田舎暮らしも20年が過ぎて・・・。 田歌舎代表ふじわらほまるのつぶやきブログ

一途な思いで突っ走ってきた時を経て、すっかり中年のおっさんになってしまったよ。そんな中年のあつい思いをたまには文章に

田歌舎のお米

2021-10-06 10:17:15 | 日記

(田歌舎のBBQ棟から見下ろせる合鴨農法の田んぼ)

 田歌舎では私たちが作るお米と谷を挟んでお隣にくらすとみヱさんが丁寧に育てたお米を販売しています。
今回はそんなお米たちのストーリーを紹介しようかな、と。

 田歌舎でのお米づくりは今年で18年目となりました。私自身は美山にやってきて翌年の23歳の春からお米つくりを始めたので、私にとって今年は26年目のお米つくりとなります。
若かりし頃、知識もないまま果敢に挑戦した無農薬有機栽培は3年目で草だらけの田んぼとなってしまいまして・・・。
その翌年からは地域の皆の田んぼと遜色ないお米づくりができるまでこだわった素人農法をやめようとなって、いわゆる慣例農法で化学肥料も農薬も用いて、まずはしっかり獲れる農業を目指すこととなります。その方針は田歌集落に越してきた田歌舎の創生期も同じでした。新たに借り受けた圃場でまず地域の皆から認められる農業をしっかりやらなくちゃ、という思いでしたね。


(田んぼは排水の機能がとても大事、近年の気候に合わせ、長雨に備えて排水口を増設しています)

 そうして田歌にやってきて5年目、反収平均520kgという地域一番の収量を上げることができたのですが、その翌年から自分の中でも納得し、満を持してそこまでに得れた経験や知識を活かしたアイガモ農法や有機栽培といった収量度外視のこだわりのお米づくりを再開することとなります。

 田歌に移り住んでから、高齢により辞めていかれる農家さんから様々な道具を引き継ぎ、種蒔きから収穫までの全ての工程を田歌舎で行えるようになりました。水利の良い圃場ではアイガモ農法での無農薬有機栽培を続けて13年目になりました。そのために飼育する合鴨は初めの頃は雛を購入していましたが、今では親鳥が生む卵を自社で孵化させて命を繋ぎます。もちろん副産物としての鴨卵はとても美味しくて田歌舎の魅力ある食材の一つとして活躍しています。そんなアイガモ農法では玄米食となる赤米や黒米、玄米食用としてのキヌヒカリを育てます。


(小さなビニールハウスですが、冬は小さな葉野菜たちを育て、春になるとハウス一面に稲の苗床が広がります)

 そして田歌舎の施設から少し離れた圃場では、特別栽培米と称することのできる低農薬の農法でのお米作りです。実際には自分たちで苗床を作っての種まきから始まり、肥料は購入する有機資材のほか、牛糞や山土、刈り草など投入し、除草剤は1回のみで、化学肥料を一切用いず育てています。
特に山土の投入はお米の味を変えてくれました。ですがとても重労働なので、数年に一度の作業、重機なども必須の作業となります。あまりに重労働なので費用対効果?的にも大変だなあ、という思いもあったり、「継続し難いことは=完成した農法とは思えない」で、いろいろ今も模索中ではありますが、美味しく安全なお米つくり、なおかつ経済もそれなりに成り立たせることは永遠のテーマですね。
そんな田歌舎の汗と涙(嘘)が染み込んだ特別栽培米は、うるち米のコシヒカリともち米ですね。


(田歌集落全体で協力し合いながら田んぼは維持管理しています。集落の皆の合意のもと人に安全も環境にも配慮し、集落全体でカメムシ防除などの強い農薬は使いません)

 次は今回の記事を書くきっかけでもあり、是非とも伝えたいなと思う「とみヱさんの作るお米」田歌集落の清流米(商品名)のストーリーを・・。
とみヱさんは田歌舎からは小さな谷と挟んで100mくらい離れているし、杉林があるからほとんど見えないけど(笑)、でも一番のご近所さんですね。
 もう5年ほど前に残念ながらご主人が亡くなったんだけど、それまでの半世紀以上もの間、常に夫婦ともに日々田畑に赴き、丁寧な農業をされてきたようです。私が移ってきて10数年彼らの仕事を間近で見ることができましたが、田んぼではいつも中山間地域特有の広い畔と土手の草を「えらい、えらい、」が口癖になりながらもそれは丁寧に刈り上げ、そしてその全ての刈り草を田んぼ毎にひと所に美しく積み上げられていました。そうしてシーズン4回、5回と刈られた草の全てを積み上げ、重石を置かれた状態で晩秋を迎える頃にはとても優れた緑肥(*この刈り草を発酵させてできる緑肥の素晴らしい効果については、今では科学的に実証されています)と変わるのです。


