中学校だったが高校だったか忘れちゃったけど、生物の授業で「郭公(かっこう)」という鳥の習性を学んだことがあります。
生物学において「かっこう」を語る上ではずせないキーワード。
それが「託卵(たくらん)」。
広辞苑を引くとその意味は、
「ある鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛(いくすう)させること。仮親の卵より早く孵化し、仮親の卵を巣外に排除する。日本ではカッコウ科のカッコウ・ホトトギス・ジュウイチ・ツツドリの4種がこの習性を持ち、ウグイス・モズ・ホオジロ・オオルリなどの巣に産卵する。」
となってます。
分かりやすく言うと、カッコウは、善良なるウグイスさんの留守中に勝手に卵を産んで、そそくさと逃げるんです。帰ってきたウグイスさんは「あら、こんな卵生んだかしら」などと多少疑問を感じつつ、我が子と同様に卵を温める。するとウグイスさんの卵たちより、先にカッコウが殻を破ってコンニチワ。そしてここぞとばかりに他の卵を巣から蹴り落とす。そして見事に一人っ子政策を成し遂げたカッコウは親が運んでくるエサを独り占め。ウグイスさんは「ほかの子はどこにいったのかしら」などと多少疑問を感じつつも献身的にエサを運ぶ。鳥の種類が違うから、雛のカッコウのほうがウグイスさんよりはるかにデカい。「いつの間にこんなに大きくなったのかしら」などと多少疑問を感じつつも、ウグイスさんはせっせとお世話。そして、晴れて大人になったカッコウはツバサバサバサと巣立っていく、とこうなっておるわけです。
どうです、この完璧な育児放棄。 さらには生まれてすぐの無差別大量殺害。
今日び、どの国のスラム街を探し回っても見つからないようなアンビリバボーな生い立ち。
生まれついての業の深さに戦慄を覚えますよ。全米が震撼ですよ。
しかし、それとは裏腹に「かっこう」と聞くと、どこか田舎の素朴な、古き良き日本の農村部的なイメージを思い描いてしまうから驚きです。全米が驚愕。
それが「カッコー」というあの独特にして風情あふれる鳴き声からもたらされていることは容易に想像できます。
でも、皆さん、騙されてはいけません。
今日もどこかで育児放棄のためウグイスさん宅に不法侵入して子供を捨てていく、そして生まれた子供による一家殺害という親子2代にわたる恐怖のスパイラルが繰り広げられているのです。全米が震撼。
しかもそれが習性という本能で行われているから驚き。全米が驚愕。
と、話を日本に戻すとですね、「かっこう」と聞いて二人に一人が思い出すのが「かっこう」というあの童謡。
これには全米が動揺。違うか。
しかし、その歌詞!これがhikoさん的にものすごく謎なんです!
あれ、もともとはドイツの民謡のようですが、小林純一さんの有名な歌詞では次のようになってます。
「カッコー カッコー 静かに 呼んでるよ 霧の中 ほら ほら 母さん」
はい、きた。お分かりですね。「ほらほら母さん」っていうこの部分。
母さん?ハァ??って魔邪コングでなくとも言いたくなりますよね。
ここでいう「母さん」とは生みの親なのか、はたまた育ての親なのか。
これこそが今世紀最大の謎。ダヴィンチの名画に隠された謎ぐらい謎。
気になって気になってしょうがない。
まず、この「母さん」が生みの親だったら・・・
カッコウは「ママ、、、じゃないおばさん、さようなら」とみなしごハッチのように告げて、ウグイスさんの家を飛び出した。「お母さんに会うまで僕はあきらめない」とマルコ少年のような決意を胸にして。今まで育ててくれたおばさんには感謝している。でもボク、どうしても本当の母さんに会いたいんだ。カッコウは森の中を飛び回った。本当の母に会えると信じて。しかし、現実はそんなに甘くなかった。森での生活は厳しく、生きていくのがやっとだった。しかし、カッコウはあきらめずに母を捜し続けた。もう何日も飲まず食わずだ。それでも母に会いたい一心でカッコウは飛び続けた。しかし、その行方はようとして知れない。自分を捨てていった母親は、いくら探しても見つからなかった。もうだめだ。疲労と空腹が限界に達した。目の前がかすんでいく。なんだか寒い。薄れていく意識の中で、最後に「母さん」とだけ呟いた。その後、彼は動かなくなった。
