アオキッコロ!!

先生ここですよby明彦
ブログペットを忘れずにね
平凡かつ尋常でわ無い恋のゆくえー
恋の悩みがちで聞きます

nonoonono

2007-03-06 17:52:09 | 明彦
何・・・・
月が~~~~~

読めるもんなら読んでみろ~~~


春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
 夏は、夜。月の頃は、さらなり。闇もなほ。蛍の多く飛び違ひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光
りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
 秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、
飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風
の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。
 冬は、つとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも。また、さらでもいと寒きに、火など
急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、温く緩びもていけば、火桶の火も、白き灰がちになり
て、わろし。
上にさぶらふ御猫は、かうぶりにて、命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせ給ふが、端に出でて臥したるに、乳母の馬の命婦(1)、「あな、まさなや。入り給へ」と呼ぶに、日の差し入りたるに眠りてゐたるを、脅すとて、「翁丸いづら。命婦のおとど食へ」といふに、誠かとて、たれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾のうちに入りぬ。
 朝餉(2)の御前に、主上おはしますに、御覧じて、いみじう驚かせ給ふ。猫を御懐に入れさせ給ひて、男ども召せば、蔵人忠隆・なりなか参りたれば、「この翁丸打ち調じて、犬島へつかはせ。ただ今」と仰せらるれば、集まり狩り騒ぐ。馬の命婦をもさいなみて、「乳母替へてむ。いとうしろめたし」と仰せらるれば、御前にも出でず。犬は狩り出でて、滝口(3)などして追ひつかはしつ。「あはれ。いみじうゆるぎ歩きつるものを」「三月三日、頭弁(4)の、柳かづら(5)せさせ、桃の花を挿頭(6)に刺させ、桜腰に差しなどして、歩かせ給ひし折、かかる目見むとは思はざりけむ」など、あはれがる。「御膳(7)の折は、必ず向かひさぶらふに、寂々しうこそあれ」などいひて、三四日になりぬる昼つ方、犬いみじう啼く声のすれば、なぞの犬の、かく久しう啼くにかあらむと聞くに、万づの犬、とぶらひ見に行く。御厠人なるもの走り来て、「あな、いみじ。犬を蔵人二人して打ち給ふ。死ぬべし。犬を流させ給ひけるが、帰り参りたるとて、調じ給ふ」といふ。心憂のことや。翁丸なり。「忠隆・実房なんど打つ」といへば、制しにやるほどに、からうじて啼きやみ、「死にければ、陣の外に引き棄てつ」といへば、あはれがりなどする夕つ方、いみじげに腫れ、あさましげなる犬の、侘しげなるが、わななきありければ、「翁丸か。このごろ、かかる犬やは歩く」といふに、「翁丸」といへど、聞きも入れず。「それ」ともいひ、「あえず」とも口々申せば、「右近ぞ見知りたる。呼べ」とて召せば、参りたり。「これは翁丸か」と、見せさせ給ふ。「似てははべれど、これはゆゆしげにこそはべるめれ。また、翁丸かとだにいへば、喜びてまうで来るものを、呼べど寄り来ず。あらぬなめり。それは、打ち殺して棄てはべりぬとこそ申しつれ。二人して打たむには、はべりなむや」など申せば、心憂がらせ給ふ。 暗うなりて、物食はせたれど、食はねば、あらぬものにいひなしてやみぬるつとめて、御梳髪・御手水など参り(8)て、御鏡を持たせさせ給ひて御覧ずれば、げに、犬の柱基にゐたるを見やりて、「あはれ。昨日は翁丸をいみじうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身にこのたびはなりぬらむ。いかにわびしき心地しけむ」とうちいふに、このゐたる犬のふるひわななきて、涙をただ落としに落とすに、いとあさまし。「さば、翁丸にこそはありけれ。昨夜は隠れ忍びてあるなりけり」と、あはれにそへて、をかしきこと限りなし。御鏡うち置きて、「さば、翁丸か」といふに、ひれ伏して、いみじく啼く。御前にも、いみじう落ち笑はせ給ふ。右近内侍召して、「かくなむ」と仰せらるれば、笑ひののしるを、主上にも聞こしめして、渡りおはしましたり。「あさましう。犬なども、かかる心あるものなりけり」と、笑はせ給ふ。上の女房なども聞きて、参り集まりて呼ぶにも、今ぞ起ち動く。「なほ、この顔などの腫れたるものの、手をせさせばや」といへば、「ついにこれをいひ露はしつること(9)」など、笑ふに、忠隆聞きて、台盤所の方より、「さとにやはべらむ。かれ見はべらむ」といひたれば、「あな、ゆゆし。さらにさるものなし」といはすれば、「さりとも、見つくる折もはべらむ。さのみもえ隠させ給はじ」といふ。
 さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき。なほ、あはれがられて、ふるひ啼き出でたりしこそ、世に知らずをかしく、あはれなりしか。人などこそ、人にいはれて泣きなどはすれ。
(1)「内裏御猫産子。女院・左大臣・右大臣有産養事。……猫乳母馬命婦。時人咲之。」(『小右記』長保元年九月十九日条)  (2)午前十時に供する食膳(『侍中群要』)。  (3)禁衛の武士。  (4)藤原行成。  (5)柳の枝で作った髪の輪飾り。  (6)髪飾り。  (7)中宮の食膳。  (8)差し上げて  (9)翁丸に正体を吐かせたわね。

