広島産キンメダイの日記

ごちゃごちゃした世界を泳ぎます

浅井長政

2007年01月30日 | 日常生活
こんにちわ。今回は浅井備前守長政について語ろうと思います
浅井長政とは近江の国小谷城主です。そして浅井久政の長男として生まれました
浅井氏は祖父の亮政の時代にさかのぼります。亮政は京極氏に属する国人でした
ところが、だんだんと力を持っていくことになります
勿論、ライバルも現れるのですが彼らを倒します
しかし、京極氏を助けると言う面目で南近江の六角氏の介入を許すことになります
そこで、越前の朝倉氏に助けを請います。朝倉氏の援助で六角氏の介入を防ぎ、小谷城に京極丸という郭を築きそこに京極氏を住まわせ傀儡とします
この時期に朝倉氏に浅井氏は従属したとの学説があります。うーん、確かに出城は六角の方はたくさんあるのに朝倉の越前の方向にはあまり出城が無いようです。ということは、やはり従属していたのでしょうか
亮政、久政ときて、長政ときます。六角氏の攻勢にさらされた浅井氏は長政を六角氏にも従属するということで、賢政と名乗らせます。しかし、六角氏の従属に反対の家臣は長政にその旨を申し出、長政も承知します。そして、父親の久政を琵琶湖に幽閉します。そして、ついに久政は隠居することになりました
ところが、六角氏とすれば自分たちには向かうことですから、軍勢を派遣します。六角25000人に対して浅井軍10000人
数的にはかなり不利ですが、六角軍としてはかなり緩んでいたようで浅井軍の勝ちとなりました
この戦い、野良田の戦いで浅井長政は家臣の信任を得ます
そして、まもなく彼は家督を継ぎます

最近の労働問題

2007年01月29日 | 日常生活
こんばんわ
今、現在労働問題を扱ったテレビを見ていますじゃなくて
働く貧困層をいう言葉を聴くようになりました。最近聞くようになったと大学の先生が言っておられました
働く貧困層とは働いても働いても暮らしが楽にならないと言うスパイラルに陥るという問題です
最悪ですね。これはかなり深刻です。もっと言えば日本が滅亡寸前です。なぜなら、働けば→お金がもらえる→儲かる→裕福になる→幸福になるという、労働者の究極の目標である幸福追求の道がたたれるからです
私の周りで社会人の人が結構います。正社員から派遣バイトと様々な労働形態の方がいます
それはそれでいいのですが、初めが悪ければずーと悪い道に行かなければならないと言うことですね。最悪です
私の周りで起こった、つまり同級生で初め大学卒業後働いてました。しかし、突然、契約社員になるか、退社するかの選択を迫られました。会社の言い分は業績の悪化です。この手の話は世間ではよくあるそうです
いつか自分もそうなるのではないか、と私は怖くなりました

