(仮)日本の医療 

医療の歴史を観る
文責 岡村常実

自然派:韓流医学と八卦占い(八×八=六十四卦)5世紀

2010-08-10 08:16:44 | コラム

お隣の国・韓国の国旗をご存知でしょうか?オタマジャクシが巴になって、回りに4ヶ所算木が取り囲んでいます。真ん中のオタマジャクシは『陰と陽』を、算木は『天、土、火、水』を表しています。算木とはヒゲを生やした占いオジサンが筮竹でガチャガチャやって占う(八卦)道具です。この思想は中国から韓国にきましたが、やがて日本にも渡来してきます。陰陽五行説です。それに対して西洋では4体液論や精気説が主流でありました。現在では西洋理論はどんどん還元的に進化していき今や分子レベルでの病理の解明段階にあります。その点東洋医学は今にいたりましても古さを感じさせる事なく、寧ろ新鮮さを感じさせます。一寸した症状では東洋医学で対処する使い分け(2刀流)を考える人が多くなったと感じます。東洋医学は単なる形而上学的医学や対症療法だけでは無くロジックや哲学があり普段使いには良いかもしれません。医食同源、薬食同源なる言葉がある様に日本独自の医学『和漢方』も見直す時期かも知れません。

 さて、その陰陽五行説ですが、以前他の「病気と食べ物 病色 肝心腰の意味」でも書きましたが、もう少し踏み込んで焼きなおします。リメイク版です。【顔が黄色いとか手の平が黄色いなら膵臓や脾臓が悪い。その様な時は黄色の食べ物(大豆とか)を摂取するが良い。膵臓は甘い物を好むので、糖尿病に十分気をつけなければならない。膵臓や脾臓を病むと、腎臓や膀胱に害を及ぼす。】とあります。排便物が緑色の場合は肝臓疾患と言う訳です。これは胆汁同様有名なお話ですね。これは漢方医学の本筋で、五行思想と言います。これは病気になれば患部の内臓の色が顔や手足等表面に現れて来ますからそれと同じ色の物を食べれば良いと言う単純な古典的医療(知恵)法です。日本では982年現存する最古の医学書、丹波康頼「医心方」の500年程前のお話です。原典は1世紀頃の中国で編纂された「黄帝内経」になります。

まず五行から

『木、火、土、金、水』相性『水生木、木生火、火生土、土生金、金生水』

例:水は木を育てる。相克『金剋木、木剋土、土剋水、水剋火、火剋金』

例:木は鋸(金属)で伐られる。覚える原理はこれだけです。

 次は、応用編で体の部位にあてはめましょう。五臓六腑です。「五臓は陰」「六腑は陽」六腑の三焦は実在しません。  

      陰          陽     色     嗜好    意味 

木=肝臓           胆嚢    緑      酢     魂

火=心臓            小腸    赤      苦     神

土=脾臓(膵臓)    胃      黄      甘     智

金=肺            大腸    白      辛     聡

水=腎臓          膀胱    黒      塩     志     

 有名な腎虚(虚精液)などになりますと、白髪が増えて頻尿をきたします。前立腺癌は腎臓の弱りから来るとされ、その原因は塩の過分な摂取と言います。食品で良いのは黒豆、黒ゴマ、ウナギとか黒いものになります。五行説によりますと、 膵臓や胃が腎臓を悪くして前立腺に及ぼし、更に腎臓が心臓や小腸に害を与えるとあります。また肝臓はその字の如く魂を意味しており、腎臓は志を意味します。怒れば顔が赤くなり心臓に悪いとか言うのも何と無く納得します。 五臓六腑の役割外界(大気、食料)からエネルギー源「精」を受け、その「精」から「気」「血」「水」を生成する。「気」はなお「宗気、栄気、衛気、元気」に分割代謝し、精は先天の精(自然免疫?)後天の精(獲得免疫?)に分かれます。          続きます。


マドレーヌとホタテ貝(聖杯)の巡礼、十字軍そして病院(ホスピタル)

