ひさらのきまぐれ。

多趣味だけどどこかぼんやりな私(ひさら)の気まぐれブログ。
趣味の話、日々の話。

小栗上野介終焉の地

2010年08月06日 | 旅行
恒例の夏休みの遠足は、群馬県高崎市倉渕町。
たまたま「小栗上野介終焉の地」である同地のお寺で発行された冊子を手に入れたのがきっかけ。
今年、2010年は小栗ら一行がアメリカへ渡って(所謂、万延元年の遣米使節)からちょうど150年の節目に当たる。ちょうどこれを機会に行ってみようと思い立った。

小栗上野介忠順と言えば幕末、正式な遣米使節(日米修好通商条約の批准、小栗は目付役)だということは知っていたが、そういえばその後はどうしたのか知らないな、とふと思った。
異国帰りの有能な官吏として外国奉行だの勘定奉行だのといった要職を歴任した…ところまでは思い浮かぶのだが。はて?そんな有能な所謂「超デキルお役人」さんだった小栗だが、その後の消息はパッタリ聞いた覚えがない。
維新動乱の中、生きていれば何らかの痕跡は残してそうだけど。道半ばで死んでしまったのか?

確か三河武士だったはずだけど(うろ覚え^^;;)、群馬の高崎で死んでいるというのはどういう縁なのだろう。

などなどと、興味をそそられて冊子を読んだ。

→参照・市川光一、村上泰賢共著『幕末開明の人 小栗上野介』(東善寺発行)
とてもコンパクトにまとまった読みやすい一冊。

高崎は元々小栗家とは縁の深い所領の一つだったようだ。
アメリカ差遣より帰国して後、海外文化を積極的に摂取。製鉄所、仏語学校などを次々と開設し日本の近代化の礎を築く一方、幕閣内にあっては終始主戦論を唱えていた小栗。
戊辰戦争には徹底抗戦と唱えたが結局受け入れられず、役職を退き領地の倉渕に隠棲。
一族郎党ともども移転をしたそのわずか3か月後に、小栗の存在に不安を覚えたらしき討幕軍の手によって捉えられ、詮議もないまま翌日には処刑、河原にて首をうたれたとのこと。

今回初めて知ったのだが、どうやら華々しい経歴の異国帰りのお役人様にしては、急転直下の最期だったようだ。
不勉強だったなぁ。

同書の巻末にある地図を見ながら、現地へ。

役場近くの河原近くの田んぼの中に現在顕彰慰霊碑が立っている。(上記写真)
この石碑には「偉人小栗上野介/罪なくして此所に斬らる」と彫られている。



罪なくして、という一語にこの地の人々が小栗に対して抱いている尊敬や遺愛の念が見て取れる。

更に、役場より少し奥へ入ったところ、観音山の頂上部分が小栗の旧居跡。



ちょっとした山道。足場は悪いし、水辺でもあったりとか、そもそも山道だし。骨折から3カ月、かなりのリハビリになったのだが、頂上までは行けなかった…(笑
建て終わる前に主が捕えられてしまったので、結局家は出来上がらず(その間は東善寺に滞在していたらしい)。一部は移築されているのだそうだが、山には礎石だけが残っている…らしい。

地域の一番奥に当たる部分にある、東善寺。ここが墓所。
→東善寺公式HP http://tozenzi.cside.com/



先の冊子もここのご住職が書かれたものだ。

納骨所はこの山を5分ほど登った上にある。(蚊に刺されまくって大変だった・笑)
うたれた小栗の首は慣例通り首実検のために城下まで運ばれたのだが、それを嘆いた地元の人々が夜陰に紛れこれを奪還、この山上に納骨したというのだからその強い思いには驚かされる。

ご住職が丁寧に案内してくれ、横須賀製鉄所の絵図と現在の写真(米軍基地)との比較などをしつつ小栗の業績に思いをはせるひと時だった。

確かに万延の遣米使節というと、咸臨丸が有名で勝海舟ばかりが目立つ。
坂本竜馬のように志半ばで倒れた人でも表現のされ方によっては盛り上がる可能性があるのだから、小栗ももう少し顕彰されても良いはずだなと思った。










最新の画像もっと見る

コメントを投稿