろうと
自己嫌悪に陥ったりもした。
ところが、実はそれが心の性質であって、
後になって思うと、
表面意識で進歩がないと思っている時に限って、
潜在意識の中では見えない進歩が蓄積していると感じる事がある。
それはその時には分からないもので、
後で振り返ってみて気が付くもののようだ。
私は満たされているという感覚
2012-09-07 | 瞑想
ある時、海岸で瞑想していたら
突然、私の中に「私は満たされている」という想いが生まれて来た。
私の中には「私は満たされない」と言っているものが居たはずなのに、
私の中にはもう一人の自分がいる様に感じた。
その自分は、「私は満たされている」と言っている私である。
いつもの対象を追いかけ、
そのために苦楽に振り回されながら常に刺激を求める者で
『私は満たされない』と言っている自我という存在ではなく、
対象や欲望からは離れ、
自我という存在ではなく
『私は満たされている』と言っている自己が同時に存在している様に感じる。
以前、この感覚をどこかで感じたことがあるような気がしたが、
思い出せない。
この『私は満たされている』という感覚は、対象や欲望が無くなった状態の時に、
自分の心を見つめていると、
何者にも縛られずに
満足しているもう一人の自己がある事にふと気が付いた。
それは、個人的な欲望を求めるような自我とは無縁の存在で、
何も無くともただ存在しているだけで
満たされているという感覚しかない状態なのだ。
それは、静寂の中に満足している自己とでも表現すべきだろうか。
今まで、あんなに悩んでいた対象を探し求める自我があったはずなのだが、
対象や欲望から離れてみると、
何も無くとも満足する自己が居ることに気が付く。
結局、今まで探していたものは、
この満足する自分だったのではないだろうか。
この満足する自己こそは幸福そのものであり、
真の自己ではないかと思えた。
ふと、ある本の聖者の言葉を思い出す。
「無知は、あなたの思いの中にだけ存在する。
あなたは自分の現在の無知を自分であると考えてきた。
今度は、退いて叡知を自分であると思え。
それは自覚と同じものである。
思考は、人を山のトンネルの闇の中に運び込む牛車のようなものだ。
それを引き返させると、
あなたは再び、光の中に連れ戻されるのだ。」
結局、思考は人々を対象へと導き、
そして欲望を生み出す自我を強める働きをするものあり、
思考こそは無知へと導く原因であるように感じる。
欲望から離れ、
対象から離れ、
そして思考から離れる事により、
自我は縮小し、
無念無想の状態にたどり着く。
すると、ふと、自分が実は満たされている者である事に気付く。
自己を探求することとは実は、
何も無くても私は満たされている存在であると気が付くことかもしれない。
言葉で書くのは簡単だが、
それは知識では無く、
瞑想による無念無想の状態の先に存在する経験的な出来事であって、
思考することを超越した所に存在するものである。
瞑想を伴わない人々にとっては、
只の知識でしか無く、
経験的な理解が必要な世界である。
思考することを止めて、
欲望と対象から離れた境地にしか見いだせないものだ。
知性から離れて
2012-09-11 | 瞑想
呼吸を見つめるだけの瞑想状態になり
しばらくすると、ほとんど想念も現れない状態になる。
そして、自分自身の自己が知性から離れてある状態になる。
知性を使って思考することから、
自分自身が離れて存在し、
もはや、考える思考自体から離れ、
想念も無く、
思考も無い、
ただ存在しているだけで楽な状態になる。
途中からそのことに気付き、
時々雑念が現れるが、
雑念自体はやり過ごす。
ただ、自己のみが知性から離れて存在しているのを見つめている。
そうしている内に、呼吸を意識しながら、
胸の中心を感じる自分が居ることに気が付く。
そこには、全く自我やエゴがなく、
ただ私を意識している自己がある。
自我やエゴの私はもうどこかに行ってしまい、
静寂と沈黙の中から全く自我のない別の私がある事に気が付く。
その私という存在は呼吸と共に胸の中心に存在していて、
何の欲望も想念も無い純粋の私が呼吸と共に胸の中心に存在していたのだ。
自我とかエゴの私とは別のもう一つの全く純粋な私が
静寂と共に存在していることを感じる。
もはや、想念も知性からも離れ、
静寂そのものの沈黙の状況にあって、
もう一つの私は呼吸と共に存在していて、
ただ私は在ると感じるだけなのだ。
無念無想の後に存在する静寂の向こうに
自我とは別の私という存在があるように感じる。
ただ、あまりにも体験的な事柄なので、
