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ゴーリキーと『どん底』 ~biography(ばいおぐらふぃ)~

2017-07-01 23:13:32 | インタビュー

ゴーリキーと『どん底』 ~biography(ばいおぐらふぃ)~

今年2017年の11月に、なんと、東京ノーヴイの代表作! ゴーリキーの『どん底』が復活することになりました! 

そこで今回の号では、ゴーリキーとはどんな人だったのか、どんな人生を送ったのか、いろいろな角度から、その人生を辿ってみたいと思います。

(マクシム・ゴーリキー)

ゴーリキーは、1868年、ボルガ川流域のニジニ・ノヴゴロドという町で生まれました。

5歳の時に父を、10歳の時には母を肺結核で亡くし、ゴーリキーは11歳の年で社会に出て働かざるを得なくなります。

靴屋の小僧、製図工の徒弟、ヴォルガ川を往復する汽船の皿洗い、売店の売り子、芝居の下っ端役者、イコン作りの弟子など、多種多様の職業に就き、ロシアの下層社会の生活を身をもって体験することになりました。

(現代のニジニ・ノヴゴロドの街並み。ロシアの大河、ヴォルガ川とオカ川とが合流するところにある商工業都市)

この過酷な幼少時代、ゴーリキーの唯一の慰めとなったのが、話上手な祖母アクリーナに育てられたことでした。

祖母はかしこく、善良で、天分豊かな、「世界に対する無私の愛」に満ちた人物でした。ゴーリキーは祖母から「過酷な人生に耐えて行く強い力」を学んだそうです。この祖母の姿は、ゴーリキーの自伝小説『幼年時代』に生き生きと描かれています。

19歳の時、自殺未遂事件を起こします(一説には失恋が原因とも言われています)。その後、ロシア各地を職を転々としながら放浪し、その後、地方新聞の記者となります。

24歳の時にトビリシで、『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が掲載され、はじめて筆名としてゴーリキーを名乗りました。

その後30歳になってサンクトペテルブルクで短編集『記録と物語』を刊行した頃には、一躍人気作家になっていました。その名声はたちまちアントン・チェーホフやレフ・トルストイと比されるまでになりました。

(1900年、チェーホフとゴーリキー)

(1900年、トルストイとゴーリキー)

 

そして1902年、34歳の時、代表作である『どん底』を発表し、同年モスクワでコンスタンチン・スタニスラフスキーの演出で上演されました。

(1902年、モスクワ芸術座の『どん底』初演の舞台)

(1902年、モスクワ芸術座の名優モスクヴィン(ルカ役)と、カチャーロフ(男爵役)の舞台)

 

※掲載した図版は全てWIKIからの引用で、全てパブリックドメインのものです。

※ブログ公開後も、必要に応じて原稿の内容は修正・改変を行いますのでご了承ください。


演劇の歴史は時代を映す!【第1回】

2017-07-01 22:59:22 | インタビュー

演劇の歴史は時代を映す!【第1回】

今回の記事では、演劇の歴史を振り返りながら、文化や芸術について考えていきたいと思います。

とはいえ”演劇史”と言っても様々な切り口があります。
少しマニアックな本かもしれませんが、ここに、「劇場建築の移り変わり」を通して演劇史を描いた、ちょっと変わった本があります。今回は、この本を参考に演劇の歴史を見ていきたいと思います。

S・ティドワース緒『劇場 -建築・文化史-』(1986年初版)

 

<歴史に残る演劇の黄金時代>

おそらく多くの方々にとって、演劇史なんて馴染みがない世界だと思います。
ヨーロッパの演劇は、過去、何回か大きな「黄金時代」を迎えています。
大きくピックアップすると、こんな感じです。

1.古代ギリシャ演劇
2.中世演劇
3.ルネサンス演劇(モリエールやシェイクスピアの頃です)
4.19世紀、巨匠たちが輩出した時代

それぞれの時代の演劇は、今の私たちから見ると実に不思議な、独創的な舞台空間(つまり劇場のことです)が使われていました。
ではさっそく、まずはざっくりと眺めてみましょう!

1)ギリシャ古典劇の時代(紀元前5世頃)

ギリシャ劇と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やはりあの石造りの円形劇場です!

