欧州の文化とはあまり関係ないがフランクルの考え方も欧州の一つの考え方ということで表題の本の感想を。
大学時代くらいに「夜と霧」を読んだ覚えがある。家にあったような気がする。おそらく母が読んだのだろう。掲載された写真から強烈な印象をうけた記憶がある。そのときはナチスの残虐な行為を断罪する本だと思っていた。だがこの河原理子の本を読んで、「夜と霧」のテーマはナチスの犯罪を断罪することではなく、厳しい状況におかれたなかで人はどう生きてきたのかがテーマになっていると気づく。つまり生きる希望や生きがいを持てない状況で人はどう生きるかが主題であり、その意味で今の時代に通じるものがあるので、いまでもこの本が読まれているとのことだ。「夜と霧」の原題である「一心理学者の強制収容所での体験」という著者の命名がふさわしいとわかる。
この河原の書は「夜と霧」の解題として優れている。経済的には豊かになったいま(とりあえず生きていける程度だが)、なぜ多くの人が充足感を感じられず、漠たる「不安」を持ち、また生きがいを感じられずなかには自殺を考える人が多いのか。その生きがいの不定感が犯罪につながったり(秋葉原連続殺人)、突然の災害に遭うと一層生きがいを失ったり(東日本大震災)するのか。「夜と霧」が伝えたいことは、人生の価値は何かを生み出す「創造価値」、今していることへの満足感である「体験価値」、今の状況にどういう態度を取れるかという「態度価値」からないり、強制収容所の中では創造価値はむろんのこと悲惨すぎる生活ゆえに体験価値も感じられず、しかし、その中でどういう態度を取るか、悲しいと思うか、その中にも救いがあると考えるか、態度の「自由」は誰も自分から奪えない。つまり今をどう感じるかはすべて自分のものだ。どんな悲惨な生活の中でも自由はあり、ひとときの体験価値はあるものだ。だからフランクルは「それでも人生にイエス」というのである。収容所のなかのつらい人生でも生きることを諦めたり捨てたりするのではなく、それを味わい、自分なりの態度をもつこと、それこそがその人間の尊厳だという。
秋葉原事件の加藤被告を傍聴した著者は被告が「空気の薄い闇が広がっていて」「生きている実感が乏しくて確信が持てなくて、生きる意味が見つからない」と語ったと書いている。これは「フランクルのいう実存的空虚にあたるのではないか」「実存とはその人の『芯』のようなものである」つまり自分に芯がない、あるいは感じられないということだ。
フランクルは「役立つ人間にのみ価値を見いだす考え方」(利用価値)と「ひとりひとりの人間の尊厳」を混同してはならないといっている。自殺願望のもつ若者は世の中で役に立たなければ自分自身に価値がないと考えがちだがこれは間違いだという。人間の本当の価値は自然や音楽を味わって感動することやひとを愛していること。そういう体験こそがを「生きる意味」であり、その人の尊厳であると示唆する。この体験価値、それをポジティブに認める態度価値をもっていることが自分の生きる意味であることを我々に伝えてくれる。
大学時代くらいに「夜と霧」を読んだ覚えがある。家にあったような気がする。おそらく母が読んだのだろう。掲載された写真から強烈な印象をうけた記憶がある。そのときはナチスの残虐な行為を断罪する本だと思っていた。だがこの河原理子の本を読んで、「夜と霧」のテーマはナチスの犯罪を断罪することではなく、厳しい状況におかれたなかで人はどう生きてきたのかがテーマになっていると気づく。つまり生きる希望や生きがいを持てない状況で人はどう生きるかが主題であり、その意味で今の時代に通じるものがあるので、いまでもこの本が読まれているとのことだ。「夜と霧」の原題である「一心理学者の強制収容所での体験」という著者の命名がふさわしいとわかる。
この河原の書は「夜と霧」の解題として優れている。経済的には豊かになったいま(とりあえず生きていける程度だが)、なぜ多くの人が充足感を感じられず、漠たる「不安」を持ち、また生きがいを感じられずなかには自殺を考える人が多いのか。その生きがいの不定感が犯罪につながったり(秋葉原連続殺人)、突然の災害に遭うと一層生きがいを失ったり(東日本大震災)するのか。「夜と霧」が伝えたいことは、人生の価値は何かを生み出す「創造価値」、今していることへの満足感である「体験価値」、今の状況にどういう態度を取れるかという「態度価値」からないり、強制収容所の中では創造価値はむろんのこと悲惨すぎる生活ゆえに体験価値も感じられず、しかし、その中でどういう態度を取るか、悲しいと思うか、その中にも救いがあると考えるか、態度の「自由」は誰も自分から奪えない。つまり今をどう感じるかはすべて自分のものだ。どんな悲惨な生活の中でも自由はあり、ひとときの体験価値はあるものだ。だからフランクルは「それでも人生にイエス」というのである。収容所のなかのつらい人生でも生きることを諦めたり捨てたりするのではなく、それを味わい、自分なりの態度をもつこと、それこそがその人間の尊厳だという。
秋葉原事件の加藤被告を傍聴した著者は被告が「空気の薄い闇が広がっていて」「生きている実感が乏しくて確信が持てなくて、生きる意味が見つからない」と語ったと書いている。これは「フランクルのいう実存的空虚にあたるのではないか」「実存とはその人の『芯』のようなものである」つまり自分に芯がない、あるいは感じられないということだ。
フランクルは「役立つ人間にのみ価値を見いだす考え方」(利用価値)と「ひとりひとりの人間の尊厳」を混同してはならないといっている。自殺願望のもつ若者は世の中で役に立たなければ自分自身に価値がないと考えがちだがこれは間違いだという。人間の本当の価値は自然や音楽を味わって感動することやひとを愛していること。そういう体験こそがを「生きる意味」であり、その人の尊厳であると示唆する。この体験価値、それをポジティブに認める態度価値をもっていることが自分の生きる意味であることを我々に伝えてくれる。