休みがちな拙いブログを、
いつも見て頂き、心からありがとうございます。
実は、突然、元気だった母が亡くなりました。
ホントに元気な98歳で、
大腿骨骨折をしても、リハビリを頑張って、
初めは杖を使っていたんですが、
もう~直ぐに杖も使わず歩ける様になって、
病院の方々を驚かせていた母でした。
新聞は、朝直ぐに、隅から隅までしっかりと読み、
最後に、テレビ番組表に、赤サインペンで、
自分が観たい物を、全て、記しを付けて楽しんでいました。
特に、テレ朝、フジテレビ、TBS の2時間ドラマの大ファンでした。
『科捜研…』 『タクシードライバー…』 『浅見光彦シリーズ』
『赤い霊柩車…』 『相棒』 等々、数え切れませんが、
昼間は、再放送、夜もそういった番組と、
国会討論会等も欠かさず観ていましたね。
私とは、ホントに違います。。。
見習わないといけないんですけど、なかなか...
いつもの様に、
元気な声で、「病院へ行って来るね」 と、私に電話で知らせてきて、
「車に気をつけてね」 と返事をして、いつもの通りです。
病院の帰りには、必ず立ち寄るデパートで、彼方此方買い物をして、
大好物の、自分で買ってきたお寿司を、ぺろりと平らげ、
全く、いつも通り、元気な母でした。
夜、自分で、ベッドに横になり、寝ようとしたら、息苦しくなって、
喋れてるんですけど、その様子がおかしいので、救急車で病院へ、
救急車の方々、病院のお医者様たちに手を尽くして頂きましたけど、
残念ながら、亡くなりました。
でも、母は、今にも目を覚ます様な、いつもと変わらない寝顔で。。。
この分なら、100歳までも… と家族は思っていましたので、
ショックは、余りにも大きいです。 信じられません。
病院では、涙が出そうだったんですけど...
泣きたくても、何か、何か、泣けなかったんです...
でも、家に戻ってから思いっきり泣けて、少し楽になりました。
しっかりものの母で、土地や家の事等々、何もかも手続きをしてあり、
その手続きをしていたのは、弁護士さんにおねがいしてましたので、
その事は知っていたんですが、
自分が死んだ後の事を、ノートに書いてあって、
それが、色んな書類と一緒にしてあって見付かりました。、
そこには、写真も1枚、あったんです。
ホントに、どこまで準備怠りない母なんでしょう。
私が、頼りないからなんですけど...
葬儀社さんから全て、
何から何まで、ちゃんと準備をしてくれていました。
混乱している私には、本当に有難かったです。
戦争で、夫を亡くし、それから一人で私を育ててくれ、
私は、何の苦労もせず、ホントに幸せに生きてきました。
本当に、感謝してもしきれません。
私が、仕事をしていた頃、夜は、これ食べたいな、と思って家に帰ると、
母が、それを作っていてくれて、ビックリ、というのがしょっちゅうありました。
話さなくても、何か、分かってくれちゃう、そんな母だったんです。
私が仕事を辞めて、ウォーキングに出ると、帰りに母の大好物を買って帰り、
母は、自分が病院に行った帰りには、必ず、私と孫になる私の息子の大好物を、
忘れずに買ってきてくれたんです。
私たちが、喜んで食べるのを見て、母も嬉しかったみたいです。
料理も、ささっと作ってしまう人で、
私の長男が、ドイツベルリンから帰ってくる時は、
それはそれは、張り切って、息子の大好物を準備して、
とっても嬉しそうにしている母を想い出します。
来年、1月2日に帰って来ると、喜んでいた矢先の事でした。。。
長男も、さっと来れる訳では無いだけに、本当に悔しがってました。
計算も素早いし、記憶力も私も負ける位で、98歳、自慢の母でした。
ホントに残念で、寂しい限りですが、
母がいない、ホントの寂しさは、もっと後になって、強くなってくる気がします。
でも、本当に長い間、一緒に暮せた事に、感謝したいと思います。
早くに亡くなった夫や、大親友だった女学校時代の方々と会い、
みんなで、若いころの話をしてるかもしれません。
ゆっくりと、やすらかに眠って欲しいです。
お母さん、今迄、本当にありがとう。
あなたの娘で、本当に幸せでした。
このブログも、少しの間、休ませて頂く事にいたします。
でも、明るい母で、いつまでもめそめそしてるのは好まないと思いますので、
元気に、また必ず、お月さま等の事を書かせて頂きます。
また、想い出してお立ちより頂けましたら、嬉しく思います。
いつも皆さま、本当にありがとうございます。
いつも見て頂き、心からありがとうございます。
実は、突然、元気だった母が亡くなりました。
ホントに元気な98歳で、
大腿骨骨折をしても、リハビリを頑張って、
初めは杖を使っていたんですが、
もう~直ぐに杖も使わず歩ける様になって、
病院の方々を驚かせていた母でした。
新聞は、朝直ぐに、隅から隅までしっかりと読み、
最後に、テレビ番組表に、赤サインペンで、
自分が観たい物を、全て、記しを付けて楽しんでいました。
特に、テレ朝、フジテレビ、TBS の2時間ドラマの大ファンでした。
『科捜研…』 『タクシードライバー…』 『浅見光彦シリーズ』
『赤い霊柩車…』 『相棒』 等々、数え切れませんが、
昼間は、再放送、夜もそういった番組と、
国会討論会等も欠かさず観ていましたね。
私とは、ホントに違います。。。
見習わないといけないんですけど、なかなか...
