准胝法の伝播
准胝観音の修法である
「准胝法」は中国密教では唐密に配される。
空海が日本に教えを伝えた後、唐の武宗が大規模に「会昌の廃仏」を行ったために特別な施設や法具類を必要とする唐密は大きな打撃をうけ、入唐八家[9]の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)の時代にはまだ形を残してはいたが唐朝の衰微と共に、その教えの大系を失うことになる。
また、准胝観音の経典類は、空海の『御請来目録』(国宝)には、古訳の地婆訶羅三蔵の訳や旧訳の金剛智三蔵と善無畏三蔵の訳経も、新訳の不空三蔵の訳経も記載がなく「録外の請来品」となっており、その代わりに梵本2本が記載されていて、弟子たちへの著作『三学録』(重文)には「漢訳によらず、梵本を参照するように」と勧めているところから、空海の系統では「准胝法」が秘蔵の教えであったことが推察される。
なお、唐代・宋代の訳経と原典には以下のものがある。
『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』、唐・天竺三蔵 金剛智 訳[10]
『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』、唐・三蔵沙門 不空 訳[11]
『七倶胝準提陀羅尼念誦儀軌』、唐・三蔵沙門 不空 訳[12]
『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』、唐・天竺三蔵 地婆訶羅 訳[13]
『七仏倶胝仏母心大准提陀羅尼法』、唐・三蔵沙門 善無畏 訳[14]
『七倶胝獨部法』、唐・三蔵沙門 善無畏 訳[15]
『梵字 七倶提佛母讃』、唐本・空海 請来
『梵字 七倶提儀軌』、唐本・空海 請来
『仏説大乗荘厳宝王経』、北宋・天息災 訳
『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』、宋・法賢訳
『仏説瑜伽大教王経』、宋・法賢 訳
北宋の時代には後期密教の経典類が翻訳されるも、中国ではモンゴル系の元王朝の台頭や歴史の動乱の中でしだいにチベット系の密教(西密)や道教などに押されて、唐密は衰退していった。しかし、准胝観音は『仏説瑜伽大教王経』(幻化網タントラ)の影響もあってか、元代にも多くの信仰を集めていた[16]。
やがて明代になると、ヨーロッパ文化の流入により危機感を抱いた中国人らによって、各分野でルネッサンスに匹敵する大掛かりな復古運動が中国に起こり、民間に残されていた唐代や宋代からの密教が再編成され、中国密教の四大法と呼ばれる「准胝法」・「穢跡金剛法」・「千手千眼観音法」・「尊勝仏母法」をはじめとする古法類が中国でも保存され、継承された。この四大法の中心となるものは「准胝法」であり、明初に刊行された版本には以下のようなものがある[17]。
『准提懺願儀梵本』、明・呉門聖恩寺沙門 弘壁
『准提集説』、明・瑞安林太史 任増志
『准提縁』、明・劉宇烈
『准提掌果』、明・庵星
『准提持法』、明・素華旭
『准提簡易持誦法』、明・四明 周邦台所輯[18]
『准胝儀軌』、明・項謙
『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』、明・夏道人[19][20]
『顕密圓通成仏心要集』、唐・五台山金河寺沙門 道辰殳
このうち『顕密圓通成仏心要集』は後の中国仏教に大きな影響を及ぼし、この書の刊行によって、今日、中国仏教の特色として知られるような、禅の教えと密教を兼修する「禅密双修」、禅と浄土思想を兼修する「禅浄双修」、浄土思想と密教を兼修する「浄密双修」の教えに拍車がかかり、准胝観音の信仰も同時に中国仏教の全ての宗派に浸透していった[21]。また、明末から清代の資料は以下のようになり、このうち『准提心要』は江戸時代の日本でも刊行されて研究された。
『准提三昧行法』、明・景淳法師[22]
