欧州文化(オペラ、絵画)をこよなく愛する

欧州文化を中心に最近の旅行記、読書などを日記風に書く。
時に英語やフランス語も使って・・・

東京の交通機関のバリアフリーは10年遅れ?

2017-07-17 10:23:57 | 日記
 7月16日の東京新聞に「東京バリアフリー点検」というタイトルで「欧米に比べ10年遅れ」と書いてあった。本文を読んでも10年遅れというデータや根拠は書いていない。何となく納得してしまうが根拠を示さずに書くべきではない。私の実感では決して事実ではないと思う。
●毎年のようにフランス、イタリア、ドイツなどを旅行しているが、なぜここにエスカレータやエレベータがないのかと思うことは多い。例えばパリのメトロで階段しかないところは過半をしめるだろう。地上の歩道と改札、あるいはプラットアットフォームをエスカレータでつないでいるのは、私がよく利用した駅では一つしかなかった。パリのシャトル駅の乗り換えのように距離が500m以上あってしかも高低差が40~50mあるような駅では高速(過ぎる?)のエスカレータがあるがこれは当然だろう。日本人旅行客はタクシーや観光バスで移動しているから気がつかないだろうが、シャンゼリゼだろうがモンマルトルのメトロの最寄駅だろうが、階段で大きいスーツケースと格闘している旅行者を見る。
●またヨーロッパの鉄道は列車のタラップとホームの間に階段が3段、4段ある。勾配は結構急である。ここを20Kgを超えるスーツケースを片手で持って降りるのはかなりキツイ。持ち上げるのもキツイが降りる方が怖い。日本の場合はプラットホームと電車の床面と同じ高さである。こちらの方がよほど親切である。またヨーロッパの駅によってはエスカレータが壊れていて階段を利用しなければならないところもある。私の経験ではミラノの中央駅でエスカレーターが壊れていて40段の広い階段を2つスーツケース(40kg)を持って降りたときは危険すら感じた。妻には自分のスーツケースを持って降りる力はないし、といって一つずつ降ろすとその間一瞬はスーツケースを、置き引きの多いイタリアの駅構内に放置することになる。駅によっては階段の横にスロープがついていてそこを押し上げる、あるいは降ろす事も出来るが、それもないところがある。とにかく階段を持って上がるのが原則である。
●ただヨーロッパの場合は、重い荷物で途方に暮れていると大体若者が酔ってきて手伝ってくれる。地下鉄でもバスでも鉄道でも誰かが助けてくれる。これが日本とは違うところだろう。
●もちろん「欧州批判、日本礼賛」をするつもりはない。
日本の旅行の代表的な交通機関といえば東海道新幹線だろうが、ここにはスーツケース置き場がほとんどない。(進行方向・最後尾席裏だけ)一度東京駅で私の指定した席(一番前の席)にスーツケースをいくつか積んでいる外国人がいたことがある。置き場所と勘違いしたようだ。これに関しては日本のJRは50年遅れだと思う。ヨーロッパではローカル線に乗ってもスーツケース置き場はしっかりある。(それでも早い者勝ちであるが)
 新幹線は通路にもおけないし、大きい荷物で途方に暮れている外国人をよく見かける。JR東海は高い料金で大もうけしていて、その利益をリニアに投入しているが、気持ちよく旅行が出来るように考え直す方が良いだろう。

