HAPPY-GO-LUCKY

社会人5年目。
自分の生きる道1年目。

恥かいて、ベソかいて、それでも僕は生きている。

新体制で

2009年03月28日 | 僕の日記
3月27日(金曜日)

今週より今年度の新体制が始まりました。
僕も異動にはならなかったものの担当地域は全て変わり、チームのメンバーも大幅に入れ替えがありました。
新体制が始まったこの一週間はまさに怒涛の一週間。
新しいリーダーさんがまだ不在のため、僕ともう一人の先輩の二人が中心となってチームの運営を行ってます。
僕にも意味不明な仕事がまわってくるし、新しく異動されてきた人にも色々と教えたい。
ホント朝起きてからベットに入る寸前まで、何かしら仕事をしていた感じです。
自分の以外の仕事もやりつつ、僕だって全く知らない地域に行くわけだから余裕なんて一切ない。
一つ一つ仕事をこなしながら、新しい上の人には怒られながら・・・。
ただ『仕事を押し付けられてる』ってことじゃなく、たぶん『期待されてる』ってことだと思うから。
やっぱり自分の仕事は自分なりに一生懸命やりきります。

評価されて

2009年03月18日 | 僕の日記
3月18日(水曜日)

この一年の人事評価なるものが上司から聞かされました。
僕の評価はこれまでになかった程、高い評価がされていました。
リーダーさんからは「高い評価に見合った仕事の内容だったし、努力もしていたから。」という言葉もいただいて。
石の上にも三年といいますが、この3年間が少しづつ結果となってきたのかなぁ、ってね。

んでもって4月からの新体制では、少しだけ出世します。
責任ある立場になっていくのは正直不安でしょうがありませんが、仕方ない。
与えられた仕事はこなすしかないし、責任は全うするしかないのです。

ただ正直な気持ちとしては、これだけ評価されていることに戸惑っています。
そんなに期待されても僕は僕ですし、それに僕は・・・。
仕事を辞めづらくなるだけです・・・。

休日返上・・・

2009年03月16日 | 僕の日記
3月16日(月曜日)

年度末です。
ただでさえ忙しいこの時期ですが、今年は僕の状況もかなり大幅に変更。
その身辺整理が尋常じゃないくらい忙しいのです。
朝6時に起きてWBCをちょっとだけ見て、会社へ出かけます。
ちなみに今日は完全にお休みの日。
そう、サービス出勤ってヤツですよ・・・。
他の同僚に見られると恥ずかしいので、通常の出勤時間の1時間以上前に出社して一人コソコソと仕事をしておりました。
そして、そこからまた自宅に帰り、自宅で仕事の続きにとりかかります。
午前中はそこで終了。
体調も良くなくてさ。
昼から夕方まではベットで寝て過ごしました。
さて、晩ゴハンを自炊して食べて、仕事の続きです。
結局、寝る寸前までかかりましたね。
休日でしたが完全に仕事で終わっちゃいました。
まぁ仕方ないか、これくらいしないと僕は一人前の仕事が出来ないんですから。

渡辺復帰!

2009年03月15日 | 僕の日記
3月15日(日曜日)

1月に骨折し戦列を離れていた渡辺くんが復帰しました。
いや・・・正確には、復帰していた。
先週から競馬に乗ってたんですね。
全然知りませんでした・・・。
けど、これでようやく週末の楽しみが帰ってきました。
思えば、渡辺くんとナリタトップロードが競馬界に名を知らしめたクラシックももう10年も前の話。
『1999年6月6日、第66回日本ダービー』
そうあれから10年間、僕の週末は渡辺くんとともにあるようなもんでした。
そして、渡辺が引退するその日まで。
僕は渡辺って騎手を追い続け、信じ続けます。

仕事の続きを週末の休みの間にしておきたかったんですが、結局今日は出来ずじまい・・・。
先輩の草野球に参加して、夕方からは別の先輩とギターをしてしまいました。
明日は一日使って仕事をせんといかんです・・・。

よかったです

2009年03月14日 | 僕の日記
3月14日(土曜日)

ずっと問題になっていたお客さんの対応が今日ようやく終わりました。
夜の9時にご自宅まで伺って色々と説明をしてなんとか無事に済みそうです。
僕自身はすごく心配で不安だったんですけどね。
意外に話はスムーズに進みました。
上手くいく時というのは、たいがいこんな感じなのかもしれませんね。
まぁ一件落着で何よりです・・・。