山は、小暗山、鹿背山、御笠山。木の暗山、入立の山。忘れずの山、末の松山、方去り山こそ、「いかならむ」と、をかしけれ。五幡山、帰山、後頼の山。朝倉山、「よそに見る」ぞ、をかしき。大比礼山も、をかし。臨時の祭の舞人などの、思ひ出でらるるなるべし。三輪の山、をかし。手向山、待兼山、玉坂山。耳成山。


市は、辰の市。里の市、海柘榴市。大和にあまたある中に、泊瀬に詣づる人のかならずそこに泊るは、「観音の縁のあるにや」と、心ことなり。をふさの市。飾磨の市。飛鳥の市。

峰は、譲葉の峰、阿弥陀の峰、弥高の峰。

原は、瓶の原、朝の原、園原。



淵は、賢淵は、「いかなる底の心を見て、さる名をつけけむ」とをかし。勿入りその淵、誰に、いかなる人の、教へけむ。青色の淵こそをかしけれ。蔵人などの具にしつべくて。隠れの淵。稲淵。


海は、水うみ、與謝の海、川口のうみ。

陵は、小栗栖の陵、柏木の陵、雨の陵。

渡は、しかすがの渡、こりずまの渡、水橋の渡。

家は、九重の御門、二条宮居一条もよし。染殿の宮、清和院、菅原の院。冷泉院、閑院、朱雀院。小野宮、紅梅、県の井戸。竹三条、小八条、小一条。


「無名といふ琵琶の御琴を、主上の持てわたらせたまへるに、見などして、掻き鳴らしなどす」といへば、弾くにはあらで、緒など手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」ときこえさするに、「ただいとはかなく、名も無し」とのたまはせたるは、「なほ、いとめでたし」とこそ、おぼえしか。
 淑景舎(1)などわたりたまひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿(2)の、得させたまへりし」とのたまふを、僧都の君(3)、「それは、隆円に賜へ。おのがもとに、めでたき琴はべり。それに替へさせたまへ」と申したまふを、ききも入れたまはで、異ごとのたまふに、「答へさせたてまつらむ」と、あまたたびきこえたまふに、なほ、ものものたまはねば、宮の御前の、「いなかへじと、思したるものを」とのたまはせたる御気色の、いみじうをかしきことぞ、かぎりなき。この御笛の名、僧都の君も、得知りたまはざりければ、ただ恨めしう思いためる。これは職の御曹司におはしまいしほどのことなめり。主上の御前に「いな替へじ」といふ御笛のさぶらふ、名なり。
 御前にさぶらふ物は、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄上、牧馬、井手、渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、塩釜、二貫などぞきこゆる。水龍・小水龍、宇陀の法師、釘打、葉二つ、なにくれなど、多くききしかど、忘れにけり。「宜陽殿(4)の一の棚に」といふ言草は、頭の中将(5)こそ、したまひしか。
(1) 中宮定子の妹で東宮淑景舎女御原子。(2) 中宮定子の父道隆。長徳元年四月十日薨去。年四十三歳。(3) 中宮定子の弟隆円。正暦五年(九九四)十一月五日任権少僧都。(4) 紫宸殿の東。その母屋には累代の御物が納められ、一の棚は第一級品が置かれた。(5) 藤原斉信。頭中将は正暦五年八月二十八日から長徳二年(九九五)四月二十四日まで。

中納言まゐりたまひて、御扇たてまつらせたまふに、
 「隆家こそ、いみじき骨は得てはべれ。それを張らせて、進らせむとするに、
おぼろけの紙は、得張るまじければ、求めはべるなり」
と申したまふ。
 「いかやぅにかある」
と、問ひきこえさせたまへば、
 「すべて、いみじうはべり。『さらにまだ見ぬ、骨のさまなり』となむ、
 人々申す。まことに、かばかりのは見えざりつ」
と、言高くのたまへば、
 「さては、扇のにはあらで、海月のななり」
ときこゆれば、
 「これは、隆家が言にしてむ」
とて、笑ひたまふ。
 かやうの事こそは、かたはらいたき事のうちに入れつべけれど、
「一つな落しそ」といへば、いかがはせむ。