2010-08-06 09:11:13 | コラム

そこへ行くには4つのルートが現存している。パリ、ウェズレー、オーヴェルニュ地方ル・ビュイ、そしてプロバンスのアルルである。最終地はスペイン北西端ガリシア地方。カンプス・ステラエ(星の野)即ちコンポステラと呼ばれた聖ヤコブの墓地である。12世紀トルコ軍のエルサレム侵入で西ヨーロッパのキリスト教徒は巡礼先を聖地エルサレムから聖ヤコブの墓に代えた。この人ヨハネの兄でどうもキリストと従兄弟の関係にあるらしい。3月25日斬首の刑に処せられた。パブテスマ・ヨハネと同様刎首である。ヨハネの場合はサロメなる女が絡んだが、ヤコブの場合はヨシアスなる男性と共に刑に殉じた。このヤコブさん12使徒で最初の殉教者となるが、巡礼者の守護神として信仰され、ホタテ貝(女性)とひょうたん(男性)がシンボルマークとして描かれている。ヤコブス・デ・ウォラギネが著した黄金伝説2の最後にこのゼべタイの子『大ヤコブ』が登場する。サンティアゴ・デ(聖ヤコブ)・コンポステーラ(星の野)巡礼3900kmほどであろうか。

 始発地ウェズレーはユネスコの世界遺産に登録され、その丘の村にある修道院聖マドレーヌ大聖堂から巡礼の旅が始まるのである。ここに聖マグダラ(マドレーヌ)のマリアの遺骨があると言われるが、本物の聖遺骨はブルゴーニュのサン・マクシマン教会の地下にある。この頭骸骨はホリディーになると黄金のマスクを被せられ神輿に乗せられてブルゴーニュの町を練り歩く。

ヤコブはホタテ貝が象徴ですが、大きな貝殻は日本の修行僧の托鉢の海外バージョンでしょう。大ヤコブが漁師だからと言う理由は当たらない様に思います。ヤコブはガリラヤ湖の出身ですから淡水魚ばかりです。キリストの象徴のサンマもいません。死海には尚更貝も魚も生息していません。私はキリストが磔刑の最後の場面で、「槍の先にくくられた毒杯をあおった」ある記事では「痛み止めを綿に染ませて」とあり、また、死の確認のために腋腹を槍(ロンギニス)で刺して流れた血を杯で受けたとありますが、実は、この、杯こそが聖杯であり、ホタテ貝ではなかったか、と思うんです(勝手に想像しています)。巡礼には貝殻は食器の代わりに、また薬入れにも使われて、次第に巡礼の為の保養所のシンボルに、病院のシンボルにも使われる様になったのではないかと想像しております。映画インディ・ジョーンズでの聖杯はイエスがカーペンターであった理由で木製として、テンプル騎士団が守護していました。確か、設定では最後の晩餐で使用した杯を聖杯としていた記憶があります。メルヘンな映画でした。(イマダニ聖杯とは何か?定説は有りません)

多くの文学や美術の題材にされた人物はマドレーヌをおいて他にはいません。アンジュー家が所有しているプロバンス、シチリア島、ナポリの守護神として崇敬されています。ナポリ・カンッオ-ネで聖サンタ・ルチアは眼病で有名ですが、マリーの語源である『苦い海』から航海の守護神として地中海沿岸に広がりをみせた海の神なのであります。マドレーヌ・マリーのホタテ貝は『女性・マリーナ』の明らかな象徴であり隠喩であります。現在フランス菓子のマドレーヌにホタテ貝が受け継がれています。そう言えば京都からマドレーヌを焼きにパリへ行った洋菓子研究家がおられるところをみると、日本にもマドレーヌのフアンが多いのかもしれません。