『准提心要』、明・施尭挺[23]
『正入不思議法門品』、清・浄伊禅師[24]
『准提儀軌』、清・揚権
『准提浄業』、清・謝于教[25]
『准提持誦儀軌』、清・謝于教
『持誦准提真言法要』、清・弘賛(1611-1685)
『七倶胝佛母所説准提陀羅尼経會釋』、清・弘賛[26]
江戸時代には禅密双修の黄檗宗の開祖・隠元隆□らによって明代・清代の准胝仏母の尊像と密教の修法が日本にもたらされて、広く禅宗でも祀られるようになった。同時代には、長崎の出島で清国の中国僧から中国密教の諸法と出家戒を授かり、時の光格天皇の師となり、南海の龍と呼ばれた尾張・大納言齊朝候の庇護を受け、京都や尾張(名古屋)、江戸(東京)の地に准胝観音の信仰を広めて戒律復興運動に尽力した、天台宗の豪潮律師[27]なども知られている。
豪潮律師が伝授したと判明しているもので、現在も残っている著作類や同時代の資料には以下のようなものがあり、その内容から江戸時代に中国密教の「唐密」が日本に正確に伝えられていたことが分かる。
『準提懺摩法 全』、豪潮 監修、江戸・喜福寺藏版、文政2年(1819年)[28]
『佛母準提供私記』、豪潮 伝授、尾州・三密場蔵版、京都・貝葉書院、文政9年(1826年)[29]
『佛母准提尊獨部秘法』(準提法伝授之証)、豪潮 筆刻[30]
『佛母准提尊』(図版)、豪潮 筆刻・印施[31]
『準提菩薩念誦霊験記』、亮海 著、寛延2年(1749年)
『準提観音霊験記図会』、南山龍頷 著、辻本基定 撰、天保14年(1843年)
『準提心要』、尭挺 著、享保14年(1729年)[32]
真言宗小野派三宝院流などでは観音に分類され、同流派の醍醐寺上醍醐准胝堂(西国三十三所第11番札所)の本尊は准胝観音である。一方、天台宗系では「准胝仏母」と呼称。実際現在の胎蔵曼荼羅でも蓮華院(観音院)には含まれず、遍智院において仏眼仏母と並んで配される。
准胝観音の修法である
「准胝法」は中国密教では唐密に配される。
空海が日本に教えを伝えた後、唐の武宗が大規模に「会昌の廃仏」を行ったために特別な施設や法具類を必要とする唐密は大きな打撃をうけ、入唐八家[9]の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)の時代にはまだ形を残してはいたが唐朝の衰微と共に、その教えの大系を失うことになる。
また、准胝観音の経典類は、空海の『御請来目録』(国宝)には、古訳の地婆訶羅三蔵の訳や旧訳の金剛智三蔵と善無畏三蔵の訳経も、新訳の不空三蔵の訳経も記載がなく「録外の請来品」となっており、その代わりに梵本2本が記載されていて、弟子たちへの著作『三学録』(重文)には「漢訳によらず、梵本を参照するように」と勧めているところから、空海の系統では「准胝法」が秘蔵の教えであったことが推察される。
なお、唐代・宋代の訳経と原典には以下のものがある。
『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』、唐・天竺三蔵 金剛智 訳[10]
『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』、唐・三蔵沙門 不空 訳[11]
『七倶胝準提陀羅尼念誦儀軌』、唐・三蔵沙門 不空 訳[12]
『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』、唐・天竺三蔵 地婆訶羅 訳[13]
『七仏倶胝仏母心大准提陀羅尼法』、唐・三蔵沙門 善無畏 訳[14]
『七倶胝獨部法』、唐・三蔵沙門 善無畏 訳[15]
『梵字 七倶提佛母讃』、唐本・空海 請来
『梵字 七倶提儀軌』、唐本・空海 請来
『仏説大乗荘厳宝王経』、北宋・天息災 訳
『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』、宋・法賢訳
『仏説瑜伽大教王経』、宋・法賢 訳