こうして文章にしていてもうまくその境地を説明できないのは残念だ。
ただ、私は在るというのは、静寂の先にある自我のない状態で
私自体を意識する事によって感じる事ができる状態のようだ。
想念からも知性からも離れて
ただ自己が存在するだけの境地を垣間見る。
そういった瞑想中の経験を日常的な言葉として表現することが難しいと感じる。
また、その時はその境地にある事を感じるのだが、
後で思い出そうとすると知性からも離れているせいで
記憶として曖昧で明確な記憶として表現することも難しい。
シヴァ神の像
2012-09-14 | 瞑想
パソコンのYouTubeでガヤトリーマントラを聞いていた。
そこに瞑想するシヴァ神の像が出てきた。
その像を見てたら、なぜかその像に視線が釘付けになった。
ふと、昔の事を思い出した。
自分自身はこのシヴァ神が理想だったと思い出した。
長い髪を束ね、
座って瞑想しながら自己に集中するシヴァ神に対して
何とも言えないような畏敬の念と尊敬と理想を感じていた。
若い頃からこの瞑想するシヴァにあこがれを感じていたのだった。
その後に瞑想をしてみた。
なぜだが、私は誰かという問いに対して心が
『我はシヴァなり』、
『我は私の源のアートマンを瞑想するシヴァなり』
という答えと共に、
ガヤトリーマントラに出てきたシヴァ神が自分と重なり、
胸の中心のアートマンに瞑想するシヴァであるかのようなイメージと共に瞑想する。
自分自身がシヴァ神であるかのように一体となり、
瞑想がしやすい感じがしていつもよりも集中が深い感じになる。
多分これも一つの瞑想の方法なんだろうと思う。
自分自身がシヴァ神と一体化したように感じながらシヴァ神を瞑想する。
もはやシヴァ神は私自身であると感じる出来事だった。
足下の紙切れ
2012-09-20 | 生活雑感
ある本にある聖者の信奉者の話が書かれていた。
『バガヴァン(聖者の尊称)に話しかけたことなどほとんどないような内気な信奉者が、
通りすがりに勇気を出して、バガヴァンの足下に一枚の紙切れを投げた。
バガヴァンはそれを拾って読むと、紙を投げた信奉者を連れてくるように言った。
従者たちは規則を破って叱責される犯人でもあるかのように
その信奉者をバガヴァンの前に引っ張って来たが、
バガヴァンは寛大でやさしい笑みを浮かべて彼を見つめ、
承知したようにうなずいた。
その紙には「バガヴァン!私を救いたまえ」と書かれていた。』
たったこれだけの話なのだが、
この話を読んだら、
なぜだか涙が出てきて止まらなくなった。
最初はどうして涙が出てくるのか分からなくて
それでもボロボロと涙が出てきた。
もう一度読んでみた。
紙切れに書かれた言葉を読んだら
「神よ!どうか私をお救い下さい」という祈りの言葉を思い出した。
以前、何度となくその言葉を口にした。
何度も口にしたけれども
いつも神は何も返事をしてくれないと感じた。
でも、その祈りの言葉は今でも心の中に染み込んで存在している。
多分、その信奉者の気持ちと自分の気持ちが重なったのだろう。
よく考えると最近はその言葉を言わなくなった。
そして、今では心の中でこうつぶやくようになっていた。
「全ては神の思し召しのままに」
精神的な進歩と退行
2012-09-22 | 瞑想
不思議なことだが
日によってあるいは瞑想する時間帯によって
達する境地がいつも違うようだ。
急激な変化を心は期待するものだが、
少しずつ少しずつしか瞑想は変化していかないのを感じる。
まるで、三歩進んでは二歩下がり、
時には十歩下がるのだが、
一歩ずつ進んでまた元の場所に戻るというような、
進んでいるのかどうか分からないような進歩の仕方をしている。
だから、途中では同じ所をぐるぐる回っているように感じるのだが、
一ヶ月が経過してみて振り返ってみると
この一ヶ月で一歩しか進んでいない事に気付く。
時には後退している事もあるのだが、
一年という長いスパンで見ると、
三歩も四歩も進んでいることに気が付くようだ。
それほど、精神的な進歩というのは分かりづらいものだ。
目の前が開けてすごい境地に達したなどと感じた次の日に限って、
今度は後退した状態に落ち込んでいると感じるようで、
そういった焦りが精神的な進歩の障害となる様にも感じる。
人々は、奇跡的で急激な変化や進歩を常に望むものだが、
精神的な進歩は決して急激には進歩しない。
ありがたい
2012-10-08 | 生活雑感
心を見つめる内に自分の中の欲望や感情が見えてくることがある。
瞑想していたら、今の自分が非常に恵まれた状態にいるのにも関わらず、