上杉景勝

2007年01月27日 | 日常生活
こんばんわ
今まで、電車ネタが多いので今度は武将ネタで
そして、景勝と言えば直江山城守兼続です
上杉景勝は、謙信の姉の子供です。お父さんは長尾政景と言います。
お父さんは、ある説では謀反の兆しがあるということで、舟遊び中に宇佐美定満と一緒に溺死してしまいます。ウワサでは謙信が2人とも殺したと言う説がありますが
で、景勝自身は謙信の養子となります
そして、謙信が死ぬと、謙信自身は子供がいないため養子同士で戦います。北条氏康の子供、北条氏秀、上杉景虎です。これをお館の乱といいます
結果は謙信の遺言と言って春日山城に入った景勝の勝ちです。その際、武田勝頼の姉の菊をお嫁にもらいます。甲越同盟です。この同盟は余り結果としては意味を成しませんでしたが
甲斐の武田は1581年に天目山で滅亡します
一方、上杉は柴田勝家に越中を攻め取られ、信濃からは森長可がじりじりと攻めてくるし、家臣たちが裏切るしと滅亡寸前でした
あーもうすぐ滅亡じゃ、という矢先に信長が倒れます。ここで、上杉は息を吹き返します
ここで、清洲会議の結果、柴田と羽柴が仲たがいをします。そこへ羽柴秀吉から同盟の申し込みが。当然今まで攻められてきた柴田勝家に味方はしません。で、柴田は滅亡します。で、小田原の役に参陣します。その際、越中の割譲を求められますが、越後より北の切り取りは認められます
で、その認可のとおり佐渡、庄内地方の切り取りに成功します
そして、会津の蒲生氏郷の死亡後、会津への移動を命じられます。まあ、佐渡の金山はそのままにされました。その際、会津若松を本拠にしたそうです。勿論、伊達政宗への牽制もあったようです
秀吉が死ぬと、徳川家康が表に出てきます。前田利長が家康暗殺の計画を立てているというウワサに屈しお母さんを人質に出します。彼で収まるかと思いきや、今度は会津の上杉に謀反の計画ありという家康の嫌がらせを受けます。早く上洛せよとの家康の申し出に直江状で持って対抗します。直江状とは、上洛しないなら征伐するぞ、と言う家康の脅しに対し、わかり易く言えばやれるものならやってみろという旨の手紙ですね。当然、家康は激怒し上杉征伐の軍を率いて大阪を出ます
しばらくして、関が原の戦いが起こります。うあああ、これは上杉はまた滅亡の機会に直面します。上方から結城秀康を先頭に家康軍、越後口から堀直寄、米沢口から伊達政宗、最上義光、南部利直といった猛将豪将が乗り込んで来そうになります。しかし、関が原の戦いに参陣するため家康は軍を大阪に向けます。結城秀康はそのまま動かなくなりました。哀れなのは残された、伊達、最上の面々です。逆に上杉軍の攻勢にさらされます。伊達は白石城を攻め取ったものの動かなくなりました。そして、上杉軍は矛先を最上に向けます。驚愕した最上義光は今回は悪かった、自分が軍勢を率いてどこへでも行くから堪忍してくれと泣きを入れます。しかし、直江は聞き入れず最上領に攻め入ります。そして、上杉軍は直江山城を大将に25000人の軍勢を率いて長谷堂城を囲みます。対する最上軍は義光自身が5000人の兵を以って後詰にあたりますが長谷堂城は800人しかおらず勝負にはなりません。伊達政宗に援軍を頼みますが、途中でこれも動かなくなりました。しかし、長谷堂城には志村光安という豪将がありなかなか落城しませんでした。
そうこうしているうちに関が原の戦いは終わりました。攻守が逆転した上杉軍は追撃を受けながら撤退しました
そして家康と和睦し、その結果120万石から30万石に減らされてしまいました。それから大阪の陣で活躍したりもしました
ざっと見れば彼の経歴はこんな感じです。なかなかダイナミックな生涯であったのではと思います

キハ187

2007年01月26日 | 日常生活
こんにちわ
今回はキハ187について書こうと思います。キハ187自体はステンレスにテープを貼った今流行の仕様の気動車だなあ、と思いました。なぜなら、機能性重視で概観はどうでもいいですわ的な空気が漂っていましたし。また、あのマスクがあまり好きではなかったです
一言で言えば、不細工だなあと思いましたし、キハ126の特急車版やんかー、と思いましたから。何よりも従来のキハ181おき、くにびき→スクラップにした車両ですから
しかししかし、初めて彼に乗った時はその妄想は打ち砕かれました。うおおおおおお、なんじゃこりゃーーーー、という感じです
あの、グイーーーーーーーんと加速するエンジン音がたまりません。ごめんよキハ187殿、ここに改めてお詫び申し上げまする
後で調べれば、130キロ出せると言うじゃありませんか。実際、山陽線や智頭線では出すそうです。こりゃー快適な乗り物だわというのが二言目です。また調べてみましたら、現在の気動車の真髄が彼に注がれていたのです。なにやら、気動車はエンジンで走りますから振り子機能を搭載するのが難しかったそうです。しかし、四国の2000系がそれを解決したのですが、2000系の技術のプラスアルファがキハ187だそうです。もう忘れがちですがプロジェクトXに出てもいいくらいの発明ですよこれは
けれども、キハ181のはまかぜはどうか淘汰しないでください。よろしくお願いします