(脱穀後の籾殻は薫炭にして、優れた有機資材として翌年の苗床の土に混ぜて使います)

「空き地なく撒く」という言葉をとみヱさんから教わりました。
その出来上がった緑肥はまさに言葉の通り「空き地なく」圃場に撒きつくされます。そうして秋漉きを経て春になり土に還った緑肥は豊かな土壌を育みます。植物の成長を助ける有効な菌が土壌いっぱいに広って、元の土に残る有機物たちの分解も活性を与えるようなイメージかな。特別栽培米といった言葉が生まれる前から、その緑肥に頼り、化学肥料は慣例農法の半分から3分の1しか使わないと聞いています。そうやって育つ米は実際に病害虫に強く、収量も常に多い上に美しい粒が揃います。ご主人がなくなる数年前からは、自分たちでの苗づくりが厳しくなってきたけれど、農協の苗は使いたくないということで、田歌舎で十年近く苗づくりを引き受けていました。今のような情報が溢れる前からも慣例農法ではない自分たちの経験で積み上げた農法を確立し、信念を持たれていたことは尊敬以外の何物でもありません。
ですが残念なことに、そんなとみヱさんも今では80も半ば、思うように体が動かなくなってきました。今は遠くで暮らす息子さんご家族が定期的に帰ってこられながらとみヱさんの田んぼを守ります。そんなとみヱさんご夫婦が長年育んだ圃場で育つお米は今では慣例農法(低農薬ですが)に近い農法に頼らざる得なくなりましたが、それでも土の中の貯金は生き続けています。今年も集落のライスセンター(脱穀、精米所)で作業する皆が口を揃えます。
「今年も卯之助(屋号:とみヱさんの家のこと)の米が一番や」と。






◇猟を通して思うこと

2018-01-30 13:07:02 | 日記

(狩猟体験にて、今にも鹿が現れるかと緊張が走る)

日本にはたくさんの野生動物がいます。そして私たちの生活では様々な折に野生動物たちとの遭遇があります。ですが都会に暮らす人の多くは、その周囲の山にもたくさんの動物たちが潜んでいるにも関わらず、その実態についてあまりにも無知だなと感じざるえません。でもそれは元をただせば戦後より、偏った動物愛護とキリンとライオンから始まるようになった教育が間違っているし今もなおそれが正されることなく続いているからだと思っています。

酸性雨、温暖化、様々な複合的な要因が絡み合い、豪雪、豪雨などによるかつてない倒木や、ナラ枯れなど突然発生の病気の蔓延による枯死、明らかなキノコ類の減退など、日本の森は危機に直面しているとも言えます。、さらにはこれから何か新しい重大な被害、病症が森の中で発生するかもしれないのです。
ですがそんな中でも、豊かな森林を有するこの国ではこの20年来で野生動物が大幅に増加してきました。一見素晴らしいことのようにも見えますが、いち早く鹿の爆発的増加を経験した美山では森林の林床植物が鹿の食害により壊滅的な被害を受け、山中にはほとんど下草が無くなりました。それは獣たちにとって森の中の食べ物が枯渇したことを意味し、さらには多種多様な植生が奪われ、すなわち昆虫類、鳥類にも大きな影響を与えていることを意味します。つまり生物多様性が失われたということです。
さらに結局のところ、自らの餌も枯渇してきた鹿は、美山では10年ほど前をピークとして数を大幅に減らしています。それでもなお残る鹿による食害で植生回復の兆しはなかなか見られない状況です。 美山以外の森林に目を移すと、たった今鹿、猪が増加の一途をたどる地域が全国各地にあります。そんな地域を訪問先などで垣間見る中で、それらの地域の森もこれから10年20年を経て美山の森のような生命が枯渇した森にならないことを願うばかりです。

狩猟による捕獲は残念ながらこの大きな増減の波に抗えるほどの力はないと感じています。私たちがどれほどに頑張っても、この大きな波を止める力はないですが、特定地域の獣害対策としてのピンポイントでの狩猟圧の効果は確かにあります。
ですがそれ以上に今私たちにできる一番大切なことは、これだけ傷んだ自然の中でも育まれる動物たちの血肉を無駄にしないということです。