いつもの様に、
元気な声で、「病院へ行って来るね」 と、私に電話で知らせてきて、
「車に気をつけてね」 と返事をして、いつもの通りです。
病院の帰りには、必ず立ち寄るデパートで、彼方此方買い物をして、
大好物の、自分で買ってきたお寿司を、ぺろりと平らげ、
全く、いつも通り、元気な母でした。
夜、自分で、ベッドに横になり、寝ようとしたら、息苦しくなって、
喋れてるんですけど、その様子がおかしいので、救急車で病院へ、
救急車の方々、病院のお医者様たちに手を尽くして頂きましたけど、
残念ながら、亡くなりました。
でも、母は、今にも目を覚ます様な、いつもと変わらない寝顔で。。。
この分なら、100歳までも… と家族は思っていましたので、
ショックは、余りにも大きいです。 信じられません。
病院では、涙が出そうだったんですけど...
泣きたくても、何か、何か、泣けなかったんです...
でも、家に戻ってから思いっきり泣けて、少し楽になりました。
しっかりものの母で、土地や家の事等々、何もかも手続きをしてあり、
その手続きをしていたのは、弁護士さんにおねがいしてましたので、
その事は知っていたんですが、
自分が死んだ後の事を、ノートに書いてあって、
それが、色んな書類と一緒にしてあって見付かりました。、
そこには、写真も1枚、あったんです。
ホントに、どこまで準備怠りない母なんでしょう。
私が、頼りないからなんですけど...
葬儀社さんから全て、
何から何まで、ちゃんと準備をしてくれていました。
混乱している私には、本当に有難かったです。
戦争で、夫を亡くし、それから一人で私を育ててくれ、
私は、何の苦労もせず、ホントに幸せに生きてきました。
本当に、感謝してもしきれません。
私が、仕事をしていた頃、夜は、これ食べたいな、と思って家に帰ると、
母が、それを作っていてくれて、ビックリ、というのがしょっちゅうありました。
話さなくても、何か、分かってくれちゃう、そんな母だったんです。
私が仕事を辞めて、ウォーキングに出ると、帰りに母の大好物を買って帰り、
母は、自分が病院に行った帰りには、必ず、私と孫になる私の息子の大好物を、
忘れずに買ってきてくれたんです。
私たちが、喜んで食べるのを見て、母も嬉しかったみたいです。
料理も、ささっと作ってしまう人で、
私の長男が、ドイツベルリンから帰ってくる時は、
それはそれは、張り切って、息子の大好物を準備して、
とっても嬉しそうにしている母を想い出します。
来年、1月2日に帰って来ると、喜んでいた矢先の事でした。。。
長男も、さっと来れる訳では無いだけに、本当に悔しがってました。
計算も素早いし、記憶力も私も負ける位で、98歳、自慢の母でした。
ホントに残念で、寂しい限りですが、
母がいない、ホントの寂しさは、もっと後になって、強くなってくる気がします。
でも、本当に長い間、一緒に暮せた事に、感謝したいと思います。
早くに亡くなった夫や、大親友だった女学校時代の方々と会い、
みんなで、若いころの話をしてるかもしれません。
ゆっくりと、やすらかに眠って欲しいです。
お母さん、今迄、本当にありがとう。
あなたの娘で、本当に幸せでした。
このブログも、少しの間、休ませて頂く事にいたします。
でも、明るい母で、いつまでもめそめそしてるのは好まないと思いますので、
元気に、また必ず、お月さま等の事を書かせて頂きます。
また、想い出してお立ちより頂けましたら、嬉しく思います。
いつも皆さま、本当にありがとうございます。