(※図は、古いギリシャ劇場のスタイルを残す エピダウロス劇場。BC4世紀頃。)

洋の東西を問わず、演劇の発祥は全て神事行事から始まっています。
古代ギリシャの都市国家アテナイ市では、毎年、ディオニュソス神(酒の神様として有名なバッカス神のことですね)のための大きな祭があり、その中で、演劇はコンクール形式で上演されていました。特にアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの3人の悲劇作家の活躍により、古代ギリシャ演劇は西洋文明の礎となりました。

さて、見過ごされがちなのですが、古代ギリシャ演劇の最盛期は、実はギリシャがペルシャ帝国と戦っていた時期と重なっていることです。

この時代、小国ギリシャはいつペルシャ帝国に滅ぼされてもおかしくない状況にありました。未曽有の危機的状況を迎えていたことと、まさにそのタイミングで芸術の黄金時代が開花したことは無関係ではありません。当時の人々にとって、演劇は娯楽ではおさまらない、大切なものだったのです。

「紀元前480年、ペルシャ帝国がアテナイ市街を破壊した後、街とアクロポリスの再建の際に劇場が作られ、演劇がアテナイの文化に重要な位置を占めるようになった。この世紀はギリシアの演劇にとっての全盛期となった。(WIKI)」

このように大国ペルシャ軍に市街を破壊された後、その再建に併せて建てられた劇場が、後々ギリシャの文化・芸術の中枢として発展していくわけです。

しかし古代ギリシャ演劇は、その後の歴史の中で、ギリシャがローマ帝国に呑み込まれていくと衰退していきます(ローマ時代になると「悲劇」は完全に廃れてしまい、代わりに「新喜劇」が流行します)。

そしてさらに時代はくだり、キリスト教がヨーロッパに広まると、教会は「演劇は風紀をみだす非道徳的な文化」として徹底的に演劇の上演を禁止するようになります。
(面白いのは、こうした弾圧は、その後の歴史の中でたびたび繰り返されます)

こうして劇場という場所も、ギリシャ・ローマ演劇の文化も、一度完全に途絶えてしまいます。

2)中世演劇の時代

次が、「中世演劇」の時代です。
高校生のころでしょうか、世界史の授業で「中世とは野蛮な、暗黒の時代であった」みたいなことを習った気がしますが、そんなことはありませんでした。
中世ヨーロッパでは、ナント! 都市や町ぐるみで演劇を楽しんでいた時代があるのです。しかもその演劇水準はかなり高かったそうです。

中世に入ると、キリスト教会は、文字を読めない人々の為に、お芝居的な内容の儀式を典礼の中に取り込み始めました。この演劇仕立ての儀式は人々に受け入れられて、次第にいろいろなジャンルの宗教劇を生み出していきます(→神秘劇、聖史劇、受難劇などと呼ばれます)。

そして、これらの宗教劇はやがて教会内では収まらなくなり、町の中で、市民たち自身の手で演ぜられるようになるのです。

ところで、世界史の授業で習った「ギルド」って覚えてますか?

はるか昔に習ったことなんて、ほとんど覚えてませんよね。
ー「ギルド」とは、中世に生まれた職人の組合のことです。

なぜ、ギルドの話を出したかと言うと・・・

これが面白いんです!
例えば、キリストの祝祭日に町全体のイベントとして、皆でキリスト教に関わる劇を上演するとします。

その時、例えば
金細工のギルドなら「東方三賢者のキリストへの贈り物」のエピソードを、
船大工のギルドなら「ノアの箱舟」のエピソードを、

・・・というように分担して演じるのです。それぞれの得意分野で、舞台セットや、小道具、衣装をつくり、自分たちで演じたそうです!(舞台の仕掛けも凝っていて、地獄の入り口のセットに火や煙を噴きだす仕掛けもあったりしたそうです。)

結果的に、ギリシャ・ローマ演劇を禁止した教会にとっては皮肉なことだったのですが、宗教劇というスタイルを通して、演劇は社会の中に広まってしまうのです。

話はまだまだ続きます。
けれどもこの時代、まだ今のような劇場なんてありませんから、今の私たちから見ると実に不思議な舞台空間を通して楽しんでいたようです。

例えば…
① 並列舞台
当時の人々に、舞台セットを「転換する」という発想なんてなかったようです。作品が演じられる場面に応じて各々、別々にステージを作ります(街中や広場など)。そして観客は、話の内容が次の場面に移ると、自分たち自身が次の場面のステージに移動して、次の場面を観劇していたようです。

(※図は、16世紀、仏、ヴァランシエンヌ受難劇の舞台の絵)

 