11世紀頃から丁度イスラムとの戦いが激化しだし、聖地奪還の為に十字軍が結成されます。この巡礼はスペインの戦火が終わる12世紀頃から聖地エルサレムの代わりに盛んに行われてきました。聖地エルサレム巡礼はキリスト生誕(BC4年)には既にあり、デアスポラー(離散した人々)のユダヤの人達もタルムード(経典)の本山として何年かに一度必ず巡礼の旅にでました。巡礼の出来ないディアスポラーの人達にはエルサレムの小石が教会の行商の人達によって売られました。日本で言う「お守り」ですが、福の加算ではなく、罪の減算で免罪符の意識です。かなりの売り上げであったと記録されています。この費用でシナゴーグ(礼拝堂:教会)が運営できました。

やがてエルサレムはキリスト教の聖地にもなりました。ゴルゴタ(頭蓋骨)の丘、十字架の後に建てられた聖墳墓教会への道は「嘆きの道ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)」 として観光ルートになっています。イエスが十字架を背負い丘に登る道です。クライマックスの場面です。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の砂漠3大宗教の聖地となりました。このうちキリスト教だけが、偶像化を赦しました。他の礼拝堂は空間のみです。この巡礼者を守る為に、エルサレムの十字軍騎士団「ナイツ・ホスピタラーズ」が施設を建設しました。これが、今の病院の原型です。従ってその思想はボランティアで、宗教に拘らず施設は利用できたと思います。今や病院のシンボルである十字は世界標準では無いでしょうか。余談ですが、11世紀に始まったこの十字軍余りにボロイ商売になった為、西ヨーロッパで多発して一時は政治的にも、宗教世界的にも権勢を得て資金を募りますが、戦が暇になると魔女狩までにも手を拡げ、最後には嫌われて消滅していきました。13世紀の事です。病院だけが今にも受け継がれてきています。


浦島太郎と竜宮城(邪馬台国)物語 (箸やすめ)

2010-08-02 09:03:08 | コラム

日本の神話のお話ですが、史実に極めて近い「グレーゾーン」として邪馬台国と竜宮城を覗いてみます。まず最初に、古事記も日本書紀も年表はマルデ頼(アテ)りに出来ません。例えば、神武天皇では即位は「紀元前660年」が通説となっています。辛酉年庚辰日に拘ったからです。無意味です。ミレニアム千年紀ほど論理性はありません。私は辛酉年の241年に設定しています。(辛酉年の意味はありませんが、即位の年代は重要なファクターではありませんから。中国にもこの様な慣習はみあたりません。)年代は中国の記録の信憑性を優位しました(太文字)。又、聖母と言われる神功皇后などでは100歳を余裕を持って超えますし、ヤマトタケルとの年代がまるで噛合いません。神功皇后は政務摂政201年~269年とありますが、景行27年(277年)クマソ退治の年タケルは当時16歳で、年代の順序がアベコベです。それと、古代の人名がイライラします。発狂しそうなので、簡略化します。例えば「彦火々出見命」などは以降「彦ちゃん」とかにします。このお話は、基本的には2013と同クラスの『ファンタジー』です。これらを踏まえた上で、          では、はじまり~はじまりィ~!!

時は天照大神。オシホ君がタカ・ミスビちゃん(皇后1号)と結婚してニニギ君を産みたもうた。そのニニギ君が薩摩半島の大山家からコノハナちゃん(皇后2号)をナンパして彦君を産ませた。この彦君の嫁さんが豊玉姫(皇后第3号)で、彦君とは「海彦、山彦」で有名な山彦さんであります。豊玉姫とは海神国(ワダツミ:九州筑紫)のお嬢さんで、本題の竜宮城のお姫さんであります。卑弥呼を共立したのが184年。卑弥呼10歳位の時です。(梁書)海神国は支那(中国)からは大倭国と呼ばれ、後漢の光武天皇の時(57年)には、倭奴国の使者に、漢の倭奴国の黄金の印を授けたと記録にあります。この勢力(福岡平原)は韓国にも及び、クマソ(鹿児島県大隅半島のオゾグン)も従えたとあります。

