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私の歯科麻酔の思い

私の歯科麻酔の思いを綴っています。記録としても、残してみました。

歯科医師免許の第1号は小幡英之助

2019-08-02 15:45:20 | 歯科麻酔学
 
歯科医師免許の第1号は小幡英之助
 
小幡英之助の証書は、以下となる。
内務省医術開業試験が行われ、その医術開業試験結果は
内科1人、産科1人、内外科22人、歯科1人、眼科3人
計28名が合格した。
その歯科1人は小幡英之助、1875(明治8)年 歯科
医術開業免許状が交付された。これが「歯科医術開業免
許状」として、国内第1号歯科免許となる。
 
内科医術開業免許を参考にして、小幡英之助の証書を
再現する。
参考:(明治百年史叢書―内務省史第3巻 原書房 55年) 
        (歯科祭記念誌―小幡英之助先生没後100年顕彰  
                                               中津歯科医師会 2009)
 
内科医術開業免許
歯科医術開業免許(再現)


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歯科医師免許の第1号の小幡英之助
       (小倉縣 → 改正 →大分縣)
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 医術開業免許状を参考にみると、明治8年の医術開業
免許状は歯科医術開業免許状となる。
(当時の内務郷、衛生局長)
他は 内科医術開業免許状、外科医術開業免許状で
ある。
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1875(明治8)年 
「醫師免許規則・醫師開業試験規則」
による試験実施される。
 
---  歯科(口中)醫術開業免許状  --- 
(歯科) 第 1号 明治8年:  小幡英之助 小倉縣
(口中) 第69号 明治9年:  佐治 職 兵庫縣
(口中) 第77年 明治9年:    田中松筠 兵庫縣
 
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1883(明治16)年
「醫師免許規則・醫師開業試験規則」
による試験施行された。
歯科の試験科目が別に制定された。
---  歯科醫術開業免許状  ---
 
           第67号 明治21年: 大原弥三郎 廣島縣
                                                                       ※ 提供 広島市佐伯区 おおはら歯科 大原省三 
 
         第86号   明治22年:  中原市五郎 長野県   
          「歯科医院」名称を使って開業 
           日本歯科医学専門学校創設
       第168号  明治25年: 須田平四郎 東京府 
           ※ 須田沖夫:五臓圓松五郎と八王子須田一族 .昭和60
         第280号 明治28年:  血脇守之助 千葉縣 
           初代校長東京歯科医学専門学校
         ※安藤三男:歯科医療の現在と血脇守之助朝日自分史編集部2017 
        第446号 明治31 年: 国永 正臣 福岡縣
           私立九州歯科医学校設立
         ※ 田中克憲:歯科医学史ヲ求めて長崎文献社 2001
        第471号 明治31年: 佐藤 運雄 神奈川縣
        ※ 工藤逸朗、佐藤 孜ほか:日本大学歯学部創設者
                 佐藤運雄先生の医術・歯科医術開業免 状並びに
                 関係書類について  日本歯科史学会誌..200
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明治39(1906)年 
医師法、歯科医師法において、官立大学、医学専門学校、
欧米大学卒業者は無試験で免許を与えた。
 
-ーー 歯科醫師免許證 ---
     第11693号 大正14年:  中村 隆  廣島縣
       日本歯科医学専門学校卒業証書をもって、
         歯科医師免許鉦を授与する。
 
                                    ※  提供広島市中区東白島町 中村歯科医院 中村隆之
  
    (※ 提供者     ※ 文献 引用)
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免許交付
歯科医師免許を初期交付から明治、大正時代のものを
提示しました、それぞれ、時代によって様式がかわっ
ています。その当時の大臣、衛生局長名で、交付され
ています。
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女性歯科医の登場
明華女子歯科医学校(設立:1918年)では、技術や歯科医学
などは教えても、公認ではないので歯科医師としての免許も
与えられず、開業も出来なかった。卒業後は歯科医の下で何
年も助手として働き、実習生として技術を学び、国家試験に
合格してようやく女性歯科医になれるという制度があり、女
性には極めて厳しい非情な時代であった。
1894年、医術開業試験に合格した高橋孝(こう)など、数名
の女性の歯科医として存在していた。
(川嶌眞人:島峰徹と我が母校・東洋女子歯科医学専門学校 
                    中津市医師会報 2017)                                           
 
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「口中科」ではなく「歯科」で免許取得
「政府委員(福原鐐二郎君)只今、歯科の医学校は34校ある.
何れも程度の非常に低いものである。
中学校の3年、4年級を卒業した者を2箇年で教えるというのが
一番高い。小学校を終わったぐらいの者という位できわめて低
い。血脇の学校が出来るか、出来ないかいう位で。指定となれ
ば、条件となれば、到底高い程度は望めない。血脇医学校は歯
科医の学校では程度の高い方である。指定学校が歯科医の試
の標準にならなければならない。」
上記、貴族院医師法案特別委員会質疑速記録(明治39年)に
よると、当時の歯科医学は社会的評価、地位は低かった、こと
がわかる。小学校卒からの歯学校の設立か、議論されていた。
歯医学専門学校の設立に、認可に、血脇守之助の功労は大きかった。

小幡英之助は口中科をきらって、歯科という単独名で受験申請
した。
「口中科」―――口中医はわずかに口中の治療を行っていた.。
今でいう保存治療、補綴治療は行われていなかった。

口中科は整骨科、産科、眼科とともに、専門医という扱いであっ
た。医師、歯科医師という身分制度、医業、歯科医業という業務
上の区別はなかった。      (東京歯科大学百年史1890-1990)
 
明治8年に試験が行われた時点で、歯科の試験科目が別個で
かったならば、また、共通試験に受験できることであれば、
標榜「歯科」(名称)は生まれなかった、と思われる。

近代歯科学に目指す道であったものと思われる。
いかが思われるでしょうか。
 
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歯科医師数の年次推移
    ――――――――――――――
     年次      歯科医師
    ―――――――――――――――
(明治百年史叢書)
     明治44年    913人
     大正10年    6654人
     昭和10年   20010人
    ――――――――――――――
(免許登録番号)
     昭和38年   50000
     平成15年   140000
    ――――――――――――――
 
 
(終わり) 
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