欧州文化(オペラ、絵画)をこよなく愛する

欧州文化を中心に最近の旅行記、読書などを日記風に書く。
時に英語やフランス語も使って・・・

フランクル 「『夜と霧』への旅」(河原理子)を読んで

2017-12-08 16:13:15 | 日記
 欧州の文化とはあまり関係ないがフランクルの考え方も欧州の一つの考え方ということで表題の本の感想を。

 大学時代くらいに「夜と霧」を読んだ覚えがある。家にあったような気がする。おそらく母が読んだのだろう。掲載された写真から強烈な印象をうけた記憶がある。そのときはナチスの残虐な行為を断罪する本だと思っていた。だがこの河原理子の本を読んで、「夜と霧」のテーマはナチスの犯罪を断罪することではなく、厳しい状況におかれたなかで人はどう生きてきたのかがテーマになっていると気づく。つまり生きる希望や生きがいを持てない状況で人はどう生きるかが主題であり、その意味で今の時代に通じるものがあるので、いまでもこの本が読まれているとのことだ。「夜と霧」の原題である「一心理学者の強制収容所での体験」という著者の命名がふさわしいとわかる。

 この河原の書は「夜と霧」の解題として優れている。経済的には豊かになったいま(とりあえず生きていける程度だが)、なぜ多くの人が充足感を感じられず、漠たる「不安」を持ち、また生きがいを感じられずなかには自殺を考える人が多いのか。その生きがいの不定感が犯罪につながったり(秋葉原連続殺人)、突然の災害に遭うと一層生きがいを失ったり(東日本大震災)するのか。「夜と霧」が伝えたいことは、人生の価値は何かを生み出す「創造価値」、今していることへの満足感である「体験価値」、今の状況にどういう態度を取れるかという「態度価値」からないり、強制収容所の中では創造価値はむろんのこと悲惨すぎる生活ゆえに体験価値も感じられず、しかし、その中でどういう態度を取るか、悲しいと思うか、その中にも救いがあると考えるか、態度の「自由」は誰も自分から奪えない。つまり今をどう感じるかはすべて自分のものだ。どんな悲惨な生活の中でも自由はあり、ひとときの体験価値はあるものだ。だからフランクルは「それでも人生にイエス」というのである。収容所のなかのつらい人生でも生きることを諦めたり捨てたりするのではなく、それを味わい、自分なりの態度をもつこと、それこそがその人間の尊厳だという。

 秋葉原事件の加藤被告を傍聴した著者は被告が「空気の薄い闇が広がっていて」「生きている実感が乏しくて確信が持てなくて、生きる意味が見つからない」と語ったと書いている。これは「フランクルのいう実存的空虚にあたるのではないか」「実存とはその人の『芯』のようなものである」つまり自分に芯がない、あるいは感じられないということだ。

 フランクルは「役立つ人間にのみ価値を見いだす考え方」(利用価値)と「ひとりひとりの人間の尊厳」を混同してはならないといっている。自殺願望のもつ若者は世の中で役に立たなければ自分自身に価値がないと考えがちだがこれは間違いだという。人間の本当の価値は自然や音楽を味わって感動することやひとを愛していること。そういう体験こそがを「生きる意味」であり、その人の尊厳であると示唆する。この体験価値、それをポジティブに認める態度価値をもっていることが自分の生きる意味であることを我々に伝えてくれる。

ヴラマンク展 ~山梨県立美術館~

2017-10-30 10:20:16 | 日記
 ヴラマンクの名前は知っていてもなかなか絵を思い出さない。見た瞬間に「あっいいな」と思う。いかにもフランスの田舎町の小道が描かれていて、こんな作風だったかなとおもう。そもそのフランスの景色は好きだし、自然の風景も良いがやはり都市の景色が好きだ。展覧会で出された絵を見るととにかく彼の住んだ街の景色、それも道をまん中に左右にちょっとした店と普通の家々が並んでいる。時に雪景があったりして、雪が降って一変した街角に感激して狂ったように何枚も描いたのか。
 甲府市の山梨県立美術館のヴラマンク展。朝一番についたせいもあって人は少なくがらんとしている。東京の展覧会は人が多すぎて絵を見るより人を避けるのに疲れてしまう。この山梨美術館は以前の訪れて良いと思ったが、広い庭に面した気持ちよいところにあり、しかも人も多くないので自分ペースで見られる。入館した時間にはがらんとした部屋ごとに係員がいて見守る人の方が多い。
 彼の画風は野獣派に属するようだが私には後期印象派の印象が強い。マティスほど配色が激しくはないが、底に通ずるものがある。またセザンヌにも近い。解説書にもセザンヌ期の作品などとの解説がある。生年1907-没年1958の彼の絵は現代美術のような距離は感じない。絵を見ていると長くはないがフォンテンブローに住んでいた時代の空気が蘇ってきて優しい気持ちになる。気持ちのよい美術館がその優しい気持ちを持たせたまま会場を後にした。おすすめ。