実は、この海神国が竜宮城で、また幻の『邪馬台国』でもあります。従って豊玉の姫こそが、『乙姫』さんで、また『卑弥呼』さんになります。彦君は生計的には入り婿になります。この玉ちゃんが20歳の頃に彦君と結婚して産まれた子供がウガ君で(194年生誕)、ウガ君20歳の頃 玉ちゃん(40歳)の妹、玉依の姫(26才皇后第4号)とアリガタ迷惑な結婚をして神武天皇を産みました(214年)。(姉妹の年齢差を14年としました。根拠はありませんが・・10歳差ではキノドクなので) 239年卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。玉ちゃん64歳 神武君25歳の時の事です。この福岡を基盤とした海神国(竜宮城:邪馬台国)は九州全土を手中に収め支配していたのではないでしょうか。しかし、豊玉姫(乙姫:卑弥呼)さん死去の後クーデターが勃発します。主犯格は大隅半島のクマソです。山賊や海賊の混じった複合犯罪者組織です。241年神武天皇27歳で即位しました。248年卑弥呼は死にます。卑弥呼享年74歳。神武34歳で、この年、神武君はこの地をクマソ(本部は鹿児島大隈)の反乱で追われ、東に逃げます。史書では神武東征への旅となっていますが、故郷を捨てての旅立ちです。目的地の無い一族流浪の難民状態と言うのが正解です。旧約聖書の言うアブラハムに似ています。途中の安芸タケリ7年、吉備高島8年等は信憑性がまるでありません。

魏志倭人伝ではこの後、男王を立てるとありますが、神武からタケルの時代の景行天皇まで実に12代を経ます。暦天皇は最大140歳位の長寿で、平均でも110歳位ではないでしょうか。旧約のアブラハム600歳とかと比べると納得できますが、既にこの時代、神皇から人皇暦にあって、もう少し何とかならんのでしょうか・・・タケルはクマソを成敗します。先祖の仇敵です。この男王の時代は最大17年となる計算をしていましたが、多くの資料では驚くほどの数の天皇が出現します。神武天皇即位を紀元前660年としましたから約900年近くのソロバン違いの空間が出来たのでしょう。247年神武崩去なる説もあるぐらいですから。この間は誰がみてもコジッケられた闇です。神武の後タケルの息子仲哀天皇にソク繋がるなら、年代的矛盾は解消できるでしょう。

そう言えばエピローグで浦島太郎が竜宮城から戻った時、時代は完全にワープしていました。作者はこの創作された年代を後世に伝えたかったのかもしれません。で、あるならば、作者は古事記を編纂した伊勢の猿女である稗田阿礼となりますが・・・。      

正史では仲哀天皇は流矢に当たって死んだとされておりますが、実際には竹内スクネと神功皇后(仲哀の奥さん)の陰謀説が有力です。理由はクマソの後ろ盾である新羅攻めの意見衝突です。後の三韓征伐のお話になります。この仲哀さん、奥さん(神功)以外の女との間に2皇子を設けていたのですが、スクネと神功に京都近辺で殺されました。248年卑弥呼の死去から、神功さんまで日本の歴史に女性の名は後にも先にも登場しません。神功さんの子供は応神(胎中)天皇デス。

卑弥呼の宗女壱与(イヨ)は神功皇后しかありません。本拠地は奈良に移行します。西晋の泰始初年(元年=265年)邪馬台国の女王壱与 使者を西晋に派遣して入貢する。と記録にありますから、少なくとも269年までイヨさんは国政を摂っていたのでしょう。豊玉(乙姫:卑弥呼)の墓は平原平原、イヨさんは、あるいは箸墓古墳ではないでしょうか。

                                               

                                  オシマイです。


蘭学から独学へ(暴露されたスキャンダル)