223系新快速と阪急6300系

2007年01月21日 | 日常生活
こんにちわ
223系について書こうと思います。元祖関空快速は除きます
223系ができる時、221系がかわいそうだなあと思いました。なぜなら、当時はデザインがあまり好きではありませんでした。なんかズングリムックリした印象でしたから
しかし、現在はかなりハイテクな車両であると思いますが。西日本が総力を挙げて作った車両だと思います。東海道線を130キロで爆走する新快速は、関東風にいえば萌えーです。恐らくあの新快速によって山陽電車や阪急は痛い目に遭っているのではないでしょうか
阪急京都線は明らかにもう新快速にはお手上げですね。なぜなら、高槻に新快速が終日停まることから、高槻市にも特急を停まるようにした阪急ですが、運賃は梅田まで270円に対してJRは250円です。また大阪梅田まで特急で20分かかるところ、新快速では14分です。どちらかと言えばもう高槻大阪間はJRの一人勝ちですね。とうとう阪急は特急を淡路に停めるという風にしています。昔々、6300系が高槻市駅を轟音を立てて通過していくのを見ていいなあ、乗りたいなあと思ったものです。しかし、あの疾走する6300系のイメージはどこえやら
しかし、JRにも問題があります。それは、阪急が四条まで行ってくれるにもかかわらず、JRは行ってくれません。ですから京都駅から烏丸四条まで地下鉄に乗らねばなりません
大阪以遠に行くのはJRですが京都に行くのはかなり迷いますね

武田勝頼

2007年01月20日 | 日常生活
こんばんわ。
今回は、武田四郎勝頼について書きたいと思います
皆さんは武田四郎についてどんな武将であったかご存知でしょうか
周りの人に聞くと、武田を滅亡に追いやった人、長篠の戦の敗北した武将と言った答えが返ってきます。要は愚将ということでしょうか
私はそうは思いませんね。その時歴史が動いた乃せいかもしれませんが智将というよりか豪将という感じがします。箕輪城の素手といったり、父信玄でさえも落とせなかった高天神城を落としたりという剛の者であったようです。でも、確かに剛の者であったが智将ではないやんか、と言う声が聞こえてきます
例えば、一つ目に御館の乱。北条方に景虎方につくようにと言う要請のもと勝頼は甲府を出発します。しかし、何を思ったのか景勝方についてしまいます。当時景勝には直江山城や本庄、斉藤といった武将がついていました。恐らく、勝頼には景虎方につくよりも、景勝についたほうがいいのでは、と考えたのではないでしょうか。もっとも、景勝は謙信の一族ですし血の流れからいうとやはり景勝ですね。その時代、戦国の世じゃーといっても大義名分が大事とされていましたから。また、景虎につけば北条が2つできてしまいますから
もう1つ目は信長との同盟を再び求められた時のことです。私の考えでは、恐らく信長自体を毛嫌いしていたか、恐らく従ったとしても信長の本質を見抜いていたのではないでしょうか。昔、痛い目に合わせた自分を許すはずがないと
また、長篠の戦い以降、鉄砲を集めよと指示していましたから、失敗を学ぶ姿勢はあったようです
ところが、運の悪いことに時代の革新児である信長が相手ですし、一族からもどちらかと言うと支持を得られていなかった勝頼の周辺をみるとなんだかかわいそうな武将だな、と思います。先に申し上げましたようにわずかなミスで滅亡となるこの時代の恐ろしさを感じます

急行丹後

2007年01月19日 | 日常生活
こんばんわ
今回は急行丹後について書こうと思います。私自身、急行丹後といえばキハ58+キロ28+キハ58+キハ28、の編成だったと記憶しています
キハ58の急行自体もう滅亡しかかっていた時代でした。当時の急行丹後3号の城崎行き以外は西舞鶴や北近畿タンゴ鉄道に乗り入れたりするものだったような気がします
あの、京都駅の山陰本線のホームに排煙を吐きながら停車しているキハ58に胸ときめかせていたものです
しかし、急行丹後自体は1997年だったか園部電化の際に引退してしまいました。唯一急行料金で乗れた同車は魅力的でした。昔と違い、少しお金を持つようになった今ではもう一度乗りたいものです
そういえば、思い出しましたが急行丹後に乗って綾部に行きそこから普通で福知山に行ったことがあります。なんせ、当時福知山は福知山行きの電車しか見たことがないという場所でした。ですので、この際行ってみました。で、福知山に着いた際、ホームにらあめん、と書いた看板が眼に入りました。今で言う、えきそばというやつですな。記憶によれば、お餅が2個入っており、そこに中華そばをぶっ掛けた物でした。おいしかったのを記憶にあります。ウワサでは、もうなくなってしまったらしいのですが。今度行ってみようと思います