「カッコー カッコー 静かに 呼んでるよ 霧の中 ほら ほら 母さん」
って、すげー重い。こんな哲学的な意味が隠されていたのか。では、「育ての親」のことだったら・・・
カッコウはいつも一人だった。友達は一人もいない。カッコウはその托卵という習性から森の嫌われ者だったのだ。いいんだ、どうせ。カッコウは思った。いつもみんなから仲間外れ、誰からも愛されたことなんかない。自分は一体何のために生まれてきたんだろう。カッコウは自分のことが嫌いだった。もう、生きることになんの執着もなかった。自分が生きているだけで他人を不幸にしているんだ。カッコウはそればかり考えていた。食欲が減り、カッコウはみるみる痩せていった。もういいんだ。もう疲れた。もう生きていたくない。カッコウはずっと食事をとらなかった。極限まで体重が減り、意識が朦朧としてきた中、ぼんやりと幼い頃を思い出していた。そう僕はウグイスに育てられていたんだ。あのウグイス、僕がどうみてもカッコウなのに必死で餌を運んでたんだよな。カッコウははっとした。そうだあのウグイス、こんな僕を自分の子供のように育ててくれた。自分の子供のように愛してくれたんだ!生みの親に捨てられ、今まで誰からも愛されたことがないと思っていたカッコウだったが、誰よりも愛してくれた母の存在に気がついたのだ。薄れていく意識の中で、最後に「母さん」とだけ呟いた。その後、彼は動かなくなった。
「カッコー カッコー 静かに 呼んでるよ 霧の中 ほら ほら 母さん」
って、やっぱり重い。若干いい話っぽいし。全米が涙。
ともかく、「かっこう」の歌には未だ解明されていない謎が多く残されているのです。
カッコウにまつわる新説をお持ちの方はお知らせください。
生物学において「かっこう」を語る上ではずせないキーワード。
それが「託卵(たくらん)」。
広辞苑を引くとその意味は、
「ある鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛(いくすう)させること。仮親の卵より早く孵化し、仮親の卵を巣外に排除する。日本ではカッコウ科のカッコウ・ホトトギス・ジュウイチ・ツツドリの4種がこの習性を持ち、ウグイス・モズ・ホオジロ・オオルリなどの巣に産卵する。」
となってます。
分かりやすく言うと、カッコウは、善良なるウグイスさんの留守中に勝手に卵を産んで、そそくさと逃げるんです。帰ってきたウグイスさんは「あら、こんな卵生んだかしら」などと多少疑問を感じつつ、我が子と同様に卵を温める。するとウグイスさんの卵たちより、先にカッコウが殻を破ってコンニチワ。そしてここぞとばかりに他の卵を巣から蹴り落とす。そして見事に一人っ子政策を成し遂げたカッコウは親が運んでくるエサを独り占め。ウグイスさんは「ほかの子はどこにいったのかしら」などと多少疑問を感じつつも献身的にエサを運ぶ。鳥の種類が違うから、雛のカッコウのほうがウグイスさんよりはるかにデカい。「いつの間にこんなに大きくなったのかしら」などと多少疑問を感じつつも、ウグイスさんはせっせとお世話。そして、晴れて大人になったカッコウはツバサバサバサと巣立っていく、とこうなっておるわけです。
どうです、この完璧な育児放棄。 さらには生まれてすぐの無差別大量殺害。
今日び、どの国のスラム街を探し回っても見つからないようなアンビリバボーな生い立ち。
生まれついての業の深さに戦慄を覚えますよ。全米が震撼ですよ。
しかし、それとは裏腹に「かっこう」と聞くと、どこか田舎の素朴な、古き良き日本の農村部的なイメージを思い描いてしまうから驚きです。全米が驚愕。
それが「カッコー」というあの独特にして風情あふれる鳴き声からもたらされていることは容易に想像できます。
でも、皆さん、騙されてはいけません。
今日もどこかで育児放棄のためウグイスさん宅に不法侵入して子供を捨てていく、そして生まれた子供による一家殺害という親子2代にわたる恐怖のスパイラルが繰り広げられているのです。全米が震撼。
しかもそれが習性という本能で行われているから驚き。全米が驚愕。
と、話を日本に戻すとですね、「かっこう」と聞いて二人に一人が思い出すのが「かっこう」というあの童謡。
これには全米が動揺。違うか。
しかし、その歌詞!これがhikoさん的にものすごく謎なんです!
