サッカーとボリビア

南米ボリビア移住して11年目、自分の大好きなサッカーを通して、南米ボリビアで何か出来ないか模索している毎日です。

石川康選手

2011年05月24日 17時12分13秒 | ボリビアサッカー
ボリビアのサッカーをやっていると、まず知らない人はいないという方。
ボリビア生まれの日系選手。ボリビア日系人の誇りです。


以下、WIKIPEDIAにて。

石川 康(いしかわ こう、1970年3月10日 - )は、ボリビア出身で日本国籍の元サッカー選手。ポジションはDF(サイドバック、センターバック)。

両親は沖縄県出身の移民。ボリビアで生まれ育ち、ボリビアの選手養成機関「アカデミア・タウィチ」でサッカーを学ぶと10代の頃にはボリビアの年代別代表で活躍。当時のチームメイトには、後にボリビアを代表する選手となるマルコ・エチェベリ、エルウィン・サンチェスらがいる。

埼玉県の武南高校にスポーツ留学生として来日、1988年の高校総体ベスト4、高校選手権ベスト8進出に貢献。卒業後は帰国せず、宮本征勝監督の勧誘もあって本田技研サッカー部に入部し同じく高卒で入社した1年先輩に北澤豪がいた。

本田技研での活躍により、1989年からはバルセロナ五輪代表(U-23日本代表)に選出され、1991年から1992年に行われたバルセロナ五輪予選ではリベロを務め中心選手として代表を牽引した。

また同年4月4日のスパルタク・モスクワ戦で日本代表デビューを飾っているが、この試合は国際Cマッチ扱いとなっており、Aマッチの出場経験は無い。この後、オフト、ファルカンや加茂監督からも日本代表合宿への招集を受けているが、キャップ数を伸ばすには至らなかった。

オフト監督から日本代表の春先のキャンプに都並敏史とともに呼ばれたとき、コンディションをまるっきり調整していなかったため、初日に「こいつには勝ったな」と都並に思われたほどであった。ただし、この当時は国際サッカー連盟(FIFA)の選手国籍変更規定が不明確で、U-15・U-17ボリビア代表で試合に出場した石川が日本代表の国際Aマッチに出場した場合、規定違反に問われる可能性があったことにも留意する必要がある。[1]

Jリーグ初期にはヴェルディ川崎の不動の右サイドバックとして活躍。数々のタイトル獲得に貢献した。1998年に名古屋グランパスエイトにレンタル移籍(後に完全移籍)し、2002年に引退した。名古屋在籍時には一時、「康」から「巧」へと名前の漢字を変えている。

2003年、スポーツマネージメント業務を行う有限会社Globosport‐Asiaを設立。石川は本業の傍ら、コパ・リベルタドーレスなどの南米サッカーの試合を中継する日本のテレビ局で解説を務めた。

また、当初は通訳として、その後2005年にはテクニカルスタッフとして名古屋グランパスエイトと契約し、ネルシーニョ監督を支えた。

2006年7月、日本フットボールリーグ所属のFC琉球のゼネラルマネージャー(GM)に就任したが、2007年6月に退任した。

2008年、レキオスFCの監督に就任。

Jリーグ開幕後は右サイドバックでの出場が殆どだったが、それまではリベロでのプレイが多く、本人も最も得意なポジションはリベロだと答えている。



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