今の自分がそれ以上に何かを欲しいと望んでいることにふと気が付いた。
自分の中にまだお金がもっと欲しいとか
もっと増やしたいとかという欲望がある事に気が付いた。
『まだ欲しい、まだ欲しい』という欲望にはキリが無い。
どうして今をありがたいと思えないのだろうか。
『ありがたい、ありがたい』とは今に満足することである。
今、現在の自分を満たされていると感じる事だ。
今で十分ありがたいと思えば、
欲望は満たされ、
そして苦しみもなくなるのに、
ほとんどの人は今を『ありがたい』と思わずに
『まだ欲しい』と言っている。
お金が欲しい、
財産が欲しい、
地位が欲しい、
名誉が欲しい、
健康が欲しい、
若さが欲しい、
あれが欲しい、
これが欲しい。
一体、人はいくつの欲しいがあるのだろう。
最近、良く考えることがある。
生まれる前からその人の人生では、
これだけのお金と財産を与えられる事があらかじめ決められていたのではないか思う。
それは、因果応報とかカルマの法則によって決められていたのかもしれない。
または、神によって決められていたのかもしれないし、
もしかすると自分自身が決めたのかもしれない。
でもほとんどの人は決められていた以上を望もうとする。
いずれにしても、
ブッダは今に満足せず、
欲望から離れられない事が苦しみの原因であると説いた。
つまり苦しみから逃れる方法は、
『まだ欲しい』ではなく
『ありがたい』と思えることなのだろう。
欲望から離れ、
今に満足することが
そして『ありがたい』と言えることが
自我やエゴを消滅させる一つの方法なのだろうと思う。
偶像崇拝
2012-10-22 | 生活雑感
世界の四大宗教は元々は偶像崇拝を認めていなかった。
ユダヤ教とイスラム教は、戒律に偶像崇拝の禁止があるので
現在でも偶像崇拝をしていない。
キリスト教は、元々はユダヤ教の変革者であったイエスが
『天にまします我らの父よ』
と神様に祈りは捧げたのだが
決して偶像崇拝はしていない。
むしろ偶像崇拝は認めていなかった。
だから、初期のキリスト教ではイエスは一人の人間であって
彼の教えと無形の神に対する崇拝のみだった。
それがいつの間にやらイエスに対する個人崇拝になってしまって
十字架のイエスとマリアの像を造り
偶像崇拝するようになってしまった。
仏教でもブッダは偶像崇拝を認めていなかった。
教えを崇拝することを望んだ。
初期の仏教では仏像などなかったのだ。
偶像崇拝はバラモン教のものであり
既存宗教を否定して生まれたブッダの教えには偶像崇拝なんてない。
逆に偶像崇拝とか占いについては否定的な言葉を語っている。
ブッダの最後の言葉
『汝らは、ただみずからを灯明とし、
みずからを依処として、
他人を依処とせず、
法を灯明とし、
法を依処として、
他を依処とすることなくして、
修行せんとするものこそ、
わが比丘たちの中において最高処にあるものである』
自分ではこの文章の『他』とは偶像崇拝のことだと思う。
法を拠り所にするはずが
いつの間にやら、ブッダに対する個人崇拝になり
そして、ブッダの像を造って偶像崇拝するようになってしまった。
今の時代にブッダが生まれたら、
きっと偶像崇拝を戒めるでしょうね。
このブログについて
2012-10-22 | 説明
最初は自分自身に対する戒めと思ったことを書くブログだったが
旅先で有る人物と知り合いになったことで
全然違うものに変わっていった。
ここに書かれた内容をしっかり理解できる人などいないと思っていたが
このブログの存在を教えると内容がすごいと言われてびっくりした。
それからはその人に読まれていることを念頭に置いて書いていた。
最近に書いていることは
本などの知識に頼らない自分自身の経験の話になっていて
座禅や瞑想をしたことが無い人には理解できないだろうし
あまりにも経験的な話なので
自分自身の言葉で表現することが難しいと感じる。
でも、自分自身の瞑想の記録として残しておこうと思う。
人に知られずとも、
真理を知ることができれば
自分の人生は成功であろうと思うが
真理を知ることができなくとも
自己を探求することができるだけで幸せである。
ただ、全ては神のお導きのままに。
また、旅の途中で知り合ったカーミュラーデザインの浦上氏には感謝しています。
『水月にて、私の姿を(神の姿にて)見定めて頂きたい』とお願いしたら
黒いシヴァ神の画像を作ってもらいました。(これが私の姿とは驚きました。)
あっ。それからこのブログを初めて読む人は
最初から読んだ方がいいかもしれません。
最後から読むと難解すぎます。
最初から読むと瞑想をするように至った流れが分かると思います。