この一週間、体調は最悪ながら通常の業務はそこそこ結果を残せました。
ただ、満足して息つくもヒマもなく、次の仕事が山積みになっている。
この週末休み、たぶん半分くらいの時間は自宅で仕事に追われると思います。
パソコンで案内を作って、資料をまとめて・・・。
先週の3連休を思うと雲泥の差ですね。
けど、しかたないです。
自分の仕事は責任を持って、やれるだけは精一杯頑張ります。
はぁ週末なのに気が重い・・・。

13日の

2009年03月13日 | 僕の日記
3月13日(金曜日)

実家から戻ってきて体調を崩しました。
弟が風邪を引いていたので、たぶんうつっちゃったんでしょう。
弟に対し「体調管理さえしていれば風邪なんてかからないよ。」と気取って説教したのに、これでは立場がありません。
年度末に近づき仕事もますます忙しくなりますが、本当にしんどいです。
いやはや情けない・・・。
風邪をひくくらいだったら実家になんか帰らなきゃよかったです。
文字通り、13日の金曜日になってしまいました。

病院の中

2009年03月10日 | 僕の日記
3月10日(火曜日)

実家で過ごした三連休の最終日はほぼ一日病院で過ごしました。
別に僕が病院にかかったわけではありません。
おじいちゃんの検査の付き添いをしてたのです。
クスリをもらいに行っただけの病院から電話があってね。
『貧血がひどいから検査します、出来ればご家族の方も同伴してください。』と。
母さんは習い事、おばあちゃんは老人会の会合、弟は遊びに行ってもういない。
てなわけで、僕が病院へ急行したのです。

レントゲン検査の結果、ガンとかそういった類のものは見当たらなかったそうで、それは一安心。
けど念のために、精密検査を後日受けることにして、その日程や細かな注意点を僕もおじいちゃんと一緒に聞いてきました。
僕が付き添っていることからも分かるように、ウチのおじいちゃんはかなり老化が進んでいるんです。
僕が実家を離れてから三年間でずいぶんと。
頭も体もみるからに弱ってきてる。
昔はあんなに威厳があった人だったけど。
寂しくもあるけど、これも人間として仕方のないことなんでしょうね。
ただ僕がしてあげれることだったら、なんでもするよ。

明石焼

2009年03月09日 | 僕の日記
3月9日(月曜日)

モッツくんと休みが重なり、さらに行きたい場所も重なり、二人で明石まで行ってきました。

天候はくもり夕方からは小雨。
晴れてれば最高のロケーションが続く地域だから少し残念でした。
神戸の街を抜け、須磨海岸を抜け、明石海峡大橋の見える公園へ。
明石海峡大橋に登り、橋の上から海峡を見下ろしました。
15分だけを釣りをして、餌だけどんどん投げこんで魚は一匹も釣れません。
明石では明石焼を。
やはり美味しい。
有馬へ抜けて、シンシアくんの顔を見てきました。
ちゃんと仕事をされておりましたね。
中央環状線の渋滞を越えて、守口でお好み焼きを。
モッツくんを家まで送り、いつも通り僕は一人生駒山へ上り、いつもの場所で夜景を眺めておりました。

こんな感じの充実した一日です。

琵琶湖へ

2009年03月08日 | 僕の日記
3月8日(日曜日)

3連休で大阪に戻ってきています。
大学生の従兄弟が京都にいると言うことで会ってきました。
僕同様、お寺の跡取りとして親の引くレースに乗って大学に進んだ彼。
だけど、この2年間ほとんど大学に行ってないそうです。
それが原因で実家の両親とも仲たがいしてしまい、両親もお手上げ状態。
去年の冬に下宿を探した時も僕が付き添ったし、その後も何度か京都に立ち寄った際には声をかけて会ってはいたんですがね。
境遇が一緒だから僕も少しはあいつの気持ちを理解してやれると思うんです。
だから、お寺を継ぐことや大学を卒業することの意味を僕なりに伝えてきたつもり。
頑張って大学に行ってくれることを期待してたんですが・・・。
やっぱり大学には行けてない。
だから、心配になって会いに行ってきたのです。

