COCKPIT-19

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「サルデーニヤ島への旅」(最終回)  パリ・「ムーランルージュ」の夜

2020-04-05 11:07:46 | 旅行記
パリではすっかり「フーケ」に拘ってしまったが、フーケよりも10年早く1889年にオープンし、今なお毎年60万人の観客が訪れるのが、「ムーランルージュ」。 当時 ‘‘最も豪華で上質なキャバレー‘‘ をコンセプトにオープンした「踊りと女性の宮殿」は大当たりし、さらにここに入り浸りだった「ロートレック」の描く絵画やポスターで、その名を世界にとどろかせた。 第一次・二次世界大戦下でも営業を続け、第二次大戦中にパリがドイツ軍の占領下に置かれた際も、多くのドイツ軍将兵で賑わった。 そして我々も、今回の旅の締めくくりは是非ムーランルージュに行きたいと、早くに予約を入れていた。

パリ最後の夜六時半、セミフォーマルのドレスコードで身を包み、入り口の「赤い風車」を仰ぎながら入場した。 べルエポック装飾を施した850席収容のホールには、見事なフレスコ壁画と、ここの舞台に登場した名だたるアーチスト達、エディット・ピアフ、フランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、ライザ・ミネリなどのポスターが、パリの街中でお馴染みの「モリス広告塔」に張られている。 ホールの巨大な客席は観客の視界を妨げない構造となっており、かなり急こう配のすり鉢状の中にシートが配置され、上から下を見下ろす先の低い位置にフロアとステージが作られている。 

デイナーのテーブルはステージの前に配置され、ショーの始まる2時間前からウエルカム・シャンパンで会食が始まる。 概してショーとセットになったコース料理は期待しない方がいいと言うのが定説。 しかしムーランルージュの厨房を仕切る著名なシェフ以下25名の調理師チームが創り出すメニューは、 伝統的なスランスの食文化と近代性のバランスが見事に調和した、繊細な料理だった。 飲み物はここの看板シャンペン、ピンクのローランペリエから始まって、白・赤のワインもこれに付いていけるクラス。 さらに特筆したいのは、ブロックごとにテーブルを任されるマネージャーの采配と、中年ウエイターのレベルの高さ。

上演中のショーは「フェリ」フランス語で(夢の世界)、そして時代を超えて踊り継がれているのが「フレンチ・カンカン」。 レビューは10年に一度の頻度で総演出が新しいプログラムに切り替わる。 羽やスパンコールで彩られた衣装をまとい、体重も厳格に維持した粒ぞろいのダンサーたちは、登竜門をパスしてきた実力者ばかり。 女性ダンサーの身長は平均175cm、男性ダンサーは185cmであること。 クラシックダンスの基礎がしっかりとあり、観客を魅了する容姿を備えていることが条件。 さらに過酷なトレーニングで鍛え抜かれた舞台で、笑顔を絶やさずショーを披露する女性ダンサーは「ドリス・ガールズ」と呼ばれ、現在60名。

アトラクションで度肝を抜かれたのは、「ムーランルージュのニシキヘビ」、大きな水槽の中で美女と優雅に戯れるヘビの身長は、女性のゆうに3倍ぐらいありそう。 とにかく30年ぶりに訪れたこのキャバレーの印象は、永い歴史と伝統を受け継ぎながら、時代に後れを取ることなく有能なクリエーターやスペシャリストを育て、これまで類を見ないユニークなエンターテイメント企業に進化してきたこと。 しかし今回、世界を襲っている疫病の影響を少なからず受けているはず、これをどう克服していくか注目したい。 帰りの搭乗機も「ボーイングー787」、この会社の将来を案じながら食べた和食が美味しかった。  

 














 

 




 

「サルデーニヤ島への旅」(6) 「戦争が終わったらフーケでまた会おう」

2020-03-04 14:26:00 | 旅行記
第二次世界大戦・開戦直後のパリ。 不法滞在で国外退去される外科医のラヴィックが、親友でナイトクラブのドアマン・ボリス・モロソフに最後の別れを告げる場面。 「ジョアンが死んだよ、男に撃たれたんだ。 病院に寝かせてあるが弔ってやらなくちゃならんのだ。一つ世話してくれないか? 何にも聞かずにうんとだけ言ってくれ」。「よしきた」。「ありがとう、僕の持ち物は何でも使ってくれ、それから僕の部屋へ移れよ、いつも浴室を欲しがってたじゃないか。戦争が終わったらフーケでまた会おう」。「どっち側だ? シャンゼリゼの方か、それともジョルジュ五世通りの方か?」「ジョルジュ五世通りの方だ」。 