 宮に初めて参りたるころ(1)、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳の後ろにさぶらふに、絵など取り出でて、見せさせ給ふを、手にても得さし出づまじう、わりなし。「これは、とあり。かかり。それか。かれか」など、のたまはす。高坏に参らせたる御殿油なれば、髪の筋なども、なかなか昼よりも顕証に見えて、まばゆけれど、念じて、見などす。いと冷たき頃なれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる淡紅梅なるは、「かぎりなくめでたし」と、見知らぬ里人心地には、「かかる人こそは、世におはしましけれ」と、おどろかるるまでぞ、目守り参らする。暁には、「疾く下りなむ」と、急がるる。「葛城の神も、しばし」など、仰せらるるを、「いかでかは筋かひ御覧ぜられむ」とて、なほ伏したれば、御格子も参らず。女官ども参りて、「これ、放たせ給へ」など言ふを聞きて、女房の放つを、「まな」と仰せらるれば、笑ひて帰りぬ。ものなど問はせ給ひ、のたまはするに、非常なりぬれば、「下りまほしうなりにたらむ。さらば、はや。夜さりは、疾く」と仰せらる。ゐざり隠るるや遅きと上げ散らしたるに、雪降りにけり。登花殿の御前は、立蔀近くて、狭し。雪、いとをかし。
 昼つ方、「今日は、なほ参れ。雪に曇りて、あらはにもあるまじ」など、たびたび召せば、この局の主も、「見苦し。さのみやはこもりたらむとする。あへなきまで御前ゆるされたるは、さ思し召すやうこそあらめ。思ふにたがふは、憎きものぞ」と、ただ急がしに出だし立つれば、吾にもあらぬ心地すれど、参るぞ、いと苦しき。火炬屋の上に降り積みたるも、めづらしうをかし。
 御前近くは、例の、炭櫃に火こちたく熾こして、それには、わざと人もゐず。上・、御陪膳にさぶらひ給ひけるままに、近うゐ給へり。沈の御火桶の梨子絵したるにおはします。次の間に、長炭櫃にひまなくゐたる人々、唐衣こき垂れたるほどなど、馴れ、安らかなるを見るも、いと羨まし。御文取り次ぎ、起ち居、いきちがふさまなどの、つつましげならず、もの言ひ、笑わらふ、「いつの世にか、さやうにまじらひならむ」と思ふさへぞ、つつましき。奥寄りて、三、四人さし集ひて、絵など見るも、あめり。
 しばしありて、前駆高う逐ふ声すれば、「殿(2)参らせ給ふなり」とて、散りたるもの取りやりなどするに、「いかで下りなむ」と思へど、さらに、得ふとも身じろがねば、いま少し奥に引き入りて、さすがにゆかしきなめり、御几帳の綻びより、はつかに見入れたり。大納言殿(3)の参り給へるなりけり。御直衣・指貫の紫の色、雪に映えて、いみじうをかし。柱基にゐ給ひて、「昨日・今日、物忌にはべりつれど、雪のいたく降りはべりつれば、おぼつかなさになむ」と申し給ふ。「『道もなし(4)』と思ひつるに、いかで」とぞ、御いらへある。うち笑ひ給ひて、「『あはれ』ともや、御覧ずるとて」など、のたまふ御有様ども、「これより、何事かはまさらむ。物語に、いみじう口にまかせて言ひたるに、たがはざめり」とおぼゆ。宮は、白き御衣どもに、紅の唐綾をぞ、表にたてまつりたる。御髪のかからせ給へるなど、絵に描きたるをこそ、かかることは見しに、現にはまだ知らぬを、夢の心地ぞする。女房ともの言ひ、戯れ言などし給ふ御いらへを、「いささか恥づかし」とも思ひたらず、聞こえ返し、虚言などのたまふは、あらがひ論じなど聞こゆるは、目もあやに、あさましきまであいなう、面ぞ赤むや。御菓子まゐりなど、とりはやして、御前にも、参らせ給ふ。「御帳のうしろなるは、誰ぞ」と、問ひ給ふなるべし。さかすにこそはあらめ、起ちておはするを、「なほ、ほかへにや」と思ふに、いと近うゐ給ひて、ものなどのたまふ。まだ参らざりしより聞きおき給ひける事など、「まことにや、さありし」などのたまふに、御几帳隔てて、よそに見やりたてまつりつるだに、恥づかしかりつるに、いとあさましうさし向かひ聞こえたる心地、現ともおぼえず。