② 山車(だし)舞台
こちらは逆に、移動式舞台です。
日本のお祭りでお馴染みの、移動式の山車(だし)ですね。イギリスで発展したようです。通りの1ヶ所で演じると、また別の通りに移動して演じられたそうです。

(※図は、15世紀の受難劇の絵の模写)

 
3)ルネッサンスの時代

続いてルネッサンスの頃、シェイクスピアやモリエール(16世紀~17世頃)が活躍した時代です。
モリエールは若い時は、地方回りをしながら自身の才能と経験を磨いていたと言われています。さしずめ、こういった、簡素な組み立て式舞台を使っていたのだと思います。

(図は、16世紀、野外で上演される民衆劇の風景)

一方、イギリスでは、皆さんご存知の独自の劇場スタイルが生まれます。シェイクスピアのグローブ座などは、下図のような、円形の建物の中庭に張り出す形で作られたステージが使われました。

(上図はスワン座での上演を描いた当時のスケッチ、下図は当時の上演の様子の想像画です。)

ちなみにモリエールもシェイクスピアも、こういった舞台だけで演じていたわけではなく、彼らの評判を聞いた国王や貴族たちの前でも(つまり宮廷の中の劇場で)舞台を上演しています。むしろ、彼らが有名になってくると宮廷の中での上演の方が大きな比重を占めてきます。

(18世紀コメディ・フランセーズの内部)

さてモリエールの死後のことですが、彼の劇団は国王の命によって、王立劇団(のちに国立)「コメディ・フランセーズ」が創設されます(1680年)。
しかしイギリスでは事情はまったく異なり、シェイクスピアの死後のことですが、1641年に清教徒革命が起こると、やはり「演劇は風紀をみだす」として、翌1642年に劇場の封鎖が命じられてしまいます。全盛を誇ったイギリスのルネサンス演劇は、こうして完全に息の根を止められてしまいます。

その後、イギリスではどうなったのでしょうか?
1660年、革命が終わり王政復古が始まると、劇場も再開されました。

しかし残念ながら、いったん途絶えた伝統までは復活しませんでした。

例えば、シェイクスピアの悲劇は再び舞台にかけられるようになりましたが、彼の悲劇はハッピーエンドに改作されて上演されるようになりました。
かつての演劇の全盛期を支えた、輝かしい精神(スピリット)は失われていたのです。

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4)19世紀~天才たちが輩出した黄金時代

19世紀に入ると、演劇だけでなく、舞踊家や歌手、また文学や音楽の世界で、天才的な人たちが堰を切ったように一気に現れます。残念なことに、どんな才能が舞台上で繰り広げられたかは、写真や同時代人たちの証言から推測するしかありませんが…。

スタニスラフスキーは、まさにこの同時代の天才たちとの仕事の中で、演劇の本質に近づくシステムを見つけます。
ちなみに、この後、何人もの才能ある演出家、美術家たちが、いろいろな実験的な舞台空間を模索します。(ここでは省略します)

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さて、駆け足でヨーロッパ演劇の歴史をたどりました。

今回は、「プロセニアム劇場」と呼ばれる、今のタイプの劇場については説明を省略しています。こういった、観客と舞台を仕切る(分ける)劇場は、宮廷文化の中で発展してきました。こういった観客と舞台を完全に分けるタイプの劇場、つまり今の劇場に慣れた我々から見ると、かつての演劇の舞台空間は実に不思議です。

こうやって見ていくと、今の私たちの”常識”というものも、実は、歴史に制約された部分がたくさんあるようです。

そして「そもそも演劇の本質って何だろう?」とか「劇場っていったい何だろう?」とか、いろいろな想像力がかき立てられます。
何かそういったものの中に、非常に面白いことが、まだまだたくさんありそうな気がします。

 

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さて、実は僕は一番大切なことに触れずに来ました。
実はこの本は、こんな書き出しから始まるのです・・・。

実はこの本は、こんな書き出しから始まるのです・・・。

「建築と劇場、この二つの芸術は姉妹関係にあるが、姉妹の間によくあるように、互いの良さを引き出し合うことがない。(中略)

「ギリシア劇や、(中世の)奇跡劇の作家、シェイクスピア、ローペ・デ・ベーガ、モリエール、コルネイユ、ラシーヌら偉大な劇作家たちにとって、舞台は必要最低限なものであれば十分であった。イプセンやチェーホフにしても、それ以上求めることがなく、ストリンドベリが好んで彼の作品を上演した<親和劇場>も普通の部屋であった。

