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鼠六匹に冬の蛙

日々の徒然を綴ろうかと。

田辺に模擬原爆投下

2010年07月26日 09時47分00秒 | ノンジャンル
 もし、大阪にも原子爆弾が投下されていればと思うと、背筋が寒くなる。大阪市東住吉区田辺1丁目にある、模擬原爆の碑前に佇んで感慨深くなる。 地下鉄谷町線田辺駅にほど近いマンションの横に、石碑がひっそり建っている。その碑文には次のように記されている。
 「一九四五年七月二十六日九時二十六分 広島・長崎の原爆投下を想定してこの田辺の地に模擬原爆が投下され 村田繁太郎(当時五十五才)他六名が死亡 多数の方が罹災しました ここに犠牲者のめい福をお祈りし 戦争のない世界の実現と全人類の共存と繁栄を願い 碑を建立します」とある。
 この石碑は、模擬原爆で亡くなった村田繁太郎さんの子息で中央区谷町六丁目に住む会社社長、村田保春さん(87)が2001年3月に建立されたものと聞く。地下鉄を出て、その碑の場所を訊いた初老の婦人はわざわざその碑に案内してくれた。「そういえば今日は7月26日ですね」と感概深げな表情で述べられた。「そうですね。あの爆弾が原子爆弾であったら、われわれの人生も変わっていたでしょうね。」とこの辺りに昔から住んでいたらしい人とみて会話を交わす。そうだ、原子爆弾ならば、当時、岐阜に疎開していた家族を残して大阪に留まっていた父のことを思い、村田さんのことは人ごとではないわが人生にも大きな影を落としていただろう、と恐ろしい思いになる。



 戦後出版された米軍資料「原爆投下の経緯」(東方出版刊行)に、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの機長ポールW・ティベッツ・ジュニア准将がインタビューに答えている。模擬原爆による訓練作戦については「(模擬原爆の訓練は)実際、搭乗員たちがしてきた訓練の頂点だったから、たいへんに役立った。彼らに訓練用爆弾を与え、彼らを一つのピンポイント目標に送り出し、結果を写真に撮り-われわれは彼らに目視条件のもとに投弾することだけを許した」と、模擬爆弾の訓練が効果的だったと話している。そして、このインタビューを裏付けるように、大阪田辺に模擬原爆が投下されたあと、8月6日に広島、9日に長崎と新型爆弾と呼ばれていた原子爆弾が落とされ、非戦闘員の市民が大量に殺戮されていった。



 きょうの朝日新聞夕刊大阪版にも、この「田辺模擬原爆投下」に関して、「終戦直後の1945年7月、原爆の投下訓練のために<パンプキン>と呼ばれる爆弾(模擬原爆)が大阪市東住吉区に落とされ、約80人が死傷した。まる65年たった26日朝、犠牲者の追悼式が現地であり、遺族や小中学生ら約100人が祈りをささげた。模擬原爆は長崎原爆と同形で重さも同じ約5トン。通常火薬が詰められていた。兵庫、滋賀、和歌山など原爆投下候補地の周辺約30都市に計約50個が投下されたという。」との紹介記事が載せられていた。

 

         「破れた繭」耳の物語の一節より
   昭和十三年に一家は北田辺へ引越すことになるが当時は
   このあたりは大阪市の南の郊外であった。畑・水田・空地・
   草むら・川・池などが、どこにでもあった。
   腺病質で、内気で、おとなにろくろく声もかける気力も
   なかった子供は、やっぱりはにかみやで臆病者だったけれ
   ど、泥まみれになる快感に浸されることになった。
   川を堰きとめて掻い掘りをしてフナやドジョウやナマズ
   をつかまえる。ねっとりとして、奥深く、ひめやかで豊満
   な、あたたかい泥にむずむずと手をつっこむ快感には恍惚
   とならせられる。

 作家開高健が住んでいたころの田園風景は微塵もないが、まだ残っている田辺村時代の古い家屋敷が残っている町中を歩きながら、ふと目に留まった大楠の木が屋敷内にあるのに驚く。聞くと松虫通りと呼ばれる木津川平野線の拡幅延伸されたときに伐る計画であったが、地元住民の保存運動が起こり道路を湾曲するようにして保存された経緯があるらしく、亭亭と年輪をかさねていて「北田辺の大楠」と呼ばれているという。村が町に変貌した北田辺界隈である。



  ―今日のわが愛誦短歌
     ・かくのごと平和なる日のいくたびか
          ありてやうやくわが世すぎゆく  佐藤佐太郎


  ―今日のわが駄句
     ・含羞の顔に滂沱の汗拭う




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