行幸など見るをり、車の方にいささかも見おこせ給へば、下簾ひきふたぎて、「透影もや」と、扇をさし隠すに、なほいとわが心ながらも、「おほけなく、いかで立ち出でしにか」と、汗あえていみじきには、なに言をかは、いらへも聞こえむ。「かしこき蔭」と、捧げたる扇をさへ、取り給へるに、ふりかくべき髪のおぼえさへ、「あやしからむ」と思ふに、すべて、さる気色もこそは見ゆらめ。「疾く起ち給はなむ」と思へど、扇を手まさぐりにして、「絵のこと、誰が描かせたるぞ」などのたまひて、頓にも賜はねば、袖を押し当てて、うつ伏しゐたるも、唐衣に白いものうつりて、まだらならむかし。久しくゐ給へるを、「心なう。『苦し』と思ひたらむ」と、心得させ給へるにや、「これ見給へ。これは、誰が手ぞ」と、聞こえさせ給ふを、「賜はりて、見はべらむ」と申し給ふを、「なほ、ここへ」と、のたまはす。「人をとらへて、起てはべらぬなり」とのたまふも、いと今めかしく、身のほどに合はず、かたはらいたし。人の、草仮名書きたる造紙など、取り出でて御覧ず。「誰がにかあらむ。かれに見せさせ給へ。それぞ、世にある人の手は、みな見識りてはべらむ」など、「ただ、いらへさせむ」と、あやしき言どもをのたまふ。 一所だにあるに、また前駆うち逐はせて、おなじ直衣の人参り給ひて、これは、今少し華やぎ、猿楽言などし給ふを、笑ひ興じ、われも、「某が、とある事」など、殿上人のうへなど申し給ふを聞くは、「なほ、変化のもの・天人などの降り来たるにや」とおぼえしを、さぶらひ馴れ、日頃過ぐれば、いとさしもあらぬわざにこそはありけれ。「かく見る人々もみな、家の内出でそめけむほどは、さこそはおぼえけめ」など、観じもてゆくに、おのづから面馴れぬべし。ものなど仰せられて、「われをば思ふや」と、問はせ給ふ御いらへに、「いかがは」と啓するに合はせて、台盤所の方に、鼻をいと高う嚔たれば、「あな心憂。虚言を言ふなりけり。よし、よし」とて、奥へ入らせ給ひぬ。「いかでか、虚言にはあらむ。よろしうだに思ひ聞こえさすべきことかは。あさましう。鼻こそ虚言はしけれ」と思ふ。「さても、誰か、かく憎きわざはしつらむ。大かた『心づきなし』とおぼゆれば、さるをりも、おしひしぎつつあるものを、まいていみじ。憎し」と思へど、まだ初々しければ、ともかくも得啓し返さで、明けぬれば下りたるすなはち、浅緑なる薄様に、艶なる文を、「これ」とて来たる、開けて見れば、「『いかにしていかに知らまし偽りを空に糺すの神なかりせば』となむ、御気色は」とあるに、めでたくも、口惜しうも、思ひ乱るるにも、なほ、夜べの人ぞ、ねたく、憎ままほしき。「『淡さ濃さそれにもよらぬはなゆゑに憂き身のほどを見るぞわびしき』なほ、こればかり啓し直させ給へ。識の神もおのづから。いと畏し」とて、参らせて後にも、「うたて。をりしも、などて、さはた、ありけむ」と、いと嘆かし。
(1)正暦四年十月十五日立冬。閏十月十五日大雪。十一月一日冬至。十二月十七日立春。  (2)中宮の父関白道隆。41才。  (3)兄権大納言伊周。20才。  (4)山里は雪降り積みて道もなし今日来む人をあはれとは見む(『拾遣集』兼盛)による。

大納言殿参り給ひて、ふみのことなど奏し給ふに、例の、夜いたく更けぬれば、御前なる人々、一人二人づつ失せて、御屏風・御几帳のうしろなどに、みな隠れ臥ぬれば、ただ一人、ねぶたきを念じて候ふに、「丑四つ」と奏すなり。「明けはべりぬなり」とひとりごつを、大納言殿、「いまさらにな大殿籠もりおはしましそ」とて、寝(ぬ)べきものともおぼいたらぬを、「うたて。何しにさ申しつらむ」と思へど、また人のあらばこそは、まぎれも臥さめ。 主上の御前の、柱に寄りかからせ給ひて、少し眠らせ給ふを、「かれ、見たてまつらせ給へ。今は明けぬるに、かう大殿籠もるべきかは」と申させ給へば、「げに」など、宮の御前にも、笑ひ聞こえさせ給ふも、知らせ給はぬほどに、…………

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (つぴつぴ)
2007-03-06 17:54:55
あー
目が痛くなったやろ~~
がんばったね
返信する