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雨の記号(rain symbol)

連載小説ラブレター(1)

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若葉診療所


 街中の雑居ビル内にある会社に僕は勤めていた。
 二流大学を二浪で出た後、いろんな仕事を転々とした挙句そこに落ち着いていた。最初の仕事を三年ほど勤めあげて以降、どの仕事も長続きしなかった僕だが、その会社では珍しく長続きしていた。
 会社の居心地がよかったわけではない。一回り年下の上司と外を走り回る仕事なんていつやめてもいいつもりだった。
 理由は女である。会社から程近い場所にある若葉診療所の看護師に一目ぼれしたからである。
 きっかけはビル内での転倒事故だった。ロッカーやダンボールなどのゴタゴタ置かれた階段で足を滑らし、足と腕に怪我をした。駆け込んだのが近くにあった診療所だった。その時、ドクターのサポートについていたのが彼女だった。
 幸い大事には至らなかったが、以降、僕はそこをかかりつけの病院にした。ちょっとした怪我や軽い風邪でも僕はそこへ出向くようになった。気がつくとそうやって二年の月日が流れていた。
 彼女のネームプレートには坂口真代と書き込まれていたが、スタッフからはマヨちゃんと呼ばれていた。そして可愛がられていた。
 看護師は他に数名いて、彼女は一番若いようだったが、物腰が柔らかく、ギスギスしたところがないのは他の先輩看護師と同じだった。いや、彼女は特別だった。小さな子供からお年寄りに至るまで、彼女の笑顔は誰にも優しく注がれていた。意味がないと思えるやりとりでも、彼女は話を切り捨てず、丁寧に応接した。
 時にはもどかしく見えるほどだった。そういうところが天使に見えて、僕は好感を抱いた。
 そうして誰にでも優しくできるのは家庭に入った気持ちの落ち着きからだろう、と思っていたらそうではなかった。彼女が独身と聞いて、僕の胸は年甲斐もなく震えた。
 半年も経った頃、若い同僚がその情報を持ち込んできたのである。


 僕はいつしか彼女の勤務に合わせて診療所へ出向くようになっていた。白衣姿の彼女を見るのが楽しみになっていた。そういう場所ではなかったが、彼女と言葉を交わす予感にワクワクしたりしていた。
 風邪を引いて仕事の途中立ち寄った時がある。
「あら、よく顔を合わせますね。ダメですよ、サボったり、ここの常連になったりしては」
 書類を持って受付に顔を出した彼女は、一瞬恐い目をしそれから優しく笑いかけてきた。
「いえ、今日はこれで」
 マスクを外し、軽くコンコン咳き込んで見せると、まあ、わざとらしい、と言ってまた笑った。
「ほんとなんです」
「冗談ですよ。目を見れば分かります。保険証持ってきました? 月替わりですからね」
「あっ、はい」
 気さくさも彼女の魅力の一つだった。
 僕はむろん、仕事を終えてからでは彼女の顔を見るのに間に合わないからそうしたまでであった。
 こうして短いやりとりでも出来た日は、一日の眠りに沈むまで幸福な気分でいられた。時には夜の夢で彼女との会話の続きを楽しんだりした。
 もし、彼女の身辺に何事の変化もない日々が推移していたなら、僕は彼女をそうして見続けているだけの幸せに浸ってるだけで十分のはずだった。
 しかし年頃の娘にただ平平凡凡の日々の推移なんてあろうはずがなかった。娘たちの多くはどこからか現れ、遠からずどこかへ消えていく運命を背負っている。彼女たちはいつだってどこでだって流星なのだ。現れたらどんどん存在感を増していくが、極限の光芒を放った後はそこから遠ざかっていってしまうだけなのだ。 仕事を転々としながら、僕はそういう女たちを何人も見てきた。
 僕の彼女もそんな風に消えていった。何十年も前の話である。いや、あの頃彼女が、果たして僕の恋人と言える存在でいてくれたかどうかさえ今となっては曖昧である。目の前から姿を消すまでの間、彼女はただ僕のそばで時間を埋めていただけだったかもしれない。蛹の自分が本当の世界に飛び出すため、脱皮の日をうかがっていただけなのかもしれない。
 互いの肌のぬくもりや細やかな交流は確かにそこに存在した。だが、過ぎてしまって、くっきり残ったのは二人で過した時間だけである。ひと言に圧縮されてしまった記憶だけである。
 形式なんてどうでもいい、一緒に暮らしているだけでいい、と僕らは考え合っていた。同棲生活に入ってからも、やりたい事のあふれる学生生活の中で、拘束しあうのを拒み、互いの気持ちの方を優先したのだった。
 とはいえ、男と女である。一緒にご飯を食べたり笑ったり喧嘩したりしながら、結果的に二人の未来を切り開いていくことにつながることはあるかもしれない。それらを受け入れていく可能性は否定しない。それはそれでいい。だったら僕らは手を携えあって生きて行く運命の下にあるのかもしれない。もちろんそのような話もした。
 しかし、途中でどちらかが二人の生活にピリオドを打ちたいと願うならその気持ちを尊重しよう。それを無条件に受け入れ合おう。お互いの場所に深入りし、干渉し合うのだけは絶対によそう。どちらかが別の生き方を望むなら、それはそれで新しい人生だ、手を叩いて祝おう、送り出しあおうではないか。
 あらかじめ、その辺を確認し合った上で僕らは同棲関係に入ったのだった。
 やがて、互いの同棲生活にピリオドを打つ時がやってきた。彼女が就職で郷里の街に去る日が訪れたのだ。
「やりたい仕事があるから私はここを去るけど、あなたのことは忘れない。でも、もう会うのはよしましょう。だから、実家には連絡してこないでね」
 そう言って彼女は去った。


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