それにしても、恋愛というのは不思議なものだ。
「恋に落ちる」と人がいっても、それは隣の人が「恋に落ちる」というのと違うし、
実際そうかどうかはだれにもわからない。「恋に落ちている」というふうに決め付けている人もいるんだろうから。
同様に、自分が「好き」と思う気持ちは他の人にとってみたらただの友情かもしれないし、
ある人にとってみればそれは不十分かもしれないし、ある人にとってみれば、それは十分すぎるほどで、逆に感情的に重いのかもしれない。
言葉は同じだけど、その言葉はその人の気持ちを正確には表していない。
でも皮肉なことに、また悲劇的なことに、その人にとっては間違いなく「恋」なのだから、もしも客観的に、恋してると決め付けてるだけだとかそれは友達と同じだといわれても、それはあくまで恋なんだ。
そこには「恋」の相対性がある。
ところが人は客観的な「恋」というのを体裁を気にしてか要求する。
「恋したら付き合わなけれないけない。」「恋をしたらアタックしなきゃ。」
「付き合ったら連絡取らないといけない。」「付き合ったら性行為をしなければいけない。」「付き合ったら接吻しなきゃ。」
客観的な恋はテレビドラマやコミックでうえつけられ、そこに欲望が入ることで自分の恋は生み出される。
そして、付き合うということがなにやら善いこととして祭り上げられる。
「○○○は彼女いるから幸せだよー。」「おまえ彼女いるならいいじゃんー。」
そのような日常会話から、恋愛が何か理念的な(目指されるべき)ものになる。
というより、「付き合うこと」が「付き合っていない」人にとって憧れの対象となり、そして残念ながらそれはそのように植えつけられているのかもしれない。
もっとも、恋愛の相対性を自認するのであればそのようなことを発言するのはナンセンスだし、空虚な意味が残るだけだ。
お互い同じ学校に行ってるのに、1ヶ月に1回会うだけでいいというカップル。
彼氏が性行為に冷めてそのようなことをしなくなったカップル。
ほぼ毎日朝4時までメッセしているカップル。
だれとでも性行為をしてもいいということのなっているカップル。
毎日一緒に学校行って一緒に授業受けて一緒にご飯を食べるカップル。
様々な恋愛のかたち。それらは個々として独立し、個々として一貫している。
プラトンが『パイドロス』で面白い議論をしている。
「恋する者の愛情とは、けっしてまごころからのものではなく、ただ飽くなき欲望を満足させるために、相手をその餌食とみなして愛するのだということを、知らなければならない」(248.C.8)
ここででてくる恋は現代の「恋」とかなり違っている。
ここでいう恋は、相手の美貌(外面)や徳(内面)に一目ぼれをして、熱狂的になる恋。
だが、現代の「恋」というのはなにやら違う気がする。
恋は「しなければいけないもの」となり、なにやら自然発生的というよりも、強迫観念的なものになる。
その強迫観念性の源泉は無論人間の飽くなき欲望にあるわけだが、古代ギリシャの恋愛とは違って、現代は恋愛においてその強迫観念性が前面に出てきている。
プラトンが『パイドロス』のなかでいう恋をしているひとは、今、恋をしている人の中にどのくらいいるんだろうか。
言うなれば、自分が顔も美人でスタイルも良くて性格も良い人って思う人に恋している人はいるのだろうか。
現代の恋は自分が思うに、付き合うための恋であり、その恋は少なくともプラトンが主張する恋ではない。
「恋愛はエゴイズムだ。」といううちの助教授の発言はプラトンがいうような恋において極めて真である。
だが、現代においてはそうではない。恋愛は固定化され強迫化され、イデオロギッシュな色を持ってしまう。
このような時代において恋愛は契約の色を帯びてくる。
先のカップルらの共通性を見つけ出して「恋愛」を考察しようとしても不可能であるが、それが個々として一貫していればそれはそれで「恋愛」たりえているのではないだろうか。
だから付き合うのはある種の契約なんだと思う。お互いの一貫した「恋愛」をするための。
そこには法など何もない。なぜならそれは2人で作るのだから。無制約性がそこにはある。
そうすると恋愛は相対化され、強迫観念としての恋愛はもはやなくなる。