きわめて環境にやさしく(エコロジー)であり、持続可能(サスティナブル)な獣肉を無駄にしている日本の有り様こそが一刻も早く変わらなくてはならないことだと思います。
国民の多くが獣肉と食することを通して日本の野生動物のことを知り、日本の森の現況を知り、森を、獣を守るためにできることに関心を注ぐようになることを願ってやみません。それは食育であり、自然科学の学びであり、日本の自然に誇りを持つことにも繋がるのですから。
そんな先にようやく効果的な有害鳥獣対策、あるいは自然保護の答えが見出せる日が来るのではないでしょうか。

今田歌舎として微力ながらも私たちにできることは、獲った獲物を無駄なく美味しく食べる、その美味しさをできるだけ多くの方たちに届けること、それだけです。


(レオの子孫たち、3代目から5代目の5頭の犬たち)

犬との暮らし

もう20年以上前、美山に移住して間もなく1匹の犬を飼った。日本犬の雑種で「レオ」と名づけた。 当時、自分自身が狩猟をするなど夢にも考えなかったものだが、優秀な猟犬に育っていった「レオ」によって、肉を自給するという術と出会い、私自身の中にも眠っていた狩猟本能が目覚めた。
 いま、田歌舎にはレオの3代目から5代目ともなる子孫たちがいて、彼らと暮らし、狩猟という仕事をともに行っている。そこには喜怒哀楽がお互いに存在し、時には大きな達成感を共有するし、悔しさを共有することもある。言葉(日本語)を使わない以外は人とのコミュニケーションとほぼ違わない。まさに家族の一員として、時には互いに癒しともなり、時には家族を守るために体を張りさえする。そんな素晴らしいパートナーである犬たちとの暮らしは自身の命が尽きるまで続くことを願っているし、次の世代につなげていきたいと思う。

田歌舎おひさま発電所に応援いただいた皆さまへ

2017-12-01 15:49:19 | 日記

(2017夏ふくしまキッズ スタッフと子供たち)

基金の全額返済という節目のご挨拶として、あれから7年後の今の世の中に感じることを率直なメッセージにして挨拶に代えさせていただきます。

田歌舎に発電所が出来て5年が経ちました。つまり震災後もうすぐ7年ということですね。この7年の中で、まだ右肩上がりの経済を求める象徴のごとく東京オリンピックの誘致が決まり、かつて以上に政治は混迷を極め、信じるべき政党など何一つ見あたらない。そして若狭の原発は再稼働に邁進し、私たちの美山町では再稼働を前提にした原子力防災訓練などが町民を巻き込み大がかりに取り組まれ、関電と行政が共催で開催される説明会では、再稼働を前提としてその事故をあり得ないことと(万々一と)言い張る始末。

世界に目を向ければ日本がいつ戦争に巻き込まれるかわからないような情勢にあり、そんな状況にありながらも、あの事故によって日本は何も学ばず、新しい希望ある未来に進歩を遂げようともせず、旧泰然とした高度成長期のバブルな思いでの再来にしか希望を見出せないようで、ともすれば戦争の再来すら期待しているようにさえ見える。
中国や韓国の日本バッシング。至極当然のことだと私は考える。日本は先に裕福な国になった。それに追随しようとするのも当然の成り行きであり、裕福な暮らしを手に入れたのちに押し寄せる中国人の観光もかつての日本人と同じ行動原理だろうし、規模が違えど中国の汚染問題も同じことを先に日本がやっていたことだ。
中国や韓国その他アジアの国々にとって今の日本ならば追いつけ、追い越せ、叩き潰せと思って当然だと思う。政治的にも一般の方からもお手本にしたいと思わせるような国、世界を巻き込めるような持続可能社会を目指す国を目指してほしいと心より願う。
そんな素敵なリーダーシップを持ってこそ北朝鮮の脅威に対して話し合いという手段が可能になるはずだ。今の日本と話し合ったところで誰が懐の武器を捨て去ることがあろうか。



さて、田歌舎はおかげさまで自然を活かした狩猟、採集、農耕、牧畜といった営みを少しずつではありますが精度を上げてきて来年15周年を迎えます。多くのお客様に体験や食事を通して持続可能な社会、暮らしの楽しさや豊かさを伝えてくることが出来ました。視察や研修として訪ねてくる団体も多くあります。そして田歌舎に集まる学生、そして新しいスタッフも多くなりました。ささやかな規模の活動ではありますが、同じように頑張っているたくさんの友と出会い、私たち側の価値観を持つ人も日本各所にいること、そして少しずつ増えてきていることを日々実感し、喜びを感じています。