「逆に言えば、”これらの時代以外の”(←ここ、元の文章が長いので少し書き直してます)欧米の劇場は、
建築学上、非常に興味深いものであるが、これらはいずれもが演劇芸術の低迷衰退していた時期の所産である。」

「現存する作品と劇場を比べるとき、劇場の方が時代が新しいということは常に銘記しなければならない。アイスキュロスの作品を上演した劇場が木造だったことはほぼ間違いない。(後略) 」

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20代の頃、初めてこの本に触れ、この冒頭の書き出しを読んだとき、僕はすごく考えさせられました。

歴史全体を振り返ると、天才的な人が現れ、素晴らしい文化の時代が生まれることがありますが、そのピークが過ぎて低迷期が始まると、今度は劇場建築や舞台機構など、外側だけが、どんどん豪華になっていく…。

これって、とても大切なことを示唆しているのではないでしょうか?
物質的な部分が豪華になって、さらに便利になったりしてくると、我々はなんとなく「世の中は進歩したねぇ」なんて思ってしまいますが…、

実際には本当に進歩したのか、実は低迷の時代を迎えているのか…?

その問いの答えは必然的に、「我々の子供に、子孫に、何を残していくのか?」という問いかけにもつながっていくのだと思います。

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S・ティドワース著『劇場 -建築・文化史-』
(白川宣力・石川敏男訳/早稲田大学出版部:1986年初版)

※掲載した図版は全てWIKIからの引用で、全てパブリックドメインのものです。

※ブログ公開後も、必要に応じて原稿の内容は修正・改変を行いますのでご了承ください。


B・ブレヒト ~biography(ばいおぐらふぃ)~

2017-07-01 22:57:38 | インタビュー

B・ブレヒト ~biography(ばいおぐらふぃ)~

 

ADN-ZB/Kolbe
9.4.1980 [Datum Archiveingang]
Bertolt Brecht
geb. 10.2.1898 Augsburg
gest. 14.8.1956 Berlin, Dichter, Theatertheoretiker und Regisseur.現代演劇に大きな影響を与えた反戦の巨匠

ベルトルト・ブレヒトは、1898年、ドイツのアウグスブルグで生まれ、24歳の若さで劇作家として認められて以後、詩人としても活躍しながら、その独自の演劇理論で、世界の演劇に大きな影響を与えた巨匠です。

 

ブレヒトの人生は、2つの世界大戦と重なっています。
16歳~20歳の多感な時期を、第1次大戦の中で過ごし、24歳の若さで詩人・劇作家として高い評価を受け、活発な演劇活動を始めますが、ブレヒトは共産主義者でもあった為、当時、ドイツ国内で力を持ち始めたナチスからは”危険人物“とみなされます。

1933年アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、同年2月、有名な「国会議事堂放火事件」が起きると(この事件によって、ナチスはドイツ国内で権力を手に入れます)、その事件の翌日、ブレヒトは妻子を連れて国外に逃れます(妻はユダヤ人でした)。

亡命生活の始まり

ブレヒトが妻子を連れて亡命生活を送る中、1933年にナチ党政府はブレヒトの著作の刊行を禁止し、彼の著書を焚書の対象としました。

さらに!
1935年には、ナチスからドイツ市民権を剥奪されます。

(ポーランド軍歩兵の行進)

1939年9月、ドイツ軍によるポーランド侵攻によって、第2次世界大戦が始まります。身の危険を感じたブレヒトは、亡命先を転々と変えながらも創作活動を続け、1941年に、アメリカ合衆国にたどり着きます。

『コーカサスの白墨の輪』執筆

『コーカサスの白墨の輪』は、アメリカ亡命時代の最後の作品です。1943年、ブレヒトの作品をブロードウエイで上演する計画がすすみ、ブレヒトはこの作品の執筆を開始。翌44年には、ほぼ書き上げられますが、45年に大戦が終結し、まもなく米ソの冷戦が始まったことから、上演は不可能となってしまいました。

そして、世界的な評価へ…

ブレヒトは東ドイツに戻ると、1949年その実績を認められ、自身の本拠地として国立劇場(劇団)ベルリナー・アンサンブルの創設を認められます。

(ベルリナー・アンサンブルの建物)

1955年には、パリで開かれた国際演劇祭で、『肝っ玉おっ母』と『コーカサスの白墨の輪』の2作品で参加します。

この上演は大成功を収め、実質、この2作品によって、ブレヒト演劇の成果が西欧の観客に知れ渡り、同時に国立劇場ベルリナー・アンサンブルは世界の演劇人のメッカとなります。

1956年8月14日(58歳)、心臓発作のためベルリンで死去。


え? 『白墨の輪』のお話は、あの『大岡裁き』?