『隠されたヨーロッパの血の歴史ミケランジェロとメディチ家の裏側」読後感

2017-07-11 15:52:49 | 日記

図書館で発見した『隠されたヨーロッパの血の歴史ミケランジェロとメディチ家の裏側」というタイトルに惹きつけられて思わず借りた。著者の副島隆彦についてあまり知らないが、我々の時代でいう「反体制」の作家だ。
 要約すれば、ルネサンスは文化の潮流を示す「一芸術史」の話のように思われるが、実際はカトリック的秩序を批判する社会・政治運動であるとのこと。
 15世紀早々、オスマントルコの圧力から逃げ出したギリシャ、ローマの研究者や書籍のフィレンツェへの来訪によって、ギリシャ、ローマの文化が再発見され、その理想的主義的人間観に基づいた社会に帰ろうとする動きであったという。これが新プラトン主義である。従って芸術にそういう思想は反映されているが、単なる芸術運動だけではないという。ディオニソス的に生き生きと楽しく暮らすことの価値を認める考え方だという。メディチ家、特にロレンツォはアカデミアを作り、この新プラトン主義を仲間内で、あるいは人々に広めるためにアカデミアを作り啓蒙していった。この新しい価値観はカトリック教会にとって脅威であって、これを徹底して潰そうとしたローマ法王庁によって1500年頃に完全に抹殺したとのこと。この中に当時のフィレンツエの芸術家は参加している。人間礼賛は行き過ぎれば公序良俗に反するような風俗を増やす。その反動として修道層サヴォナローラの神権政治が4年間続く。この過程でメディチ家は力をそがれて行く。そして最終的には人眼礼賛的な価値観を抹殺したと説く。
 カトリックの最大の発明は3世紀頃の「原罪」、人間は生まれながら罪を背負っている、だから一生を通じて神に奉仕することによって,死にあたって罪から解放され天国に行けるという考えである。罪を背負った人間は常にどこか暗い。これがギリシャ的、ローマ的とはまったく逆だという。この原罪から許しを得るために教会があり、聖職者がいるということでこの考えが教会を経済的、心理的に支える最大のバックボーンになっている。
 キリスト教の博愛主義的な考え方は私も好きだし、大聖堂に入ったときの心の安らぎも感じるのでキリスト教にはかなり好感を持っている。ただ「原罪」だけはどうしても理解できない。

 彼の文章は自分の主張を力説するあまりややアジテーションがかってくる。たとえば「美的評論家達が決して云わないこと、芸術の世界を作品の鑑賞としてしかみない」と云う。こういう断言が気になる。
パウロは最後の晩餐に描かれているようにキリストの使徒だが、教会(制度)を造ったペテロはそうではない、これについてカトリックは何も言わない。またマグダラのマリアはキリストの妻だが、妻がいて子孫がいると教会に矛盾が生じるので、もともと娼婦でキリストによって目覚めたものだという。しかしミケランジェロの描くマグダラのマリアは明らかに下品な女性の目覚めた姿ではなく、元来敬虔な女性像である。その点ドナテッロのマリアの彫像は明らかに出自が娼婦である。私自身はドナテッロのこの像はとても力強いものと思っている。副島はドナテッロが教会に阿っていると批判している。
 著作の最後あたりではニーチェの反キリスト主義について語り、識者も含め多くの人が依然としてカトリックの生命線に触れのを避けていると云う。さらには小泉、竹中路線、詰まり新自由主義についても「新たな奴隷制度」と論じるあたりは共感する部分もあるし、もっと冷徹な言い回しを考えても良いかと思う。全般を通じて陰謀論のきらいがあり、確かにそう言う一面があるにしてもその主張が強すぎてやや鼻じらむ。
 ただルネサンスが芸術復興とだけとらえず広く社会復興の動きの要素もあったことは彼の云うとおりカモ知れない。


大沼公園

2017-07-03 15:09:32 | 日記
さすがに北海道に来ると車窓はヨーロッパのように牧草地が多い。大沼公園をじつくり訪ねるのは今回初めて。時に降る小雨をついて歩く。いくつかの島を巡る道は整備されていて歩きやすい。小雨にけぶる中歩く人も少なく、点在する島は優しく眼に映る。白い睡蓮や黄色いコウホネが水面に浮かぶ。モネだったらどう描くだろうと夢想する。順路半ばにしゃれたレストランTable de rivargeがあり、カフェオレとプリンをいただく。駅の裏側にあるオーベルジュEpuiがあり、ここでも美味しいランチをいただく。どちらの店もヨーロッパを感じさせる気持ちの良い時間を過ごせる。

ブログの開設

2017-06-30 11:49:24 | 日記
海外旅行は楽しいが、仕事を終え自由時間をフルに使って旅行するにしても体力の低下を感じる。ただ周到な準備と「振り返り」で海外旅行の楽しみを充分味わいたい。
若い頃の旅行、海外では出張が多かったが、大した準備をしないで現地で簡単に調べたり、やみくもに飛び込んだりしても楽しい経験をすることが出来たが、この年齢になると充分な準備をしないと肝心なものを見落としたりする。
最近では5月に行ったフィレンツエで、その前からのフィレンツエ美術で関心を持っていたリッピについて代表作をウフィチで愉しんだが、同時代のドナテルロのマグダレーナの像を見損なった。いまその写真をみてもとても残念は気持ちになる。
以前は充分な学習をして新しい体験をすると新鮮さが失われて本来持つ良さを味わえないと思っていたが、いまは先人がいった「人は持ってきたものしか持って帰れない!」が正しいと思う。
たとえばビッティ美術館・ラファエロの「小椅子の聖母子像」は事前に知っていたが、現物をみてさらに感動。いっとき絵の前から離れられなかった。