2010-07-30 11:33:27 | コラム

明治弐年の3ヶ月程前の事である。グラバーのお膝元丸山の遊女4~5名が死んだ。どうもアヘンが原因らしい。長崎府の外国管事務所は阿片の輸入を厳禁し阿片を所持する者は阿片1斤毎に洋銀16枚の罰金を科する旨を布告した。太政官京都から阿片の売買及び服用を厳禁する旨の公布である。上海化を恐れたのである。グラバーは上海ジャーディン・マセソン社傘下でロンドンのXXXXX家の縁浅からぬ関係にあった。明治2年2月日本の医学校の教育方針を決定する九条宮太政官邸に於ける会議で相良知安が持ち出したのは、これであろう。日本国際医学協会名誉会員の詫摩武英氏が寄稿された『ウイリスの不正蓄財疑惑』とはこれを言うのかも知れない。ともあれ同年10月医学に於ける教育方針はドイツに決定した。ウイリスは薩摩に高給にて引き取られた。西郷の尽力である。

 伏見鳥羽及び戊辰の戦いの負傷者は銃創で、パークスが外科医ウイリスに処置を任せた。英医学本流を目の前にした利通はウイリスに「日本医学総教師」の辞令を発し英医学が日本の医学の主流となる道を敷いた。ウイリスの擁護派は土佐の容堂、薩摩の西郷、大久保、新島がいた。ドイツ派は佐賀藩 相良知安、脱藩してはいるが大隈(後の改進党党首)らと何故か米のフルベッキがいた。何故相良はウイリスとグラバーの情報を得られたのか?これには訳がある。相良は体良く使われたのである。彼には政経的情報が入手できる立場にもとより無い。只の人の良い田舎の医学者であり政治屋とは程遠い存在でしか無い。明治初年肥前に官僚が多く登用されたのも事実であるが、佐賀も相良も、その処世技術は公家の岩倉具視の足元にも到底及ばなかった。相良は、ある意味新撰組の近藤勇の幻影と重なる。

では、誰が仕組んだシナリオなのか?何故薩摩は押し黙ったのか?龍馬の亀山社中(土佐照会)を承けた三菱(岩崎)や後藤象二郎は拘りが無いのか?海底ケーブル施設に於けるデンマークの領事館とプロッシャ(ドイツ)領事館(同じ東山手12丁目)の代理領事はいずれも何故米国が担っているのか?。

 結論を急ぐと、仕組んだのは長州の伊籐と土佐の後藤ではないか。岩崎は土佐の藩負債を肩代わりするのだが、海運の利権を握って行く。同時にグラバーは岩崎の傘下になるのである。佐賀とグラバーの高島炭鉱もやがて岩崎の所有となる。これらには大隈、後藤も深く関与して行く。

 詫摩武英氏の説では、相良は零落して狭い牢屋で死亡したとある。奇しくも部下の不正蓄財容疑で連座し投獄されたとある。当然の事、薩摩から怨みに恨まれた。 享年70 歳。一説には殺害されたとの話伝えもあるが・・・。この末路をみるに、時の利権争いに翻弄された姿が浮かび上がる。歴史とは美化創作されていくのであろうか。事実は記録され難いのも事実である。

尚、明治2年 時の在留外国人は、清375人、英81人、米39人、蘭30人、独30人 仏15人である。 


蘭学から独学へ 『キリスト』に勝った『大和魂』(日本植民地化の敗退)

2010-07-28 13:09:56 | コラム
 日本が英の植民地化から逃れられた理由とは一体何だったんでしょう。アジアの大半はタイ・ネパールを除き欧米の植民地となっていたのである。彼らに取っての植民地化は国家的ビジネスで、キリスト教で言うボランティアや献身、人類愛、博愛等と言う言葉や理念は、実は、人間同士のみで通用した、言い換えると白人のみで共有する価値観でしかありません。

彼等のビジネスモデルとは、通商を強要し、宗教を布教します。やがて内戦を誘発(自国民同士の戦闘で国威衰退国力消滅)して経済的デフォルトを誘導します。そして財政再建国。と言う、お決まりのパターンを摂る方法で、成功率が高く既にマニュアル化していました。他国への侵略を観ると大体がそうである。当然侵略された側の人達は賠償金の担保としてか奴隷となり売買されていました。