「恋に落ちる」と人がいっても、それは隣の人が「恋に落ちる」というのと違うし、
実際そうかどうかはだれにもわからない。「恋に落ちている」というふうに決め付けている人もいるんだろうから。
同様に、自分が「好き」と思う気持ちは他の人にとってみたらただの友情かもしれないし、
ある人にとってみればそれは不十分かもしれないし、ある人にとってみれば、それは十分すぎるほどで、逆に感情的に重いのかもしれない。
言葉は同じだけど、その言葉はその人の気持ちを正確には表していない。
でも皮肉なことに、また悲劇的なことに、その人にとっては間違いなく「恋」なのだから、もしも客観的に、恋してると決め付けてるだけだとかそれは友達と同じだといわれても、それはあくまで恋なんだ。
そこには「恋」の相対性がある。
ところが人は客観的な「恋」というのを体裁を気にしてか要求する。
「恋したら付き合わなけれないけない。」「恋をしたらアタックしなきゃ。」
「付き合ったら連絡取らないといけない。」「付き合ったら性行為をしなければいけない。」「付き合ったら接吻しなきゃ。」
客観的な恋はテレビドラマやコミックでうえつけられ、そこに欲望が入ることで自分の恋は生み出される。
そして、付き合うということがなにやら善いこととして祭り上げられる。
「○○○は彼女いるから幸せだよー。」「おまえ彼女いるならいいじゃんー。」
そのような日常会話から、恋愛が何か理念的な(目指されるべき)ものになる。
というより、「付き合うこと」が「付き合っていない」人にとって憧れの対象となり、そして残念ながらそれはそのように植えつけられているのかもしれない。
もっとも、恋愛の相対性を自認するのであればそのようなことを発言するのはナンセンスだし、空虚な意味が残るだけだ。
お互い同じ学校に行ってるのに、1ヶ月に1回会うだけでいいというカップル。
彼氏が性行為に冷めてそのようなことをしなくなったカップル。
ほぼ毎日朝4時までメッセしているカップル。
だれとでも性行為をしてもいいということのなっているカップル。
毎日一緒に学校行って一緒に授業受けて一緒にご飯を食べるカップル。
様々な恋愛のかたち。それらは個々として独立し、個々として一貫している。
プラトンが『パイドロス』で面白い議論をしている。
「恋する者の愛情とは、けっしてまごころからのものではなく、ただ飽くなき欲望を満足させるために、相手をその餌食とみなして愛するのだということを、知らなければならない」(248.C.8)
ここででてくる恋は現代の「恋」とかなり違っている。
ここでいう恋は、相手の美貌(外面)や徳(内面)に一目ぼれをして、熱狂的になる恋。
だが、現代の「恋」というのはなにやら違う気がする。
恋は「しなければいけないもの」となり、なにやら自然発生的というよりも、強迫観念的なものになる。
その強迫観念性の源泉は無論人間の飽くなき欲望にあるわけだが、古代ギリシャの恋愛とは違って、現代は恋愛においてその強迫観念性が前面に出てきている。
プラトンが『パイドロス』のなかでいう恋をしているひとは、今、恋をしている人の中にどのくらいいるんだろうか。
言うなれば、自分が顔も美人でスタイルも良くて性格も良い人って思う人に恋している人はいるのだろうか。
現代の恋は自分が思うに、付き合うための恋であり、その恋は少なくともプラトンが主張する恋ではない。
「恋愛はエゴイズムだ。」といううちの助教授の発言はプラトンがいうような恋において極めて真である。
だが、現代においてはそうではない。恋愛は固定化され強迫化され、イデオロギッシュな色を持ってしまう。
このような時代において恋愛は契約の色を帯びてくる。
先のカップルらの共通性を見つけ出して「恋愛」を考察しようとしても不可能であるが、それが個々として一貫していればそれはそれで「恋愛」たりえているのではないだろうか。
だから付き合うのはある種の契約なんだと思う。お互いの一貫した「恋愛」をするための。
そこには法など何もない。なぜならそれは2人で作るのだから。無制約性がそこにはある。
そうすると恋愛は相対化され、強迫観念としての恋愛はもはやなくなる。
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