シルク雑感日記

あくまでも個人的な雑感日記です。内容は他人には理解できないと思います。

とうとう15年が過ぎた

2024-09-30 14:35:00 | 日記
15年の歳月が過ぎたが、結局何も変わらなかった。
変わったものは肉体の老化と努力しても報われないという絶望感だけだ。
ラーマクリシュナの話は理想論なのかと思える。
彼の話したことは魅力ある話なのは認めるが、
現実には誰も彼に会うことなどできはしない。。
結局、毎日の瞑想とヨガなど、何の結果ももたらさなかった。
しかしそれを続ける以外に自分には何もない。
そして死んでいくんだろうな。
唯一、運動することが楽しみだったけど
もう運動もできなくなってしまった。
瞑想するために半跏趺坐で座ったのが原因だと思う。
結局、膝の痛みのために瞑想の姿勢とスポーツを放棄することになってしまった。
ラーマクリシュナは全てを取り上げてしまわれる。
食べる楽しみは、お酒の依存症へと導いた。
それも彼の思召しなのだろう。
でも、お酒に逃げても幸福にはなれず
自分自身が益々不幸を感じるようになっていくのが分かる。
お酒や食べ物に逃げたとしても、
それが幸福をもたらす訳ではないのだ。

認知症の母はこう言った。
ただ毎日を何もせずに過ごしているだけで
何の楽しいこともないし、
ただ与えられる食事を食べて生きているだけだ。
今はただ神のお迎えを待つだけだと言っていた。

私も全ては神の思召しだと思って生きていくしかない。
しかし、幸福の探求だけはして死のうと思う。




雑感メモ1

2024-04-12 15:12:08 | 日記
人生は後悔するためにあるんだと思う。

人間は分かり合えないものなのだ。分かり合えるという幻想を抱くから、辛いのだ。

友達がいないと悩むな。友達なんてできないものなのだ。

殴り合いのケンカをしたら、自分が殴ったことは忘れて、殴られたことだけを覚えていて、自分は被害者だと思う。

レベルの低い店には、レベルの低い人しか来ない。レベルの高い店にはレベルの高い人がたまに来る。

人は苦労して成功した話よりも、成功者が失敗して転落した話の方を面白がる。他人の不幸は蜜の味

人は自分が1番正しいと思っている。何事も自分の尺度で考えるものだ。

神はあなたの中にいるのであって、組織の中にいるのではない。

平和な世界の人々は殺人を非難するが、戦争中の人々は殺人を賞賛する。

お金は無いと困るけれど、ある程度以上あれば、その後は何も変わらない。変わるのは通帳の数字だけ。人々は、数字の為だけにアクセクする。

ギャンブルとは儲かる確率が50%以下をいい、商売とは儲かる確率が50%を越すものである。

転生輪廻は、今世で満たされなかった欲望を実現する為に来世で生まれ変わる。つまり、欲望がない人は転生輪廻しないということになる。

昔はお酒にはおぼれまいと思ったが、いつのまにかお酒におぼれるようになった。

競うことや比べることに幸福を求めると、必ず不幸になる。富、地位、若さ、健康、家族、身内、そして肉体、いづれ死ぬ時には全てを失う。

幸福とは今に満足することである。今に満足するとは今の何に満足することか?

私という想いが現れると必ず苦しみも現れる。私という想いと、私は満たされないという想いは同時に現れる。だから、苦しむのだ。

前例がないほどの富と自由、科学と医療の進歩があるのに、私たちは未だかつてないほどの不幸せと精神的苦痛を感じている。だから癒されることを望んで、処方された精神薬を飲む。そして精神薬の依存症は未だかつてないほどの人数になった。しかし薬によって現実から逃げれば逃げるほど、精神的苦痛は増えていった。

何もしないでいると不安や罪悪感を感じ、何かやっていなければならない気がしてくる。そして、何もしていない人に対して、軽蔑感を抱く。しかし、何もしないことは、あなたを束縛から自由にすることなのだ。あるがままのあなたでいなさい。

自分を中心に世界は回っていると考える人の何と多いことか?
本来は自分が社会に合わせて生きているはずだったのに、
いつの間にか社会が自分に合わせて動いていると錯覚してしまった。
そして、社会に不平不満ばかり言うようになった。

今の態度

2024-04-06 22:46:27 | 日記
ただ呼吸に集中し、心が現れてくる胸の中心に意識を集中する時、何の想念も現れない。その時は明らかに不幸はない。対象がある時に想念も現れ、不幸の概念も現れる。対象から離れ、ただ自分自身に集中する時、呼吸に集中する主体だけがある。そこに不幸はない。
昔、幸福とは不幸でないことと聞いた。そして今、呼吸に集中する時、不幸ではないと気がついている。果たしてそれが求める状態なのだろうか。永遠の至福と同じ場所にあり続けること、それが真我の探求だと言われている。では、その探究を続けることが至福の探求なのだろうか。
よく分からないが呼吸に集中し、想念のない状態を続けるしか今の自分には道はない。