この時期、伏見鳥羽、戊辰、西南と内戦は有りましたが、国力が疲弊してしまう程の混乱では無かった様です。日本のプライマリーバランスは1874年既に黒字化しておりました。1877年西南戦争が勃発しますが、戦費4157万円は自国で賄えるほどの余裕が既に日本にはありました。1874年10月~1875年9月の日本国収支を見ますと歳出53百万円、例外歳出13百万円、税収77百万円、紙幣発行18百万円、公債11百万円、公債依存度9.7%であります。仏は100年戦争で英から殆どの土地を奪還した。1453年の事である。国家財政に窮した英はその穴埋めにとアジアを侵略しだしたのである。これは丁度日本で豊臣秀吉が日本初の大東亜圏構想を企てたのと似ており、明治維新後の西郷隆盛の唱えた征韓論と同様な発想であった様に思います。結果論だが、欧米並みの文化、知的水準を具える日本と、それを証する大政奉還や江戸城無血開城、内戦の阻止、と国力を衰えさせる事無く開国に導き、植民地化を妨げました。或いは、吉田松陰の言う、やむにやまらぬ『大和魂』が植民地化を妨げたのかも知れません。『キリストに勝利した大和魂』でしょうか。その影響か明治4年に武器を買い占めたグラバーが破産しています。日本の安定は予想外だったのでしょう。

臨床学の英(薩摩藩、海軍)と病理学の独(長州、陸軍)の間で、明治2年に相良知安(肥前、鍋島)が西郷隆盛の推す英医学から独医学に転換させたと言いますが、とても彼や鍋島にはそんな政治力や財力そしてカリスマ性を備えた勢力であったとは思えません。相手は豪腕な英の全権大使『パークス』その人と、時の権勢薩摩藩なのです。当時の日本を取り巻くパワーバランスからも(英の科学は神学論の壁があったとは言えジエンナー、ニュートン、ダーウインと多士多勢で)決してドイツに劣るものではありません。暫くの後、海軍(高木兼寛)と陸軍(森鴎外)の医学論争が勃発しますが英医学の正しさがここでも証明されております。結局薩摩に憎まれた相良知安が投獄されて舞台の幕は降りますが、投獄に至るまで、裏でこの顛末を操った勢力と人物がいます。その舞台裏を観て見たいと思います。


蘭学から独学へ 英独代理戦争(キリストとマゴスの争い)1

2010-07-23 09:45:08 | コラム

大変乱暴な言い方をすれば、フランスはアルル地方に限らず『イシス』信仰の盛んな国で聖母マリアや黄金伝説で聖女としているマグダネルのアリア(マグダラはフランス語読みでマドレーヌと言い聖遺骨はサント・マドレーヌ教会にありますます。)そしてジャンヌダルク(1920年聖女に列聖)、自由の女神、と女性信仰でカトリックの奇跡的な影響を強く受けていますが、イギリスは逆で1534年ローマ教会から独立してから半ばプロテスタントな『父』を信仰しますから、論理的志向が強くなります。ですからイギリスでのマリア教会は現在でも在るのか不明ですし、そもそも信仰する女性は女王だけの様です。後は魔女狩をしました。

 ドイツはファースト伝説でも判ります様にマグダラのマリアと共に南仏に逃れたシモンマグス(マジシャンの語源)の影響を受けてか神秘主義的思考が強く、錬金術的な科学思考が強くなります。医学にも当然この宗教的な思想の影響を受けて発展して行きます。日本の医学としては蘭方の原点であるドイツ医学を直輸入しますが、日本医療のその精神はフランス式医療の影響を感じます。ですから人の生命には最後まで奇跡を信じ、明日の新薬を信じ、簡単にチューブを外しませんでした