1946年に出版され、世界的ベストセラーとなったレマルクの「凱旋門」、この本によって有名になったものが二つある。 林檎酒の「カルヴァドス」と、冒頭に紹介したパリのカフェ「フーケ」だ。 ラヴィックを男の理想像として崇拝する僕と、同じく彼の熱烈なフアンであるドクターS氏の二人が、パリに来てフーケに行かない筈がない。 昨夜は友人の死で落ち込み、今日はルーブル博物館で体調が悪く先にホテルへ帰ってた僕だが、ドクターが戻ると二人で早々とフーケへ向かった。 この老舗カフェはレマルクが生まれて一年後の1899年に、ルイ・フーケが御者たちのたまり場だった酒場を買い取って開いたカフェ兼レストラン。

フーケは自分の名前にSをつけ「フーケッツ」と英語風の店名にしたが、当時の流行に乗ったもの。 第一次大戦中はフランス空軍のパイロットたちがバーで最後の一杯をひっかけて戦場に飛び立ったという。 レマルクはここがホテルから近いこともあって頻繁に通い、多くの知人達と酒を飲み、時を過ごした。 「凱旋門」では妻を拷問して殺害したゲシュタポ幹部と遭遇する場に、フーケを設定している。 通りにテーブルを張り出したオープン・カフェの元祖で、赤いシェードが特徴的。 120余年を経て今も昔の姿を留めているのは、「パリのすべてを焼き払え!」と言うヒトラーの命令に部下が従わなかったから。

ジョルジュ五世通りの席に空きがなく、シャンゼリゼ側に座り、シングル45ユーロのカルヴァドスをオーダーする。 このクラスのヴィンテージになるとウエイターがグラスを置いた瞬間にブーケが漂う。 まずグラスを傾け、鼻から強い香りを吸い込んで脳で味わい、チェイサーで口を洗ってから少量を口に含み、舌の上で転がしながら喉の奥へ流し込む。 カルヴァドスのおつまみには漬け込んだオリーブがよく合う、とくにここのは別格で、オリーブがこんなに美味しいものかと感動しながら味わう。 奥のカウンターの壁に著名な来店者の写真がずらりと飾ってあるのだが、レマルクの写真を見つけることはできなかった。

戦争が終わった1945年、フーケは営業を継続していたが、ボリスとラヴィックは再びここで落ち合うことができたのだろうか・・・。 ラヴィックの生みの親であり、その命運を握る著者のレマルクに確かめるしかないのだが、1970年9月25日妻のポーレットに看取られながら79歳の生涯を終えた。 「凱旋門」の訳者・山西栄一氏が解説にこう記す。「彼の作品のうちでも彼の思想を、女の官能の彷徨を、そしてまた男と女の妖しくも微妙な心理の葛藤を、こんなにも巧みな芸術的構想でもって描き出し、作者の滾々として尽きることない豊かな詩情と哀切な抒情的感傷を、こんなにも心ゆくまで悲しく歌いあげた作品は、ほかにないだろう」。  
 









 

  
   

「サルデーニヤ島への旅」(5) パリで友人の訃報を聞く

2020-02-02 11:15:22 | 旅行記
ヨットで最後の朝食は、カリカリに焼いたトーストに、チーズ・ハム・ヨーグルト・スクランブルエッグに果物の盛り合わせ。 残ってた1本の缶ビールを、O氏とドクターと僕との3人で分かち合って飲む。 オルビアの港で、大きな2隻のクルーザーの間にバックで接岸するキャプテンの腕前は流石。 ハーバー周辺を散策しながらカフェでアイスクリームとビールを飲み船に戻ると、これも最後になるランチが用意されている。 トマトとオリーブの入ったタコのマリネ、チーズ、サラミ、ニンジンと豆のサラダ&ビーツ・トウモロコシ、色彩が実に美しい。 下船の時が来た、3人のクルーと握手を交わし、1週間の船旅が終わった。

オルビアのハーバーからコスタ・スメラウダ空港まで乗ったワゴン車の内装は高級乗用車並みで、エアコンの効きも申し分ない。 空港は予想通り凄い混雑ぶりで出発が遅れるとのアナウンス、レストランで休むことにする。 ビールと2~3品ほどの料理をオーダーするとまたタコのマリネ、この島の定番メニューなのかもしれない。 定刻から遅れて飛び立った機上から下を見てると、広大な農地が延々と続き、フランスが農業国だったことをあらためて思い出させる。 シャルルドゴールからパリ・メイファーホテルまで約1時間、こじんまりした4つ星ホテルのフロントには若い日本人女性が居り、ホッとした気分になる。

