本のハコ トラウマ克服哲学部

部員1名、活動不定期。

映画と観客

2020-07-28 10:51:45 | 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶 4
1章 ヤージュニャヴァルキヤ

古代インドでは、人間のやらかす「勘違い」について説明する際に、「踊り子」と「観客」という言葉を使う伝統があるらしい。『史上最強の哲学入門』では、それを「映画」と「観客」に置き換えて説明している。

真っ暗闇の映画館で、たった一人で映画を観ている人がいる。その人は自分が観客であることを忘れて映画にのめり込み、自分自身を映画の主人公に同化させてしまい、悩み、喜び、苦しむ。同化が進みそれが日常となると、彼は「これは現実だ、間違いなく自分自身の身に起こっていることだ!」と信じ込み、もはや自分がただの観客であったことを思い出せなくなる。ところが何かの拍子にパッと明かりがついて、「自分はただ映画をみているだけだった」ということを思い出せたとしたら、その瞬間、彼が抱えていた「問題」や「不幸」は一瞬にして消え去る。結局『彼自身』は、本当は全く不幸でもなんでもなかった。「不幸」だったのはあくまでも「映画の中の主人公」であって、『彼自身』ではなかった。それなのに彼は、勝手な思い込みで「不幸だ不幸だ」と勝手に騒いでいただけだったのである。

なぜ、人は映画の中の自分と同化してしまうのだろう。
自分を主人公としたその映画はどうやって作られていくのか。

身近な人の言動、自分の能力、経験、社会的な立場、道徳、文化とか、とにかく自分にひっかかるありとあらゆるものが総合されて組み立てられていくはず。実際、子供ってそういうふうにして自分自身と自分を取り巻く世界のストーリーを作りあげてくんじゃないだろうか。

私が観ていた「オチコボレ」の映画は父のすり込みによるところが大きい。実際、父の中で私は落ちこぼれなのだろう。けれどそれは父のストーリーであって、私のストーリーはそれと同じでなくていい。

問題は、
・父のストーリーを無修正のまま自分の中にとりこんでしまっていたこと。
・それにはまりこんで身動きがとれなくなっていたこと。
・そして、その構造に全く気づいていなかったことだ。

気づくか気づかないか。この差はとてつもなく大きい。と思う。

大きくなってから、父、母、祖母と会っているときに、昔の恨みからケンカになったことがある。父と母は記憶にないの一点張りだったが、祖母だけは違ってて、家族崩壊、金銭面的危機を回避するためにおまえが我慢するのは当たり前、と堂々と諭された。
ダンマリを決め込む両親より、ばあちゃんと話すほうがいっそ清々しかった。

少なくとも、子供が本気でぶつかってきた時に、それに耳を傾けようとも、過去をふりかえってみようともせず、ごまかしたり、しらんぷりしたり、子供にオマエオカシインジャナイカと言ってきたり。
そんなふうにしかできない人間と心から気持ちよくつきあえるか?
信頼関係を築けるか?
・・ちょっと難しいなと思う。
過去がどうこう以前に、今の親の姿を見てそう思う。
残念なヒトが親だった。それだけだ。

気づきによって「全ての苦悩から解放される」っていうのはオーバーだ。けど、気づきによってストーリーの「選択」が可能になるというメリットは相当大きいのでは?と思う。

私的に、悟りはここまででもう十分だ。座禅のために山に入ることはきっとないだろう。

梵我一如の謎

2020-07-28 09:44:18 | 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶 3
1章 ヤージュニャヴァルキヤ

「アートマン(我、自己、私)の正体がブラフマン(梵、世界の根本原理)と同一であることを知った人間は、すべての苦悩から解放され「究極の心理」に到達する。」

こんなことがあるだろうか。究極の真理てやつを知りさえすれば苦悩がなくなる・・・そんなことある!?と思わずにはいられない。
娘が事故死しても?冤罪で逮捕されても?自分の不注意で誰かを下半身不随にさせてしまっても?目がさめたら奴隷になってても?大空襲の火の海の中、逃げまどっている最中でも?

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』の続きを読むと、釈迦の章に入って「だよね!」とウンウン頷きたくなる展開に。
インドの修行僧は苦行に走るようになったらしい。
悟りをひらけば「どんな苦悩からも解放される」ということはつまり・・・死ぬ一歩手前まで断食しても、火の上を裸足で歩いても、ボコボコに殴られても、どんな苦しみにも平気でいられたら、それは悟りをひらけたっていう証拠になるよね?という解釈。苦行は「悟れたかどうか」を客観的に判断するためのバロメーターになってしまった。
的なことが書いてあった。

ヤージュニャヴァルキヤの章を読んだ時、私が梵我一如にものすごく共感したポイントは「~に非ず、に非ず」の部分。あらゆる不幸は勘違い、ここにだ。
経験上、心底思う。勘違いに気がつけば、無駄な苦しみを大きく削ることができる。思い込みで苦しんでいる若い人にはぜひ、1分1秒でも早くムダに気づいてほしい。心からそう思う。私は40手前までかかったから。

梵我一如ってすごい哲学だなあと思った。けれど、それを知ったからといって今ある苦しみが消えるとは思えない。釈迦の章を読んでも、やっぱりそう思った。悟りが普通の世界、普通の人間の役に立つのか。

何もない無の状態の世界に、私たちが名前をつけていく。そうすることで無が有へと区別され、モノや概念が存在しはじめる。区別を増やすことは世界を生み出すこと、それを学ぶこと、逆に区別をなくす方向に進み続ければ、いつか最初の無の状態にいきつく。個人と世界の境目さえない状態を感覚的に体験しようとするのが悟りを得ようとする行為?
かな?東洋哲学の真髄、解釈ちがってるかもしれないけど、最後まで読んでみて、このへんが私の限界。悟ってるわけじゃないからな。仕方ない。