蘭学から独学へ 英独代理戦争(キリストとマゴスの争い)2

2010-07-23 09:41:47 | コラム

 キリストの視点から見たフランスとドイツの国民的な相違をさぐりますと、以前VOICEに書きましたが、AD41年の頃でしようか、南仏はプロバンス地方サント・マリー・ド・ラ・メールに2人の男女が降り立ちました。世はヘロデの時世で。恋の逃避行なる駆け落ちでは無ありません。主キリストの十字架で命カラガラ、当時の流刑地であった南仏に逃れたのであります。これは史実として今でも語り継がれていまして、女の名はマグダラのマリア。マリアはやがてイシス(エジプト神)信仰であったアルル地方で女神となり、カトリックの礎となった行くのですが、問題は男の方で名は12使徒の最後にあるシモン・マグス。手品の語源〈マジック〉の謂れを持ち、当時の錬金術師・第1号となるので。やがてドイツのグーデンベルグ印刷機と開花するのですが、ファウスト伝説のモデルと言われております。そしてゲーテのファウストへ繋がってゆきます。


蘭学から独学へ 英独代理戦争(キリストとマゴスの争い)3 

2010-07-23 09:31:30 | コラム

このシモン・マグスとマリアがキリストの神秘や奇跡と言った暗闇の世界を担い、聖母マリアの愛や、祈り、聖なる光と逆ベクトル方向に存在する呪いや魔術を完成させたのではないかと思います。マグスこそがゲーテの出発点で、それは神秘的キリスト教や錬金術、そして、秘教的宇宙進化論に発展します。ゲーテはキリスト教オカルティストとして出発したといえます。その延長線上の近代になってオーストリヤ・カトリック信者のヒットラーをはじめナチス、ワーグナー、クリムト等の神秘主義者が姿を現してきます。
文献では、ヨハン・フリードリッヒ・メッツと言う人がいます。ホメ・オパチーという秘薬の研究家で、危篤にあるゲーテの命を救ったそうでありますが、彼もまた、錬金術師でありました。この様にドイツは産業革命を起こしたイギリスとは異なり、化学やテクノロジーを発達させていったと言えます。臨床よりも病理を優先とした印象でしょうか。
 

何故宗教を引っ張り出すのかと言うと、その民族や国民性が端的に発現されているのでは無いかと思うのです。日本が蘭学から独学に換えて行く過程に於いて他書にありがちな文脈『嫌われたイギリス論』や『革新ドイツと維新日本 等価的足並み論』等は補足的な意味で解説にはなりますが、決定的な理由には乏しいと思うのです。何故ならば、世界との力学を考えると英医学を輸入するのが最も自然であったろうと思うからです。政治力や経済力以上の理由、それは理屈で言えないもっと人間臭さと言いますか、肌に合った選択ではなかったろうか、と考えるのです。それと同時に、医療とキリスト教は実に深い関係にあるのが分ってきます。尚、1648年以降ドイツの宗教の力学的ベクトルは丁度、英と仏の中間に位置します。続き4へ


蘭学から独学へ 英独代理戦争(キリストとマゴスの争い)4

2010-07-23 09:18:13 | コラム

日本は当時この英、仏 独、及び米の4ヶ国から新国家成立のスケルトンを組み立てますが、年表を追っていきますと、自ずから4ヶ国の役割が浮き上がって見えてきます。

1868年(明治元年)フランスのソシエテ・ジエネラルが横須賀の製鉄所を幕府の担保として取得没収、これはイギリスが肩代わりします。

1869年 中山道経由東海道線鉄道事業の為国債発行を決定。伊藤博文に300万ポンドの資金調達を求める。担保は関税権でロンドンでオリエンタルバンクが調達したが、アメリカは小額の公債発行をした日本を破綻国家と非難しました。  東京ー横浜間で電信が創業  佐藤進が、横浜を出帆ドイツへ官費医学留学第1号

1871年 廃藩置県 アメリカ指導の郵政事業を開始。旧幕府藩の負債整理をしました。

1872年 ドイツで印刷した明治通宝を新札としました。     上海-長崎間およびウラジオストック-長崎間の海底電信線デンマークのグレートノーザン・テレグラフ会事実上英国やヨーロッパと有線通信が可能。この様に、金融はイギリス。国家としてのサービス業(ヘボンによる船舶の検疫や通信、諸制度)はアメリカ。テクノロジーはドイツ。フランスの影響力は極めて希薄になります。国家の医術としていた蘭方の源流は、実はドイツと言う事が分り蘭方もやがて消えて行く事になります。