2017-07-01 22:52:00 | インタビュー

さて、まだこの作品を見ていない方には申し訳ありませんが、先にネタばらしをしてしまいます(スミマセン!)。

ブレヒトの代表作の一つ『コーカサスの白墨の輪』
実は、このお話のメインのエピソードは、なんと、あの「大岡裁き」で有名な、子どもをめぐって争う二人の母親を裁くお話なのです。

二人の母親が子どもの両手を、ちょうど綱引きのように互いに引っ張りあって決めることになりましたが、手を無理やり引かれて痛がる子どもが不憫で、つい手を離してしまう方の母親こそ「本当の母親」って認められるというやつです。

でも、この「大岡裁き」には元ネタがあるのです。

実は、この大岡裁きの話は、中国の『灰欄記(かいらんき)』という戯曲に書かれたお話から来ています。

『灰欄記』の「灰(かい)」とは石灰、「欄(らん)」は輪っかを意味し、直訳すると『石灰で書いた輪』なので、ほぼ『白墨の輪』ですね。(そう言えば小学生の頃、運動会とかがあると、グラウンドにこの石灰で競技場のラインとか引かされましたっけ。あれ? そういう経験ってありませんか?)

で、ブレヒトが『コーカサスの白墨の輪』を書く際に参考にしたのは、この『灰欄記(かいらんき)』を下敷きにしてドイツで上演された、別の作家の『白墨の輪』なんだそうです。

ブレヒトは、1944年、亡命中のアメリカで『コーカサスの白墨の輪』を書き上げていますが、実はその3年前に、舞台を自分の生地ドイツのアウグスブルクに、時代を30年戦争の時代に移して、短編『アウグスブルクの白墨の輪』を書いています。
この作品の中で登場する裁判官は、のちの『コーカサス…』に登場する”悪徳裁判官アツダク”に比べると、わりとマトモというか、体制側の人間なのだそうです。(スミマセン、『アウグスブルクの…』はまだ読んだことがないので、この辺は完全に受け売りです。)

「でも、いくら男気の強い人間だったとしても、体制側の裁判官が、生みの母親より、愛情をもって育てた女に親権を認める判決をくだすなんて、どこか無理があるな…」

そう考えたブレヒトは、次の『コーカサス…』では、国王軍とクーデター軍の争いが続く中、たまたま生まれた無秩序な期間に、たまたま裁判官をやる羽目になった男(アツダク)に、この役目をやらせます。

旧約聖書にさかのぼる『大岡裁き』

少し本題から逸れましたね。

で、このお話はさらに、旧約聖書の中のお話にまでさかのぼります。

皆さんは『ソロモン王』とか『ソロモン王の知恵』って、耳にしたことはありませんか?

ソロモン王とは、旧約聖書に描かれる古代イスラエルの王様で、神様からこの世の中の誰とも比べられないような「優れた知恵」を授けられ、古代イスラエル王国を大繁栄に導く伝説の王様です ( 旧約聖書「列王記」所収 )。

で、ソロモン王が神様から知恵を授けられた直後に、ソロモン王の優れた知恵の証として描かれるエピソードが、この「母親を決める裁判の話」なんです。というか、具体的なエピソードとして描かれるのはこれだけなので、正直ちょっと、「え? それだけなの?」という感じはしちゃいますが…(スミマセン)。

ただ、古い時代のお話なので、ちょっと描き方が強烈、というか極端です。

なんと、ソロモン王は、「剣を持ってきて、この子どもを二つに切り裂き、二人の女に分け与えよ!」と命じます。

本当の母親ではない方の女は「では、その子どもを半分に切り裂き、私たちに平等にお与えください。」と言うのに対し(ふつう言うかなぁ? そんな無茶苦茶なこと…。)

その裁きに驚いた、本物の母親は「わが君。どうかその子どもをあの女に与えて下さい。子どもを殺さないでください。」と頼みます。

それを聞いたソロモン王は、「子どもを切り裂くのは止めよ。この女こそ、この子どもの本当の母親だ。」と裁定をくだすのです。

まあ、「子どもの親権」については、古くから問題にあげられていたということでしょうか…。