パリには、客の途絶えることのない旨くて安いビストロが多く、この日の夕食もフランス在住のヱミちゃんが、ホテルの近くに予約してたのもビストロで、店の名はブラックボード(黒板)。 もちろん空席はゼロ、多少の窮屈さを我慢すれば料理のレベルはかなり高く、大皿で幾つか取ってシェアーしながら食べた。 ワインの価格も高くない、とくに白のブルゴーニュ・マコンなどはかなりのお買い得。 ホテルに戻って今夜は一人部屋、ヨットで同室だったドクターは一緒に居てもまったく苦にならない人だったが、久しぶりの一人っきりも悪くない、ドクターもきっと同じ気分に浸っているのだろう。

入浴後ベットでテレビを見てると女房から電話が入り、40年来の友人Ì君が亡くなったという。 2018年の9月、軽い脳卒中を患い軽井沢の別荘で静養中の彼を、女房と見舞いに行ったのが最後になってしまった。 クリスマスイヴには再度訪問し、教会のミサに参列してから2~3日一緒に過ごす約束も、女房の骨折で果たせなかった。 でも最後に過ごした2日間は、1年も経たないうちに亡くなることを予感してた如くに濃縮した時間だった。 標高1000メートルの高地は初秋のヨーロッパのように心地いい、芝生の上に足を延ばせる椅子とテーブルをセットし、ラム・モヒートのカクテルを飲みながら昼下がりの時間をのんびり過ごした。

ところが言語障害で彼の言うことがよく聞き取れない、しつこく聞き返すと「お前も耳が遠くなったな」と言いながら何度も問いかけに応じてくれた。 屋外のスピーカーから流れてくるジャズの選曲がいいので「有線放送か?」と聞くと、「久しぶりに死語を聞いた」と笑いながら、アマゾンの「FIVE TV STICK」だと教えてくれた。 そのあとこの装置で映画にしようと、部屋に戻って「愛情物語」を観たのは、彼が主役の女優キム・ノヴァクのフアンだったから。 旅の話題からすっかり外れて恐縮したが、この年になって親友に去られと、心にぽっかりと穴が空いたようになり、明け方近くまで眠れなかった。

  



 


「サルデーニヤ島への旅」(4)日本のパンはなぜ不味い?

2019-12-04 14:36:10 | 旅行記
サルデーニヤを代表する高級リゾート地「ポルトチェルボ」の観光を終えヨットに戻ると、遅めのたランチが用意されている。 タコと野菜のマリーネにオリーブ油とバルサミコ酢をかけた前菜、鯛のムニエルは醤油との相性がいい。 生ハムと一緒に出されたパンには肉をミンチ状にしたタルタルソースをつけて食する。 このパンはコルシカ島で積み込まれたので、フランスのパンというこになるが、何もつけなくても美味しいし、毎日食べても飽きない。 そして来日観光客の評価も芳しくないという日本のパンとの比較だが、どうしてこれほどまでに香りと味と食感が違うのだろう? その辺に関して詳しいO氏に聞いてみた。

美味しさの違いは小麦粉とバターが主な要因で、日本でも同等の食材は入手できるものの、関税の影響でべらぼうに高くなる。 然らば価格を無視すれば同じものができるか?と問われれば、そもそも日本の主食はコメ、欧州は小麦、この歴史と文化の違いも根底にあり、すぐには難しいのではと仰る。 東京でパンが美味しいのは麻布・六本木で、理由は外国人が多いから。 お値段を比較すると、ドンクのバケットが320円、ヤマザキなどのチェーン店は170円、地元専門店が270円。 評判の店では各自が独自の菌を使って生地を5時間程度発酵させ、仕込みは早朝2時から始めて焼き上がりは7~8時、手間暇かけて品質で勝負している。

パンに次いで欧州帰りの日本人が口をそろえて褒めるのは、乳製品と肉の加工品。 ボートで尋ねた小さな村の専門店で買ったサラミソーセージがあまりに旨いので、同行している肉の専門家Mさんに、その理由を質問したところ、日本との違いは「肉の処理法」。 サラミソーセジは豚のひき肉に塩や香辛料などを混ぜて腸詰したものを、温湿度の管理をしながら60~90日乾燥熟成させて製品化する。 イタリアでは使用する豚肉を生で8カ月ぐらい寝かせ、カビを何度も取り除きながら仕上げるが、一方日本では肉をボイルしてから乾燥させる。 イタリア方式では大変な手間暇がかかるが、これが美味しさの差につながっているとのこと。