欧州のマラソンに参加する ウィーン編

2017-10-27 10:07:03 | 日記
今年の春に走った。ウィーンマラソンの良いところはハーフ、フル、どちらでも参加できること。正確に言うとフルで申し込んでいればハーフで終えても良いし、そのままフルまで走っても良い。私はハーフで申し込みハーフで完走。ハーフでもウィーンの森、「第三の男」で有名な観覧車を見て、市の中央に入り、市立公園横、国立歌劇場、シェーンブルグ公園、ブルグ宮殿近くなどめぼしいところは走れる。フルはほぼ同じコースを二周する。だからハーフで充分。
というところでこれから外出時間。また明日!

ボンジュールアン

2017-07-18 10:31:51 | 日記
 先々週だったか「ボンジュールアン」という映画を銀座シネスイッチで見る。ダイアンレインが出ているし、このタイトルからするとフランスの風景を堪能できるかと思い見に行く。ちなみに原題はParis can waitである。その意味は急いでパリまで行かなくてもパリは逃げないよ、それより途中の旅を愉しもうよということか。
 期待通りフランスの香り、それも観光地の香りがたっぷり。アメリカ映画だから不条理でもないし、解釈に窮することもなく、何も考えずに楽しめる。レストラン、ショップなどでのフランス語のやりとりもフランスで旅行している気分になる。
 筋は、多忙な夫に放置されている妻と夫の友人とのドライブ旅行といえばちょっと不倫っぽい展開になるのかと思ったが、そんなシーンもなく二人の関係は友人同士といった関係で安心できる。カンヌ、リヨン、ヴェズレー、パリと観光地の風景やいくつかのレストランでの食事シーンなどを楽しみながら見られる。純粋に観光映画として満足できた。
 ヴェズレーの教会で子供を失った妻の悲しみが明らかになってこの二人の奇妙な「道行き」にちょっとしたアクセントを与えている。原作者は、なぜヴェズレーの教会で涙を流させたのかが気になって、この教会について調べた。ここは聖母教会ではあるが、マグダラのマリアを聖母としている。カトリックの解釈ではマグダラのマリアは娼婦が改心してキリストの弟子になり、キリストが十字架に磔になり、復活したときに立ち会ったということらしい。ただそうすると我が子を失った悲しみを表すには聖母マリアのノートルダムの方が望ましい。マグダラのマリアではないはずだ。
 話は変わるが、ルネッサンスは単なる芸術復興ではなく、ローマ法王、つまりカトリックを批判するプラトン主義の復活(新プラトン主義)だという話を思い出した。この主義ではマグダラのマリアはキリストの妻であり、諸説の中には豊かなファミリの一族だともいう。最後の晩餐にも同席していたと考えている。女性は影の存在ではなく、キリストのパートナーとして男女台頭である。こういう考え方はカトリック教会の権威を傷つけるものであり、ローマ法王によって徹底的に封じ込められ、さらには抹殺されるのだが、マグダラのマリア像は子供を失った悲しみではなく、最愛の夫キリストを失った妻の象徴なのである。だから夫の自分に対する無関心と子供の喪失感がこのシーンでの妻の悲しみなのであろう。
 この映画は見て楽しく、過去のフランス旅行を懐かしく思い出させてくれてそれだけでも充分満足だが、ヴェズレーの教会、マグダラのマリアについて興味をかき立ててくれた。


鳥が好き

2017-07-18 09:51:02 | 日記
 私は鳥好き。せきせいインコの●●ちゃんを天寿まで14年間大切に育てたこともある。いまは鳥を飼うと長い旅行が出来ないので、我慢している。

 膝の不調で走れないので、公園までウォーキング。その帰り道、緑道公園にケージがあって色々なインコが30羽ぐらい飼われている。このうちの二羽は人間好き(私を好き?)でケージに近寄るとすぐそばまで飛んできて挨拶する。指をそーっと入れるとクルミちゃん(オカメインコの方、名前は私がつけた)は甘噛みしてくれる。グレーちゃんはガブッと噛むから声をかけるだけ。インコは頭が良いので良く覚えてくれる。

 欧州に行くと鳥がずっと身近である。パリのチュイルリ公園に行ったときに手を出したらヒヨドリが腕に乗ってきてびっくりした。雀も「ちょうだいちょうだい、えさちょうだい」と周りにまとわりつく。こんな事もあってか、鳥をモチーフにした小物も多い。写真はウィーンのシェーンブルグ城のミュージアムショップで買った陶器の置物。確か60ユーロくらいしたが、悩んだすえ買ってきた。鳥がデザインされたプレートやガラス細工の鳥などがいっぱいある。日本の場合は鳥の置物というとほとんどがフクロウ。もっと色々な鳥が欲しい・・・・・