われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す。
このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの意義もわかりません。皇霊を礼拝するということも虚*Lではありません。いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとくドッシリとして、その中心からどんな時にも日本国が立ち直ることができた重心は天皇がましましたからであります。われわれは歴代の天皇のこの御恩沢を忘れてitならない。恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を捧げるのであります。
(「生長の家とはいかなるものか」90~91頁、「生命の實相」頭注版第28巻 65~66頁)
※『大調和の神示』には「皇恩に感謝せよ」とあります。この「皇恩に感謝せよ」の解説を探したかったのですが、書籍『神ひとに語り給ふ』の中の『大調和の神示』講義にありませんでした。代わりと言っては何ですが、【生長の家家族の祈願および修養】講義から抜粋しました、
このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの意義もわかりません。皇霊を礼拝するということも虚*Lではありません。いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとくドッシリとして、その中心からどんな時にも日本国が立ち直ることができた重心は天皇がましましたからであります。われわれは歴代の天皇のこの御恩沢を忘れてitならない。恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を捧げるのであります。
(「生長の家とはいかなるものか」90~91頁、「生命の實相」頭注版第28巻 65~66頁)
※『大調和の神示』には「皇恩に感謝せよ」とあります。この「皇恩に感謝せよ」の解説を探したかったのですが、書籍『神ひとに語り給ふ』の中の『大調和の神示』講義にありませんでした。代わりと言っては何ですが、【生長の家家族の祈願および修養】講義から抜粋しました、