人の最期

2024-04-05 01:31:02 | 日記
ある本の抜粋

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本来、人間は一人で暮らすのが原型なのだろう。猿や羊は必ず群れを作るけれど、猿は離れ猿とか孤猿といって、一人で暮らす猿もいる。

現在の日本は恵まれた状況なのに、多くの日本人は不平だらけだ。もし人生を空しく感じるとしたら、それは目的を持たない状況だからと言うことができる。
年齢に関わらず、残りの人生でこれだけは果たして死にたいと思うことは何もないという人は実に多い。小さな目的を果たすだけでも、満足と幸福で満たされる。
50才で仕事を辞めた時は人に批判されたが、今となっては、楽しく遊んでいても、もう年だからということで、誰も文句を言わなくなった。

世の中ではお金があれば幸福、なかったら不幸、だから、お金がある人が幸福なんだという図式が考え方としてある。しかし、幸せを感じる能力は実は個人の才能による。それは、学歴でも、地位でも資産でもない。その才能は誰にでも備わってある平凡な、しかも自分で開発可能な資質なのである。これだけ物質的にも環境的にも満たされているのにも関わらず、不平ばかりいう人はどこか幸せを感じる機能が壊れているように感じる。

どんな人にも必ずそれなりの幸福があったし、それなりの不幸があった。みんな、それぞれの不幸を抱えている。不幸は人間の属性であり、不幸が内蔵されている。

人は最期には一人で死んでいく。孤独と絶望こそ、人生の最後に充分味わうべき境地なのだろう。この二つの究極的な感情を体験しない人は人間として完成しない。

本当の不幸や苦しみを体験した人は、今がいかに幸せかを感じることができる。しかし、不幸や苦しみを体験したことがない人は、今の状況に不平不満ばかり言い、今がいかに不幸かと語る。しかし、不幸とは感じ方であって、絶対的なものではない。ある人が不幸という状況は、他の人にとっては幸福のこともある。また、幸福も感じ方であって、相対的なものだ。
絶対的な幸福はあるのだろうか。もしもあるとしたら、それは永遠であり、普遍的でなければならない。過去にも有ったし、未来にもあるが、今その時にも有るものが絶対的な幸福のはずだ。

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痛みと苦痛

2024-04-04 13:45:48 | 日記
痛みや苦痛は悪なのか?
痛みや苦痛があると人々はそれから逃れることが幸福であると結論づけた。
そして鎮痛剤痛み止めという薬、はては痛みを感じさせない麻薬までも正当化した。果たして、痛みは悪なのか?
アメリカでは麻薬常習者が問題になっているが、そもそも麻薬をやる理由は何なのか?
現実から逃げたい、痛みや苦痛から逃げたい。それは肉体的なものだが、もっと深刻なのは精神的な苦痛から逃げたい人たちだろう。人々は薬という名の大量の薬物を開発した。
また、薬と共に、お酒も人々に蔓延した。お酒も苦しみから逃げる手段なのだ。お酒は薬とは言わない。嗜好品として蔓延し、それによってアルコールに依存する多くの人々を作った。

高級レストランで食事をする人々を見た。それを見ていて、ほとんどの宗教や倫理は食事を正当化する。飢えから救うと言う名目で食べることを正当化した。そして高級な食事をすることをも正当化する。そのためには、多くの家畜を飼育して、動物を殺し、美味しい部位と言われる部分を食べる。食糧の増産という名目で世界中の自然を破壊して、人間に都合の良い食べ物だけを栽培する。生命を維持するためではなく、単に味覚という感覚の欲望を満たすためにあらゆる食材を調達する。
果たして、食事をすることは善なのか、食事をすることはむしろ世の中の1番の悪ではないかとさえ思えてしまう。
もしかしたら食べる事と薬の摂取とアルコールは神様が作った悪なのかもしれない。
痛みや苦痛や空腹を悪いことだと考え、快感や欲望の充足を良いことだと考える。
しかし、何かが間違っている。

欲望の充足は心を肥大化させ、新たな欲望を作り出し心の苦しみは増加させる。そして心は幸福から近づくよりも益々幸福から遠ざかる。苦痛と快楽はセットでやってくる。快楽のあるところに苦痛もある。苦痛のあるところに快楽もある。心の刺激である喜びと苦しみは交互にやってくる。

しかし両方とも受け入れることが永遠の幸福をもたらすような気がする。
至福であることが真我なのである。至福と真我は同一のものである。

自制と放棄によって自分の心と感覚を制御することにより心が浄化され神聖になると、
自分自身の心がグルの地位を占めるようになる。

全ての物事は立ち現れ、苦しみと快楽は共に移り変わり過ぎ去ってゆく。
神が全てを創られた。
ただ神だけが存在する。
遅かれ早かれ、幸運と不運はあなたに訪れる。
何をしようとも喜びと悲しみ、生や死はやってくる。
全ての悲しみは恐れからやってくる。

全てを受け入れて、ただ私としてあること。
何の感情にも執着しないことが本当の至福かもしれない。