貧富の差と同様に価値観の差も両極端な時代になっているのだろうなと思います。これからも田歌舎が目指すことは豊かな自然との共生、平和、人の手の技術、お金でない豊かさです。そこにはきっと笑顔が絶えないはずです。


災い転じて福となす。
田歌舎が続けるふくしまの子供たちの受け入れも5年(春夏計9回)を超えました。今では中学生となった子供たちはあと何年かすれば田歌舎のスタッフになる子もいるかも。保護者とのかかわりも含めてあの事故があってこその出会い、強い絆、信頼が今確かにあります。
67枚のソーラーを入れました。まだまだエネルギーを100%自給できるわけではありません。ガソリンや灯油や化石燃料はお世話になるばかり。私たちもまだまだ進化しなくてはなりません。その決意をいただけたのがあの原発事故なのです。
私たちは3.11によって成長させていただきました。



出資金の返済の時が来たと報告を受けました。
おかげさまで倒産することなく、返済をさせていただけます。
心より感謝申し上げます。
そして発電機も引き続き発電しますこと同様、引き続き田歌舎は信じた道を進みます。
ご支援いただければ幸いです。

田歌舎 代表 藤原 誉




ジャガイモ話

2017-09-12 23:57:13 | 日記

数か月前にニュースかSNSかで見かけた話。
緑に日焼けしたジャガイモをスーパーで売っていたそうで、そのスーパーの店員の無知さや管理体制を嘆くような言葉があり、毒物を売っているかのようにジャガイモの毒に関してえらく大げさに煽っていた言葉にやや違和感を感じた。
スーパーに売っている毒のあるものって、実はいろいろあるんだよね。里芋なんて強い毒だし、ワラビだってホウレンソウだって微毒がある。
果実なんかでいえばキウイなんかも早熟だと結構渋み、刺激が強いので何らかの毒素があるのかな?他にはスーパーには並ばないだろうけど
まあ何が言いたいのかというと、
あまりに食品の衛生管理が行き過ぎることでかえって国民が食物(自分たちが口にするもの)に関して無知になっていきやしないかってこと。農業にほとんどの人が触れない中、きれいに磨かれた野菜だけを手にしていれば、いつの間にか土のついた野菜が管理不足だと嫌悪感を抱いたり、ジャガイモの芽に毒があることを知らずに食して気持ち悪くなってスーパーに怒鳴り込むようない人が現れやしないかってこと。

だからこの話って2面性があって、日焼けしたジャガイモを売るなってお店の人に伝えたお客さんが正しい知識を持っていて真っ当にお店にアドバイスをしたっていう美談と、緑のジャガイモでもどうしても必要だから緑の部分を削り落として使うよって人がいるならば、それはそれでいいんじゃないかってことの相反する両面があるんだ。

田歌舎の営みに関して言えばお肉の生食について最近考えるんだ。
田歌舎では正に自己責任において鹿刺しや鶏刺しを時々楽しむんだけど、保健所さらには厚生労働省的には生食を禁止にする方向性に突き進んでいる。
例えば牛の生レバの問題って実はレバーそのものの危険性というより流通の問題だったりするんじゃないかなと思うんだよね。いくつもの業者に渡りながら履歴が分からないようなお肉は不安だけど、この牧場で育てて、いつどこで捌かれたものですよってわかっていれば危険はないんじゃないかな。実際に知り合いのとある酪農家は食肉販売部門も自社で立ち上げてそういう形の販売に取り組んでいる。
 そんな生産者と消費者の信頼があってその食べ物のことをよく考えて知って、そのうえでどう食べるかを自分たちで判断する。
 そういう感じが一番しっくりくるんだけどな。

だけど、最近体験のなかで鶏の解体をしてほんの少し生食をしてもらったんだけど、何人かにカンピロバクターの食中毒がでたんだよね。そうならないように丁寧に段取りを踏んだつもりだったんだけど・・。
 新しければ安全ってことはないんだなと痛感したよ。だから確かに油断してはいけないことはあるのは事実。そして保健所の人とも話しながら自分の認識が甘かったカンピロさんの生態による危険も確かにあったんだ。
 まあ参加者の人たちに大事はなくて穏便に済んだんだけど、油断してはいけないな~と反省する今日この頃。

だけど美味しいものは幸せだし、人生を豊かにするうえで実は重大なことなんだな。だからこそ美味しく食べるためにもちゃんと食べ物について知識をもつことがとても大事なんだと思うし、またそのことをあきらめようとする世の中の流れがは残念だなとも思う。

ジャガイモ話。
その相反しそうな2面性の双方ともに実は大切な視点であるということ。そんなつぶやき。