こんなゴミクズがまた一つ年を重ねた。
自分自身がこうやって生存していることすら奇跡。
死を恐れていなければ、すでにこの世のものではない。
「羅生門」という文学作品がある。ご存じでしょう。
閑(ヒマ)を出され生活の当てもない下人が、
荒みきった羅生門の楼上で老婆と出会い、
善い方向に動こうとしていた勇気や倫理を"ふい"にされ、
理性のタガが外れてしまう、というだけの作品。
老婆は、言動こそ道徳に反していながら、
道徳そのものからは何ら批判されるべきでない身。
「道徳」や「倫理」は何もしてくれないのだから。
その事実を突きつけられたことによって、
下人は心中にあった反社会性を幇助される形となり、
ついには戻れない道をひた走ることになる。
初めて読んだ時から妙に心に残って、
「まるで自分のことのように」思っていた記憶。
結局、善い心だけでは何も施せないし、
腹が膨れることもない。
痛むばかりで何も残らない。
いや、私は善い心を持ってはいない・・・
だが、悪を貫く心など端から持っていない。
そんな人間だから、羅生門の下人や老婆に自分を重ねてしまったのだろうか。
以前にもこんなこと書いたかしら。
育つ環境が人間を構成する「環境論」が私の持論。
そうはいっても・・・出会う人間が、末路を決めるのかもしれない。
私はいい人と出会ってきただろうか。
・・・少なくとも、生きていたいと思うような出会いは微塵もなかった。
年を重ねて、生きていること自体が罪というぐらい、「無意味」を積み重ねてきた。
「羅」の粗末な心には次々と嫌なことが突き刺さる。
その場に座して、受ける。
末路に向けて、ひた走る。
生きていたいだけだけど、
荒みきった羅生門のような世の中に
一体何を見いだせるのだろうか?
下人は盗人として堕ちていったけれど
私にはその勇気すらない。
楼上に無造作に横たわる、死人となるのだろうか。
自分自身がこうやって生存していることすら奇跡。
死を恐れていなければ、すでにこの世のものではない。
「羅生門」という文学作品がある。ご存じでしょう。
閑(ヒマ)を出され生活の当てもない下人が、
荒みきった羅生門の楼上で老婆と出会い、
善い方向に動こうとしていた勇気や倫理を"ふい"にされ、
理性のタガが外れてしまう、というだけの作品。
老婆は、言動こそ道徳に反していながら、
道徳そのものからは何ら批判されるべきでない身。
「道徳」や「倫理」は何もしてくれないのだから。
その事実を突きつけられたことによって、
下人は心中にあった反社会性を幇助される形となり、
ついには戻れない道をひた走ることになる。
初めて読んだ時から妙に心に残って、
「まるで自分のことのように」思っていた記憶。
結局、善い心だけでは何も施せないし、
腹が膨れることもない。
痛むばかりで何も残らない。
いや、私は善い心を持ってはいない・・・
だが、悪を貫く心など端から持っていない。
そんな人間だから、羅生門の下人や老婆に自分を重ねてしまったのだろうか。
以前にもこんなこと書いたかしら。
育つ環境が人間を構成する「環境論」が私の持論。
そうはいっても・・・出会う人間が、末路を決めるのかもしれない。
私はいい人と出会ってきただろうか。
・・・少なくとも、生きていたいと思うような出会いは微塵もなかった。
年を重ねて、生きていること自体が罪というぐらい、「無意味」を積み重ねてきた。
「羅」の粗末な心には次々と嫌なことが突き刺さる。
その場に座して、受ける。
末路に向けて、ひた走る。
生きていたいだけだけど、
荒みきった羅生門のような世の中に
一体何を見いだせるのだろうか?
下人は盗人として堕ちていったけれど
私にはその勇気すらない。
楼上に無造作に横たわる、死人となるのだろうか。