今川義元

2007年01月17日 | 日常生活
こんにちわ
風林火山について書き込みました。今回は今川義元について書きます。今川義元と言えば、油断をして織田信長に奇襲を桶狭間の戦いで負けて敗北死するというあっけない最期を迎えます。そのかいもあってか、愚者という印象にある方も多いと思います
しかし、しかし今川義元はどちらかと言うと英雄です。例えば、太源雪斎と言う軍師を採用しています。この太源によって家督を継ぎ、そして三河、尾張の一部を平定したのは彼です。太源のその才能を義元は見抜いていたわけですからたいしたものです。義元自体、昔は梅岳承芳と名乗っていた頃、花倉の乱という戦いがありました。今川氏輝が死んだ後の家督をどうするかを争った戦いです。相手は、玄広恵探といいます。たしか異母弟だったような。いずれにせよ、義元は有力家臣の支持をえて玄広を倒します。家督争いが起こればすぐに裏切り者が出る時代に裏切り者をださなかったことは義元にカリスマ性があったからにほかなりません。しかも後ろに北条というとんでもない強敵がいるもののその侵入をさせていません。もっとも大したことの無い武将であれば三国同盟なんか結ばずに武田などの侵入されていますから恐らく甲斐の虎といわれる信玄も一目置いていたのでしょう
まあ、桶狭間の戦いは義元のほんの油断が招いた悲劇と言ってよいでしょうか
でも、あの織田信長が相手ですからね、相手が悪かったとしか言いようがありませんね。信長が斉藤道三の娘を嫁にもらっていたことからすると道三は信長の才能を見抜いていたと言ってもよいでしょう。なぜ義元は気づかなかったのか問題があります。戦国時代とはほんの油断が命を落とす時代なんだとおもいますね

風林火山

2007年01月16日 | 日常生活
風林火山をみていますと、北条氏綱や氏康、今川氏輝、義元、上杉謙信とジャンルに富みます。あのドラマの見所は武田信玄に仕えた山本勘助が自ら立てた策略をもって信玄を助け、その結果武田軍は連戦連勝を重ねます。しかし、最後は川中島の戦いで戦の天才である上杉謙信にその策略を見破られ、自らも討ち死にします
結局、謙信には勝てなかったと言うことでしょうか
見破られたのが、初めてであって、その見破った相手が謙信であったというのがミソです
その謙信と言えば、必殺の戦法である車懸けを編み出した天才ですから
私は信玄よりも謙信のほうが好きですが。一度、織田信長と正面から戦って欲しかったです。一度手取川で戦っていますが、柴田勝家の3万の軍勢を破っています。しかし、あれは手取川を途中まで引き返したところを謙信が襲ったと言う戦いです。ですから、まともに戦ったとは言いがたいと思います
しかし、謙信の機敏さが伝わってくる戦いですね
いずれにしても、風林火山、どんな勘助や信玄、謙信を描くかが楽しみです

さよなら三角

2007年01月14日 | 日常生活
こんにちわ。この季節、別れの季節と言ったとこでしょうか。私は、なんか感慨深い物があります
で、いつに決行しようかと思います。それとは、キハ181系に乗りに行くことです。大阪から浜坂へ、浜坂から京都へといったルートです
特急はまかぜと特急はしだてに乗るつもりです。キハ181系に乗るのは2000年以来ですね。あの時は2000年の時好きな子に振られてかなり落ち込んでいました。でもいいおもいでですね
でも、夜であったせいか景色は見えませんでした。でも、古いのにあんな爆走はじめてみたと思いました
がんばれキハ181系