ところでヨットの食事で残念だったのは、ビールと白ワインの温度が常に生ぬるかったこと。 冷蔵庫のキャパシシテイー以上に食材や飲み物を詰め込んでいるのが原因の一つで、当初の想定が甘かったのだろう。 それに夜間は騒音防止のため発電機を止めてしまうのも要因の一つ。 もっともビールや飲み物が生ぬるいのはヨットに限らず国内便の飛行機やレストランでも同じ、もしかすると我々日本人の要求する温度が低すぎるのかもしれない?。 それにしてもヨットの電力消費量は想像以上に大きい、冷蔵庫や製氷機のほかに調理器・浄水器・エアコン・照明器具・温水ボイラー・ランドリー設備など、極めて広範囲に及ぶからだ。

地中海観光の最盛期は6月~9月の4か月、このシーズン中は毎年ホテルも乗り物もレストランも、世界中からの予約で満杯になる。 これらをワンパックにしてゆっくり過ごしたいというニーズから生まれたのが、10人程度を対象にした「ヨットクルージング」。 1週間単位でスケジュールが組まれ、ファミリーやグループ対象の貸切と、個別に応募した人たちが乗り合わせるものとに分けられる。 しかし年々需要がが増えており、希望するヨットのランクと日程を確保するには、一年ぐらい前からの予約が望ましい。 それでもリピート客が絶えないのは、やはり豊富な食材を使って食卓を飾る「地中海料理」が、一役買っているのかもしれない。     
 

 



 
 


  



 

 

「サルデーニヤ島への旅」(3)最もセレブなリゾート地・「ポルトチェルボ」

2019-11-02 11:33:19 | 旅行記

最初の夜、ヨットはフランス領コルシカ・ボニファシオ港の沖合に停泊。 夕食後ゲストは船室に引き上げたが、僕とシェフのエディーはフランスの林檎酒・カルヴァドスの杯を重ねる。 一緒だったドクターはいつのまにか傍らのマットでバタンキュー。 やがてキャプテンも加わって話はエスカレートし、これから隣国・サルデーニヤまで行こうということになり、明朝の予定を繰り上げて出航。 飛行機だとフライトプランを出して許可を得ないと飛び発てないが、ヨットは風の向くまま・気の向くまま、アバウトなところがいい。 隣国とはいえイタリアは目と鼻の先、僅か2時間の航海。

翌朝目を覚まして周囲を眺めると、ヨットは4つの小島に囲まれ、まるで港のように風や波からプロテクトされた海域に十数隻の船と一緒にアンカーを降ろしていた。 食事はキッチンとの続きで一段低くなった後部デッキのテーブルに用意される。 今朝のメニューは薄く斜めに切った山形産のコンビーフをフライパンで揚げ、フランスパンに挟んだサンドイッチと、コーヒーorビール。 コーヒーにコルシカの濃い蜂蜜を入れると素晴らしく美味しい。 デザートは小さく切ってミックスした地中海のフルーツで、スイカ・ラズベリー・メロン・キウイ・パイナップルなど。

最初に上陸する本島の港町は、かってイギリスの故ダイアナ妃が最後の夏を過ごしたリゾート地・ポルトチェルボ。 100馬力の船外機を積んだテンダーボートに乗り換えて、緑に囲まれた小さな美しい港に乗り入れる。 複雑に入り込んだ海岸線の中に、幾つものリゾートが点在するこの辺り一帯が「エメラルド・コースト」と呼ばれ、サルデーニヤの観光地の中でも特別なエリア、その中にあって最も洗練された町がポルトチェルボ。 海沿いの傾斜地に入り組んだ遊歩道が何本もあり、その一帯に高級ブランドショップやカフェ・レストランなどが点在する。
 
電柱や大きな看板の類は勿論、コンビニなども皆無。 良く手入れされた樹木や庭園が訪れた人を和ませる。 建物の高さや色彩・デザインなども統一され、センスの良さを醸し出す。 これらをつぶさに見て廻ったО氏の第一声は「行政の抑制がしっかり機能している」。 とくに観光地の商業施設は、厳しい規制が保てないと景観や環境に大きなダメージを与える。 開発計画の時点で練り上げたイメージとコンセプトをしっかり守り続け、高級リゾート地としての地位を長期にわたってキープしてきたこの町に、氏は大きな感動を覚えたようだ。

ブランドショップを覗くと、早くも毛皮のコートが飾られており、これらの高級品をまとめ買いするのはロシア人の客が多いという。 レストランにはロシア語のメニューが置かれ、片言のロシア語が通じるらしい。 さらに数十億円単位の不動産物件をロシアの富豪たちがファンドを組んで買い漁っていると聞いたが、プーチン一派のグループかと勘繰ってしまう。 ヨットに戻っての昼食は、生ハムをミンチ状にしたタルタルソースとパン、タコと野菜のマリーネにオリーブとバルサミコ酢をかけて食する。 デザートはテーブルの上に置いてある果物の取り合わせ。