北宋の時代には後期密教の経典類が翻訳されるも、中国ではモンゴル系の元王朝の台頭や歴史の動乱の中でしだいにチベット系の密教(西密)や道教などに押されて、唐密は衰退していった。しかし、准胝観音は『仏説瑜伽大教王経』(幻化網タントラ)の影響もあってか、元代にも多くの信仰を集めていた[16]。
やがて明代になると、ヨーロッパ文化の流入により危機感を抱いた中国人らによって、各分野でルネッサンスに匹敵する大掛かりな復古運動が中国に起こり、民間に残されていた唐代や宋代からの密教が再編成され、中国密教の四大法と呼ばれる「准胝法」・「穢跡金剛法」・「千手千眼観音法」・「尊勝仏母法」をはじめとする古法類が中国でも保存され、継承された。この四大法の中心となるものは「准胝法」であり、明初に刊行された版本には以下のようなものがある[17]。
『准提懺願儀梵本』、明・呉門聖恩寺沙門 弘壁
『准提集説』、明・瑞安林太史 任増志
『准提縁』、明・劉宇烈
『准提掌果』、明・庵星
『准提持法』、明・素華旭
『准提簡易持誦法』、明・四明 周邦台所輯[18]
『准胝儀軌』、明・項謙
『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』、明・夏道人[19][20]
『顕密圓通成仏心要集』、唐・五台山金河寺沙門 道辰殳
このうち『顕密圓通成仏心要集』は後の中国仏教に大きな影響を及ぼし、この書の刊行によって、今日、中国仏教の特色として知られるような、禅の教えと密教を兼修する「禅密双修」、禅と浄土思想を兼修する「禅浄双修」、浄土思想と密教を兼修する「浄密双修」の教えに拍車がかかり、准胝観音の信仰も同時に中国仏教の全ての宗派に浸透していった[21]。また、明末から清代の資料は以下のようになり、このうち『准提心要』は江戸時代の日本でも刊行されて研究された。
『准提三昧行法』、明・景淳法師[22]
『准提心要』、明・施尭挺[23]
『正入不思議法門品』、清・浄伊禅師[24]
『准提儀軌』、清・揚権
『准提浄業』、清・謝于教[25]
『准提持誦儀軌』、清・謝于教
『持誦准提真言法要』、清・弘賛(1611-1685)
『七倶胝佛母所説准提陀羅尼経會釋』、清・弘賛[26]
江戸時代には禅密双修の黄檗宗の開祖・隠元隆□らによって明代・清代の准胝仏母の尊像と密教の修法が日本にもたらされて、広く禅宗でも祀られるようになった。同時代には、長崎の出島で清国の中国僧から中国密教の諸法と出家戒を授かり、時の光格天皇の師となり、南海の龍と呼ばれた尾張・大納言齊朝候の庇護を受け、京都や尾張(名古屋)、江戸(東京)の地に准胝観音の信仰を広めて戒律復興運動に尽力した、天台宗の豪潮律師[27]なども知られている。
豪潮律師が伝授したと判明しているもので、現在も残っている著作類や同時代の資料には以下のようなものがあり、その内容から江戸時代に中国密教の「唐密」が日本に正確に伝えられていたことが分かる。
『準提懺摩法 全』、豪潮 監修、江戸・喜福寺藏版、文政2年(1819年)[28]
『佛母準提供私記』、豪潮 伝授、尾州・三密場蔵版、京都・貝葉書院、文政9年(1826年)[29]
『佛母准提尊獨部秘法』(準提法伝授之証)、豪潮 筆刻[30]
『佛母准提尊』(図版)、豪潮 筆刻・印施[31]
『準提菩薩念誦霊験記』、亮海 著、寛延2年(1749年)
『準提観音霊験記図会』、南山龍頷 著、辻本基定 撰、天保14年(1843年)
『準提心要』、尭挺 著、享保14年(1729年)[32]
真言宗小野派三宝院流などでは観音に分類され、同流派の醍醐寺上醍醐准胝堂(西国三十三所第11番札所)の本尊は准胝観音である。一方、天台宗系では「准胝仏母」と呼称。実際現在の胎蔵曼荼羅でも蓮華院(観音院)には含まれず、遍智院において仏眼仏母と並んで配される。
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