下宿まで迎えに行き、一緒に大学のキャンパスを歩きました。
少しでも景色に慣れとける様にと思って。
大学は接し方さえ上手くいけば、あんなに楽しい場所はない。
だけど、自分から飛び込まなきゃ、誰も手を差し延べてはくれないのです。
だから、何とか最初の一歩を踏み出す勇気を・・・。

そこからは僕のかつての愛車ミラジーノでドライブです。
比叡山を登り、琵琶湖に抜けて、湖岸道路を爽快に駆け抜けました。
まぁもともと無口な奴だけど、僕とだったらある程度は楽しく会話もしてくれるんです。
だから、本当は僕となんかじゃなく、大学のツレとみんなで来て欲しいと僕は願うばかりです。

ただね、本当はもっとビシッと言うべきなのかもしれませんよね。
2年間大学に行ってなくても、その分の学費は全部親が出してるんですもんね。
特異な境遇とは言え、最終的に進学を決めたのはあいつ自身だし、いつまでも甘えていい訳もない。
そういった事を本当は誰かが真剣に怒ってやらないといけないのかもしれません。
怒ってあげるのもきっと優しさなんでしょうね。
ただそれが出来なかった。
僕にも責任があるんだろうな・・・。

隠し事

2009年03月07日 | 僕の日記
3月7日(土曜日)

僕はお寺の跡取りだ。
親父に万が一のことがあればすぐにでも実家に帰るつもりだし、いつまでも岐阜で今の仕事を続けていくことは出来ない。
だから、今のこのサラリーマン生活というのは、僕の人生設計の中では、お坊さんになるまでのあくまで社会勉強みたいなもんだし、僕が選んだこの道は決して間違ってはいないと思っています。

ただ、僕は自分が寺の跡取り息子だって事を職場には内緒にしている。
これが良いのか悪いのか、本当は打ち明けるべきなのかどうなのか、ずっと分からないまま何となくで3年が過ぎていました。

昨日のチームのお別れ飲み会。
みんなで飲んで、珍しく僕も飲んで、最後の晩餐をみんなでアホみたいに楽しみました。
飲み会の最後、メンバー一人一人がチームに対する想いを一言づつ述べたんです。
僕も当然、新人の頃から3年間 お世話になったチームに対する感謝を気持ちを込めて語らせていただきました。
そして最後の締めはリーダーさん。
その言葉がもう何とも言えないのです・・・。
3年間ずっとあの人の下で仕事をしてきて、たぶん全岐阜県民の中で1番、僕の良い所も悪い所も知っているであろうリーダーさん。
そのリーダーの言葉。
チームのリーダーとして3年間やってきた中で嬉しかったことに、「僕の成長を目の前で見れた事」って。
そして続けて・・・。
「お前の結婚式のスピーチは出来るのであれば自分がしてやりたい」なんてことを・・・。
なんか文章にしちゃうとチープな感じがしますが、その時のリーダーさんの言葉に嘘は感じられませんでした。
だからこそ、その言葉を聞いた瞬間、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになったのです。
だって、そんなリーダーさんに対して、僕はずっと嘘をついている。
よくリーダーさんから冗談まじりだけど、「大阪を捨てて岐阜に骨を埋める覚悟はあるのか?」って言われるんです。
僕はその都度、「そうッスね・・・。」って気のない返事でやり過ごしてきた。
自分自身のことなのに、まるで他人のことのように考えていました。
だけど、たぶんリーダーさんは感づいていたんじゃないだろうか。
岐阜に来た理由とか実家のこととか、自分の素性に関することは一切口にしない僕に対して『何か』を。
だから、あの人はあの人なりに、僕が岐阜でもやってけるように、これからもこの仕事を長く続けていけるように、見守ってくれてたんじゃないだろうか。
僕の考え過ぎかもしれないけど、あのリーダーさんの言葉にはそんなリーダーさんのメッセージが込められてた気がしてならないんです。

リーダーさんにとって僕は、リーダーになって初めて部下にした新人だったそうです。
僕の仕事の全てはあの人から教わった。
叱られた事も数え切れないし、無理な仕事を押し付けられることもあった。
だけど、やっぱり感謝することの方が絶対多くて・・・。
この3年間、僕は自分で努力してなんとか乗り切ってきた。
だけど、リーダーさんがいなかったら、もしかすると本当に途中でリタイアしていたかもしれない。

だから、リーダーさんに本当のことを隠し続けていることを、本当に本当に申し訳なく思うのです。