一日断食
2012-11-03 | 食べ物
時々は一日断食を実行することがある。
前日に普段の半分位の食事量にして
断食の次の日の朝はミルク粥を食べるようにしている。
今までの経験から言えば一日断食をすると、
夕方の7時に食べたとして二日後の朝の7時に食べるとすると、
約36時間もの間、何も食べなかったことになる。
すると、体と精神が食べ物に依存としないためと
食欲という根本的な欲望を一時的に断つためによって
欲望に依存しない生活が実践できる。
その結果、その禁欲の効果がその後の瞑想に現れるようだ。
内臓自体が休息を得るせいで
眠気の減少と精神集中の向上が期待できるようだ。
また、一部の宗教で断食がある理由も分かる様な気がする。
ただ、二日以上の断食は別である。
その場合は60時間以上の禁欲になるので、
断食中特有の精神的そして肉体的な症状が現れてくる。
肉体的には、好転反応ともいわれる体調の変調や
貧血による立ちくらみや体のだるさ。
塩分不足や水分不足による動悸や息切れの症状。
特に冬場のような寒い時期には体の冷えと血行障害が現れる。
また精神的には、食欲という欲望の猛烈な反動がある。
余程の意志が強い人でも、
最初は食欲を制御するのが難しいので
一人で行うのはお勧めしない。
できたら断食道場のような専門的な所に行くべきだろうと思う。
ところで、お釈迦様はあの時代に一体何を食べていたのだろうかと思う事がある。
そのことは仏典には書かれていないので
何を食べていたのかははっきりしない。
ただ彼が間違いなく食べた食事が一つある。
それは、スジャータによって施された乳粥、つまりミルク粥だ。
そういった訳からではないが
一日断食の次の日はミルク粥を食べることにしている。
瞑想の進歩
2012-11-13 | 瞑想
瞑想の進歩は非常に分かりづらいもののようだ。
人は得てして劇的な変化や目標の達成を望むものだ。
最初の頃は変化や達成感を感じたりするのだが、
時間が経過すると共に、最初とは裏腹に
しばらくすると、まるで長いトンネルを進んでいるように
希望の光も見えず、何の変化もない単調な時が流れるようである。
変化は心の深くてとらえにくいレベルで起こり、
すぐには外には表れないもののようだ。
ある本に瞑想がどれだけ進歩したかの判断として
心の穏やかさと落ち着きで判断できると書いてあった。
次の質問に答えてみる。
無気力で怠惰な心を少しでも振り払えるようになったか?
今までより安らぎと幸せを感じ、感情的になることが少なくなったか?
心が冷静になって、満足感が増え始めているか?
この質問のいずれかの答えがYESならば、あなたの瞑想は進歩しているらしい。
しかし、自分ではどれもYESとは思えない。
現在、毎日やっていることと言えば、
瞑想とハタヨガと水泳くらいで
それ以外は生活する上で必要な買い物のような雑用ぐらいである。
そんな単純で単調な毎日の生活に苦痛を感じないし、
生活に刺激が欲しいとも思わない。
ただ瞑想中には、自分とはそして心とは何なのかを探求しているだけである。
不思議なことに最近は本当に自分が非常に自由だと感じるようになった。
これまでは何かに執着して苦しんでいたりもしたが、
その執着自体が減っていることに気が付く。
瞑想をする内に、色々な感情が表れる事が少なくなった。
寂しさや孤立感や不安や恐れや怒りといった感情が減ったようだ。
時には、定期的に自分のエゴが色々な感情を伴って自己主張してくる。
しかし、瞑想して呼吸に集中すると、
ゆっくりとした深い呼吸によって感情を伴った雑念は静まり、
心は静寂の状態へと導かれる。
もはや最近では進歩しているのかどうかという事を
あまり気にかけないようになった。
自分の心を見つめる内に、
私は決して宗教的な天才ではないし、
宗教的な天才にもなれないただの凡人なのだということがはっきりしてくる。
宗教的な天才達、
例えばラーマクリシュナの様な人達の書物を読んで感銘したところで、
自分には、彼らと同じような領域に達するのは無理だろうとつくづく感じる。
信者に彼の事を聞けば必ずこう言うだろう。
『ラーマクリシュナは神の化身だ』と。
だいたい自分は神の化身でもないし、
神の化身になれる訳も無い。
そもそも神の化身が神を悟ったとしても、
それを自分と同一視するのが間違いなのだ。
どんなに見栄を張ろうとしても、
あるがままの自分以上にはなれないのだ。
結局、自分はただの凡人であって、
どんなに努力しても自分の力には限界があるのだ。
全ては神の思し召しのままである。
神が望まぬ事はどんなに努力しようとも結果には表れない。