日本の医学の新体制はこの英独の2ヶ国からの選択となりましたが、明治3年にその転機が訪れます。イエス・キリストとシモン・マグスの争いです。別な言い方をすれば、臨床学Vs病理学です。もっと別の言い方をすれば、ヒューマニズムとサイエンスでしょうか・・・


新撰組 新徴組の成り立ち(箸やすめ)

2010-07-20 19:08:44 | コラム
 

幕府は窮地にあった。朝廷との仲介役であった九条関白は罷免され、日和見の岩倉、千草等の四卿は既に朝廷から斥けられている有様で、内には土佐藩山之内豊能や長州藩主父子が公家である三条実美や姉小路公知と相肝胆して気脈を通じていると言う内憂外患さで、幕府に対する攘夷の圧力は内外共に頂点に達した。十月、朝廷は三条実美を正使として、副使に姉小路公知を江戸幕府に使わした。内容はこうである。『・・・・然る所、天下の人民攘夷に一定無之候ては、人心一致至り難く・・・・・』要は攘夷(対外国征伐戦)をしろとのご命令である。これは長州征伐を下した長州の幕府への遺恨ではなかろうか。幕府寄りの土佐藩までもが組している事実に幕府は困惑を極めた。

12月9日会津藩の松平容保が京都守護の為、同17日には一ツ橋慶喜が朝廷奉見の為にそれぞれ上京したのだが、時を同じくして京都の混乱が江戸にも伝染するのである。幕臣も立ち上がざるを得ない。青木孫太郎がその人である

この青木孫太郎と言う幕臣は攘夷論者の首魁で、老中板倉勝静に攘夷を迫るのであるが、基より幕府に金等在る筈が無い。スッタモンダの挙句、何と軍資金四千両ばかりを自前で工面するのである。驚いたのは老中である。実際幕府の金蔵には金等無かったのも事実であるが、本音は戦争などは真っ平御免の平和主義者なのである。孫太郎は爺の相手を諦め、同士を募り四千両と米四百俵を南町奉行所に運び込んだ後、決死者七十余名を本所小梅に集合させて、横浜襲撃の構策を開始したのである。幕府内は火がついた。が、説得する理由が乏しい。相手は論客である。老中が調べさせた所、説得出来そうな理由が見つかった。金である。調達した軍用資金の出所は蔵前の札差からで、脅迫紛いで摂取したに相違なかったからである。説得は成った。が、思わぬ方向へ転化した。金作りの味を占めたこの七十余名は、深川材木問屋を脅かして金千五百両を略奪し、更に日本橋洋服商からも六百両を巻き上げるのである。名目は攘夷の軍資金であった。困り悩んだのは幕府である。実行犯が幕臣である。それ以上に、幕府にはもう対応する能力すらが無い。これが取り締まれない大いなる理由であろう。 

知恵者がいた。出羽の清川八郎である。越前松平慶永に献策するのだが、過激な者は京都に送り京都平定に供せよ、と言う訳である。混乱が深まるばかりだと、我らは思うが、時代は狂っていたのか、幕府は本気で考えた様である。鵜殿鳩翁、松平主税之助の二人に浪士取り扱いを命じ、久保田次郎右衛門、山岡鉄太郎を取締役に任じ清川八郎、石坂周造、池田徳太郎等総勢二百五十人を一団とし、鵜殿鳩翁に統括させて京都へ送りこんだ。

壬生(七条あたり)に駐屯したので壬生浪人とよばれ、後には新撰組と新徴組との2隊に分かれた。後は周知の通りである。伊東甲子太郎さんの墓は堀川七条下ったビルの裏寺の墓地にある。油の小路通りで丁度油屋さんの前にあたる。                            (参考 日本裏面史)