あれ、もともとはドイツの民謡のようですが、小林純一さんの有名な歌詞では次のようになってます。
「カッコー カッコー 静かに 呼んでるよ 霧の中 ほら ほら 母さん」
はい、きた。お分かりですね。「ほらほら母さん」っていうこの部分。
母さん?ハァ??って魔邪コングでなくとも言いたくなりますよね。
ここでいう「母さん」とは生みの親なのか、はたまた育ての親なのか。
これこそが今世紀最大の謎。ダヴィンチの名画に隠された謎ぐらい謎。
気になって気になってしょうがない。
まず、この「母さん」が生みの親だったら・・・
カッコウは「ママ、、、じゃないおばさん、さようなら」とみなしごハッチのように告げて、ウグイスさんの家を飛び出した。「お母さんに会うまで僕はあきらめない」とマルコ少年のような決意を胸にして。今まで育ててくれたおばさんには感謝している。でもボク、どうしても本当の母さんに会いたいんだ。カッコウは森の中を飛び回った。本当の母に会えると信じて。しかし、現実はそんなに甘くなかった。森での生活は厳しく、生きていくのがやっとだった。しかし、カッコウはあきらめずに母を捜し続けた。もう何日も飲まず食わずだ。それでも母に会いたい一心でカッコウは飛び続けた。しかし、その行方はようとして知れない。自分を捨てていった母親は、いくら探しても見つからなかった。もうだめだ。疲労と空腹が限界に達した。目の前がかすんでいく。なんだか寒い。薄れていく意識の中で、最後に「母さん」とだけ呟いた。その後、彼は動かなくなった。
「カッコー カッコー 静かに 呼んでるよ 霧の中 ほら ほら 母さん」
って、すげー重い。こんな哲学的な意味が隠されていたのか。では、「育ての親」のことだったら・・・
カッコウはいつも一人だった。友達は一人もいない。カッコウはその托卵という習性から森の嫌われ者だったのだ。いいんだ、どうせ。カッコウは思った。いつもみんなから仲間外れ、誰からも愛されたことなんかない。自分は一体何のために生まれてきたんだろう。カッコウは自分のことが嫌いだった。もう、生きることになんの執着もなかった。自分が生きているだけで他人を不幸にしているんだ。カッコウはそればかり考えていた。食欲が減り、カッコウはみるみる痩せていった。もういいんだ。もう疲れた。もう生きていたくない。カッコウはずっと食事をとらなかった。極限まで体重が減り、意識が朦朧としてきた中、ぼんやりと幼い頃を思い出していた。そう僕はウグイスに育てられていたんだ。あのウグイス、僕がどうみてもカッコウなのに必死で餌を運んでたんだよな。カッコウははっとした。そうだあのウグイス、こんな僕を自分の子供のように育ててくれた。自分の子供のように愛してくれたんだ!生みの親に捨てられ、今まで誰からも愛されたことがないと思っていたカッコウだったが、誰よりも愛してくれた母の存在に気がついたのだ。薄れていく意識の中で、最後に「母さん」とだけ呟いた。その後、彼は動かなくなった。
「カッコー カッコー 静かに 呼んでるよ 霧の中 ほら ほら 母さん」
って、やっぱり重い。若干いい話っぽいし。全米が涙。
ともかく、「かっこう」の歌には未だ解明されていない謎が多く残されているのです。
カッコウにまつわる新説をお持ちの方はお知らせください。